ジャパンエナジー の歴史

創業

1905年

創業者

久原房之助

創業地

茨城県日立

直近売上高(2010/3)

32,337億円

長期業績と転換点(1981/3〜2010/3)
売上高(億円純利益率(%)

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1905年〜 久原房之助の赤沢銅山買収から日産コンツェルンの中核会社まで

  1. 1905年久原房之助氏が茨城県の赤沢銅山を買収
  2. 1905年日立鉱山として操業開始
  3. 1912年久原鉱業を設立
  4. 1916年佐賀関製錬所の操業を開始
  5. 1928年鮎川義介氏のもとで久原鉱業を大衆持株会社の形態に改め、日本産業に商号変更
  6. 1929年日本産業の鉱山・製錬部門を分離独立させ、日本鉱業を設立
  7. 1933年雄物川油田で出油に成功

ジャパンエナジーの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

赤沢銅山の買収と久原鉱業の急拡大

1905年12月、久原房之助氏は茨城県の赤沢銅山を当時の実権者である大橋真六氏から買い取り、久原鉱業所を起こして日立鉱山と改めた。この鉱山は1591年に常陸領主の佐竹義重が豊臣秀吉の朱印を得て開発を命じた記録が残るほど古く、徳川から明治にかけて数名の権利者の手を転々としながら、いずれも採算に乗せられずにいた。久原氏は自ら現場に入って採鉱と探査を進め、1910年代初めまでに電気鉄道・電錬工場・発電所を当時の鉱山として第一級の水準でそろえた。三菱・住友・古河・藤田組が1890年代までに銅山の買収と併合で基礎を固めていたのに対し、久原氏が産銅界の第一線に出たのは1900年代半ばから1910年前後で、ひと回り遅い。 [1][2][3]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [1]1905年12月に久原房之助が赤沢銅山を買収し日立鉱山と改めて操業を始めた
    • [2]買収の相手は当時の実権者・大橋真六である
  • 会社銀行八十年史(1955年)「32_鉱業 概説」
    • [3]久原房之助が産銅界の第一線に立ったのは三菱・住友・古河・藤田組より遅い1900年代半ばから1910年前後である

1912年9月、久原鉱業所は資本金1,000万円の久原鉱業株式会社に改組した。第一次大戦の好況が追い風となり、資本金は1916年に3,000万円、翌1917年には7,500万円へ増えている。この間、豊羽(北海道)、河津と峰之沢(静岡)、竹野(兵庫)、東山(徳島)、高浦と大瀬(愛媛)、吉野(山形)と各地の鉱山を次々に買収して操業を始め、1916年9月には大分県で佐賀関製錬所の操業に入った。事業は鉱山にとどまらず、機械工業・海運業・ゴム農林業へ広がり、同年には英領ボルネオにタワオ農園を開いて海外にも出た。銅の一山から始まった会社が、10年ほどで鉱山・製錬・関連事業を抱える企業集団に変わっている。 [4][5][6]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [4]1912年9月に資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立した
    • [5]資本金は1916年に3,000万円、1917年に7,500万円へ増加した
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [6]1916年9月に佐賀関製錬所の操業を開始した

拡大は長くは続かなかった。1920年以降の不況で銅の滞貨が積み上がり、資金繰りが行き詰まる。国内の産銅業そのものが同じ壁に当たっていた。1917年の全盛期に80を超えていた鉱山は1929年には40余りへ半減し、10万8,000トンあった産銅高も1922年に5万4,000トン、1929年に7万5,000トンへ落ちた。アフリカやチリの新興銅山が低コストで産出を伸ばし、米国で湿式製錬法が普及したことが、世界的な増産と市況の低迷を招いていた。久原氏は前途を嘱望していた鮎川義介氏に事業を委ね、自らは政界に転じた。 [7][8]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「32_鉱業 概説」
    • [7]1917年に80余あった鉱山は1929年に40余へ半減し、産銅高は10万8,000トンから1922年5万4,000トン・1929年7万5,000トンへ減退した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [8]久原房之助は鮎川義介へ事業を委ねて政界に転じた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [1]1905年12月に久原房之助が赤沢銅山を買収し日立鉱山と改めて操業を始めた
    • [2]買収の相手は当時の実権者・大橋真六である
    • [4]1912年9月に資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立した
    • [5]資本金は1916年に3,000万円、1917年に7,500万円へ増加した
    • [8]久原房之助は鮎川義介へ事業を委ねて政界に転じた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「32_鉱業 概説」
    • [3]久原房之助が産銅界の第一線に立ったのは三菱・住友・古河・藤田組より遅い1900年代半ばから1910年前後である
    • [7]1917年に80余あった鉱山は1929年に40余へ半減し、産銅高は10万8,000トンから1922年5万4,000トン・1929年7万5,000トンへ減退した
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [6]1916年9月に佐賀関製錬所の操業を開始した

配当が払えなくなった久原鉱業を鮎川義介が引き受けるまで

会社の窮状が誰の目にも見える形で表れたのは、配当の資金が用意できなくなったときである。政友会総裁の田中義一氏が夜半に鮎川義介氏の自宅を訪ね、久原鉱業の配当が旬日に迫っているのに番頭たちでは金策がつかないと頼み込んだ。田中氏自身が三井合名の団氏、三井銀行の池田氏、第一銀行の佐々木氏を回っても相手にされなかったという。鮎川氏は義兄で三菱の総理事だった木村久寿彌太氏に相談し、通知を出したあとで配当が払えないのは銀行の取り付けと同じであり、引き受けるべきだと逆に諭された。藤田家から出してもらった担保で共保生命から150万円を引き出したのは、総会前日の夕方だった。 [9][10][11]

  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社)「鮎川義介」
    • [9]政友会総裁の田中義一が鮎川義介に久原鉱業の配当資金の工面を依頼した
    • [10]藤田家の担保により共保生命から150万円を調達した
    • [11]鮎川義介の義兄・木村久寿彌太は三菱の総理事であった

一度の資金繰りで済む話ではなかった。1928年12月、鮎川氏は久原鉱業を大衆持株会社の形態に改めて日本産業株式会社とし、採算の合わない事業は「合同肥料」にまとめて蓋をし、健全な部門は業種別に分離独立させる方針を立てた。その第一号が鉱業関係である。翌1929年4月24日、日本産業の鉱山・製錬部門とその付帯事業を引き継ぐ会社として、資本金5,000万円の日本鉱業株式会社が設立された。当時の事業地は内地全域のほか朝鮮、マレー半島にも及んでいる。創立の直後に世界大恐慌が来たが、事業基盤が固まっていたため打撃は小さく、金価格の引き上げによりむしろ一般の景気に先行して好調期に入った。 [12][13][14]

