アプリ事業から所属ライバーの運営へ——創業1年での主力事業の入れ替え
売るはずのアプリと、その宣伝役に採ったタレント——どちらを本業にするかを田角陸氏はどう決めたか
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- 概要
- 2018年、いちから株式会社(現ANYCOLOR)が、誰でもVTuberになれるiPhone向けアプリ「にじさんじ」を売る事業から、そのアプリの宣伝のために採用したライバーを預かるタレント事業へ主力を移した経営判断。創業者の田角陸氏が主導し、同年末までに派生グループを「にじさんじ」の単一ブランドへ集約した。
- 背景
- 2017年5月、早稲田大学在学中だった田角陸氏が資本金100万円でいちからを設立し、VR・MR向けアプリの開発を手がけた。2018年2月、iPhone Xの顔認識を使って表情をキャラクターに反映させるアプリ「にじさんじ」を公開し、同時に宣伝役として8名のライバーを始動させた。
- 内容
- アプリよりも宣伝役の「にじさんじ1期生」が先に人気を集めたため、事業をタレントの運営へ切り替えた。2018年5月に「にじさんじゲーマーズ」、6月に「にじさんじSEEDs」と対象を分けた派生グループを設けたのち、12月に3グループを「にじさんじ」へ統合した。
- 含意
- 売り物として作ったツールを外し、その販促手段であったタレントを経営資源の中核へ据え替えた判断であった。2018年4月期に1,662万円だった売上高は、翌2019年4月期に8億6,652万円へ伸び、現在まで続く単一ブランドの事務所モデルが確定した。
売り物を捨てるという判断
この転換で興味深いのは、捨てたものの性質である。いちからが手放したのは失敗した製品ではなく、会社が本業として売るつもりで作ったアプリのほうであった。宣伝のために用意した手段が売り物を追い越したとき、多くの会社は本業を守りながら副次的な人気を活用する道を選ぶ。田角陸氏は逆に、売り物を下ろして宣伝役を本業へ引き上げた。設立から1年に満たず、守るべき既存事業も雇用も小さかったことが、この入れ替えを容易にしたとみることができる。
同時に、この判断は会社の性格を決めた面もある。ツールを売る会社であれば資産はソフトウェアに宿るが、タレントを預かる会社では、資産は演者個人との関係のうえに置かれる。2018年に選んだこの形は、後年の海外展開や、演者との契約をめぐる問題まで一貫して同社の課題であり続けた。売り物を捨てて人を選んだ判断が、成長の速さと、それに伴う脆さの双方をもたらしたとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
VR向けアプリ開発として創業した会社
いちから株式会社が設立されたのは2017年5月であった。早稲田大学に在学していた田角陸氏が21歳で興した会社で、資本金は100万円、東京都新宿区に本店を置いた。手がけたのはVR(仮想現実)・MR(複合現実)のデバイス向けアプリケーションの開発である。2016年から2017年にかけて「VR元年」と呼ばれた業界の高揚のなかでの参入であった。同年11月には、IT系の企業が集まる渋谷区へ本店を移している[1][2]。
会社が最初に売ろうとしたのは、タレントではなくツールであった。2018年2月8日、いちからはiPhone X向けのアプリ「にじさんじ」を公開する。iPhone Xに搭載された顔認識機能を使い、利用者の表情をアニメーションのキャラクターへリアルタイムで反映させ、そのまま外部の配信サービスへ流せる仕組みである。誰でも手軽にバーチャルYouTuberになれることを掲げた、アプリ提供の会社としての船出であった[3]。
宣伝役として採用された8名
当時のVTuberは、個人で活動する演者が大半を占めていた。いちからはアプリの認知を広げるためにオーディションを開き、採用した8名を「にじさんじ1期生」としてアプリの公開と同じ2018年2月8日に始動させた。魔法少女や女神、ゲーム配信者といった設定はそれぞれ異なり、生放送は当時のライブ配信サービスで、編集した動画やゲーム実況はYouTubeで公開するという振り分けであった。あくまでアプリの実演役という建て付けであった[4][5]。
