1905年〜 久原房之助の赤沢銅山買収から日産コンツェルンの中核会社まで
- 1905年久原房之助氏が茨城県の赤沢銅山を買収
- 1905年日立鉱山として操業開始
- 1912年久原鉱業を設立
- 1916年佐賀関製錬所の操業を開始
- 1928年鮎川義介氏のもとで久原鉱業を大衆持株会社の形態に改め、日本産業に商号変更
- 1929年日本産業の鉱山・製錬部門を分離独立させ、日本鉱業を設立
- 1933年雄物川油田で出油に成功
ジャパンエナジーの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
赤沢銅山の買収と久原鉱業の急拡大
1905年12月、久原房之助氏は茨城県の赤沢銅山を当時の実権者である大橋真六氏から買い取り、久原鉱業所を起こして日立鉱山と改めた。この鉱山は1591年に常陸領主の佐竹義重が豊臣秀吉の朱印を得て開発を命じた記録が残るほど古く、徳川から明治にかけて数名の権利者の手を転々としながら、いずれも採算に乗せられずにいた。久原氏は自ら現場に入って採鉱と探査を進め、1910年代初めまでに電気鉄道・電錬工場・発電所を当時の鉱山として第一級の水準でそろえた。三菱・住友・古河・藤田組が1890年代までに銅山の買収と併合で基礎を固めていたのに対し、久原氏が産銅界の第一線に出たのは1900年代半ばから1910年前後で、ひと回り遅い。 [1][2][3]
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [1]1905年12月に久原房之助が赤沢銅山を買収し日立鉱山と改めて操業を始めた
- [2]買収の相手は当時の実権者・大橋真六である
- 会社銀行八十年史(1955年)「32_鉱業 概説」
- [3]久原房之助が産銅界の第一線に立ったのは三菱・住友・古河・藤田組より遅い1900年代半ばから1910年前後である
1912年9月、久原鉱業所は資本金1,000万円の久原鉱業株式会社に改組した。第一次大戦の好況が追い風となり、資本金は1916年に3,000万円、翌1917年には7,500万円へ増えている。この間、豊羽(北海道)、河津と峰之沢(静岡)、竹野(兵庫)、東山(徳島)、高浦と大瀬(愛媛)、吉野(山形)と各地の鉱山を次々に買収して操業を始め、1916年9月には大分県で佐賀関製錬所の操業に入った。事業は鉱山にとどまらず、機械工業・海運業・ゴム農林業へ広がり、同年には英領ボルネオにタワオ農園を開いて海外にも出た。銅の一山から始まった会社が、10年ほどで鉱山・製錬・関連事業を抱える企業集団に変わっている。 [4][5][6]
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [4]1912年9月に資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立した
- [5]資本金は1916年に3,000万円、1917年に7,500万円へ増加した
- 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
- [6]1916年9月に佐賀関製錬所の操業を開始した
拡大は長くは続かなかった。1920年以降の不況で銅の滞貨が積み上がり、資金繰りが行き詰まる。国内の産銅業そのものが同じ壁に当たっていた。1917年の全盛期に80を超えていた鉱山は1929年には40余りへ半減し、10万8,000トンあった産銅高も1922年に5万4,000トン、1929年に7万5,000トンへ落ちた。アフリカやチリの新興銅山が低コストで産出を伸ばし、米国で湿式製錬法が普及したことが、世界的な増産と市況の低迷を招いていた。久原氏は前途を嘱望していた鮎川義介氏に事業を委ね、自らは政界に転じた。 [7][8]
- 会社銀行八十年史(1955年)「32_鉱業 概説」
- [7]1917年に80余あった鉱山は1929年に40余へ半減し、産銅高は10万8,000トンから1922年5万4,000トン・1929年7万5,000トンへ減退した
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [8]久原房之助は鮎川義介へ事業を委ねて政界に転じた
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [1]1905年12月に久原房之助が赤沢銅山を買収し日立鉱山と改めて操業を始めた
- [2]買収の相手は当時の実権者・大橋真六である
- [4]1912年9月に資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立した