  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社)「鮎川義介」
    • [12]1928年12月に久原鉱業を大衆持株会社に改組し日本産業株式会社とした
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [13]1929年4月24日に資本金5,000万円で日本鉱業株式会社を設立した
    • [14]設立当時の事業地は内地全域のほか朝鮮・マレー半島に及んでいた

分離独立には、資金調達の仕掛けが組み込まれていた。1931年の金輸出再禁止で金価格が上がると、鮎川氏は日本鉱業株の半分をプレミアム付きで売り出し、親会社の日本産業に無利子の資金を集めた。公開された日鉱株は取引所の花形となり、12円50銭まで下がっていた日本産業株も150円に達したという。鮎川氏は後年、公衆持株会社への吸収合併の理論と操作は自分の新発明であり、日産はこのとき以来三井・三菱よりも規模が大きくなったと書いている。日本鉱業は久原個人の事業から、公開された株式で資金を集める仕組みの中に組み込まれた会社へ変わった。 [15][16]

  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社)「鮎川義介」
    • [15]1931年の金輸出再禁止を機に日本鉱業株の半分をプレミアム付きで売り出した
    • [16]日本産業株は12円50銭から150円に上昇した
  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社)「鮎川義介」
    • [9]政友会総裁の田中義一が鮎川義介に久原鉱業の配当資金の工面を依頼した
    • [10]藤田家の担保により共保生命から150万円を調達した
    • [11]鮎川義介の義兄・木村久寿彌太は三菱の総理事であった
    • [12]1928年12月に久原鉱業を大衆持株会社に改組し日本産業株式会社とした
    • [15]1931年の金輸出再禁止を機に日本鉱業株の半分をプレミアム付きで売り出した
    • [16]日本産業株は12円50銭から150円に上昇した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [13]1929年4月24日に資本金5,000万円で日本鉱業株式会社を設立した
    • [14]設立当時の事業地は内地全域のほか朝鮮・マレー半島に及んでいた

石油・金・石炭を戦時統制のもとで手放した十年

満州事変の後、日本鉱業は国策である産金助成政策に沿って規模を広げた。資本金は1933年に7,500万円、1935年に1億6,000万円、1939年に2億4,000万円と増え、1943年には日産化学を吸収合併して4億7,200万円になった。事業所も1931年の朝鮮鎮南浦製錬所、1937年の台湾・金瓜石鉱山の買収、朝鮮各地での金山の経営と広がり、その数は40余りに達している。この拡張のなかで石油が加わった。1933年9月に秋田県の雄物川油田で出油に成功し、1939年には秋田県船川港町の早川石油製油工場を買収して、採油から精製までを自社で行う体制を整えた。銅の会社が石油を持ったのは、地下資源の開発技術が両方に通じるという理屈からである。 [17][18][19]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [17]資本金は1933年7,500万円、1935年1億6,000万円、1939年2億4,000万円、1943年に日産化学の吸収合併で4億7,200万円となった
    • [19]1939年に秋田県船川港町の早川石油製油工場を買収し採油から精製までの一貫体制を整えた
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [18]1933年9月に秋田県の雄物川油田で出油に成功した

抱え込んだ事業は、戦時経済の国家的要請で次々に外へ出された。譲渡はいずれも自発的な選択ではなく、統制の求めに応じたものである。1942年に石油鉱業部門を帝国石油へ、1943年に金鉱業部門を帝国鉱業開発へ譲渡し、1945年には化学工業部門を日本油脂に、石炭鉱業部門を日本炭砿にそれぞれ渡している。9年がかりで石油の一貫体制を作った直後に採油部門を手放したことになり、戦後に石油へ戻るときは精製から入り直すほかなくなった。事業分野は相当に縮小したが、この整理が結果として銅と製錬に人と設備を残す形にもなった。 [20][21]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [20]1942年に石油鉱業部門を帝国石油へ譲渡した
    • [21]1943年に金鉱業部門を帝国鉱業開発へ、1945年に化学工業部門を日本油脂・石炭鉱業部門を日本炭砿へ譲渡した

敗戦で失ったものは、譲渡した部門より大きかった。簿価にして約4億円、全資産のおよそ半分を占める在外資産が消え、工場設備と鉱山現場も荒れた。加えて占領下の立法により、集中排除会社・財閥会社・公職会社・特別経理会社・制限会社・証券保有制限令の指定会社・持株会社と、いくつもの指定を重ねて受けている。これらはいずれも占領の終結までに解除された。朝鮮、台湾、マレー半島に広げた事業地を一度に失ったところから、戦後の日本鉱業は再出発した。海外の鉱山と製錬所を前提に組み立てた事業構成は、この時点で国内だけのものに戻っている。 [22][23]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [22]敗戦により簿価約4億円・全資産の約半分にあたる在外資産を失った
    • [23]集中排除会社・財閥会社・公職会社・特別経理会社・制限会社・証券保有制限令の指定会社・持株会社の指定を受け、占領終結までに解除された
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [17]資本金は1933年7,500万円、1935年1億6,000万円、1939年2億4,000万円、1943年に日産化学の吸収合併で4億7,200万円となった
    • [19]1939年に秋田県船川港町の早川石油製油工場を買収し採油から精製までの一貫体制を整えた
    • [20]1942年に石油鉱業部門を帝国石油へ譲渡した
    • [21]1943年に金鉱業部門を帝国鉱業開発へ、1945年に化学工業部門を日本油脂・石炭鉱業部門を日本炭砿へ譲渡した
    • [22]敗戦により簿価約4億円・全資産の約半分にあたる在外資産を失った
    • [23]集中排除会社・財閥会社・公職会社・特別経理会社・制限会社・証券保有制限令の指定会社・持株会社の指定を受け、占領終結までに解除された
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [18]1933年9月に秋田県の雄物川油田で出油に成功した

1946年〜 非鉄と石油の二正面経営と、民族系元売をまとめた共同石油

  1. 1961年水島製油所が操業開始
  2. 1961年石油精製に本格参入
  3. 1962年貿易自由化を控え、人員整理を含む合理化を労働組合の了解のもとで実施
  4. 1965年アジア石油・東亜石油と24金融機関の出資により共同販売会社の共同石油を設立
  5. 1966年石油販売部門を共同石油へ集約
  6. 1968年丸善石油・大協石油と均等出資でアブダビ石油を設立
  7. 1968年海底油田の開発に着手

