日本長期信用銀行イ・アイ・イ・インターナショナルとの取引開始と、1993年の支援打ち切り

基幹産業が社債市場へ移るなかで、長銀は新しい貸出先をどこに求めたか

時期 1986年1月
意思決定者(推定) 堀江鐵彌・調査中 頭取(支援打ち切り時)・1986年の取引開始時の決裁者
論点 新規取引先の開拓と融資の引き揚げ
概要
1986年1月、日本長期信用銀行が高橋治則氏の率いるイ・アイ・イ・インターナショナルとの取引を始め、1988年4月に役員を派遣し、1993年7月に支援を打ち切るまで7年半にわたって関係を続けた経営判断。前年の1985年10月に東京支店内へ置いた新規取引専門部が、その入り口にあたる。
背景
1980年代、鉄鋼をはじめとする基幹産業は社債市場から低利で資金を調達できるようになり、長信銀からの借入依存度を下げた。長銀の店舗数は大手都銀の20分の1以下、行員数は4分の1以下で、産業金融に代わる借り手を自力で探す必要があった。
内容
1985年10月の新規取引専門部の設置に続き、同年11月にキャドテック、1986年1月にイ・アイ・イ・インターナショナルと取引を始めた。1989年11月に新規プロジェクトの抑制を申し入れ、1990年11月の資金繰り悪化と2次のリストラ計画を経て、1993年7月に支援を打ち切った。
含意
打ち切りの後も関係は残り、1995年3月には東京協和・安全の2信用組合問題で堀江鐵彌頭取が国会に招致され、同月末に辞任した。破綻後に頭取を務めた安斎隆氏は、EIEグループ向け融資を長銀の経営が大変なことになる最初で最大のミスだったと述べている。
筆者の見解

審査の届く範囲を超えた貸出

店舗数が大手都銀の20分の1以下という銀行が、社債市場へ移っていく基幹産業に代わる借り手を探したこと自体は、当時の条件では避けようのない判断であった。狂ったのは相手の選び方より、審査の届く範囲だったとみられる。大野木克信氏が認めたとおり、長銀はリストラ期間まで高橋治則氏の明の部分だけを見ていればよいと考えていた。設備資金を審査してきた銀行が、不動産とレジャーの事業計画を同じ物差しで測れると考えたところに無理があった。

長銀が漫然と貸し続けたわけではない。1989年11月には新規プロジェクトの抑制を申し入れ、1993年7月には支援を打ち切っている。それでも打ち切りは事態を終わらせなかった。担保に取った事業を継続させて損失を先へ送る手法は初島クラブへ引き継がれ、金融保険業向けの融資比率は1994年3月末で23.6%に達していた。取引先を1社切っても、貸出の構成と貸し方は残る。安斎隆氏がEIE向けを最初で最大のミスと呼んだのは、そこに理由があるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

借り手が社債市場へ移った長期信用銀行

1980年代に入り、長銀に資金を借りに来る顔ぶれが変わった。鉄鋼をはじめとする基幹産業は社債市場から低利で資金を調達できるようになり、長信銀からの借入依存度を下げた。長期の産業資金を安定して供給するという設立の趣旨は、その供給先が自力で市場から調達し始めた時点で成り立たなくなる。ある大手鉄鋼メーカーの財務担当役員は、長期信用銀行の存在理由はとうになくなっていると述べていた[1][2]

自分の力で稼がなければならなくなったとき、長銀が手にしていた営業基盤は薄かった。店舗数は大手都銀の20分の1以下、行員数では4分の1以下で、資金を集める窓口も企業を回る人手も限られる。長銀は日本興業銀行の陰であえて目立たず、大企業との取引では比較的小さなシェアに甘んじ、その代わりに流通や中堅企業の掘り起こしに力を入れていた。新しい借り手を探すことが、この銀行の生存条件であった[3][4]

新規取引専門部と、ノンバンクという借り手

1985年10月、長銀は東京支店の中に新規取引専門部を置いた。翌11月にキャドテック、後のイ・アイ・イ・データーと取引を始め、1986年1月にはイ・アイ・イ・インターナショナルとの取引が始まる。専門部の設置から3か月のうちに、取引はグループの中核へ広がった。新規開拓を担当者ごとの努力に委ねず、組織の仕事として切り出したところに、産業金融の細りを前にした長銀の焦りがうかがえる[5]

