キオクシアホールディングス の歴史

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創業 2017年
創業者 東芝
創業地 東京都港区
創業
1951年1月、母体の東芝(東京芝浦電気)が川崎の小向工場でトランジスタを試作したのが、半導体事業の実質的な創業である。1987年には舛岡富士雄氏らがNAND型フラッシュメモリを世界で初めて発表したが、発明はただちに事業の優位へは結び付かず、収益化に苦戦した。1999年に四日市工場で集中生産を開始し、高収益事業に育つが、会計不正と米原子力事業の破綻で追い込まれた東芝は、2017年にNAND事業の分社を決断。ベインキャピタル連合へNAND事業を約2兆円で売却した。2019年10月に社名をキオクシアへ改めて現法人が発足した。この売却は、高収益事業を切り出さざるを得なかった、東芝の苦境も示している。
決断
一つの製品への集中投資を、持ち主が替わっても崩さなかった。2000年に米サンディスクとの合弁を始め、2001年に東芝が汎用DRAMから撤退してNANDへ集中したことで、四日市はNAND専用の拠点に変わる。2007年に開発した3次元技術をBiCS FLASHとして製品化し、平面の微細化ではなく積層で容量を稼ぐ技術へ経営資源を集中した。一方で資本の側は動き続け、2017年の分社と売却で外資ファンドの傘下に入り、2024年12月には4年越しの上場を達成。東芝から投資ファンド、そして市場へと所有者が移る間も投資先を替えなかったことが、専業メーカーとしての姿を保たせている。
現況
NAND型フラッシュメモリとSSDに専業で取り組み、売上の9割近くを海外で稼いでいる。2026年3月期の売上高2兆3,376億円は日本2,633億円・欧米1兆2,176億円・アジア8,567億円で、生成AIとデータセンター向けの大容量SSDが増収の主因となった。営業利益8,704億円・純利益5,545億円はいずれも過去最高で、営業利益は東芝メモリ時代の2018年3月期を上回った。ベインは2026年7月に8年で持分を売り切り、かつてこの事業を売却した東芝が17.59%を残して実質的な筆頭株主に戻っている。事業を手放した東芝が、その後の最高益を株主として受け取る位置にいる。
競合
発明したキオクシアが首位に立てなかった市場である。NAND型フラッシュメモリは自ら世に出した技術でありながら、投資の規模で後れを取り、技術を供与した相手へ王座を明け渡した。現在は首位のサムスン電子を追う二番手を争う位置にある。四日市と北上で生産を折半するウエスタンデジタルとは2021年から経営統合を交渉したが、競合のSKハイニックスを株主に抱える資本の構成がこれを阻んだ。世代ごとに数千億円の設備投資を要する市場では、規模の差がそのまま次の投資余力の差になる。
キオクシアホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2022年3月期2026年3月期

創業ストーリー トランジスタから1MビットDRAM首位へ、そしてNAND型フラッシュメモリの発明 (1951年〜)

トランジスタ試作からDRAM製造で世界首位に立った東芝の半導体

キオクシアのNAND型フラッシュメモリ事業は、母体である東芝(東京芝浦電気)の半導体事業[1]から分かれた。東京芝浦電気は1951年1月、川崎市の小向工場でトランジスタを試作した[2]。1956年7月までには、東京通信工業(後のソニー)・日立製作所・三菱電機・神戸工業とともに、米ベル研究所とウェスタン・エレクトリックからトランジスタ技術のライセンスを受けた日本の最初期5社の一角を占めた[3]。ただし東芝は、メモリではNECと日立製作所の後塵を拝していた[4]。第2次石油危機をはさむ時期には設備投資を抑えて事業の規模を縮め[5]、1981年に川西剛氏が半導体事業部長に就いた直後には、東芝がDRAMから撤退するという報道[6]が新聞に出た。

    • [1]キオクシアのNAND型フラッシュメモリ事業は東芝(東京芝浦電気)の半導体事業を母体とする
    • [2]東京芝浦電気は1951年1月に川崎市幸区の小向工場でトランジスタを試作した。1960年建立の「東芝トランジスタ発祥の地」記念碑に「昭和二十六年一月」と刻む
    • [3]東京芝浦電気は東京通信工業(現ソニー)・日立製作所・三菱電機・神戸工業とともに、1956年7月までにベル研究所/ウェスタン・エレクトリックの日本最初期トランジスタ・ライセンシー5社の一社となった
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
    • [4]東芝のメモリ事業は1MビットDRAMで首位に立つまで日本電気・日立製作所の後塵を拝していた
  • 日経ビジネス 1991年7月1日号
    • [5]第2次石油危機をはさむ大戸彧也半導体事業部長の時代、東芝は半導体事業で戦線を縮め、設備投資を抑制してDRAMなどメモリの量産に踏み込めずにいた
    • [6]1981年に川西剛が病身の大戸彧也から半導体事業部長を引き継いだ直後、「東芝、DRAMから撤退」との新聞報道が大きく出た

