{"title":"ジャパンエナジーの歴史概略","sections":[{"start_year":1905,"end_year":1945,"main_title":"久原房之助の赤沢銅山買収から日産コンツェルンの中核会社まで","subsections":[{"title":"赤沢銅山の買収と久原鉱業の急拡大","text":"1905年12月、久原房之助氏は茨城県の赤沢銅山を当時の実権者である大橋真六氏から買い取り、久原鉱業所を起こして日立鉱山と改めた。この鉱山は1591年に常陸領主の佐竹義重が豊臣秀吉の朱印を得て開発を命じた記録が残るほど古く、徳川から明治にかけて数名の権利者の手を転々としながら、いずれも採算に乗せられずにいた。久原氏は自ら現場に入って採鉱と探査を進め、1910年代初めまでに電気鉄道・電錬工場・発電所を当時の鉱山として第一級の水準でそろえた。三菱・住友・古河・藤田組が1890年代までに銅山の買収と併合で基礎を固めていたのに対し、久原氏が産銅界の第一線に出たのは1900年代半ばから1910年前後で、ひと回り遅い。\n\n1912年9月、久原鉱業所は資本金1,000万円の久原鉱業株式会社に改組した。第一次大戦の好況が追い風となり、資本金は1916年に3,000万円、翌1917年には7,500万円へ増えている。この間、豊羽（北海道）、河津と峰之沢（静岡）、竹野（兵庫）、東山（徳島）、高浦と大瀬（愛媛）、吉野（山形）と各地の鉱山を次々に買収して操業を始め、1916年9月には大分県で佐賀関製錬所の操業に入った。事業は鉱山にとどまらず、機械工業・海運業・ゴム農林業へ広がり、同年には英領ボルネオにタワオ農園を開いて海外にも出た。銅の一山から始まった会社が、10年ほどで鉱山・製錬・関連事業を抱える企業集団に変わっている。\n\n拡大は長くは続かなかった。1920年以降の不況で銅の滞貨が積み上がり、資金繰りが行き詰まる。国内の産銅業そのものが同じ壁に当たっていた。1917年の全盛期に80を超えていた鉱山は1929年には40余りへ半減し、10万8,000トンあった産銅高も1922年に5万4,000トン、1929年に7万5,000トンへ落ちた。アフリカやチリの新興銅山が低コストで産出を伸ばし、米国で湿式製錬法が普及したことが、世界的な増産と市況の低迷を招いていた。久原氏は前途を嘱望していた鮎川義介氏に事業を委ね、自らは政界に転じた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日本鉱業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「32_鉱業 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人9（日本経済新聞社）「鮎川義介」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（新日鉱ホールディングス第8期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"配当が払えなくなった久原鉱業を鮎川義介が引き受けるまで","text":"会社の窮状が誰の目にも見える形で表れたのは、配当の資金が用意できなくなったときである。政友会総裁の田中義一氏が夜半に鮎川義介氏の自宅を訪ね、久原鉱業の配当が旬日に迫っているのに番頭たちでは金策がつかないと頼み込んだ。田中氏自身が三井合名の団氏、三井銀行の池田氏、第一銀行の佐々木氏を回っても相手にされなかったという。鮎川氏は義兄で三菱の総理事だった木村久寿彌太氏に相談し、通知を出したあとで配当が払えないのは銀行の取り付けと同じであり、引き受けるべきだと逆に諭された。藤田家から出してもらった担保で共保生命から150万円を引き出したのは、総会前日の夕方だった。\n\n一度の資金繰りで済む話ではなかった。1928年12月、鮎川氏は久原鉱業を大衆持株会社の形態に改めて日本産業株式会社とし、採算の合わない事業は「合同肥料」にまとめて蓋をし、健全な部門は業種別に分離独立させる方針を立てた。その第一号が鉱業関係である。翌1929年4月24日、日本産業の鉱山・製錬部門とその付帯事業を引き継ぐ会社として、資本金5,000万円の日本鉱業株式会社が設立された。当時の事業地は内地全域のほか朝鮮、マレー半島にも及んでいる。創立の直後に世界大恐慌が来たが、事業基盤が固まっていたため打撃は小さく、金価格の引き上げによりむしろ一般の景気に先行して好調期に入った。\n\n分離独立には、資金調達の仕掛けが組み込まれていた。1931年の金輸出再禁止で金価格が上がると、鮎川氏は日本鉱業株の半分をプレミアム付きで売り出し、親会社の日本産業に無利子の資金を集めた。公開された日鉱株は取引所の花形となり、12円50銭まで下がっていた日本産業株も150円に達したという。鮎川氏は後年、公衆持株会社への吸収合併の理論と操作は自分の新発明であり、日産はこのとき以来三井・三菱よりも規模が大きくなったと書いている。日本鉱業は久原個人の事業から、公開された株式で資金を集める仕組みの中に組み込まれた会社へ変わった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日本鉱業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「32_鉱業 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人9（日本経済新聞社）「鮎川義介」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（新日鉱ホールディングス第8期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"石油・金・石炭を戦時統制のもとで手放した十年","text":"満州事変の後、日本鉱業は国策である産金助成政策に沿って規模を広げた。