沖電気工業閉鎖寸前だった本庄工場の受託生産への転換と、他社工場を買う側への転身

NTT向け交換機を作る工場を畳むか、他社の製品を作る工場に作り替えるか

時期 2012年10月
意思決定者(推定) 川崎秀一・清水光一郎(EMSビジネス本部長) 社長
論点 国内生産拠点の存廃と事業構成の入れ替え
概要
NTT向け交換機の生産で成り立っていた本庄工場を電子機器の受託生産(EMS)へ作り替え、2012年には田中貴金属工業の山形・鶴岡の配線板工場を買収して、閉鎖が取り沙汰された拠点が他社の工場を買う側へ回った経営判断。
背景
NTTが電電4社以外からも装置を調達する方針へ転じ、主力の交換機は海外勢のルーターに置き換わっていった。2001年に本庄工場は従業員を半分に絞り、生産量は3年後に半分以下へ落ちた。会社全体でも2006年度から5年のうち3期が最終赤字であった。
内容
2002年にEMSへ参入し、少量多品種の高付加価値品に的を絞った。売上高が300億円を超えた段階で配線板の生産能力が上限に達し、2012年に50年来の取引先である田中貴金属工業の鶴岡工場を取得。2015年に横河電機の青梅工場、2016年に日本アビオニクスの事業も譲り受けた。
含意
鶴岡買収後のEMS事業は利益率5%前後で推移し、世界最大の受託生産会社である鴻海精密工業の3%台を上回った。2013年3月期の連結売上高は4558億円・営業利益135億円まで戻り、8期ぶりの復配に至った。
筆者の見解

閉じるか、作り替えるか

この判断の中心にあるのは、市場が消えた生産拠点を閉じる以外の道があるかという問いである。NTTの調達方針が変わり、主力製品が海外勢のルーターに置き換わった時点で、本庄工場を畳む判断には十分な合理性があった。実際に社内の多数はそちらを支持していた。それでも清水光一郎氏が持ち出したのは、設備や人員ではなく、交換機で積み上げた段取りという工程の技能であった。売る製品を失った工場に、他社の製品を作る仕事を持ち込めば技能は生き続ける——受託生産への転換は、資産ではなく能力の側から拠点の価値を測り直した試みだったとみることができる。

ただし、能力を残すだけでは事業の柱になりきらなかった。利益率5%という基準を満たすために配線板の工場を買い、その後も他社の工場を引き取って規模を積み上げている。買収がなければEMSは受託の下請けにとどまった可能性が高い。沖電気工業は1949年に会社を畳んで作り替え、1998年から10年かけて半導体を手放し、2010年代には工場を買い集めた。閉じるか、作り替えるか——同じ問いへの答えが判断ごとに違っている点に、この会社の事業構成が繰り返し組み替えられてきた理由がうかがえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

電電4社の寡占が消えた日

本庄工場が桑畑に囲まれた埼玉県本庄市に現れたのは1962年である。以来、日本電信電話公社の時代から交換機や伝送装置をNTTへ納め続けてきた。交換機と伝送装置は日立製作所・日本電気・富士通・沖電気の電電ファミリー4社がNTTと共同開発し、NTT向けの機器はこの4社の寡占であった。増設工事は6期を数え、2001年には敷地面積13万平方メートル、建屋面積5.2万平方メートルに達し、約700人が働いていた。世の中から電話がなくならないかぎり工場は安泰だと思われ、間違いのない堅実なモノづくりに徹していればよかった[1][2]

その前提が2001年に崩れた。これからは電電4社以外からも装置や機器を調達するとNTTが伝えてくる。しかも最新交換機の新ノードは、インターネットを経由する米シスコシステムズなど海外勢のルーターに通信効率で歯が立たなかった。本庄工場の主力製品はその新ノードなど従来型の電子交換機である。同年、沖電気は本庄の従業員を半分に絞るリストラを断行し、生産量は3年後に半分以下へ落ちた。会社全体でも、NTTからの受注は2000年ごろの1000億円弱から2002年には350億円へ3分の1に減る見通しとなり、篠塚勝正社長は同年10月の第三次構造改革でNTT依存からの脱却を掲げた[3][4]

5期の赤字と、2010年度の構造改革

2009年に社長へ就いた川崎秀一氏は、当時の経営を土俵際の徳俵の上に何とか立っているようなものだったと振り返る。柱だった民生市場向け半導体や情報通信機器が相次いで価格下落に見舞われ、2006年度からの5年で最終赤字が続き、株価は上場来最安値圏の50円台をうろついていた。それでも社内は落ち着き払っている。大変だ、大変だと言っても何とかなってきたじゃないかと平然と構える幹部がいて、国内大手銀行や通信事業者という優良顧客を抱えていた安心感が危機感を緩ませていた。このまま行ったら潰れてしまうという判断で、川崎社長は2010年度に構造改革へ着手した[5][6]