- [5]資本金は1916年に3,000万円、1917年に7,500万円へ増加した
- [8]久原房之助は鮎川義介へ事業を委ねて政界に転じた
- 会社銀行八十年史(1955年)「32_鉱業 概説」
- [3]久原房之助が産銅界の第一線に立ったのは三菱・住友・古河・藤田組より遅い1900年代半ばから1910年前後である
- [7]1917年に80余あった鉱山は1929年に40余へ半減し、産銅高は10万8,000トンから1922年5万4,000トン・1929年7万5,000トンへ減退した
- 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
- [6]1916年9月に佐賀関製錬所の操業を開始した
配当が払えなくなった久原鉱業を鮎川義介が引き受けるまで
会社の窮状が誰の目にも見える形で表れたのは、配当の資金が用意できなくなったときである。政友会総裁の田中義一氏が夜半に鮎川義介氏の自宅を訪ね、久原鉱業の配当が旬日に迫っているのに番頭たちでは金策がつかないと頼み込んだ。田中氏自身が三井合名の団氏、三井銀行の池田氏、第一銀行の佐々木氏を回っても相手にされなかったという。鮎川氏は義兄で三菱の総理事だった木村久寿彌太氏に相談し、通知を出したあとで配当が払えないのは銀行の取り付けと同じであり、引き受けるべきだと逆に諭された。藤田家から出してもらった担保で共保生命から150万円を引き出したのは、総会前日の夕方だった。 [9][10][11]
- 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社)「鮎川義介」
- [9]政友会総裁の田中義一が鮎川義介に久原鉱業の配当資金の工面を依頼した
- [10]藤田家の担保により共保生命から150万円を調達した
- [11]鮎川義介の義兄・木村久寿彌太は三菱の総理事であった
一度の資金繰りで済む話ではなかった。1928年12月、鮎川氏は久原鉱業を大衆持株会社の形態に改めて日本産業株式会社とし、採算の合わない事業は「合同肥料」にまとめて蓋をし、健全な部門は業種別に分離独立させる方針を立てた。その第一号が鉱業関係である。翌1929年4月24日、日本産業の鉱山・製錬部門とその付帯事業を引き継ぐ会社として、資本金5,000万円の日本鉱業株式会社が設立された。当時の事業地は内地全域のほか朝鮮、マレー半島にも及んでいる。創立の直後に世界大恐慌が来たが、事業基盤が固まっていたため打撃は小さく、金価格の引き上げによりむしろ一般の景気に先行して好調期に入った。 [12][13][14]
- 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社)「鮎川義介」
- [12]1928年12月に久原鉱業を大衆持株会社に改組し日本産業株式会社とした
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [13]1929年4月24日に資本金5,000万円で日本鉱業株式会社を設立した
- [14]設立当時の事業地は内地全域のほか朝鮮・マレー半島に及んでいた
分離独立には、資金調達の仕掛けが組み込まれていた。1931年の金輸出再禁止で金価格が上がると、鮎川氏は日本鉱業株の半分をプレミアム付きで売り出し、親会社の日本産業に無利子の資金を集めた。公開された日鉱株は取引所の花形となり、12円50銭まで下がっていた日本産業株も150円に達したという。鮎川氏は後年、公衆持株会社への吸収合併の理論と操作は自分の新発明であり、日産はこのとき以来三井・三菱よりも規模が大きくなったと書いている。日本鉱業は久原個人の事業から、公開された株式で資金を集める仕組みの中に組み込まれた会社へ変わった。 [15][16]
- 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社)「鮎川義介」
- [15]1931年の金輸出再禁止を機に日本鉱業株の半分をプレミアム付きで売り出した
- [16]日本産業株は12円50銭から150円に上昇した
- 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社)「鮎川義介」
- [9]政友会総裁の田中義一が鮎川義介に久原鉱業の配当資金の工面を依頼した
- [10]藤田家の担保により共保生命から150万円を調達した
- [11]鮎川義介の義兄・木村久寿彌太は三菱の総理事であった
- [12]1928年12月に久原鉱業を大衆持株会社に改組し日本産業株式会社とした
- [15]1931年の金輸出再禁止を機に日本鉱業株の半分をプレミアム付きで売り出した
- [16]日本産業株は12円50銭から150円に上昇した