東芝が1MビットDRAMで首位に立った[7]のは、技術と投資の両面で他社と別の道を選んだためである。DRAMは集積度が上がるほど掘り下げるか積み上げるかの立体加工[8]が要るが、東芝は1Mビット世代で平面セルと低消費電力のCMOSを選び[9]、消費電力を従来の半分未満に抑えて量産性で優位に立った。各社が64Kビットから256Kビットへ生産を移す時期に、東芝は一挙に1Mビットへ先行投資[10]し、1986年に月産100万個へ量産を伸ばし、[11]この製品分野で世界首位となった。同年、日本の半導体シェアは米国を抜き、東芝もNEC・日立製作所とともに上位を占めた[12]。9月2日には日米半導体協定が結ばれ[13]、公正市場価格を下回る販売が規制された。東芝機械のココム違反事件[14]で東芝が米国市場から締め出されかけたときは、1MビットDRAMを頼るIBMとヒューレット・パッカードが米議会に働きかけ、制裁は米政府関連の調達からの排除にとどまった。

    • [7]東芝は1MビットDRAMで世界のトップサプライヤーとなった
    • [9]東芝は1MビットDRAM世代で3次元トレンチではなく平面セルと低消費電力CMOSを選び、消費電力をNMOS比で半分未満の150mWに抑えて量産性で優位に立った
    • [11]東芝は1986年に1MビットDRAMで月産100万個体制を確立し、この製品分野で世界首位となった
  • 日経ビジネス 1989年12月4日号
    • [8]DRAMは集積度を上げるとコンデンサ容量の確保のため、積み上げるスタックか掘り下げるトレンチかの立体加工が必要になり、両方式を追う余裕はないため選択を迫られる。東芝は4Mビット世代でスタックからトレンチへ変えた
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
    • [10]各社が64KビットDRAMから256Kビットへ生産を移す中、東芝は一挙に1Mビットへ先行投資し、日本電気・日立の後塵を拝していたメモリ事業で首位に立って先行者利得を得た
    • [12]1986年に日本の世界半導体シェア(総合)が米国を抜いて首位となり、世界上位10社中6社を日本勢(NEC・東芝・日立・富士通・松下・三菱電機)が占めた
    • [13]1986年9月2日に第一次日米半導体協定が締結され、公正市場価格(FMV)以下の販売がダンピングとして扱われた
  • 日経ビジネス 1991年7月1日号
    • [14]東芝機械のココム違反事件で東芝が米国市場から排除されかけた際、東芝が供給する1MビットDRAMが途絶えると商売が成り立たないとIBMやヒューレット・パッカードが米議会に働きかけ、制裁は米政府関連資材の調達からの締め出しにとどまった
    • [1]キオクシアのNAND型フラッシュメモリ事業は東芝(東京芝浦電気)の半導体事業を母体とする
    • [2]東京芝浦電気は1951年1月に川崎市幸区の小向工場でトランジスタを試作した。1960年建立の「東芝トランジスタ発祥の地」記念碑に「昭和二十六年一月」と刻む
    • [3]東京芝浦電気は東京通信工業(現ソニー)・日立製作所・三菱電機・神戸工業とともに、1956年7月までにベル研究所/ウェスタン・エレクトリックの日本最初期トランジスタ・ライセンシー5社の一社となった
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
    • [4]東芝のメモリ事業は1MビットDRAMで首位に立つまで日本電気・日立製作所の後塵を拝していた
    • [10]各社が64KビットDRAMから256Kビットへ生産を移す中、東芝は一挙に1Mビットへ先行投資し、日本電気・日立の後塵を拝していたメモリ事業で首位に立って先行者利得を得た
  • 日経ビジネス 1991年7月1日号
    • [5]第2次石油危機をはさむ大戸彧也半導体事業部長の時代、東芝は半導体事業で戦線を縮め、設備投資を抑制してDRAMなどメモリの量産に踏み込めずにいた
    • [6]1981年に川西剛が病身の大戸彧也から半導体事業部長を引き継いだ直後、「東芝、DRAMから撤退」との新聞報道が大きく出た
    • [14]東芝機械のココム違反事件で東芝が米国市場から排除されかけた際、東芝が供給する1MビットDRAMが途絶えると商売が成り立たないとIBMやヒューレット・パッカードが米議会に働きかけ、制裁は米政府関連資材の調達からの締め出しにとどまった
    • [7]東芝は1MビットDRAMで世界のトップサプライヤーとなった
    • [9]東芝は1MビットDRAM世代で3次元トレンチではなく平面セルと低消費電力CMOSを選び、消費電力をNMOS比で半分未満の150mWに抑えて量産性で優位に立った
    • [11]東芝は1986年に1MビットDRAMで月産100万個体制を確立し、この製品分野で世界首位となった
  • 日経ビジネス 1989年12月4日号
    • [8]DRAMは集積度を上げるとコンデンサ容量の確保のため、積み上げるスタックか掘り下げるトレンチかの立体加工が必要になり、両方式を追う余裕はないため選択を迫られる。東芝は4Mビット世代でスタックからトレンチへ変えた
    • [12]1986年に日本の世界半導体シェア(総合)が米国を抜いて首位となり、世界上位10社中6社を日本勢(NEC・東芝・日立・富士通・松下・三菱電機)が占めた
    • [13]1986年9月2日に第一次日米半導体協定が締結され、公正市場価格(FMV)以下の販売がダンピングとして扱われた

