東急百貨店の本業回帰による再建 — 財テク破綻から「自分で仕入れ、自分で売れ」へ

財テクに溺れた中核子会社を、現場主義の内山徹社長はどう小売業の基本へ引き戻したか

更新:

時期 1995年6月
意思決定者 内山徹 東急百貨店社長
論点 中核子会社の再建と本業回帰
概要
バブル期に財テク依存で破綻した中核子会社・東急百貨店を、1995年に社長へ就いた内山徹氏が本業回帰で立て直した判断。三浦守会長が「東急グループ外からスカウトする気持ち」で子会社ながの東急の現場経営者を抜擢し、「自分で仕入れ、自分で売れ」を掲げて自主販売と単品管理を全店へ広げた。東急グループ全体のバブル後再建を構成する個別事業の判断であった。
背景
東急百貨店は本業の低い利益率を財テクで補う体質を1977年の海外転換社債発行以来つくり、1992年1月期に証券運用清算損と大和証券との「飛ばし」で特別損失380億円、白木屋合併以来初の赤字を計上した。会長の三浦守氏は「営業第一主義」への回帰を掲げたが、本業の百貨店は3期連続の減収減益に沈んでいた。
内容
現場主義でながの東急を県内最大の優良店に育てた内山徹氏が、1994年に副社長として本社へ戻り1995年に社長へ就いた。「東急百貨店の営業力は100点満点で20点」と記者会見で断じ、派遣社員に売り場を任せた「場所貸し業」からの脱却として、完全買い取り・自主販売の売り場「ヴィディ・ヴィン」を1996年に全店で開き、40年来の単品管理を持ち込んだ。
含意
財テクで穴を埋めてきた百貨店を、仕入れと販売という小売の基本へ引き戻す試みであった。賃金・人事制度の改革にも踏み込んだが、東急百貨店の営業利益率は業界下位にとどまり、金利負担と資産売却依存の体質は重かった。中核子会社の本業再建は、東急グループがバブル期の財テクと多角化の膨張とどう向き合うかを映していた。
筆者の見解

財テクに溺れた百貨店が、現場へ立ち返るということ

東急百貨店の再建は、本業の低い利益率を財テクで覆い隠してきた百貨店が、仕入れと販売という小売の原点へ引き返す過程であったとみることができる。三浦守氏が「グループ外からスカウトする気持ち」で子会社の現場経営者を招いたこと自体、本社の内側からは再建の担い手を見いだしにくかった事情をうかがわせる。内山徹氏が掲げた「自分で仕入れ、自分で売れ」は、真新しい戦略というより、百貨店が本来担うはずの機能の確認であった。財テクへ流れた1500億円規模の資金の裏側で、その当たり前が痩せ細っていたことを、この言葉は照らしている。

もっとも、現場主義の号令だけで重い収益構造がすぐに軽くなるわけではなかった。営業利益率は業界下位にとどまり、能力給の導入は労組の慎重論に阻まれ、金利負担と資産売却依存の体質は残った。子会社ひとつの本業再建は、東急グループ全体がバブル期の財テクと多角化の膨張をどこまで清算しきれるかという、より大きな問いの一部でもあった。東急百貨店は2005年に東急本体の完全子会社となり、グループの事業再編へ組み込まれていく。財テクの深みから現場へ立ち返ろうとした1990年代半ばの試みは、その後の再編を準備する助走であったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

財テクで本業の低収益を補った百貨店

東急百貨店は、1992年1月期に16億円の最終赤字を計上した。1958年の白木屋合併以来、初めての赤字であった。証券運用の清算損270億円に、大和証券との「飛ばし」を巡るトラブルで生じた110億円が加わり、特別損失は合計380億円へ膨らんだ。会長の三浦守氏はこの結果を財テクの失敗と認め、「コツコツ物を売っていく百貨店業で、これほど財テクにのめり込んでしまったということは、何の弁解の余地もありません」(日経ビジネス 1992年5月11日号)と反省を語った[1][2]

財テクへの傾斜には、本業の低い利益率という背景があった。三浦守氏によれば、東急百貨店の財テクは1977年に米ドル建て転換社債を発行した時に始まり、これは百貨店業界でも初めての海外起債であった。以後、資本市場から調達した低利の資金を株式などで運用して収益を上げ、ピーク時には自己資金とインパクトローンを合わせて約1500億円が財テクに流れた。三浦守氏は「本業の利益率の低さをカバーするために、財テク依存体質を意識的につくっていった」(日経ビジネス 1992年5月11日号)と、その動機を率直に述べている[3][4][5]