最初に手を付けたのは止血であった。2010年度に増減資を行って毀損した自己資本を補強し、生産拠点を再編し、早期退職者を募った。人員削減は国内正社員の1割に及んだ。同時に管理制度も組み替えている。通信機器や現金処理機は所属する事業部門と製造拠点が別の部門に分かれ、事業収益に生産部門の収益が十分反映されていなかった。真の事業収益が分からなければ責任の所在もあいまいになる。2011年10月、事業本部の下に生産拠点を紐づけ、責任を事業本部長へ一元化した。同年に社内システムも刷新し、川崎社長はこれを一種のアメーバ経営と呼んで京セラの手法に範を取ったと語っている[7][8]

決断

自社製品を作る工場から、他社製品を請け負う工場へ

米国工場を10年、中国の協力工場を3年半担当してきた清水光一郎氏は、本庄工場を違うふうに見ていた。米国には米国の、中国には中国のモノづくりがあるように、日本には日本のモノづくりがあり、本庄にはそのよさがある。本庄工場がなくなれば電子系のモノづくりは沖電気から永遠になくなる——そう考えた清水氏が出した答えが、電子機器の受託生産、EMSであった。社内の反対は強い。役員クラスの先輩が次々に非公式の場へ誘っては、仕事が遅い・雰囲気が暗い・半分公務員のような企業文化で客商売のEMSは無理だ、最後発でうまくいくわけがない、と説いた。当時はATMの中国への生産移転を進めていた時期でもある[9][10]

清水氏は当時社長の篠塚勝正氏を粘り強く説得し、EMSビジネス本部長に就いた。篠塚氏の条件は厳しい。人は何人使ってもいいがカネは出さない、1年で黒字化しろ、失敗したら自分でEMS事業をリストラしろ、と告げている。EMSに充てた従業員は当初100人、損益分岐点は70億円だったのに、初年度の売上高は25億円にとどまった。2年目も赤字で、下期にようやく収支が均衡する。3年目に海外の大手メーカーからエレベーターの制御基板という高付加価値品を受注して赤字を脱した。102層に及ぶ多層基板で、20年から30年という耐久性が求められる製品である。少量多品種を支えたのは、市外局番ごとに容量も仕様も異なる交換機の基板で鍛えられた段取りの力であった[11][12]

2012年、買う側に回る

売上高が300億円を超えたところで壁に当たった。本庄工場の強みは基板の製造技術にあり、その配線板を供給していた新潟・直江津の子会社工場が生産能力の上限に達したためである。土地も建物も他社からの借り物で、拡張の余地がなかった。そこへ銀行を通じて工場の売却話が持ち込まれる。2012年、山形・鶴岡にある田中貴金属工業の配線板工場が売りに出た。電話交換機に金のリレーを大量に使っていた関係から、田中貴金属工業は50年来の取引先である。配線板は利益率が高く、川崎社長から利益率5%でなければ柱として認めないと告げられていた清水氏にとって、条件のそろった案件であった[13][14]

2012年10月1日、沖電気は田中貴金属工業のプリント配線板事業を譲り受け、山形県鶴岡市にOKI田中サーキット株式会社を設立した。これによってプリント配線板の生産能力は5割増え、有価証券報告書もEMS事業の増収要因として同社の新規連結を挙げている。買収後のEMS事業は利益率5%前後を安定して達成した。世界最大のEMSである鴻海精密工業ですら3%台であり、規模で劣る後発が利益率では上回った。買収はここで終わらない。2015年には横河電機から青梅工場を取得し、2016年7月には日本アビオニクスから事業を譲り受けている。閉鎖を宿命づけられたと見られていた工場が、他社の工場を引き取る側へ回った[15][16][17]

結果

数字に表れた入れ替え

2013年3月期の連結売上高は4558億円で前期から323億円、7.6%の増収、営業利益は135億円、経常利益は203億円、当期純利益は136億円となった。EMS事業の外部顧客に対する売上高は327億円で前期比4.5%の増加、営業利益は16億円である。連結従業員17,459人のうちEMSは1,104人にすぎず、規模としてはまだ小さいが、有価証券報告書は高品質・高信頼性、多品種少量、かつ低コストを追求する日本型EMSのサービス提供を掲げた。全社では2013年度の営業利益計画が240億円と前期比8割増、2004年度以来の水準に戻り、8期ぶりの復配を実施している[18][19]

転換の意味は、失われた仕事の量と並べると見えやすい。EMS事業本部長の中野善之氏は、EMSをやっていなかったら残った製造現場は4分の1になっていただろうと語っている。情報通信の生産はかつての4分の1に縮み、NTT向け電子交換機の仕事は2016年7月にゼロとなった。EMSの売上高は2016年時点で500億円に達しようとし、次の目標は1000億円に置かれた。もっとも顧客基盤はかつてのNTT向けほど厚くない。ATMを中心とするメカトロ事業が中国で伸びた時期と重なったこともあり、この転換だけで会社の収益が定まったわけではなかった[20][21]

出典・参考

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