資本金は1933年に7,500万円、1935年に1億6,000万円、1939年に2億4,000万円と増え、1943年には日産化学を吸収合併して4億7,200万円になった。事業所も1931年の朝鮮鎮南浦製錬所、1937年の台湾・金瓜石鉱山の買収、朝鮮各地での金山の経営と広がり、その数は40余りに達している。この拡張のなかで石油が加わった。1933年9月に秋田県の雄物川油田で出油に成功し、1939年には秋田県船川港町の早川石油製油工場を買収して、採油から精製までを自社で行う体制を整えた。銅の会社が石油を持ったのは、地下資源の開発技術が両方に通じるという理屈からである。\n\n抱え込んだ事業は、戦時経済の国家的要請で次々に外へ出された。譲渡はいずれも自発的な選択ではなく、統制の求めに応じたものである。1942年に石油鉱業部門を帝国石油へ、1943年に金鉱業部門を帝国鉱業開発へ譲渡し、1945年には化学工業部門を日本油脂に、石炭鉱業部門を日本炭砿にそれぞれ渡している。9年がかりで石油の一貫体制を作った直後に採油部門を手放したことになり、戦後に石油へ戻るときは精製から入り直すほかなくなった。事業分野は相当に縮小したが、この整理が結果として銅と製錬に人と設備を残す形にもなった。\n\n敗戦で失ったものは、譲渡した部門より大きかった。簿価にして約4億円、全資産のおよそ半分を占める在外資産が消え、工場設備と鉱山現場も荒れた。加えて占領下の立法により、集中排除会社・財閥会社・公職会社・特別経理会社・制限会社・証券保有制限令の指定会社・持株会社と、いくつもの指定を重ねて受けている。これらはいずれも占領の終結までに解除された。朝鮮、台湾、マレー半島に広げた事業地を一度に失ったところから、戦後の日本鉱業は再出発した。海外の鉱山と製錬所を前提に組み立てた事業構成は、この時点で国内だけのものに戻っている。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日本鉱業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「32_鉱業 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人9（日本経済新聞社）「鮎川義介」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（新日鉱ホールディングス第8期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1946,"end_year":1985,"main_title":"非鉄と石油の二正面経営と、民族系元売をまとめた共同石油","subsections":[{"title":"在外資産の半分を失った戦後の再建と銅への集中","text":"戦後の日本鉱業は、各事業所の復興と並行して生産設備の新設と合理化を進めた。探鉱でも新技術と新鋭機械を入れ、船川製油所は輸入原油の処理量を増やして業績に寄与した。増資を2回重ねて1952年10月に資本金21億円となる。1955年3月期の総売上高は113億8,000万円で、その内訳は銅45.2%、石油製品20.9%、硫化鉱8.6%、金4.2%、硫酸4.0%、フェロニッケル3.5%、鉛2.6%、銀1.9%と続く。銅が半分近くを占める一方、戦時に手放したはずの石油製品が2割を稼いでいる点に、この会社の事業構成の特徴が表れている。\n\n銅が伸びた背景には、産銅業そのものの構造の変化がある。戦時中の濫掘で鉱山が荒れ、戦後2、3年の生産は極端に落ちたが、故銅や滓銅の処理によって回復に向かった。故滓銅と輸入鉱石の製錬が増えたことは戦後の産銅業の特色であり、国内の鉱石だけに頼らない製錬業への傾きがこの時期に始まっている。1949年の統制撤廃と補給金の打ち切りで産銅業は国際価格の影響を直接受けるようになり、翌1950年の朝鮮動乱で国際銅相場が高騰すると活況に転じた。合理化も進んで1954年の銅地金生産は10万トンを超えている。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日本鉱業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「32_鉱業 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号「日本鉱業の現状と将来」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「非鉄金属鉱業－存亡をかけた加工業への転換」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（新日鉱ホールディングス第8期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"水島製油所と共同石油 ── 石油への二度目の参入","text":"1959年11月に新潟県の中条油業所で天然ガスの供給を始め、1961年6月には岡山県で水島製油所が操業に入った。戦時に油田部門を帝国石油へ渡してから20年近くを経て、日本鉱業は精製から石油に戻った。1962年には貿易自由化を控えて人員整理を含む合理化を実施している。三間安市社長は後年、これを労働組合の理解のもとで行い、続いて賃金の3年協定を結び、1967年下期から1970年上期にかけて再度3年協定を締結して通算6年の安定を作ったと説明した。設備投資を続けるための労使関係を、先に固めた。\n\n1965年8月、日本鉱業はアジア石油・東亜石油の2社および24の金融機関の出資を得て、共同販売会社の共同石油を設立した。