事業としての体を成していたとは言いがたい。設立から翌年4月までを第1期とする2018年4月期の売上高は1,662万円にとどまり、経常損益は396万円の赤字であった。社員数もごく限られ、アプリの収益化にも至っていない。この規模の会社が、公開したばかりの自社アプリと、その宣伝のために採った8名のタレントという二つの資産を並べて抱えていた、というのが2018年春の姿であった[6]。
決断
売り物と宣伝役の逆転
想定と実際は食い違った。売り物であるアプリよりも、その宣伝役として起用した1期生のほうが先に支持を集めた。いちからはここで、アプリの提供を主力に据える構想を外し、タレントの運営へ事業を切り替える。のちに田角氏はこの切り替えについて「何の迷いもなかった。やるしかねえ」と振り返っている。プロダクトを売る会社から、演者を預かって育てる会社へ、業態そのものを入れ替える決断であった[7]。
田角氏の見立ては、演者が集まる場所そのものが移るという読みに支えられていた。同氏は「アニメ業界にも、YouTube配信の時代がやってくる」と考えてVTuber事業への参入を決めたと語っている。手段としてライブ配信を選んだ理由も明快であった。ファンの熱量を共感・愛着・信頼と捉え、同じ時間を共有できる生放送であればファン同士も一緒に盛り上がれるとみていた。収録した動画ではなく配信に賭けた判断が、事務所モデルの設計を方向づけた[8]。
広げてから畳んだ8か月
事務所として動き始めたいちからは、まず対象を分けて枠を増やした。2018年5月にゲーム配信に特化した「にじさんじゲーマーズ」を設け、6月には候補生で構成する「にじさんじSEEDs」を加える。演者の性格や習熟度に応じて受け皿を用意し、採用の幅を広げる組み立てであった。もっとも、グループが3つに分かれたことで、視聴者から見た所属の区別は入り組んだものになった[9]。
広げた枠は、同じ年のうちに畳まれた。2018年12月、いちからは「にじさんじ」「にじさんじゲーマーズ」「にじさんじSEEDs」の3グループを「にじさんじ」へ統合する。派生ブランドを設けてから統合までは、わずか7か月であった。以後、国内の所属ライバーは単一のブランドのもとに置かれ、この形は現在まで変わっていない。同じ年に事業の入れ替えとブランドの集約を続けて済ませた点に、この時期の判断の速さがうかがえる[10]。
結果
52倍の増収と、ゲーム配信の足場固め
転換の成否は、翌期の数字にすぐ表れた。2019年4月期の売上高は8億6,652万円と、前期の1,662万円から52倍に伸び、経常損益も4,726万円の黒字へ転じた。続く2020年4月期には売上高34億7,870万円まで拡大している。アプリの利用者を増やして課金を取る組み立てではなく、所属ライバーの配信とグッズから収益を得る事務所の形が、短期間で立ち上がったことを示している[11]。
収益の土台を制度の面から固める動きも続いた。2020年6月1日、いちからは任天堂との間で、著作物の利用に関する包括的な許諾契約を結ぶ。任天堂は個人向けにゲーム実況のガイドラインを公開していたものの、法人はその対象外であった。いちからは法人として初めて包括的な許諾を受け、所属ライバーによる同社ゲームを使った投稿と収益化に道をつけた。ゲーム配信という主要な収益源を、権利者との合意のうえに置き直した契約であった[12]。
- ANYCOLOR 有価証券報告書【沿革】
- ANYCOLOR 有価証券報告書(2018年4月期・2019年4月期・2020年4月期・単体)
- いちから ニュースリリース 2018年2月8日「iPhoneXのAnimojiで簡単バーチャルYouTuberの「にじさんじ」から公式バーチャルYouTuber8人始動!!」
- Business Insider Japan(2022年6月8日)「ANYCOLORが東証グロース上場、時価総額1652億円に。躍進続ける「にじさんじ」の魅力とは?」
- Forbes JAPAN(2020年11月16日)「VTuberを文化に。いちから田角陸は「熱量」にこだわる
- いちから ニュースリリース 2020年6月1日「VTuberグループ「にじさんじ」を運営するいちからが、任天堂株式会社の著作物の利用に関する包括的許諾契約を締結」