本業立て直しという課題とグループ再建

三浦守氏は再建の方向として、「営業第一主義を掲げ、『営業で収益を上げる体質を作る』という当たり前のことに戻らなければなりません」(日経ビジネス 1992年5月11日号)と述べ、財務を営業支援の部署へ戻す考えを示した。だが本業の百貨店そのものは弱っており、東急百貨店は3期連続の減収減益に沈んでいた。折しも東急グループ全体もバブル期に膨らんだ事業の清算に追われ、東急本体は1995年3月期に特別損失429億円を計上していた。財テクで穴を埋めてきた中核子会社をどう本業で立て直すかが、グループ再建の一部として残された[6][7][8]

決断

「グループ外からスカウトする気持ち」で招いた現場の人

再建の担い手に選ばれたのは、東急百貨店の本社とはほとんど縁のない人物であった。会長の三浦守氏は、東急百貨店の立て直しにショック療法が必要とみて、子会社ながの東急を率いてきた内山徹氏を社長に据えた。三浦守氏は後にこの人事を「東急グループ外の会社から経営者を1人、スカウトする気持ちだった」(日経ビジネス 1996年11月18日号)と振り返っている。既存のやり方を壊すために、あえて本社と関わりの薄い内山徹氏に、改善ではなく改革を託した抜擢であった[9]

内山徹氏は、1953年に東横百貨店へ入り、店頭の現場を歩いてきた人物であった。1971年にながの東急百貨店へ移ってからは、各売り場の係長に日々の売れ筋や補充状況を報告させる直接指導を続け、この「内山塾」を柱にながの東急を県内最大の優良店へ育てた。その現場重視が三浦守会長の目に留まり、1993年11月、東南アジアへの店舗視察に向かう機中で本社の経営を託したいと打診された。1994年1月に副社長として東京へ戻り、1995年に社長へ就いた。「買いたい物がすぐに手に入る『普通の百貨店』にする」(日経ビジネス 1995年6月26日号)と、現場からの立て直しに意欲を示した[10][11][12]

「自分で仕入れ、自分で売れ」— 場所貸し業からの脱却

社長就任の記者会見で、内山徹氏は「東急百貨店(の営業力)は、100点満点で20点だ」と言い切り、社内を揺さぶった。アパレルなどの派遣社員に売り場を任せた結果、百貨店が場所貸し業に近づいているという危機感が、その底にあった。内山徹氏は「自分で仕入れて自分で売らなくちゃ」と繰り返し、百貨店は商品を自ら仕入れて売る商売であって場所貸し業ではないと説いた(日経ビジネス 1996年11月18日号)。財テクへ向かった資金と人を、仕入れと販売の現場へ引き戻すことに再建の主眼が置かれた[13][14]

掛け声にとどめず、内山徹氏は1996年8月から9月にかけて、東急百貨店の全店に「ヴィディ・ヴィン」という衣料・雑貨売り場を開いた。渋谷本店では他の売り場の2倍近い100平方メートルを割いている。商品は完全買い取りとし、販売員は正社員と自社で雇ったアルバイトで固めた自主販売の売り場であった。内山徹氏は「自分たちで買ってきて、自分たちで売れ行きをコントロールする。その手段に単品管理を使う」(日経ビジネス 1996年11月18日号)と語り、自主販売の比率を3割から5割へ引き上げる考えを示していた[15][16][17]

結果

単品管理という原点と、重い収益構造

自主販売と単品管理は、内山徹氏が40年をかけて磨いた手法であった。1963年、内山徹氏は伊勢丹から招かれて副社長となった伝説の百貨店経営者・山本宗二氏と出会い、山本氏が再建の柱に据えた単品管理を自らの確信に変えた。何がどれだけ売れたかを一品ごとに把握するこの手法を、内山徹氏はながの東急へ持ち込み、1978年に同社社長へ就くと23年で3回の増床を重ねて県内最大の百貨店へ育てた。ながの東急は96年1月期に3期連続の営業増益を記録し、売上高312億円ながら営業利益率2.85%は上場百貨店31社のなかで5位に入っていた[18][19][20]

本社の東急百貨店では、再建は容易ではなかった。同社は96年1月期まで4期連続で売上高が減り、内山徹氏が社長へ就いた期は営業増益に転じたものの、営業利益率1.34%は業界のなかでも下位にとどまった。金利負担は重く、株式などの資産売却なしには経常黒字の確保も難しかった。内山徹氏は賃金・人事制度にも踏み込み、「課長や部長にならないと給料が増えないのはおかしい」として販売実績を報いる能力給を導入しようとしたが、労働組合が能力給に慎重で壁に突き当たった[21][22][23]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1992年5月11日号「三浦守氏[東急百貨店会長] 任せ過ぎ財テクの深みに 本業第一で出直します」
  • 日経ビジネス 1995年6月26日号「内山徹氏[東急百貨店] 長野の現場主義で、本社再建へ意欲」
  • 日経ビジネス 1996年11月18日号「遅れてきた最後の百貨店マン 内山徹氏[東急百貨店社長]「自分で仕入れ、自分で売れ」基本にこだわり再建貫徹」
  • 東急100年史(東急株式会社)
  • 東急 有価証券報告書【沿革】