ジャパンエナジー日鉱金属との共同持株会社・新日鉱ホールディングスの設立と上場廃止

一度は市場に否定された構想を、なぜ1年半後に同じ形で通したのか——親会社の統括と子会社の自主独立が折り合った場所

時期 2001年11月
意思決定者(推定) 野見山昭彦 会長兼社長
論点 親子上場の解消とグループ統括機能
概要
2002年9月27日、ジャパンエナジーと子会社の日鉱金属が株式移転により共同持株会社・新日鉱ホールディングスを設立し、両社ともその完全子会社となって上場を廃止した経営判断。同じ構想が2000年6月に市場から否定されて中断してから、1年半をおいての再合意による設立であった。
背景
ジャパンエナジーは日鉱金属株の57.6%を握る親会社でありながら、時価総額では子会社に及ばなかった。金属では日鉱金属が親離れの意向を見せ、石油では昭和シェル石油との提携が精製にまで及び、電子材料は両社に分かれたまま残されていた。
内容
2001年11月に共同持株会社の設立で合意。ジャパンエナジーは石油と電子材料の二つの事業会社に分かれ、日鉱金属は金属事業会社として傘下に入る。持株会社は従業員40〜50人で経営・投資戦略の立案に特化し、会長に日鉱金属の坂本卓氏、社長にジャパンエナジーの野見山昭彦氏が就いた。
含意
自主独立を掲げていた日鉱金属が転じた背景には、子会社は親会社の格付けを超えられないという資本市場の扱いがあった。銅製錬で一貫生産体制を築く資金を得るには格付けと株価の改善が要る、という判断が働いている。
筆者の見解

市場の掟が解いた親子の膠着

子会社は親会社の格付けを超えられない——この資本市場の扱いが、1年半動かなかった親子の関係を解いた。ジャパンエナジーは57.6%の株式を持ちながら日鉱金属を統合に引き込めず、日鉱金属は自主独立を掲げながら、鉱山運営まで含む一貫生産体制に必要な資金を得る道がなかった。統括を求める親の論理でも、独立を守る子の論理でも、この対立は決着しなかった。決め手になったのは、両社の外側にある評価の仕組みだった。

統合が日鉱金属に何をもたらしたかは、この時点でははっきりしない。資本金は875億円対349億円で、坂本卓会長が掲げた「対等な発言権」が実際に与えられるかには当時から疑問が出ていた。三井金属鉱業との提携も、経営環境が大きく変われば見直しがありうるという条件つきで結ばれていた。統合から1年に満たない2003年、株価は99円まで下げ、格付けはトリプルB、清水康行社長はバランスシートを課題に挙げている。市場の求めに沿って形を整えることと、その形が利益を生むこととは、別の問題であった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

57.6%の親会社と、それを上回る子会社

ジャパンエナジーは1992年に日本鉱業と共同石油の合併で発足し、その際に金属部門が日鉱金属として分離独立した。日鉱金属は1998年8月に東京証券取引所市場第一部へ上場し、ジャパンエナジーは57.6%を持つ筆頭株主として残った。2000年6月1日時点の時価総額は、ジャパンエナジーの1,116億円に対し日鉱金属が1,914億円。持株比率で割り引くとほぼ同額になり、市場はジャパンエナジーの石油部門をほとんど評価していなかった[1][2]

分社にあたっては、ジャパンエナジーは親会社であっても日鉱金属の自主性を尊重するという了解が、両社の間に置かれていた。分離当初は「お荷物」と呼ばれた日鉱金属は収益を伸ばし、2000年には親会社をしのぐ利益を上げる会社になっていた。資本の上では親子でありながら、実力では逆転している。以後の交渉は、この不均衡を前提に進んだ[3][4]

三つの柱が、それぞれ外を向いた

当時のジャパンエナジーグループを支えていたのは、「金石両輪」と呼ばれた金属と石油、それに金属から派生して伸びていた電子材料の三分野である。金属では日鉱金属が収益向上で自信を深めて親離れの意向を見せ、石油では昭和シェル石油との提携が物流・潤滑油・精製の三分野に及び、電子材料はジャパンエナジーと日鉱金属に分かれたまま残されていた[5]

石油部門の実態は、人数で見るとよくわかる。連結従業員1万3,600人のうち石油が4,700人、本体に残るのは1,500人で、そのうち800人は水島と知多の両製油所にいた。本社で石油を動かしているのは700人にすぎない。昭和シェルとの合弁会社が製油所の操業の実権を握れば、ジャパンエナジーが単独の意思で動かせる社員はほとんどいなくなる。系列給油所4,862か所のうち36%を全農と伊藤忠燃料が占め、販売の価格主導権も握り切れていなかった[6]

決断

市場が突きつけた否

2000年6月2日、ジャパンエナジーと日鉱金属が共同で純粋持株会社を設立するという報道が経済紙の一面に載った。反応は速かった。前日終値834円と非鉄金属株で最も高かった日鉱金属株はストップ安を重ねて6日に634円まで下げ、その後は509円の底値をつけた。一方、100円そこそこで低迷していたジャパンエナジー株は5円高の107円をつけている。日鉱金属は即座に検討の中断を申し入れた[7][8]

