恵比寿工場跡地を売らず自社で開発した恵比寿ガーデンプレイスの開業

都心の一等地を売らずに持つ——低収益のビール会社は、なぜ含み資産をみずから不動産事業へ変えたのか

更新:

時期 1994年10月
意思決定者 荒川和夫 社長
論点 工場跡地の活用と不動産事業への傾斜
概要
1994年10月、サッポロビールは移転した恵比寿工場の跡地(約8万3000平方メートル)を売却せず、みずから約3100億円を投じて再開発した複合街区「恵比寿ガーデンプレイス」を開業した。都心一等地の含み資産を一度きりの売却益に換えるのではなく、保有・賃貸して薄利のビール本業を支える安定収益源へ変える経営判断であり、以後のサッポロを不動産を抱えるビール会社という性格へ導いた。
背景
ビール市場でサッポロは3位に定着し、上位4社が販促費を積み増す「利益なき競争」のなかで売上高営業利益率は1986年12月期の3.45%から1991年12月期に1.20%へ半減していた。首都圏主力の恵比寿工場は都市化と老朽化から1988年に千葉へ移り、都心に残る広大な跡地の使い道が問われていた。
内容
跡地は売れば6000億円ともされたが、サッポロは売却も他社委託も採らず自社開発を選んだ。住宅金融公庫から950億円を低利で調達し、借入を1900億円に抑えて初年度黒字化を優先した。荒川和夫社長は「本業はあくまでもビール」と述べ、不動産を財務体質改善の切り札とし、売上高経常利益率5%の達成を掲げた。
含意
開業後、分譲住宅の即日完売やオフィスの高稼働で不動産は計画通りの安定収益源に育ち、やがて連結利益の相当部分を担った。半面ビール本業の低収益は残り、資産を持ちながら回さない構造が定着した。2007年のスティール、2023年の3Dが資本効率を突く論点は、この選択から生まれた。
筆者の見解

補う装置が、覆う装置に

恵比寿ガーデンプレイスの判断の中心にあるのは、都心一等地という含み資産を、一度きりの売却益に換えず、長期の賃貸収入を生む装置へ組み替えた点にある。3位に定着した薄利のビール事業を、本業の外側に築いた安定収益で支える——財務体質の改善を急ぐ当時の経営にとって、それは合理的な切り札だったとみることができる。開業後の不動産の成功は、その読みが正しかったことを示している。ただし同じ選択が本業の弱さを覆い隠す面を併せ持っていたことも、開業前の日経ビジネスがすでに不動産依存体質の強化という言葉で書き留めていた。

本業を補うために築いた装置が、やがて本業の低収益を温存し、外部株主が資本効率を問う対象になっていく——その循環は、資産を多く抱える事業会社が繰り返し向き合う問いを浮かび上がらせる。2025年、サッポロは売らずに持ち続けた恵比寿の資産をみずから手放し、ビール本業へ立ち返る道を選んだ。売らずに持つという1994年の選択と、売って本業に集中するという30年後の選択は、資産を持つ会社は本業で何を示せるのかという同じ問いの、表と裏をなしているようにみえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

業界3位に定着した低収益

サッポロビールは戦後長くビール市場で3位にとどまり、1980年代を通じて収益力の低下に直面していた。ビール市場そのものは1987年以降も年3.5〜8%の伸びを続けていたが、上位4社が広告宣伝費と販売促進費を横並びで積み増す消耗戦のなかで、各社とも利幅を削られていた。同社の売上高営業利益率は1986年12月期の3.45%から1991年12月期には1.20%へと半分以下に落ち込み、荒川和夫社長はこれを「利益なき競争」と呼んでいた[1]

本業の薄利は、この時期の連結決算にそのまま表れていた。1990年代前半のサッポロは、年5,500億円から6,600億円台の売上高を計上しながら、当期純利益は20億円台から30億円台にとどまり、売上に対する最終利益はごくわずかであった。設備投資や広告費の負担が重く、規模の拡大が最終利益にほとんど結び付かない状態が続いていた。この慢性的な低収益をどう補うかが、経営の重い課題として残っていた[2]

恵比寿工場の跡地という問い

収益力の課題と並んで、経営は都心の巨大な遊休地を抱えていた。恵比寿工場は前身の日本麦酒醸造が1887年以来ビールを生産してきた首都圏の主力工場だったが、周囲の都市化が進んで工場の立地がふさわしくなくなり、老朽化した設備を建て替えるにも敷地が足りなくなっていた。サッポロは1988年6月に千葉工場を完成させて生産機能を移し、渋谷区と目黒区にまたがる約8万3000平方メートルの跡地が生まれた。再開発は東京都が1983年に恵比寿地区の再開発を検討し始めたことがきっかけで、同社がみずから積極的に乗り出したものではなかった[3]