ジャパンエナジーの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

在外資産の半分を失った戦後の再建と銅への集中

戦後の日本鉱業は、各事業所の復興と並行して生産設備の新設と合理化を進めた。探鉱でも新技術と新鋭機械を入れ、船川製油所は輸入原油の処理量を増やして業績に寄与した。増資を2回重ねて1952年10月に資本金21億円となる。1955年3月期の総売上高は113億8,000万円で、その内訳は銅45.2%、石油製品20.9%、硫化鉱8.6%、金4.2%、硫酸4.0%、フェロニッケル3.5%、鉛2.6%、銀1.9%と続く。銅が半分近くを占める一方、戦時に手放したはずの石油製品が2割を稼いでいる点に、この会社の事業構成の特徴が表れている。 [24][25]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [24]1955年3月期の総売上高は113億8,000万円で、銅45.2%・石油製品20.9%・硫化鉱8.6%・金4.2%の構成であった
    • [25]戦後2回の増資により1952年10月に資本金21億円となった

銅が伸びた背景には、産銅業そのものの構造の変化がある。戦時中の濫掘で鉱山が荒れ、戦後2、3年の生産は極端に落ちたが、故銅や滓銅の処理によって回復に向かった。故滓銅と輸入鉱石の製錬が増えたことは戦後の産銅業の特色であり、国内の鉱石だけに頼らない製錬業への傾きがこの時期に始まっている。1949年の統制撤廃と補給金の打ち切りで産銅業は国際価格の影響を直接受けるようになり、翌1950年の朝鮮動乱で国際銅相場が高騰すると活況に転じた。合理化も進んで1954年の銅地金生産は10万トンを超えている。 [26][27]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「32_鉱業 概説」
    • [26]1954年の銅地金生産は10万トンを超えた
    • [27]1949年の統制撤廃と補給金打ち切りにより産銅業は国際価格に左右されるようになった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
    • [24]1955年3月期の総売上高は113億8,000万円で、銅45.2%・石油製品20.9%・硫化鉱8.6%・金4.2%の構成であった
    • [25]戦後2回の増資により1952年10月に資本金21億円となった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「32_鉱業 概説」
    • [26]1954年の銅地金生産は10万トンを超えた
    • [27]1949年の統制撤廃と補給金打ち切りにより産銅業は国際価格に左右されるようになった

水島製油所と共同石油 ── 石油への二度目の参入

1959年11月に新潟県の中条油業所で天然ガスの供給を始め、1961年6月には岡山県で水島製油所が操業に入った。戦時に油田部門を帝国石油へ渡してから20年近くを経て、日本鉱業は精製から石油に戻った。1962年には貿易自由化を控えて人員整理を含む合理化を実施している。三間安市社長は後年、これを労働組合の理解のもとで行い、続いて賃金の3年協定を結び、1967年下期から1970年上期にかけて再度3年協定を締結して通算6年の安定を作ったと説明した。設備投資を続けるための労使関係を、先に固めた。 [28][29]

  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [28]1959年11月に中条油業所で天然ガスの供給を開始し、1961年6月に水島製油所が操業を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号「日本鉱業の現状と将来」
    • [29]三間安市が1969年時点の日本鉱業社長であり、1962年の合理化と賃金3年協定について説明した

1965年8月、日本鉱業はアジア石油・東亜石油の2社および24の金融機関の出資を得て、共同販売会社の共同石油を設立した。背景には通産省の政策がある。1963年12月に産業構造調査会の総合エネルギー部会が、採油部門を持たない日本の石油精製業の基盤を強めるには集約化と財政資金の投入、国策会社の創設を検討すべきだと報告し、通産省は集約化した企業に精製設備の許可と給油所建設で優先的な配慮を与えると表明していた。翌1966年7月には自社の石油販売部門を共同石油へ集約している。1969年時点でも販売シェアは日石グループの約18%を筆頭に外資系だけで約60%を占めており、民族系の中核を作ることが政策の狙いだった。 [30][31][32]

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「石油-高度成長の光と影、石油ショック」
    • [30]1965年8月に日本鉱業・アジア石油・東亜石油の3社と24金融機関の出資により共同石油を設立した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号「日本鉱業の現状と将来」
    • [31]1969年時点の販売シェアは日石グループが約18%、外資系合計で約60%であった
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [32]1966年7月に石油販売部門を共同石油へ集約した

1969年5月、三間社長は証券アナリスト協会で自社の全体像を語っている。事業種目は非鉄金属鉱業・天然ガス採取業・製錬業・化学工業・石油精製業・金属加工業で、国内に10鉱山、1油業所、3製錬所、2製油所、4工場を持ち、鉱山・金属・石油・金属加工の4部門で事業部制を敷いていた。1968年度は資本金188億5,000万円、総資産1,755億円、売上高約1,740億円、税引前利益43億5,000万円、従業員9,600人である。1960年度の売上576億円・税引前利益17億円・従業員1万3,900人と比べると、人員を3割減らして売上を3倍にした。共同石油のシェアはこの時点で10.2%の業界3位で、1971年度には約19%となって日本石油と肩を並べると三間社長は見込んでいた。 [33][34][35]

  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号「日本鉱業の現状と将来」
    • [33]1968年度は資本金188億5,000万円・総資産1,755億円・売上高約1,740億円・税引前利益43億5,000万円・従業員9,600人であった
    • [34]1960年度は売上576億円・税引前利益17億円・従業員1万3,900人であった
    • [35]1969年時点の共同石油のシェアは10.2%で業界3位、1971年度は約19%が見込まれていた
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [28]1959年11月に中条油業所で天然ガスの供給を開始し、1961年6月に水島製油所が操業を開始した
    • [32]1966年7月に石油販売部門を共同石油へ集約した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号「日本鉱業の現状と将来」
    • [29]三間安市が1969年時点の日本鉱業社長であり、1962年の合理化と賃金3年協定について説明した
    • [31]1969年時点の販売シェアは日石グループが約18%、外資系合計で約60%であった
    • [33]1968年度は資本金188億5,000万円・総資産1,755億円・売上高約1,740億円・税引前利益43億5,000万円・従業員9,600人であった
    • [34]1960年度は売上576億円・税引前利益17億円・従業員1万3,900人であった
    • [35]1969年時点の共同石油のシェアは10.2%で業界3位、1971年度は約19%が見込まれていた
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「石油-高度成長の光と影、石油ショック」
    • [30]1965年8月に日本鉱業・アジア石油・東亜石油の3社と24金融機関の出資により共同石油を設立した