背景には通産省の政策がある。1963年12月に産業構造調査会の総合エネルギー部会が、採油部門を持たない日本の石油精製業の基盤を強めるには集約化と財政資金の投入、国策会社の創設を検討すべきだと報告し、通産省は集約化した企業に精製設備の許可と給油所建設で優先的な配慮を与えると表明していた。翌1966年7月には自社の石油販売部門を共同石油へ集約している。1969年時点でも販売シェアは日石グループの約18%を筆頭に外資系だけで約60%を占めており、民族系の中核を作ることが政策の狙いだった。\n\n1969年5月、三間社長は証券アナリスト協会で自社の全体像を語っている。事業種目は非鉄金属鉱業・天然ガス採取業・製錬業・化学工業・石油精製業・金属加工業で、国内に10鉱山、1油業所、3製錬所、2製油所、4工場を持ち、鉱山・金属・石油・金属加工の4部門で事業部制を敷いていた。1968年度は資本金188億5,000万円、総資産1,755億円、売上高約1,740億円、税引前利益43億5,000万円、従業員9,600人である。1960年度の売上576億円・税引前利益17億円・従業員1万3,900人と比べると、人員を3割減らして売上を3倍にした。共同石油のシェアはこの時点で10.2%の業界3位で、1971年度には約19%となって日本石油と肩を並べると三間社長は見込んでいた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日本鉱業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「32_鉱業 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号「日本鉱業の現状と将来」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「非鉄金属鉱業－存亡をかけた加工業への転換」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（新日鉱ホールディングス第8期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"海外資源への投資と、石油ショック後に細った国内鉱山","text":"1960年代末の日本鉱業は、非鉄と石油の双方で大型の投資を同時に進めていた。佐賀関製錬所ではフィンランドのオートクンプ社が開発した自溶製錬法に自社の酸素製錬法を組み合わせ、総工費86億円で銅月産1万トンの設備を建設した。水島製油所は日量9万5,000バレルの処理能力を16万5,000バレルへ引き上げる工事に入り、総工費198億円のうち77億円を重油直接脱硫設備が占めた。海外では1969年にコンゴ政府と鉱業協定を結び、ムソシ地区で銅品位2.1%・鉱量1億1,000万トン、キンセンダ地区で品位4.5%・2,000万トン以上の鉱化帯を得ている。発見量は銅換算320万トンで、通産省調査による国内埋蔵量約220万トンの1.5倍にあたった。石油では1967年12月にアブダビ政府から2海域の利権を獲得し、翌1968年1月に丸善石油・大協石油と均等出資でアブダビ石油を設立している。\n\nこの投資計画は、石油ショックで前提が崩れた。非鉄金属大手8社は1975年度の決算で265億円の経常赤字を計上し、1977年度に再び125億円の経常赤字と83億円の最終赤字を出す。国内では鉱山の分離と閉山が相次ぎ、1976年4月に100あった国内金属鉱山は1979年4月に79、1985年4月には59へ減った。鉱山の従業員数も1975年度の約1万9,000人から1985年度の8,950人へ半分近くに落ちている。日本鉱業も1983年にザイールのムソシ銅山から撤退した。国内の産銅業は鉱山を持たない買鉱製錬業へ移り、日本鉱業の非鉄部門もその流れの中にあった。\n\n本業の縮小に対して、非鉄各社は素材の加工と川下への進出で答えを出そうとした。住友金属鉱山は1977年に新居浜研究所、1982年に電子材料研究所を設け、三井金属も1981年に電池材料と電子材料の研究所を作っている。日本鉱業の場合、戦前から石油を非鉄と並ぶ柱にしていたぶん、多角化の方向は他社と違った。1979年12月に東亜共石の経営を譲り受けて知多石油を発足させ、1983年7月にこれを知多製油所とする。1981年4月には日鉱グールド・フォイルを設立して電子材料の銅箔事業に入り、1985年5月には茨城県で磯原工場の操業を始めた。石油の精製能力を増やしながら、銅の技術を電子材料へ振り向けている。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「日本鉱業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「32_鉱業 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号「日本鉱業の現状と将来」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「非鉄金属鉱業－存亡をかけた加工業への転換」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（新日鉱ホールディングス第8期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1986,"end_year":1997,"main_title":"金属を切り離しながら石油を厚くした、分離と合流の十年","subsections":[{"title":"円高で国内鉱山を失い、米国の銅箔メーカーを買った1980年代後半","text":"1985年9月のプラザ合意による円高は、非鉄金属鉱業の採算をそのまま削った。