舛岡富士雄が発明し、東芝が名付けた「フラッシュメモリ」

キオクシアの主力製品であるNAND型フラッシュメモリは、東芝の技術者が発明した[15]。舛岡富士雄氏は1980年に川崎の研究拠点で[16]数名の技術者と不揮発性メモリの開発に着手し、1984年の国際会議IEDM[17]で、記憶素子を1個のトランジスタで構成する小型のメモリを発表した。ビット当たりの面積は従来のEEPROMの4分の1以下[18]で、一括して素早く消せる様子がカメラのフラッシュを思わせることから、同僚の有泉章二氏が『フラッシュ』と名付けた[19]。後にNOR型と呼ばれるこの方式に対し、舛岡氏は素子をまとめて直列につなぎ、面積あたりの記憶容量を高めたNAND型[20]を考案した。東芝は1987年のIEDMでこれを世界で初めて発表した[21]。狙いは、パソコンのハードディスクを半導体で置き換える[22]ことにあった。

    • [15]NAND型フラッシュメモリは東芝の技術者・舛岡富士雄(1943年生、東北大・西澤潤一門下)が発明した
    • [16]舛岡富士雄は1980年に川崎のR&Dセンターで技術者数名と不揮発性メモリのプロジェクトを主導した
    • [17]舛岡富士雄は1984年のIEDM(サンフランシスコ)で、従来の2トランジスタEPROMより小さい単一トランジスタ・セルのフラッシュEEPROM(後のNOR型)を発表した
    • [20]NAND型はセルを直列に連ねる構造でNOR型より小セル・高集積を実現し、1.0µmルールでセル面積6.43µm²、従来の4MビットEPROM比でビット当たり面積を約30%減らした
    • [18]1984年発表のフラッシュEEPROMはビット当たり面積が既存EEPROMの4分の1未満だった
    • [19]一括消去がカメラのフラッシュのように速いことから、舛岡の同僚・有泉章二が「flash」の名称を提案した
    • [21]東芝は1987年のIEDM(ワシントンDC)で世界初のNAND型フラッシュメモリを発表した
  • 日経ビジネス 1998年1月26日号
    • [22]1990年ごろまで東芝はフラッシュメモリを、パソコン用の大量記録媒体であるハードディスク装置の置き換えとして構想していた

東芝は1991年に世界初の4MビットNAND型フラッシュメモリを製品化[23]し、1992年には三重県に四日市工場を設けた[24]。ただし発明を事業にする速さでは後れを取り、東芝の開発要員は1991年の時点で数十人規模[25]にとどまった。1986年に事業部を置き数百人体制を組んだインテルが、1992年にはフラッシュメモリの世界市場で85%以上[26]を占めた。東芝は同年、NAND技術を韓国のサムスン電子へ供与した[27]。サムスンは半導体不況で日本勢が投資を抑えた1992年に8インチ量産ラインへ踏み込み[28]、この投資でDRAMの世界首位へ躍り出た。舛岡氏は処遇への不満から1994年に東芝を退職して東北大学教授に転じ[29]、発明対価を求めた訴訟は2006年に和解した[30]。東芝は16Mビット世代でDRAMの競争力を保てず[31]、四日市がNAND型の生産を始めた1999年[32]には、携帯電話とデジタルカメラの普及でフラッシュメモリの需給が逼迫していた[33]