借り手として浮上したのはノンバンクであった。住宅金融専門会社をはじめ大手ノンバンクの多くは銀行や商社の系列企業で、以前から取引があり、銀行から見れば信用度の比較的高い借り手にあたる。産業金融が手詰まりになるなかで、ノンバンクからの資金の求めは長信銀にとって願ってもないものだった。長信銀3行はそろってノンバンク融資と不動産を担保にした融資へ向かい、長銀はその先でイ・アイ・イに行き当たった[6][7]

決断

次の世代を担う企業を育てるという名分

バブルが崩れる前、長銀の役員はイ・アイ・イをいつか花開く取引先と見ており、率いる高橋治則氏をロマンのある経営者と評していた。長銀の側には、次の世代を担う企業を育てるという大義名分があった。基幹産業を支えるという設立以来の役割が薄れたあとで、まだ育っていない企業へ長期の資金を出すことは、この銀行にとって役割の読み替えにあたる。1988年4月には役員を派遣した[8][9]

同じ借り手をめぐる銀行間の競争も、貸し込みを後押しした。1980年代の終わりごろ、高橋氏がプロジェクト資金の調達で別の銀行に接近したとき、長銀の担当者は、必要な資金は自行が出すからその銀行だけからは借りないでほしいと懇願したという。行内ではイ・アイ・イとの取引が高く評価され、行員は不動産やレジャー施設へ資金を注いだ。高橋氏は長銀のそうした体質を知り抜いていた[10][11]

抑制の申し入れから支援打ち切りまで

関係が一本調子で続いたわけではない。1989年11月、長銀はイ・アイ・イに新規プロジェクトの抑制を申し入れている。1990年11月には同社の資金繰りの悪化が表に出て、1991年4月からは2次にわたるリストラ計画が始まった。それでも立て直しには届かず、1993年7月、長銀は支援の打ち切りを決めた。取引開始から7年半、抑制を申し入れてからでも3年8か月が過ぎていた[12][13]

後に頭取となる大野木克信氏は、長銀とイ・アイ・イの関係を、高橋氏が事業を拡大していた期間、1991年4月からのリストラ期間、1993年7月の打ち切り以降の3段階に分けたうえで、それをきちんと説明できなかったと認めている。リストラ期間までは高橋氏の明の部分だけを見ていればよいと考え、プロジェクトさえ良ければと動いてしまった、打ち切り以降は相手の中身が見えなくなったとも述べた[14]

結果

打ち切りの後に来た国会と、頭取の交代

撤退で関係が切れたわけではなかった。1995年3月16日、東京協和信用組合と安全信用組合をめぐる予算委員会に、堀江鐵彌頭取が参考人として招かれる。イ・アイ・イへの支援打ち切りについて平成会の北沢俊美氏に問われた堀江氏は、最後の別れの際にパーティーが開かれ、非常に和やかであったと聞いていると答えた。委員席には失笑とヤジがあふれた[15]

実際には、イ・アイ・イの最後の取締役会が終わった後に、長銀から出向していた副社長の田中重彦氏が社員へ挨拶しただけであった。事務方はその事実を想定問答に入れていたが、国際畑の長かった堀江氏は、その会合をパーティーと翻訳して覚えていたらしい。国会は答弁に納得せず証人喚問へ進み、3月29日に堀江氏が辞任を示唆、31日に長銀は堀江氏の辞任と大野木副頭取の頭取昇格を発表した[16][17]

貸出構成に残ったもの

1社との取引が終わっても、貸出の中身は元へ戻らなかった。1994年3月末、長銀の融資に占める金融保険業向けの比率は23.6%に達している。1995年3月末には金融・保険業、不動産業、建設業への融資が総額7兆円あり、うち長銀インターナショナルリース、日本リース、第一住宅金融など直系・関連のメインバンク8社への残高だけで1兆1000億円を占めた[18][19]

イ・アイ・イ向けで多用した手法も残った。担保に取った事業を継続させて不良債権が表に出るのを避けるゴーイングコンサーン戦略は、初島に設けた会員制リゾート初島クラブでも繰り返され、建設のさなかに融資が急に膨らんだ。破綻後に頭取を務めた安斎隆氏は、EIEグループ向け融資を長銀の経営が大変なことになる最初で最大のミスだったと述べ、旧経営陣への賠償請求にはこの2件が並んだ。1997年のスイス銀行との提携も、信用を補ってから負の遺産の処理に入る順序で構想されていた[20][21][22]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1995年7月10日号「長銀新体制、苦難の道。格付け回復へ迫られる構造転換」
  • 日経ビジネス 2000年4月3日号「泡沫(バブル)第5部崩壊――3 長銀破綻の真相」
  • Decide 11(7)(117)(1993年)「役割を終えた長期信用銀行の明日」

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