銅・鉛・亜鉛はロンドン金属取引所の外貨建て相場で決まり、国内価格はこれを円換算する。円高になれば地金価格が下がり、鉱山は鉱石価格の低下で収入が減る。製錬所も鉱石を安く買える一方で、収入となる製錬費が同じだけ目減りした。日本鉱業協会が選んだ1986年の十大ニュースの第1位は国内16鉱山の閉山で、約4,000人の合理化を伴った。日本鉱業系では花輪と藤ケ谷が、翌1987年には秋田県の釈迦内が閉山した。稼働中の金属鉱山はさらに減り、1988年4月には29となっている。\n\n国内で鉱山を閉じる一方、海外では買収に出た。1988年11月、日本鉱業は米国の銅箔メーカーであるグールドを10億5,000万ドルで買収する。銅箔はプリント基板に貼る素材でコンピューター産業に欠かせず、グールドを傘下に収めれば世界シェアの約40%を握って三極生産体制が整う計算だった。市況で値の動く非鉄金属や石油と違う電子材料を厚くすれば、業績が安定するという読みもあった。買収は先方からの売り込みを受けてわずか3か月で契約している。当時財務部長だった清水康行氏は現地に飛び、少人数で情報を集めて交渉を進めた。\n\n買収の狙いそのものは、当時の非鉄各社が置かれた条件から見て無理のないものである。国内鉱山が消え、製錬加工に偏った業態では為替と市況に業績を振り回されるため、市況商品でない分野を持つ必要は誰の目にも明らかだった。日本の非鉄金属会社は鉱山をほとんど持たない製錬加工業に偏っており、企業規模の点でも世界の同業と渡り合うには足りないと日本産業史は指摘している。誤算はグールドの内容にあった。極端に悪い中身が赤字を垂れ流し、日本鉱業はその処理に苦しむ。3か月で契約したことの代償は、5年後に表面化する。海外事業のリスクは、同じ時期に米国で製錬所建設を断念した三菱金属の例にも表れている。","references":[{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「非鉄金属鉱業－国際化に向けて再編成へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年7月12日「新日鉱ホールディングス社長 清水康行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（新日鉱ホールディングス第8期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"1992年の二つの決断 ── 日鉱金属の分社と共同石油の合併","text":"1992年、日本鉱業は7か月のうちに正反対に見える二つの決断を実行した。5月に金属資源開発・金属製錬・金属加工の3部門を分離して日鉱金属を設立し、11月にこれらの部門を譲渡して同社が営業を始める。石油と金属という性格の違う事業は、それぞれ専門に特化したほうが経営の効率が上がるという判断だった。日鉱金属の営業開始は11月で、のちに同社が語る「分離後5年9か月での上場」はこの日から数えられている。分離にあたっては、赤字を出し続けていたグールドを本体側に残し、非鉄金属部門を身軽にして独立させている。\n\n同じ年の12月、日本鉱業は共同石油を合併して日鉱共石株式会社となった。1965年に通産省の政策に沿って作った販売会社を、27年後に本体へ戻した。共石グループは通産省の優遇策で精製設備を広げたものの、販売力は当初期待されたほどには伸びなかった。参加していたアジア石油はコスモ石油に吸収され、東亜石油は昭和シェル石油グループに入っている。合併により、日鉱共石は精製と販売が一体になった石油会社として再出発した。民族系の中核企業を育成するという政策は何だったのか、という声が業界に残ったと日本産業史は記している。\n\n二つの決断は、外から見れば逆の方向を向いている。片方は金属を切り離して身軽にし、もう片方は石油を取り込んで重くした。だが会社の側から見れば、どちらも銅と石油をひとつの資本で抱えてきた構造を、どこで割るかを決めた判断である。1965年に販売を外へ出し、1992年に金属を外へ出して石油を内へ入れている。会社の中身は入れ替わった。1993年12月、日鉱共石は株式会社ジャパンエナジーに商号を改め、新しい社章と「JOMO」のブランドを使い始める。1929年から63年続いた日本鉱業という商号は、この時点で消えている。","references":[{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「非鉄金属鉱業－国際化に向けて再編成へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年7月12日「新日鉱ホールディングス社長 清水康行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（新日鉱ホールディングス第8期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"グールドの900億円清算と、分かれた二社の収益力","text":"1993年9月、日鉱共石はグールドを翌年3月までに解散し、事業を全額出資の新会社へ移すと発表した。損失額は900億円に達し、新会社への出資も300億円程度になる見込みだった。買収から5年での決着である。非鉄金属部門はすでに分離されていたため、この負担は石油側の会社が負った。1992年の分社は、結果として金属事業をこの損失の外に置いた。ただし独立した日鉱金属の側から見れば、石油精製部門がそのまま合併会社へ移ったぶん企業規模は小さくなっている。日本産業史の見立てでは、日鉱共石の誕生は非鉄金属の側に新たな再編成の種を残した。新会社が黒字になる保証も、その時点では無かった。\n\n独立した日鉱金属も、最初の数年は苦しんだ。円高と非鉄市況の下落に直撃されて1993年度に26億円の経常赤字へ転落する。