海外資源への投資と、石油ショック後に細った国内鉱山

1960年代末の日本鉱業は、非鉄と石油の双方で大型の投資を同時に進めていた。佐賀関製錬所ではフィンランドのオートクンプ社が開発した自溶製錬法に自社の酸素製錬法を組み合わせ、総工費86億円で銅月産1万トンの設備を建設した。水島製油所は日量9万5,000バレルの処理能力を16万5,000バレルへ引き上げる工事に入り、総工費198億円のうち77億円を重油直接脱硫設備が占めた。海外では1969年にコンゴ政府と鉱業協定を結び、ムソシ地区で銅品位2.1%・鉱量1億1,000万トン、キンセンダ地区で品位4.5%・2,000万トン以上の鉱化帯を得ている。発見量は銅換算320万トンで、通産省調査による国内埋蔵量約220万トンの1.5倍にあたった。石油では1967年12月にアブダビ政府から2海域の利権を獲得し、翌1968年1月に丸善石油・大協石油と均等出資でアブダビ石油を設立している。 [36][37][38][39]

  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号「日本鉱業の現状と将来」
    • [36]佐賀関製錬所の新設備は総工費86億円で銅月産1万トンを計画した
    • [37]水島製油所は日量9万5,000バレルを16万5,000バレルへ増強し、総工費198億円のうち77億円が脱硫設備であった
    • [38]コンゴのムソシ・キンセンダ両地区の発見量は銅換算320万トンで国内埋蔵量約220万トンの1.5倍であった
    • [39]1967年12月にアブダビの2海域の利権を獲得し1968年1月にアブダビ石油を設立した

この投資計画は、石油ショックで前提が崩れた。非鉄金属大手8社は1975年度の決算で265億円の経常赤字を計上し、1977年度に再び125億円の経常赤字と83億円の最終赤字を出す。国内では鉱山の分離と閉山が相次ぎ、1976年4月に100あった国内金属鉱山は1979年4月に79、1985年4月には59へ減った。鉱山の従業員数も1975年度の約1万9,000人から1985年度の8,950人へ半分近くに落ちている。日本鉱業も1983年にザイールのムソシ銅山から撤退した。国内の産銅業は鉱山を持たない買鉱製錬業へ移り、日本鉱業の非鉄部門もその流れの中にあった。 [40][41][42]

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-存亡をかけた加工業への転換」
    • [40]非鉄金属大手8社は1975年度に265億円、1977年度に125億円の経常赤字を計上した
    • [41]国内金属鉱山は1976年4月の100から1979年4月に79、1985年4月に59へ減少した
  • 週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」
    • [42]1983年にザイールのムソシ銅山から撤退した

本業の縮小に対して、非鉄各社は素材の加工と川下への進出で答えを出そうとした。住友金属鉱山は1977年に新居浜研究所、1982年に電子材料研究所を設け、三井金属も1981年に電池材料と電子材料の研究所を作っている。日本鉱業の場合、戦前から石油を非鉄と並ぶ柱にしていたぶん、多角化の方向は他社と違った。1979年12月に東亜共石の経営を譲り受けて知多石油を発足させ、1983年7月にこれを知多製油所とする。1981年4月には日鉱グールド・フォイルを設立して電子材料の銅箔事業に入り、1985年5月には茨城県で磯原工場の操業を始めた。石油の精製能力を増やしながら、銅の技術を電子材料へ振り向けている。 [43][44][45]

  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [43]1979年12月に東亜共石の経営を譲り受けて知多石油を発足させ1983年7月に知多製油所とした
    • [44]1981年4月に日鉱グールド・フォイルを設立し、1985年5月に磯原工場の操業を開始した
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-存亡をかけた加工業への転換」
    • [45]住友金属鉱山は1977年に新居浜研究所・1982年に電子材料研究所、三井金属は1981年に電池材料研究所と電子材料研究所を設立した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号「日本鉱業の現状と将来」
    • [36]佐賀関製錬所の新設備は総工費86億円で銅月産1万トンを計画した
    • [37]水島製油所は日量9万5,000バレルを16万5,000バレルへ増強し、総工費198億円のうち77億円が脱硫設備であった
    • [38]コンゴのムソシ・キンセンダ両地区の発見量は銅換算320万トンで国内埋蔵量約220万トンの1.5倍であった
    • [39]1967年12月にアブダビの2海域の利権を獲得し1968年1月にアブダビ石油を設立した
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-存亡をかけた加工業への転換」
    • [40]非鉄金属大手8社は1975年度に265億円、1977年度に125億円の経常赤字を計上した
    • [41]国内金属鉱山は1976年4月の100から1979年4月に79、1985年4月に59へ減少した
    • [45]住友金属鉱山は1977年に新居浜研究所・1982年に電子材料研究所、三井金属は1981年に電池材料研究所と電子材料研究所を設立した
  • 週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」
    • [42]1983年にザイールのムソシ銅山から撤退した
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [43]1979年12月に東亜共石の経営を譲り受けて知多石油を発足させ1983年7月に知多製油所とした
    • [44]1981年4月に日鉱グールド・フォイルを設立し、1985年5月に磯原工場の操業を開始した

1986年〜 金属を切り離しながら石油を厚くした、分離と合流の十年

  1. 1986年円高を受けて花輪・藤ケ谷の両鉱山を閉山
  2. 1987年釈迦内鉱山を閉山
  3. 1988年銅箔メーカー・グールドを10億5,000万ドルで買収
  4. 1992年金属資源開発・金属製錬・金属加工の3部門を分離
  5. 1992年日鉱金属を設立
  6. 1992年共同石油を合併
  7. 1992年日鉱共石に商号変更

ジャパンエナジーの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

円高で国内鉱山を失い、米国の銅箔メーカーを買った1980年代後半

1985年9月のプラザ合意による円高は、非鉄金属鉱業の採算をそのまま削った。銅・鉛・亜鉛はロンドン金属取引所の外貨建て相場で決まり、国内価格はこれを円換算する。円高になれば地金価格が下がり、鉱山は鉱石価格の低下で収入が減る。製錬所も鉱石を安く買える一方で、収入となる製錬費が同じだけ目減りした。日本鉱業協会が選んだ1986年の十大ニュースの第1位は国内16鉱山の閉山で、約4,000人の合理化を伴った。日本鉱業系では花輪と藤ケ谷が、翌1987年には秋田県の釈迦内が閉山した。稼働中の金属鉱山はさらに減り、1988年4月には29となっている。 [46][47][48]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [46]1986年に国内16鉱山が閉山し約4,000人の合理化を伴った
    • [47]日本鉱業系では1986年に花輪・藤ケ谷、1987年に釈迦内が閉山した
    • [48]稼働中の金属鉱山は1988年4月に29まで減少した

