石油資源開発 の歴史

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創業 1955年
母体 政府+電源開発+帝国石油
創業地 新潟県
創業
1955年12月、政府が約56%を出資する特殊会社「石油資源開発株式会社」として発足した。国産原油が石油需要の3%に満たず、国内油田の大半を帝国石油が握っていた時代に、年産100万キロリットルを掲げた石油資源総合開発五ヵ年計画の担い手として置かれた。1958年3月の見附油田(新潟県)を皮切りに新潟・秋田で発見が続いたが、1967年10月に特殊会社は解散して石油開発公団へ吸収され、1970年4月にあらためて民間会社として再発足した。設立から15年で法人格は二度変わり、政府の出資分は公団が引き継いだ。
決断
国内に自ら設備を持ち続け、海外へは身の丈で出ていく。1996年に総延長251kmの新潟・仙台間ガスパイプラインを完成させ、発見と生産だけの事業に輸送と販売を足した。2003年12月には石油公団が保有株を売り出す形で東証一部へ上場し、統合される側ではなく単独で市場の評価を受ける道を選んだ。その信用力は2007年のインドネシア、2010年のイラク・ガラフ油田、2014年の英領北海へ向かった。ただし2025年には、その英領北海資産の売却方針を示している。減っていく国内の在来型油ガス田で稼いだ資金を、海外の権益へ積み替え続けるほかに成長の道がない。
現況
売上の7割強を国内が稼ぎ、海外権益が残りを分ける事業構造である。2026年3月期は売上高3,403億円、営業利益389億円。内訳は日本2,482億円、北米524億円、中東317億円、欧州81億円。最大の収益源は新潟・秋田の油ガス田からパイプライン・相馬LNG基地・発電までを一社に集約した国内事業だが、在来型の生産は成熟し、営業利益は前期の620億円から減少した。2025年5月には年間配当の下限を10円から40円へ引き上げた一方、2026年2月にはVerdad Resourcesの全持分を取得し、米国のタイトオイル・ガス田で自ら操業する側へ回っている。
競合
同じ国策の出自を持つINPEXとは、規模も稼ぎ方も離れている。2003年の最終報告書が中核的企業に挙げた国際石油開発は、2006年に帝国石油と統合してINPEXとなり、現在は売上収益2兆114億円と石油資源開発の6倍近い。分かれ目は同じ2003年で、4社統合の枠から外れた石油資源開発は海外の大型権益を持たないまま残った。2025年にムーディーズは格付見通しをネガティブへ変え、山下通郎社長は埋蔵量・生産量が同業に見劣りする点を背景に挙げている。国内のガス供給網で守り、規模の差を米国のタイトオイルで埋められるかが、現在の争点である。
石油資源開発:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

設立ストーリー 石油資源総合開発五ヵ年計画のもとで発足し公団へ吸収された15年 (1955年〜)

国産原油が需要の3%に満たなかった時代の増産計画

1950年代前半の日本で、国産原油は石油需要の3%にも満たず[1]、輸入のために支払う外貨は膨らんでいた。国内油田の大半は帝国石油が握り、同社が国産原油の97%以上を生産していた[2]。1941年9月に帝国石油株式会社法にもとづいて政府と民間の各半額出資で設立された[3]会社であり、戦時下には日本石油や日本鉱業などの石油鉱業部門を統合して国内油田を一元的に開発した[4]経緯を持つ。終戦の年には政府出資を増やして資本金を4億6,000万円とした[5]が、1948年度の生産量は年間16万5,000キロリットル余りと創立以来の最低へ落ち込んだ[6]。秋田県八橋油田で新油層が相次いで見つかり[7]、1951年度に35万3,000キロリットル余りまで戻した[8]のが戦後の到達点であった。

    • [1]国産原油は石油需要の3%未満
    • [2]帝国石油が国産原油の97%以上を生産
    • [3]1941年9月 帝国石油株式会社法にもとづき政府・民間の各半額出資で帝国石油設立
    • [4]戦時下に日本石油・日本鉱業などの石油鉱業部門を統合し国内油田を一元的に開発
    • [5]終戦時の資本金 4億6,000万円(政府出資の増加による)
    • [6]1948年度の原油生産量 16万5,000キロリットル余り(創立以来の最低)
    • [7]秋田県八橋油田での新油層の発見・開発
    • [8]1951年度の原油生産量 35万3,000キロリットル余り(創立以来の最高)