跡地の使い道には複数の選択肢があった。工場跡地の簿価は190億円にすぎなかったが、不動産業界では坪あたり約2000万円と評価され、約3万坪を売却すれば6000億円、税金で半分が消えても3000億円が残り、これを年利5%で運用すれば利息だけで毎年150億円が入る計算であった。再開発そのものを不動産大手に全面的に任せ、毎年一定の地代を得る道もあった。売却も委託も、「祖先の美田を守る」保守的で安定した選択肢として、当時の同社の前に開かれていた[4]

決断

売らずに、自ら開発する

サッポロが選んだのは、売却でも他社への委託でもなく、みずから約3100億円を投じて跡地全体を一つの街に作り変える道だった。1987年7月に発表した再開発計画は当初1500億円の総投資額を見込んでいたが、その後の建築費高騰で倍以上の3100億円へ膨らんでいた。この規模は同社の過去5年分の設備投資額に匹敵し、1994年12月期の連結売上高6,639億円の半分に迫る、社運をかけた事業であった。安定した売却益や地代を捨て、自社で保有・賃貸して長期の収益を得る側に踏み込む判断だった[5][6]

巨大投資を支えたのは、異例の低利資金であった。総事業費3100億円のうち約3分の1にあたる950億円を、住宅金融公庫から6.22%の固定金利で25年にわたって借り入れることが1992年2月に正式決定した。民間企業1社が公庫から1000億円近くを借りるのは初めてで、総延べ床面積の3割近くを住宅に充てて東京都の意向に沿う公共性が評価されたためであった。借入は1900億円にとどめ、財務担当の伊藤蕃常務は恵比寿ガーデンプレイスを「初年度から何が何でも黒字にする」方針を掲げた[7]

本業を補う“金のなる木”

荒川和夫社長は、恵比寿ガーデンプレイスを不動産事業そのものというよりも、財務体質を立て直すための切り札とみていた。「本業はあくまでもビール。恵比寿ガーデンプレイスは収益性の極めて悪いビール事業を補うための事業」と述べ、これを収益力向上のテコとして近い将来に売上高経常利益率5%を達成したいと語った。含み資産にとどまっていた都心の土地を、自己資金を生む収益資産へ変える構想であり、日経ビジネスは記事の見出しでこれを工場跡地を“金のなる木”に変える試みと呼んでいた[8]

事業計画は、開業初年度の1995年度に賃貸収入300億円・営業利益120億円を見込み、償却負担が軽くなる2004年度には営業利益241億円・経常利益177億円へ伸びる青写真を描いていた。荒川社長は「ビールという単品経営からくる社員のモノカルチャー的発想を転換」する効果も期待していた。もっとも同じ記事は、すでに営業利益の6割を不動産で稼ぐ同社が恵比寿の収益を上乗せすれば「逆に不動産依存体質が一層強化されることも十分考えられる」と、成功が抱えるもう一つの帰結を書き添えていた[9]

結果

開業と不動産の成功

1994年10月の開業を前に、恵比寿ガーデンプレイスの不動産は市場の強い需要に迎えられた。同年6月に分譲した住宅棟「恵比寿ガーデンテラス弐番館」は、平均倍率29.1倍で即日完売した。申込者の約6割は会社経営者や役員が占め、年収2000万円以上・60歳代を中心に、港区や目黒区など周辺各区に住む富裕層が過半を占めていた。バブル崩壊後で地価が下落するなかでも、恵比寿の一等地に対する需要が根強かったことがうかがえる[10]

オフィス棟の引き合いも順調であった。開業を控えた1994年9月の時点で、オフィスの入居契約は9割を超えていた。同じ時期に開業した横浜ランドマークタワーや聖路加ガーデン、新宿パークタワーといった首都圏の代表的な大型ビルが、開業時に7割程度の契約にとどまっていたのと比べれば、健闘した滑り出しであった。分譲住宅とオフィスの双方が計画を上回るかたちで動き出し、恵比寿ガーデンプレイスは開業当初から狙い通りの安定収益源に育っていった[11]

本業を覆い隠す不動産

不動産は計画通りに安定したキャッシュフローを生み、やがてグループ利益の相当部分を担った。半面、それはビール本業の低収益を覆い隠す構造をもたらした。持株会社化後の2007年12月期には、不動産セグメントの営業利益70.7億円が、酒類事業の78.5億円とほぼ肩を並べていた。両事業の売上高は酒類3,436億円に対し不動産241億円で10倍以上の開きがありながら、利益ではほぼ拮抗しており、資産を多く抱えるほど本業の弱さが見えにくくなる収益構造が定着していた[12]

資産を保有したまま回転させないこの構造は、外部の投資家の目に資本効率の低さとして映った。2007年には米系ファンドのスティール・パートナーズが、2023年にはシンガポールの3Dインベストメント・パートナーズが、いずれも恵比寿ガーデンプレイスに象徴される不動産偏重と低い資本効率を突いた。そして2025年12月、サッポロは不動産事業を担う子会社の全株式を、企業価値ベース4,770億円でPAG・KKR陣営へ譲渡する契約を結び、売らずに持ち続けてきた恵比寿の資産を、開業から31年を経てみずから手放す道を選んだ[13]

出典・参考