国内で鉱山を閉じる一方、海外では買収に出た。1988年11月、日本鉱業は米国の銅箔メーカーであるグールドを10億5,000万ドルで買収する。銅箔はプリント基板に貼る素材でコンピューター産業に欠かせず、グールドを傘下に収めれば世界シェアの約40%を握って三極生産体制が整う計算だった。市況で値の動く非鉄金属や石油と違う電子材料を厚くすれば、業績が安定するという読みもあった。買収は先方からの売り込みを受けてわずか3か月で契約している。当時財務部長だった清水康行氏は現地に飛び、少人数で情報を集めて交渉を進めた。 [49][50][51][52]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [49]1988年11月に米国のグールドを10億5,000万ドルで買収した
    • [50]グールド買収により世界シェア約40%を握り三極生産体制が整う見込みであった
    • [51]買収は先方からの売り込みを受けてから3か月で契約された
  • 週刊東洋経済 2003年7月12日「新日鉱ホールディングス社長 清水康行」
    • [52]当時財務部長であった清水康行が現地で情報収集にあたった

買収の狙いそのものは、当時の非鉄各社が置かれた条件から見て無理のないものである。国内鉱山が消え、製錬加工に偏った業態では為替と市況に業績を振り回されるため、市況商品でない分野を持つ必要は誰の目にも明らかだった。日本の非鉄金属会社は鉱山をほとんど持たない製錬加工業に偏っており、企業規模の点でも世界の同業と渡り合うには足りないと日本産業史は指摘している。誤算はグールドの内容にあった。極端に悪い中身が赤字を垂れ流し、日本鉱業はその処理に苦しむ。3か月で契約したことの代償は、5年後に表面化する。海外事業のリスクは、同じ時期に米国で製錬所建設を断念した三菱金属の例にも表れている。 [53][54]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [53]グールド買収の代償は買収から5年後に表面化した
    • [54]三菱金属は米国テキサス州での銅製錬所建設計画を1992年3月に断念した
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [46]1986年に国内16鉱山が閉山し約4,000人の合理化を伴った
    • [47]日本鉱業系では1986年に花輪・藤ケ谷、1987年に釈迦内が閉山した
    • [48]稼働中の金属鉱山は1988年4月に29まで減少した
    • [49]1988年11月に米国のグールドを10億5,000万ドルで買収した
    • [50]グールド買収により世界シェア約40%を握り三極生産体制が整う見込みであった
    • [51]買収は先方からの売り込みを受けてから3か月で契約された
    • [53]グールド買収の代償は買収から5年後に表面化した
    • [54]三菱金属は米国テキサス州での銅製錬所建設計画を1992年3月に断念した
  • 週刊東洋経済 2003年7月12日「新日鉱ホールディングス社長 清水康行」
    • [52]当時財務部長であった清水康行が現地で情報収集にあたった

1992年の二つの決断 ── 日鉱金属の分社と共同石油の合併

1992年、日本鉱業は7か月のうちに正反対に見える二つの決断を実行した。5月に金属資源開発・金属製錬・金属加工の3部門を分離して日鉱金属を設立し、11月にこれらの部門を譲渡して同社が営業を始める。石油と金属という性格の違う事業は、それぞれ専門に特化したほうが経営の効率が上がるという判断だった。日鉱金属の営業開始は11月で、のちに同社が語る「分離後5年9か月での上場」はこの日から数えられている。分離にあたっては、赤字を出し続けていたグールドを本体側に残し、非鉄金属部門を身軽にして独立させている。 [55][56]

  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [55]1992年5月に日鉱金属を設立し、11月に金属3部門を譲渡して営業を開始した
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [56]グールドは日鉱共石が引き継ぎ、非鉄金属部門を身軽にして独立させた

同じ年の12月、日本鉱業は共同石油を合併して日鉱共石株式会社となった。1965年に通産省の政策に沿って作った販売会社を、27年後に本体へ戻した。共石グループは通産省の優遇策で精製設備を広げたものの、販売力は当初期待されたほどには伸びなかった。参加していたアジア石油はコスモ石油に吸収され、東亜石油は昭和シェル石油グループに入っている。合併により、日鉱共石は精製と販売が一体になった石油会社として再出発した。民族系の中核企業を育成するという政策は何だったのか、という声が業界に残ったと日本産業史は記している。 [57][58]

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「石油-高度成長の光と影、石油ショック」
    • [57]1992年12月に共同石油を合併し日鉱共石株式会社となった
    • [58]アジア石油はコスモ石油に吸収され、東亜石油は昭和シェル石油グループに入った

二つの決断は、外から見れば逆の方向を向いている。片方は金属を切り離して身軽にし、もう片方は石油を取り込んで重くした。だが会社の側から見れば、どちらも銅と石油をひとつの資本で抱えてきた構造を、どこで割るかを決めた判断である。1965年に販売を外へ出し、1992年に金属を外へ出して石油を内へ入れている。会社の中身は入れ替わった。1993年12月、日鉱共石は株式会社ジャパンエナジーに商号を改め、新しい社章と「JOMO」のブランドを使い始める。1929年から63年続いた日本鉱業という商号は、この時点で消えている。 [59][60]

  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [59]1993年12月に日鉱共石はジャパンエナジーへ商号変更し新ブランドJOMOの使用を開始した
    • [60]日本鉱業という商号は1929年から1992年まで63年間使われた
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [55]1992年5月に日鉱金属を設立し、11月に金属3部門を譲渡して営業を開始した
    • [59]1993年12月に日鉱共石はジャパンエナジーへ商号変更し新ブランドJOMOの使用を開始した
    • [60]日本鉱業という商号は1929年から1992年まで63年間使われた
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [56]グールドは日鉱共石が引き継ぎ、非鉄金属部門を身軽にして独立させた
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「石油-高度成長の光と影、石油ショック」
    • [57]1992年12月に共同石油を合併し日鉱共石株式会社となった
    • [58]アジア石油はコスモ石油に吸収され、東亜石油は昭和シェル石油グループに入った

グールドの900億円清算と、分かれた二社の収益力

1993年9月、日鉱共石はグールドを翌年3月までに解散し、事業を全額出資の新会社へ移すと発表した。損失額は900億円に達し、新会社への出資も300億円程度になる見込みだった。買収から5年での決着である。非鉄金属部門はすでに分離されていたため、この負担は石油側の会社が負った。1992年の分社は、結果として金属事業をこの損失の外に置いた。ただし独立した日鉱金属の側から見れば、石油精製部門がそのまま合併会社へ移ったぶん企業規模は小さくなっている。日本産業史の見立てでは、日鉱共石の誕生は非鉄金属の側に新たな再編成の種を残した。新会社が黒字になる保証も、その時点では無かった。 [61][62]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [61]1993年9月にグールドの解散を発表し、損失額900億円・新会社への出資300億円程度が見込まれた
    • [62]日鉱金属の企業規模は石油精製部門が合併会社へ移ったぶん縮小し、日鉱共石の誕生は非鉄金属に新たな再編成の種を残したと日本産業史は記す