1994年度から第一次構造改革計画に入り、主力の佐賀関製錬所を自溶炉2炉から1炉へ集約した。酸素をさらに富化して従来3本だったバーナーを高性能の1本にまとめ、処理速度を倍にしたことで、製錬コストは40%下がったという。1994年3月に2,261名いた従業員は1998年3月に1,748名まで23%減り、その間に売上を26%増やしている。従業員1人当たり売上高は1993年度の9,500万円から1997年度の1億6,300万円へ7割以上伸びた。1997年度には経常利益と配当のいずれも非鉄大手で首位に立っている。","references":[{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「非鉄金属鉱業－国際化に向けて再編成へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年7月12日「新日鉱ホールディングス社長 清水康行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（新日鉱ホールディングス第8期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1998,"end_year":2010,"main_title":"子会社に収益で抜かれた石油会社が持株会社に行き着くまで","subsections":[{"title":"日鉱金属の東証上場と、親会社の経常赤字","text":"1998年8月4日、日鉱金属は東京証券取引所第一部に株式を上場した。分離から5年9か月での上場である。親会社ジャパンエナジーの連結決算でも、この時期の日鉱金属は最大の貢献会社になっていた。ジャパンエナジーは1997年度に4,286万株、1998年度の公開に伴い2,500万株の日鉱金属株を売却し、合計315億円の特別利益を得ている。上場と同時に日鉱金属は第二次構造改革に入り、佐賀関製錬所の熔錬能力を年産35万トンから45万トンへ引き上げる55億円の工事を進めた。投資鉱山からの原料調達比率を2000年初頭に65%へ高める計画も掲げている。\n\nその同じ年、ジャパンエナジー本体は1998年度に70億円の経常赤字へ転落する見通しとなり、800名の合理化を予定していた。株式売却益で当座をしのぐ側と、本業で稼いで首位に立つ側が、親子の関係のまま並んでいる。日鉱金属の坂本卓社長は当時、両社は兄弟会社で経営に干渉しないと述べる一方、日本鉱業の事業は日鉱金属が源流だという思いは強いと語った。1992年に「金石両輪はうまくいかない」として分かれた二社は、6年で収益力の順位が逆になっていた。日鉱金属は2000年度に経常利益200億円という目標を下ろしていない。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年9月9日「ジャパンエナジー 日鉱金属との親子喧嘩は電子材料分社化で決着！？」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年12月16日「ジャパンエナジー／日鉱金属 親子ですれ違う持株会社構想の行方」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年11月24日「経営統合迷走の果てに元のサヤ入り」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年7月12日「新日鉱ホールディングス社長 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1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年9月9日「ジャパンエナジー 日鉱金属との親子喧嘩は電子材料分社化で決着！？」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年12月16日「ジャパンエナジー／日鉱金属 親子ですれ違う持株会社構想の行方」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年11月24日「経営統合迷走の果てに元のサヤ入り」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年7月12日「新日鉱ホールディングス社長 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1998年10月31日「「ヤマ日鉱」が蘇る日」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年9月9日「ジャパンエナジー 日鉱金属との親子喧嘩は電子材料分社化で決着！？」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年12月16日「ジャパンエナジー／日鉱金属 親子ですれ違う持株会社構想の行方」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年11月24日「経営統合迷走の果てに元のサヤ入り」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年7月12日「新日鉱ホールディングス社長 清水康行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（新日鉱ホールディングス第4期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（新日鉱ホールディングス第8期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":""}}