この状況に対し、政府は国内資源開発の重要施策として石油資源総合開発五ヵ年計画を策定し[9][10]、石油資源探鉱促進臨時措置法を公布施行した[11]。年産100万キロリットルの達成を目標に掲げ、1955年度から実行に移す計画[12]で、目標は1951年度実績の3倍近い水準にあたった[13]。帝国石油も1955年3月に資本金を20億円へ増額し、20億円の社債発行を決めた[14]。そして1955年12月、計画の担い手として前身の特殊会社『石油資源開発株式会社』が設立され[15]、設立時には政府が約56%を出資した[16]

    • [1]国産原油は石油需要の3%未満
    • [2]帝国石油が国産原油の97%以上を生産
    • [3]1941年9月 帝国石油株式会社法にもとづき政府・民間の各半額出資で帝国石油設立
    • [4]戦時下に日本石油・日本鉱業などの石油鉱業部門を統合し国内油田を一元的に開発
    • [5]終戦時の資本金 4億6,000万円(政府出資の増加による)
    • [6]1948年度の原油生産量 16万5,000キロリットル余り(創立以来の最低)
    • [7]秋田県八橋油田での新油層の発見・開発
    • [8]1951年度の原油生産量 35万3,000キロリットル余り(創立以来の最高)
    • [9]政府が石油資源総合開発五ヵ年計画を策定
    • [11]石油資源探鉱促進臨時措置法の公布施行
    • [12]年産100万キロリットルの達成を目標に1955年度から実行
    • [13]目標100万キロリットルは1951年度実績35万3,000キロリットルの約3倍
    • [14]帝国石油は1955年3月に資本金20億円へ増額し社債20億円の発行を決定
    • [10]石油資源総合開発5カ年計画と会社設立を1章に立てる社史の章立て
  • 石油資源開発 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1955年12月 前身の特殊会社「石油資源開発株式会社」設立
    • [16]設立時の政府出資比率 約56%

新潟・秋田での相次ぐ発見と海外権益への最初の一歩

探鉱の成果は設立から3年目に現れ、1958年3月に見附油田(新潟県)[17]、同年7月に申川油田(秋田県)が見つかった[18]。1959年6月には東新潟ガス田(新潟県)[19]、1960年12月には片貝ガス田(新潟県)が続き[20]、1968年4月の吉井ガス田(新潟県)[21]まで主要な発見は5件を数えた。開発の対象は北海道・秋田・山形・新潟の4地域[22]にわたり、物理探鉱技術とさく井技術は地域別の開発とならぶ事業の柱[23]に置かれた。

  • 石油資源開発 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1958年3月 見附油田(新潟県)発見
    • [18]1958年7月 申川油田(秋田県)発見
    • [19]1959年6月 東新潟ガス田(新潟県)発見
    • [20]1960年12月 片貝ガス田(新潟県)発見
    • [21]1968年4月 吉井ガス田(新潟県)発見
    • [22]開発の対象地域は北海道・秋田・山形・新潟の4地域
    • [23]物理探鉱技術・さく井技術を各論の章として立てる社史の構成

国内の探鉱と並行して、1962年6月にはエスケイ産業を設立し[24]、探鉱と生産の周辺へも事業を広げた。1966年2月には北スマトラ海洋石油資源開発へ参画し[25]、のちに石油資源開発インドネシアとなってINPEXへつながる会社[26]の株主となった。1967年の時点で、海外原油の開発は第3次5カ年計画とならぶ将来の展望に掲げられていた[27]

  • 石油資源開発 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1958年3月 見附油田(新潟県)発見
    • [18]1958年7月 申川油田(秋田県)発見
    • [19]1959年6月 東新潟ガス田(新潟県)発見
    • [20]1960年12月 片貝ガス田(新潟県)発見
    • [21]1968年4月 吉井ガス田(新潟県)発見
    • [24]1962年6月 エスケイ産業設立
    • [25]1966年2月 北スマトラ海洋石油資源開発へ参画
    • [26]北スマトラ海洋石油資源開発は現INPEX
    • [22]開発の対象地域は北海道・秋田・山形・新潟の4地域
    • [23]物理探鉱技術・さく井技術を各論の章として立てる社史の構成
    • [27]1967年時点の将来展望に第3次5カ年計画と海外原油の開発を掲げる

発足12年での解散と民間会社としての再発足

1967年10月、政府は石油開発公団を新設し、特殊会社『石油資源開発』は解散した[28]。業務は公団の事業本部へ承継され、設立から約12年で独立した法人格は失われた[29]。公団は自ら探鉱する機関ではなく、民間企業の探鉱事業への出資・融資・債務保証を目的とし[30]、融資は事業が失敗すれば返済を要しない『成功払い』[31]を特徴としていた。設立の背景には、1967年2月の総合エネルギー調査会の初答申を受けて高まった海外での石油開発の機運[32]があり、日本企業の規模の小ささと出遅れが前提に置かれていた[33]。公団は1978年6月に石油公団へ改称された[34]