独立した日鉱金属も、最初の数年は苦しんだ。円高と非鉄市況の下落に直撃されて1993年度に26億円の経常赤字へ転落する。1994年度から第一次構造改革計画に入り、主力の佐賀関製錬所を自溶炉2炉から1炉へ集約した。酸素をさらに富化して従来3本だったバーナーを高性能の1本にまとめ、処理速度を倍にしたことで、製錬コストは40%下がったという。1994年3月に2,261名いた従業員は1998年3月に1,748名まで23%減り、その間に売上を26%増やしている。従業員1人当たり売上高は1993年度の9,500万円から1997年度の1億6,300万円へ7割以上伸びた。1997年度には経常利益と配当のいずれも非鉄大手で首位に立っている。 [63][64][65]

  • 週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」
    • [63]日鉱金属は1993年度に26億円の経常赤字へ転落した
    • [64]佐賀関製錬所を自溶炉2炉から1炉へ集約し、バーナーを3本から1本にまとめて製錬コストを40%下げた
    • [65]従業員は1994年3月の2,261名から1998年3月の1,748名へ23%減り、1人当たり売上高は9,500万円から1億6,300万円へ伸びた
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [61]1993年9月にグールドの解散を発表し、損失額900億円・新会社への出資300億円程度が見込まれた
    • [62]日鉱金属の企業規模は石油精製部門が合併会社へ移ったぶん縮小し、日鉱共石の誕生は非鉄金属に新たな再編成の種を残したと日本産業史は記す
  • 週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」
    • [63]日鉱金属は1993年度に26億円の経常赤字へ転落した
    • [64]佐賀関製錬所を自溶炉2炉から1炉へ集約し、バーナーを3本から1本にまとめて製錬コストを40%下げた
    • [65]従業員は1994年3月の2,261名から1998年3月の1,748名へ23%減り、1人当たり売上高は9,500万円から1億6,300万円へ伸びた

1998年〜 子会社に収益で抜かれた石油会社が持株会社に行き着くまで

  1. 1998年石油部門の不振により経常赤字70億円の見通しとなり、800人の合理化を計画
  2. 2002年日鉱金属との株式移転で新日鉱HDを設立
  3. 2002年株式移転により上場廃止
  4. 2008年新日本石油と経営統合の基本覚書を締結
  5. 2010年新日鉱HDの株式が上場廃止
  6. 2010年新日本石油との共同株式移転によりJXHDを設立
  7. 2010年ジャパンエナジーが新日本石油に吸収合併され、法人として消滅

ジャパンエナジーの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

日鉱金属の東証上場と、親会社の経常赤字

1998年8月4日、日鉱金属は東京証券取引所第一部に株式を上場した。分離から5年9か月での上場である。親会社ジャパンエナジーの連結決算でも、この時期の日鉱金属は最大の貢献会社になっていた。ジャパンエナジーは1997年度に4,286万株、1998年度の公開に伴い2,500万株の日鉱金属株を売却し、合計315億円の特別利益を得ている。上場と同時に日鉱金属は第二次構造改革に入り、佐賀関製錬所の熔錬能力を年産35万トンから45万トンへ引き上げる55億円の工事を進めた。投資鉱山からの原料調達比率を2000年初頭に65%へ高める計画も掲げている。 [66][67][68]

  • 週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」
    • [66]1998年8月4日に日鉱金属が東証一部へ上場した
    • [67]ジャパンエナジーは1997年度4,286万株・1998年度2,500万株の日鉱金属株売却で合計315億円の特別利益を得た
    • [68]日鉱金属は佐賀関製錬所の熔錬能力を年産35万トンから45万トンへ55億円で増強し、自山鉱比率を2000年初頭に65%へ高める計画を掲げた

その同じ年、ジャパンエナジー本体は1998年度に70億円の経常赤字へ転落する見通しとなり、800名の合理化を予定していた。株式売却益で当座をしのぐ側と、本業で稼いで首位に立つ側が、親子の関係のまま並んでいる。日鉱金属の坂本卓社長は当時、両社は兄弟会社で経営に干渉しないと述べる一方、日本鉱業の事業は日鉱金属が源流だという思いは強いと語った。1992年に「金石両輪はうまくいかない」として分かれた二社は、6年で収益力の順位が逆になっていた。日鉱金属は2000年度に経常利益200億円という目標を下ろしていない。 [69][70][71]

  • 週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」
    • [69]ジャパンエナジーは1998年度に経常赤字70億円の見通しとなり800名の合理化を予定した
    • [70]日鉱金属の坂本卓社長は両社を兄弟会社と述べ、日本鉱業の事業は日鉱金属が源流との思いを語った
    • [71]日鉱金属は2000年度に経常利益200億円という目標を掲げていた
  • 週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」
    • [66]1998年8月4日に日鉱金属が東証一部へ上場した
    • [67]ジャパンエナジーは1997年度4,286万株・1998年度2,500万株の日鉱金属株売却で合計315億円の特別利益を得た
    • [68]日鉱金属は佐賀関製錬所の熔錬能力を年産35万トンから45万トンへ55億円で増強し、自山鉱比率を2000年初頭に65%へ高める計画を掲げた
    • [69]ジャパンエナジーは1998年度に経常赤字70億円の見通しとなり800名の合理化を予定した
    • [70]日鉱金属の坂本卓社長は両社を兄弟会社と述べ、日本鉱業の事業は日鉱金属が源流との思いを語った
    • [71]日鉱金属は2000年度に経常利益200億円という目標を掲げていた

破談と復縁を繰り返した持株会社構想

2000年6月、ジャパンエナジーと日鉱金属が共同持株会社による経営統合を検討していると報じられた。市場の反応は売りだった。800円台半ばだった日鉱金属の株価は300円以上下がり、500円台に落ちる。統合の狙いがジャパンエナジーの石油の赤字を日鉱金属の利益で埋めることにあり、日鉱金属の成長を鈍らせると受け取られたためである。両社は構想の検討を即座に中断した。ジャパンエナジーは日鉱金属株の約57%を握っており、資本の論理だけを通せば結論は決まるはずだった。それでも構想はこの時、一度止まっている。 [72][73]

  • 週刊東洋経済 2000年9月9日「ジャパンエナジー 日鉱金属との親子喧嘩は電子材料分社化で決着!?」
    • [72]2000年6月の報道で日鉱金属の株価は800円台半ばから500円台へ300円以上下落した
  • 週刊東洋経済 2000年12月16日「ジャパンエナジー/日鉱金属 親子ですれ違う持株会社構想の行方」
    • [73]ジャパンエナジーは日鉱金属株の約57%を保有していた