    • [23]東芝は1991年に世界初の4MビットNAND型フラッシュメモリを製品化・量産した
    • [24]1990〜92年に用地を造成し、1992年に四日市工場(三重県)が発足した。第1製造棟の操業開始は1993年で、最初の生産品種は16MビットDRAMだった
    • [32]四日市工場は1993年に16MビットDRAM、1996年に64MビットDRAMを生産し、NAND型フラッシュメモリの生産開始は1999年だった
  • 日経ビジネス 1991年7月22日号
    • [25]フラッシュメモリを発明した東芝の開発要員は数十人規模にとどまり、経営資源を十分に使っているとはいえない状態だった
    • [26]インテルは1986年にフラッシュメモリの事業部を設けて数百人規模の研究体制を組み、1992年時点で世界市場の約85%以上のシェアを占めていた
    • [27]東芝は1992年にNAND技術をサムスン電子(三星電子)へライセンス供与した
    • [29]舛岡富士雄は報奨の乏しさから1994年に東芝を退職し東北大学教授に転じた
    • [30]舛岡富士雄が発明対価を求めて東芝を提訴した訴訟は2006年に約8,700万円で和解した
  • 日経ビジネス 1996年11月11日号
    • [28]1992年の世界的な半導体不況下で日本勢が投資を抑制する中、三星電子は8インチウエハーの量産ライン投資を決断し、この投資戦略でDRAM世界首位に立った
  • 証券アナリストジャーナル 1998年9月号 別冊付録 東芝(1998年8月3日 講演)
    • [31]東芝は1メガ・4メガの時代にはトップサプライヤーだったが、16メガではトップクラスの競争力を確保できなかった(森本泰生・東芝上席常務)
  • 日経ビジネス 1999年8月23日号
    • [33]1999年、多機能化する携帯電話とデジタルカメラの普及でフラッシュメモリの需要が春先から逼迫し、大手メーカーが相次いで値上げに転じた
    • [15]NAND型フラッシュメモリは東芝の技術者・舛岡富士雄(1943年生、東北大・西澤潤一門下)が発明した
    • [16]舛岡富士雄は1980年に川崎のR&Dセンターで技術者数名と不揮発性メモリのプロジェクトを主導した
    • [17]舛岡富士雄は1984年のIEDM(サンフランシスコ)で、従来の2トランジスタEPROMより小さい単一トランジスタ・セルのフラッシュEEPROM(後のNOR型)を発表した
    • [20]NAND型はセルを直列に連ねる構造でNOR型より小セル・高集積を実現し、1.0µmルールでセル面積6.43µm²、従来の4MビットEPROM比でビット当たり面積を約30%減らした
    • [27]東芝は1992年にNAND技術をサムスン電子(三星電子)へライセンス供与した
    • [29]舛岡富士雄は報奨の乏しさから1994年に東芝を退職し東北大学教授に転じた
    • [30]舛岡富士雄が発明対価を求めて東芝を提訴した訴訟は2006年に約8,700万円で和解した
    • [18]1984年発表のフラッシュEEPROMはビット当たり面積が既存EEPROMの4分の1未満だった
    • [19]一括消去がカメラのフラッシュのように速いことから、舛岡の同僚・有泉章二が「flash」の名称を提案した
    • [21]東芝は1987年のIEDM(ワシントンDC)で世界初のNAND型フラッシュメモリを発表した
    • [23]東芝は1991年に世界初の4MビットNAND型フラッシュメモリを製品化・量産した
  • 日経ビジネス 1998年1月26日号
    • [22]1990年ごろまで東芝はフラッシュメモリを、パソコン用の大量記録媒体であるハードディスク装置の置き換えとして構想していた
    • [24]1990〜92年に用地を造成し、1992年に四日市工場(三重県)が発足した。第1製造棟の操業開始は1993年で、最初の生産品種は16MビットDRAMだった
    • [32]四日市工場は1993年に16MビットDRAM、1996年に64MビットDRAMを生産し、NAND型フラッシュメモリの生産開始は1999年だった
  • 日経ビジネス 1991年7月22日号
    • [25]フラッシュメモリを発明した東芝の開発要員は数十人規模にとどまり、経営資源を十分に使っているとはいえない状態だった
    • [26]インテルは1986年にフラッシュメモリの事業部を設けて数百人規模の研究体制を組み、1992年時点で世界市場の約85%以上のシェアを占めていた
  • 日経ビジネス 1996年11月11日号
    • [28]1992年の世界的な半導体不況下で日本勢が投資を抑制する中、三星電子は8インチウエハーの量産ライン投資を決断し、この投資戦略でDRAM世界首位に立った
  • 証券アナリストジャーナル 1998年9月号 別冊付録 東芝(1998年8月3日 講演)
    • [31]東芝は1メガ・4メガの時代にはトップサプライヤーだったが、16メガではトップクラスの競争力を確保できなかった(森本泰生・東芝上席常務)
  • 日経ビジネス 1999年8月23日号
    • [33]1999年、多機能化する携帯電話とデジタルカメラの普及でフラッシュメモリの需要が春先から逼迫し、大手メーカーが相次いで値上げに転じた