市場の見立てははっきりしていた。統合のねらいはジャパンエナジーの石油の赤字を日鉱金属の利益で埋めることにあり、それは日鉱金属の成長を鈍らせる——。上場廃止を嫌った投資家が売りに回った。6月7日のアナリスト説明会に出席した日鉱金属の坂本卓会長は「災い転じて福となす」と述べたが、資本関係が続く限り持株会社化の可能性は消えていないとする投資家の不安は残った[9][10]

引かなかった親会社、受けなかった子会社

構想が中断しても、野見山昭彦社長は引かなかった。同年12月の時点で「現時点では白紙。だが、多岐にわたるグループの事業分野を統括する中枢機能として、やはり必要だ」と語り、「日鉱抜きの持株会社構想はありえない」とも述べている。持株会社は人事・グループ戦略・資金の三つを決める権限を持つ。57%の株式を握る親会社が資本の論理を通せば、結論は決まる[11]

日鉱金属の側の論理は、まったく別のところにあった。2000年5月に三井金属鉱業と銅製錬事業で業務提携し、10月からは次世代技術である湿式製錬の共同開発に入っていた。三井金属の亀野迪夫常務は「日鉱側に大きな経営環境の変化があった場合、提携の中止を含めて見直しがありうる、ということで日鉱側の了解も取った」と明かしている。持株会社入りは、この提携そのものを危うくしかねなかった[12]

格付けという外側のルール

反転は2001年に起きた。日鉱金属の坂本卓会長は、話し合いを再開するまでは自主独立を貫く気持ちが強かったと認めたうえで、再開後は日鉱金属の側が統合に向けて主導したと明かしている。ジャパンエナジーの野見山昭彦会長兼社長は、これを「君子豹変」と呼んだ。子会社を動かしたのは、親会社への遠慮でも資本の論理でもなかった[13]

格付けには、子会社が親会社の格付けを超えられないという扱いがある。日鉱金属がジャパンエナジーの子会社である限り、その格付けを上回ることはできない。銅製錬で国際的に高い地位を占めながら、鉱山の運営まで含む一貫生産体制を持たない日鉱金属にとって、事業基盤を広げる資金には格付けと株価の改善が欠かせなかった。加えてIT不況で日鉱金属の中間期業績は減収減益となり、石油の回復でジャパンエナジーの営業利益は膨らんでいた。単独で格付けを上げられるという見方は、成り立たなくなっていた[14][15]

結果

新日鉱ホールディングスの発足と事業の切り分け

2001年11月、両社は共同持株会社の設立で合意した。ジャパンエナジーは石油事業と電子材料事業の二つの事業会社に分かれ、日鉱金属は金属事業会社として傘下に入る。持株会社は従業員40〜50人で、グループの経営・投資戦略の立案に特化する。ただし資本金はジャパンエナジーの875億円に対し日鉱金属が349億円で、坂本卓会長が統合の利点に挙げた「対等な発言権」が実際に得られるかには疑問も残された[16]

2002年9月27日、株式移転により新日鉱ホールディングスが設立され、ジャパンエナジーと日鉱金属はともにその完全子会社となった。ジャパンエナジーは上場を廃止している。翌2003年4月には、ジャパンエナジーをジャパンエナジー電子材料へ改称したうえで石油事業を分割し、石油専業の新会社ジャパンエナジーを設立した。同年10月には電子材料事業を日鉱マテリアルズへ集約し、三分野を三つの事業会社に整理する形が整った[17]

清水康行社長に渡された課題

2003年6月、日鉱金属会長であった清水康行氏が新日鉱ホールディングスの社長に就いた。1988年の米国グールド社買収では財務部長として現地に飛び、少人数で情報を集めて実現まで隠密に運んだ人物である。金属部門の経歴は長いが石油の小売はほぼ未経験で、「私は持ち株会社社長の立場から、各社がどう力を出せるか見ていく」と、自らの役回りをグループ全体の目配りに置いた。前社長の野見山昭彦氏は会長に回った[18]

統合から1年に満たない時点で、市場の評価は厳しかった。株価は一時99円まで下げ、この頃で200円台にとどまり、格付けはトリプルBにとどまった。清水康行社長は「バランスシートははっきりとした課題。ファイナンス力も強固ではない」と述べている。競争の厳しい石油部門の構造改革と、赤字の電子材料部門の立て直しが残った。2003年3月期の連結売上高は2兆1,631億円、当期純利益は37億円であった[19][20]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 2000年6月17日号「破談別れたら好きな人? 復縁迫るJエナジーに戸惑う日鉱金属の憂鬱」
  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号「このお騒がせ会社に未来はあるか ジャパンエナジー 日鉱金属との親子喧嘩は電子材料分社化で決着!?」
  • 週刊東洋経済 2000年12月9日号「トップの履歴書 日鉱金属社長/賀川鐵一 現場主義徹底、世界最強の銅製錬目指す」
  • 週刊東洋経済 2000年12月16日号「企業レポート ジャパンエナジー/日鉱金属 親子ですれ違う持株会社構想の行方」
  • 週刊東洋経済 2001年11月24日号「時々刻々 経営統合迷走の果てに元のサヤ入り Jエナジー、日鉱金属にそれでも残る「不協和音」」
  • 日経ビジネス 2001年11月19日号「君子豹変の裏に市場の掟 ジャパンエナジーと日鉱金属が経営統合へ」
  • 週刊東洋経済 2003年7月12日号「トップの履歴書 新日鉱ホールディングス社長 清水康行 統合効果の発揮で試される手腕」
  • 新日鉱ホールディングス 有価証券報告書【沿革】

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