野見山昭彦社長が持株会社にこだわった理由は、グループが三方向に離れかけていたことにある。金属は収益で自信を深めた日鉱金属が親離れの意向を見せ、石油は2000年3月に基本合意した昭和シェル石油との提携が深まれば精製の実権を合弁会社に移しかねない。連結従業員1万3,600人のうち石油部門は35%にあたる4,700人だが、本体にいるのは1,500人で、そのうち800人は水島と知多の両製油所にいた。本社で石油部門を管理する社員は700人にすぎない。販売でも全農と伊藤忠燃料の2社だけで系列給油所4,862か所の36%を占め、価格の主導権を握れずにいた。残る柱は電子材料だが、それも日鉱金属側とジャパンエナジー側に分かれていた。 [74][75][76]

  • 週刊東洋経済 2000年12月16日「ジャパンエナジー/日鉱金属 親子ですれ違う持株会社構想の行方」
    • [74]連結従業員1万3,600人のうち石油部門は4,700人、本体1,500人、うち製油所800人、本社700人であった
    • [75]全農と伊藤忠燃料の2社で系列給油所4,862か所の36%を占めた
    • [76]持株会社構想を主導したのはジャパンエナジー社長の野見山昭彦である

日鉱金属側の危機感は別のところにあった。2000年5月に三井金属との銅製錬事業の業務提携で合意し、10月からは湿式と呼ばれる次世代の製錬技術の共同開発を始めている。鉱石を海外から運んで国内の沿岸製錬所で処理する日本の製錬業のあり方そのものが変わりうる技術で、三井金属側は日鉱に大きな経営環境の変化があれば提携の中止もありうると了解を取っていた。2001年11月、両社は翌年10月をめどに共同持株会社を設立することで合意する。ジャパンエナジーの資本金875億円に対し日鉱金属は349億円で、対等な発言権が得られるかには疑問が残ったと当時の報道は書いている。 [77][78][79]

  • 週刊東洋経済 2000年12月16日「ジャパンエナジー/日鉱金属 親子ですれ違う持株会社構想の行方」
    • [77]2000年5月に日鉱金属は三井金属と銅製錬事業の業務提携で合意し、10月から湿式製錬技術の共同開発を始めた
  • 週刊東洋経済 2001年11月24日「経営統合迷走の果てに元のサヤ入り」
    • [78]ジャパンエナジーの資本金は875億円、日鉱金属は349億円であった
    • [79]2001年11月に両社は共同持株会社の設立で合意した
  • 週刊東洋経済 2000年9月9日「ジャパンエナジー 日鉱金属との親子喧嘩は電子材料分社化で決着!?」
    • [72]2000年6月の報道で日鉱金属の株価は800円台半ばから500円台へ300円以上下落した
  • 週刊東洋経済 2000年12月16日「ジャパンエナジー/日鉱金属 親子ですれ違う持株会社構想の行方」
    • [73]ジャパンエナジーは日鉱金属株の約57%を保有していた
    • [74]連結従業員1万3,600人のうち石油部門は4,700人、本体1,500人、うち製油所800人、本社700人であった
    • [75]全農と伊藤忠燃料の2社で系列給油所4,862か所の36%を占めた
    • [76]持株会社構想を主導したのはジャパンエナジー社長の野見山昭彦である
    • [77]2000年5月に日鉱金属は三井金属と銅製錬事業の業務提携で合意し、10月から湿式製錬技術の共同開発を始めた
  • 週刊東洋経済 2001年11月24日「経営統合迷走の果てに元のサヤ入り」
    • [78]ジャパンエナジーの資本金は875億円、日鉱金属は349億円であった
    • [79]2001年11月に両社は共同持株会社の設立で合意した

新日鉱ホールディングスの八年と、2010年のJX統合

2002年9月27日、ジャパンエナジーと日鉱金属は株式移転により共同持株会社の新日鉱ホールディングスを設立した。ジャパンエナジーが単独の上場企業として市場から消えたのはこの時である。翌2003年4月には、ジャパンエナジーから石油事業を分割して石油専業の新会社ジャパンエナジーを設け、日鉱金属から金属加工事業を分けて日鉱金属加工を新設した。2003年6月に社長となった清水康行氏は、金属部門の経歴は長いが石油の小売はほぼ白紙だとして、持株会社社長の立場から各社が力を出せるかを見ると語っている。株価は一時99円まで落ち、格付けはトリプルBだった。バランスシートは明確な課題だというのが、就任時の本人の評価である。 [80][81][82]

  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [80]2002年9月27日に株式移転により新日鉱ホールディングスを設立し、ジャパンエナジーは上場廃止となった
    • [82]2003年4月に石油事業を分割して石油専業のジャパンエナジーを新設した
  • 週刊東洋経済 2003年7月12日「新日鉱ホールディングス社長 清水康行」
    • [81]清水康行は2003年6月に新日鉱ホールディングス社長へ就任し、株価は一時99円・格付けはトリプルBであった

持株会社の8年間で、事業の輪郭はさらに整理された。2006年3月に豊羽鉱山の操業休止と委託製錬の終了により亜鉛事業から撤退し、同年4月には金属系3社を日鉱金属に統合したうえで、佐賀関製錬所と日立工場の銅製錬・精製機能を三井金属との共同会社パンパシフィック・カッパーへ移した。業績は資源価格の上昇に乗って伸び、連結売上高は2005年3月期の2兆5,025億円から2008年3月期の4兆3,395億円へ拡大する。営業利益は2006年3月期の1,444億円が最高で、当期純利益は2007年3月期に1,064億円を記録した。石油と非鉄を並立させる構造は、市況が上を向いている限りは機能していた。ジャパンエナジーが単独の上場企業でなくなった2002年から、日鉱系が事業体として消えるまでには、なお8年があった。 [83]

  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [83]2006年3月に亜鉛事業から撤退し、4月に金属系3社を日鉱金属へ統合して銅製錬機能をパンパシフィック・カッパーへ移管した

市況が反転すると、並立の弱さが数字に出た。2009年3月期は売上高4兆651億円に対して営業損失1,017億円、経常損失674億円、当期純損失408億円を計上する。石油も非鉄も市況商品であり、両方を持っていても下落時には損失が重なった。2008年12月に新日本石油と経営統合の基本覚書を締結し、2009年10月に株式移転による経営統合契約を結ぶ。2000年上期の燃料油シェアは約10%で業界6位。相手方の新日本石油から見れば、自社に無い非鉄金属と電子材料を伴う元売だった。2010年3月に新日鉱ホールディングスの株式は上場を廃止され、4月1日のJXホールディングス設立でその完全子会社となる。同年7月、ジャパンエナジーは新日本石油に吸収合併されて法人としても消滅した。消えたのは商号と上場と「JOMO」のブランドで、残ったのは水島の製油所と佐賀関の製錬所、そして日鉱金属の名を継いだ非鉄事業である。 [84][85][86]