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [13]1929年4月24日に資本金5,000万円で日本鉱業株式会社を設立した
- [14]設立当時の事業地は内地全域のほか朝鮮・マレー半島に及んでいた
石油・金・石炭を戦時統制のもとで手放した十年
満州事変の後、日本鉱業は国策である産金助成政策に沿って規模を広げた。資本金は1933年に7,500万円、1935年に1億6,000万円、1939年に2億4,000万円と増え、1943年には日産化学を吸収合併して4億7,200万円になった。事業所も1931年の朝鮮鎮南浦製錬所、1937年の台湾・金瓜石鉱山の買収、朝鮮各地での金山の経営と広がり、その数は40余りに達している。この拡張のなかで石油が加わった。1933年9月に秋田県の雄物川油田で出油に成功し、1939年には秋田県船川港町の早川石油製油工場を買収して、採油から精製までを自社で行う体制を整えた。銅の会社が石油を持ったのは、地下資源の開発技術が両方に通じるという理屈からである。 [17][18][19]
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [17]資本金は1933年7,500万円、1935年1億6,000万円、1939年2億4,000万円、1943年に日産化学の吸収合併で4億7,200万円となった
- [19]1939年に秋田県船川港町の早川石油製油工場を買収し採油から精製までの一貫体制を整えた
- 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
- [18]1933年9月に秋田県の雄物川油田で出油に成功した
抱え込んだ事業は、戦時経済の国家的要請で次々に外へ出された。譲渡はいずれも自発的な選択ではなく、統制の求めに応じたものである。1942年に石油鉱業部門を帝国石油へ、1943年に金鉱業部門を帝国鉱業開発へ譲渡し、1945年には化学工業部門を日本油脂に、石炭鉱業部門を日本炭砿にそれぞれ渡している。9年がかりで石油の一貫体制を作った直後に採油部門を手放したことになり、戦後に石油へ戻るときは精製から入り直すほかなくなった。事業分野は相当に縮小したが、この整理が結果として銅と製錬に人と設備を残す形にもなった。 [20][21]
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [20]1942年に石油鉱業部門を帝国石油へ譲渡した
- [21]1943年に金鉱業部門を帝国鉱業開発へ、1945年に化学工業部門を日本油脂・石炭鉱業部門を日本炭砿へ譲渡した
敗戦で失ったものは、譲渡した部門より大きかった。簿価にして約4億円、全資産のおよそ半分を占める在外資産が消え、工場設備と鉱山現場も荒れた。加えて占領下の立法により、集中排除会社・財閥会社・公職会社・特別経理会社・制限会社・証券保有制限令の指定会社・持株会社と、いくつもの指定を重ねて受けている。これらはいずれも占領の終結までに解除された。朝鮮、台湾、マレー半島に広げた事業地を一度に失ったところから、戦後の日本鉱業は再出発した。海外の鉱山と製錬所を前提に組み立てた事業構成は、この時点で国内だけのものに戻っている。 [22][23]
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [22]敗戦により簿価約4億円・全資産の約半分にあたる在外資産を失った
- [23]集中排除会社・財閥会社・公職会社・特別経理会社・制限会社・証券保有制限令の指定会社・持株会社の指定を受け、占領終結までに解除された
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [17]資本金は1933年7,500万円、1935年1億6,000万円、1939年2億4,000万円、1943年に日産化学の吸収合併で4億7,200万円となった
- [19]1939年に秋田県船川港町の早川石油製油工場を買収し採油から精製までの一貫体制を整えた
- [20]1942年に石油鉱業部門を帝国石油へ譲渡した
- [21]1943年に金鉱業部門を帝国鉱業開発へ、1945年に化学工業部門を日本油脂・石炭鉱業部門を日本炭砿へ譲渡した
- [22]敗戦により簿価約4億円・全資産の約半分にあたる在外資産を失った
- [23]集中排除会社・財閥会社・公職会社・特別経理会社・制限会社・証券保有制限令の指定会社・持株会社の指定を受け、占領終結までに解除された
- 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
- [18]1933年9月に秋田県の雄物川油田で出油に成功した