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キオクシアホールディングスの沿革1987〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1951〜1999年トランジスタから1MビットDRAM首位へ、そしてNAND型フラッシュメモリの発明東芝が世界初のNAND型フラッシュメモリを発明★★
NAND型フラッシュメモリの量産を開始
四日市工場(三重県)を設立
2000〜2016年汎用DRAMからの撤退とサンディスク合弁によるNAND専業化、そして3次元への転換サンディスクグループとフラッシュメモリで協業を開始★★
汎用DRAM事業からの撤退を決定★★
四日市工場の生産に向けサンディスクと合弁のフラッシュビジョンを設立
3次元フラッシュメモリ技術を開発★★
東芝の社内カンパニーとしてセミコンダクター&ストレージ社を設置
48層積層プロセスのBiCS FLASHのサンプル出荷を開始
2017〜2019年東芝の経営危機による分社・売却と、ベイン連合の下でのキオクシア誕生旧東芝メモリを設立
成毛康雄東芝からメモリ事業(SSDを含む)を会社分割により承継★★
成毛康雄東芝メモリの分社とベインキャピタル連合による取得、そしてキオクシアの誕生

2018年6月1日、東芝が半導体メモリ事業を分社した旧東芝メモリ株式会社の全株式を、米ベインキャピタルを軸とする日米韓連合の受け皿会社K.K. Pangeaが約2兆円で取得し、のちにキオクシアとなる会社が東芝から独立した経営判断。買われた側から見れば、東芝が発明し最も稼いでいたメモリ事業が、親会社の危機を機に外資ファンド連合の下で独立会社となった出来事であった。

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★★★
成毛康雄Pangeaが旧東芝メモリを吸収合併し東芝メモリに商号変更★★
成毛康雄四日市工場の第6製造棟とメモリ開発センターが竣工
成毛康雄単独株式移転により東芝メモリHDを設立
成毛康雄ブランド名称をキオクシアへ刷新
成毛康雄キオクシア北上工場(岩手県)第1製造棟が竣工
2020〜2026年ウエスタンデジタルとの統合破談を越えた上場と、過去最高益への到達早坂伸夫ライトオン子会社SSSTCとその関係会社の全株式を取得
早坂伸夫四日市工場の第7製造棟が竣工
早坂伸夫218層積層プロセスの第8世代BiCS FLASHを試作
早坂伸夫ウエスタンデジタルとの経営統合交渉と、その破談

2021年から2023年にかけて、キオクシアホールディングスは合弁相手の米ウエスタンデジタルとメモリ事業の経営統合を交渉したが、2023年10月下旬に破談した経営判断。四日市・北上でNAND型フラッシュメモリを共同生産する両社が一つになれば、首位の韓国サムスン電子に並ぶ規模のメーカーが生まれるはずであった。しかし株主である韓国SKハイニックスの同意が得られず、統合はまとまらなかった。破談の後、キオクシアは単独での上場と業績回復へ向かった。

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★★★
早坂伸夫北上工場の第2製造棟の建屋が完成
早坂伸夫二度の延期を経て実現した、東証プライムへの4年越しの新規株式公開

2024年12月18日、キオクシアホールディングスが東京証券取引所プライム市場に上場した経営判断である。公開価格は1,455円、初日の終値は公開価格を約10%上回る1,601円で、オーバーアロットメントを含むオファー総額は約1,204億円にのぼった。2018年にベインキャピタルを軸とする連合の傘下で生まれた同社にとって、2020年・2024年と二度延期した末に開いた、プライベートエクイティの出口としての上場であった。

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★★★
出典・参考

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