  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)
    • [84]2008年12月に基本覚書、2009年10月に経営統合契約を締結した
  • 週刊東洋経済 2000年12月16日「ジャパンエナジー/日鉱金属 親子ですれ違う持株会社構想の行方」
    • [85]ジャパンエナジーの燃料油シェアは2000年上期時点で約10%・業界6位であった
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [86]2010年3月に上場廃止、4月1日にJXホールディングス設立で完全子会社となり、7月にジャパンエナジーが新日本石油に吸収合併された
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
    • [80]2002年9月27日に株式移転により新日鉱ホールディングスを設立し、ジャパンエナジーは上場廃止となった
    • [82]2003年4月に石油事業を分割して石油専業のジャパンエナジーを新設した
    • [83]2006年3月に亜鉛事業から撤退し、4月に金属系3社を日鉱金属へ統合して銅製錬機能をパンパシフィック・カッパーへ移管した
    • [86]2010年3月に上場廃止、4月1日にJXホールディングス設立で完全子会社となり、7月にジャパンエナジーが新日本石油に吸収合併された
  • 週刊東洋経済 2003年7月12日「新日鉱ホールディングス社長 清水康行」
    • [81]清水康行は2003年6月に新日鉱ホールディングス社長へ就任し、株価は一時99円・格付けはトリプルBであった
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)
    • [84]2008年12月に基本覚書、2009年10月に経営統合契約を締結した
  • 週刊東洋経済 2000年12月16日「ジャパンエナジー/日鉱金属 親子ですれ違う持株会社構想の行方」
    • [85]ジャパンエナジーの燃料油シェアは2000年上期時点で約10%・業界6位であった

ジャパンエナジーの沿革1905〜2010年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
久原房之助氏が茨城県の赤沢銅山を買収★★★
日立鉱山として操業開始★★★
久原鉱業を設立★★★
英領ボルネオにタワオ農園を開設
佐賀関製錬所の操業を開始★★
鮎川義介氏のもとで久原鉱業を大衆持株会社の形態に改め、日本産業に商号変更★★★
日本産業の鉱山・製錬部門を分離独立させ、日本鉱業を設立★★★
朝鮮・鎮南浦製錬所を設立
雄物川油田で出油に成功★★
金瓜石鉱山を買収
早川石油製油工場を買収★★
戦時経済の要請により石油鉱業部門を帝国石油へ譲渡★★
金鉱業部門を帝国鉱業開発へ譲渡★★
日産化学を吸収合併★★
化学工業部門を日本油脂へ、石炭鉱業部門を日本炭砿へ譲渡★★
敗戦により簿価約4億円、全資産の約半分にあたる在外資産を失う★★
中条油業所で天然ガスの供給を開始
水島製油所が操業開始★★★
石油精製に本格参入★★★
貿易自由化を控え、人員整理を含む合理化を労働組合の了解のもとで実施★★
倉見工場を新設
アジア石油・東亜石油と24金融機関の出資により共同販売会社の共同石油を設立★★★
石油販売部門を共同石油へ集約★★
丸善石油・大協石油と均等出資でアブダビ石油を設立★★
海底油田の開発に着手★★
佐賀関製錬所に総工費86億円で自溶製錬法と酸素製錬法を組み合わせた新設備を建設★★
コンゴ政府と鉱業協定を結び、カッパーベルト中心部の排他的な探鉱開発権を獲得★★
水島製油所の処理能力を日量9万5,000バレルから16万5,000バレルへ増強する計画に着手★★
東亜共石の経営を譲り受け知多石油が発足★★
日鉱グールド・フォイルを設立★★
電子材料の銅箔事業に参入★★
ザイールのムソシ銅山から撤退★★
磯原工場の操業を開始
円高を受けて花輪・藤ケ谷の両鉱山を閉山★★
釈迦内鉱山を閉山★★
銅箔メーカー・グールドを10億5,000万ドルで買収★★
金属資源開発・金属製錬・金属加工の3部門を分離★★★
日鉱金属を設立★★★
金属3部門を日鉱金属へ譲渡★★
日鉱金属が営業開始★★
共同石油を合併★★★
日鉱共石に商号変更★★★
グールドを翌年3月までに解散すると発表★★
ジャパンエナジーに商号変更★★
新ブランド「JOMO」の使用を開始★★
石油部門の不振により経常赤字70億円の見通しとなり、800人の合理化を計画★★
子会社の日鉱金属が東京証券取引所第一部に株式を上場
鹿島石油を子会社化★★
昭和シェル石油と事業提携で基本合意★★
日鉱金属との共同持株会社構想が報じられ、同社株の急落を受けて検討を中断★★
日鉱金属との共同持株会社設立で合意★★
石油・電子材料・金属の3事業会社への再編方針を発表★★
日鉱金属との株式移転で新日鉱HDを設立★★★
株式移転により上場廃止★★★
石油事業を分割し新ジャパンエナジーを設立★★
清水康行氏が新日鉱HD社長に就任
豊羽鉱山の操業休止と委託製錬の終了により亜鉛事業から撤退★★
金属系3社を日鉱金属に統合★★
銅製錬機能をパンパシフィック・カッパーへ移管★★
新日本石油と経営統合の基本覚書を締結★★★
新日本石油と株式移転による経営統合契約を締結★★
新日鉱HDの株式が上場廃止★★★
新日本石油との共同株式移転によりJXHDを設立★★★
ジャパンエナジーが新日本石油に吸収合併され、法人として消滅★★★
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「32_鉱業 概説」
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社)「鮎川義介」
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号「日本鉱業の現状と将来」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「石油-高度成長の光と影、石油ショック」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-存亡をかけた加工業への転換」
  • 週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
  • 週刊東洋経済 2003年7月12日「新日鉱ホールディングス社長 清水康行」
  • 週刊東洋経済 2000年9月9日「ジャパンエナジー 日鉱金属との親子喧嘩は電子材料分社化で決着!?」
  • 週刊東洋経済 2000年12月16日「ジャパンエナジー/日鉱金属 親子ですれ違う持株会社構想の行方」
  • 週刊東洋経済 2001年11月24日「経営統合迷走の果てに元のサヤ入り」
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)

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