  • 石油資源開発 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1967年10月 石油開発公団新設・特殊会社解散、業務は公団の事業本部へ承継
    • [29]設立から解散まで約12年(1955年12月→1967年10月)
    • [30]石油開発公団は自ら探鉱せず民間企業の探鉱事業に出資・融資・債務保証を行う機関
    • [31]公団融資は失敗時に返済を要しない「成功払い」が特徴
    • [32]1967年2月 総合エネルギー調査会の初答申を受けて海外石油開発の機運が高まる
    • [33]公団設立の前提に日本企業の規模の小ささと出遅れ
    • [34]1978年6月 石油開発公団が石油公団へ改称

1970年4月、政府は石油開発公団から国内資源開発事業を再び分離し[35]、民間会社『石油資源開発株式会社』として再発足させた。旧会社の政府出資分は公団が承継した[36]ため、政府は公団を通じて過半を握る大株主として残った。3年のあいだに特殊会社から公団の一部門へ、さらに民間会社へと法人形態は二度変わった。

  • 石油資源開発 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1970年4月 公団から分離し民間会社「石油資源開発株式会社」として再発足
    • [36]旧会社の政府出資分は石油開発公団が承継
  • 石油資源開発 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1967年10月 石油開発公団新設・特殊会社解散、業務は公団の事業本部へ承継
    • [29]設立から解散まで約12年(1955年12月→1967年10月)
    • [35]1970年4月 公団から分離し民間会社「石油資源開発株式会社」として再発足
    • [36]旧会社の政府出資分は石油開発公団が承継
    • [30]石油開発公団は自ら探鉱せず民間企業の探鉱事業に出資・融資・債務保証を行う機関
    • [31]公団融資は失敗時に返済を要しない「成功払い」が特徴
    • [32]1967年2月 総合エネルギー調査会の初答申を受けて海外石油開発の機運が高まる
    • [33]公団設立の前提に日本企業の規模の小ささと出遅れ
    • [34]1978年6月 石油開発公団が石油公団へ改称

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石油資源開発の沿革1955〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1955〜1970年石油資源総合開発五ヵ年計画のもとで発足し公団へ吸収された15年前身の特殊会社「石油資源開発」設立
見附油田(新潟県)発見
東新潟ガス田(新潟県)発見
片貝ガス田(新潟県)発見
エスケイ産業設立
北スマトラ海洋石油資源開発設立
旧会社解散・石油開発公団へ業務承継★★
吉井ガス田(新潟県)発見
公団から分離・民間会社石油資源開発として再発足★★
1971〜2002年民間会社として再発足し長距離パイプラインでガス供給網を築いた32年日本海洋石油資源開発設立
エスケイエンジニアリング設立
由利原油ガス田(秋田県)発見
地球科学総合研究所設立
勇払油ガス田(北海道)発見
新潟・仙台間ガスパイプライン完成★★
2003〜2014年石油公団の解体をくぐり抜けた単独上場と海外権益への資金の振り向け棚橋祐治白根瓦斯設立
棚橋祐治石油公団保有株の売り出しによる東証一部上場と、開発会社統合構想からの離脱

2003年12月、石油資源開発は石油公団が保有する株式の一部の売り出しによって東京証券取引所市場第一部へ上場した。新株の発行はなく、売却者は廃止が決まっていた石油公団であった。資源エネルギー庁が構想した開発会社の統合に加わらず、単独で資本市場へ出る道を選んだ判断でもあった。

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棚橋祐治エネルギー メガ プラタマ社株式取得
渡辺修ジャペックスエネルギーの株式取得
渡辺修ジャペックスガラフ設立
渡辺修ジャペックス ユーケー イーアンドピー社設立
2015〜2026年油価急落と二度の巨額損失を経て初の生え抜き社長に託された経営渡辺修福島ガス発電設立
岡田秀一相馬LNG基地操業開始
藤田昌宏福島ガス発電による電力販売開始
藤田昌宏プライム市場へ移行
山下通郎通産省OB社長からの交代と創業以来初の生え抜き社長の起用、下限配当引き上げによる株主還元方針の見直し

2024年4月、石油資源開発は1982年入社の山下通郎氏を代表取締役社長に据えた。1955年の設立以来続いた通商産業省OBによる社長人事を離れ、創業以来初の生え抜き社長が就いた交代であった。前任の藤田昌宏氏は代表取締役会長へ移り、官僚OBの会長と生え抜き社長という体制が組まれた。

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山下通郎ジャペックス・ノーゲ・エーエス社の株式取得
出典・参考

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