堀久作

日活・元代表取締役社長

(敬称略)

Hori Kyusaku

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生年月日
学歴
出自
出自
日活の外から入った経営者である。大倉高等商業学校を出て東北の炭鉱の会計に勤め、ふろ釜の販売と石炭小売を経て、東京瓦斯常務などを兼ねていた松方乙彦氏の秘書になった。1934年、映画事業への進出を決めた松方氏から日活の引き受けを託され、大株主だった大川平三郎氏の持株の譲り受けと、退任する役員の退職金の調達を引き受けた。同年12月29日の総会で松方氏が社長に就き、堀氏は翌1935年3月25日の総会で平取締役に入って財務を任された。
抜擢
取締役として帳簿を開くと、日活は社債と高利の借入を抱え、撮影所は雨漏りのするまま撮影を続けていた。堀氏は高利債を低利へ乗り換える再建案を立て、映画事業に貸す銀行がないなかで千葉合同銀行(現在の千葉銀行)から融資を引き出し、回収を迫る大蔵省とは次官の仮宅へ夜明けに乗り込んで談判した。この資金繰りを一手に握った延長線上に、1945年12月の社長就任がある。
施策
重役会の反対を押し切り、営業部と撮影所に結論を出させたうえで全作品のトーキー化を決め、多摩川に鉄筋コンクリートのトーキースタジオと現像所を建てた。横浜の芝居小屋を買収し、浅草の富士館など9館を持つ日本興行を合併して興行網を広げている。戦後は1947年に日比谷の米軍モータープール跡地を買い、外資の導入を仕掛けて1950年1月に日活国際会館の地鎮祭にこぎつけた。ホテル・不動産への多角化もこの延長にある。1966年7月期は14億9,200万円の当期損失を計上した。
評価
執筆予定
就任前-
退任時(FY70)63億円
変化-
就任前-
退任時-
変化-

参考文献経歴・学歴・出身地の裏づけに当たった資料

  • 私の履歴書 経済人2「堀久作」(日本経済新聞社、1980年) 学歴・経歴

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