第2章 年〜年

ダスキン:駒井茂春の下での米国業態の導入と台湾への海外進出

1980年〜創業者の死と、社外へ株を出さない資本構成

1979年10月8日、ダスキンの鈴木清一社長は西宮市の香雪記念病院へ入院した。10日には病床に全役員が集められ、臨時役員会で駒井茂春副社長の社長代行が決まった。12月10日の臨時株主総会と取締役会で鈴木氏は会長へ退き、駒井氏が代表取締役社長に就いた。駒井氏は1923年1月に大阪市で生まれ、大阪市立商科大学高等商学部を出て安宅産業へ入り、復員後の1957年11月にケントクへ移った人物である。入社試験は技術者の募集で、物理も化学も白紙で提出した駒井氏のもとを、試験官を務めていた鈴木氏が数日後に訪ね、三時間話し込んで採用を決めたという。1980年12月22日、鈴木会長は入院先で死去した。享年は68歳8カ月だった。

  • ダスキン 祈りの経営 ダスキンの30年 1963-1993 第2巻 1994年「企業年表」
    • [1]1979年10月8日、鈴木清一社長が西宮市の香雪記念病院に入院した
    • [2]1979年10月10日、鈴木社長の病床に全役員を招集して臨時役員会を開き、駒井副社長の社長代行を決定した
    • [3]1979年12月10日の臨時株主総会と取締役会で、鈴木社長は会長に、駒井副社長は代表取締役社長に就任した
    • [6]1980年12月22日、鈴木清一会長が入院先の阪大微研病院で死去した
    • [7]鈴木清一の享年は68歳8カ月だった
  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
    • [4]駒井茂春は1923年1月に大阪市で生まれ、1943年9月に大阪市立商科大学高等商学部を卒業して安宅産業に入社し、復員後の1957年11月にケントクへ入社した
  • 日経ベンチャー別冊 創業者精神 1993年「「祈りの経営」に光明を見い出す」(駒井茂春)
    • [5]ケントクの入社試験は技術者募集で、物理・化学を白紙で提出した駒井茂春のもとを試験官だった鈴木清一社長が数日後に訪ね、約三時間話し込んだうえで採用を決めた

駒井社長は株式の公開を選ばなかった。1980年6月19日の第18回定時株主総会で資本金を9億9000万円へ増資したが、上場資格を満たしてなお公開の計画は無かった。理由は二つあった。数年前から無借金となっており、公開しなくても資金を調達できたこと、そして株主が従業員と加盟店と納入業者だけで占められ、40%の高率配当を続けても資金がグループの外へ流出しなかったことである。本部が利益を上げても加盟店から批判は出ず、利益はいずれグループの構成員へ還元される形になっていた。

  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
    • [8]1980年時点でダスキンは上場するつもりはまったくないとしていた
    • [10]1980年時点でダスキンの資本金は9億9000万円、配当は40%で、上場資格は十分だった
    • [11]ダスキンは数年前から無借金経営で、上場しなくても資金は十分に調達できた
    • [12]株主は従業員・加盟店・納入業者ばかりで、高率配当をしても資金が外部流出せず内部に留まった
    • [13]全員がグループの構成員で利益はいずれ還元されるため、本部がもうかっていることへの批判は出なかった
  • ダスキン 祈りの経営 ダスキンの30年 1963-1993 第2巻 1994年「企業年表」
    • [9]1980年6月19日の第18回定時株主総会で資本金を9億9000万円に増資した

資本を外へ開かない姿勢は、提携の組み方にも通じていた。ダスキンは米国企業と事業提携を重ねながら、合弁会社は作らなかった。前身のケントクがワックスのジョンソン社との提携で実質的に支配され、鈴木氏が追われるように会社を去った経験があったためである。ロイヤリティなど払うべきものは払い、あとは自社の責任で経営する形を選んだのは、責任を分担する甘えた関係にならずに済むからだった。ミスタードーナツのロイヤリティは当初売上高の3.35%だったが、店舗が100店を超えた時点で交渉し直し、1.85%へ引き下げている。株式をどれだけ持つかより、販売の大半を引き受けている側のほうが企業への影響力は強いというのが駒井氏の見方だった。

  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
    • [14]ダスキンは外資と提携はしても合弁事業は行わず、創業者鈴木清一の哲学が損なわれることを避けた
    • [16]ロイヤリティなど払うべきものは払い、あとは自社の責任でやるほうが責任を分担する甘えた姿にならずに済むとした
    • [17]ミスタードーナツのロイヤリティは当初売上高の3.35%だったが、100店を超えた時点で交渉し直して1.85%に引き下げた
    • [18]株式の保有比率より販売の大半を引き受けている側のほうが企業への影響力は強いと駒井社長は述べた
  • 日経ベンチャー別冊 創業者精神 1993年「「祈りの経営」に光明を見い出す」(駒井茂春)
    • [15]1963年にケントクは米国資本のジョンソン社と提携したが実質支配され、鈴木清一社長は追われるように去った
参考文献[1]-[18]
  • ダスキン 祈りの経営 ダスキンの30年 1963-1993 第2巻 1994年「企業年表」
    • [1]1979年10月8日、鈴木清一社長が西宮市の香雪記念病院に入院した
    • [2]1979年10月10日、鈴木社長の病床に全役員を招集して臨時役員会を開き、駒井副社長の社長代行を決定した
    • [3]1979年12月10日の臨時株主総会と取締役会で、鈴木社長は会長に、駒井副社長は代表取締役社長に就任した
    • [6]1980年12月22日、鈴木清一会長が入院先の阪大微研病院で死去した
    • [7]鈴木清一の享年は68歳8カ月だった
    • [9]1980年6月19日の第18回定時株主総会で資本金を9億9000万円に増資した
  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
    • [4]駒井茂春は1923年1月に大阪市で生まれ、1943年9月に大阪市立商科大学高等商学部を卒業して安宅産業に入社し、復員後の1957年11月にケントクへ入社した
    • [8]1980年時点でダスキンは上場するつもりはまったくないとしていた
    • [10]1980年時点でダスキンの資本金は9億9000万円、配当は40%で、上場資格は十分だった
    • [11]ダスキンは数年前から無借金経営で、上場しなくても資金は十分に調達できた
    • [12]株主は従業員・加盟店・納入業者ばかりで、高率配当をしても資金が外部流出せず内部に留まった
    • [13]全員がグループの構成員で利益はいずれ還元されるため、本部がもうかっていることへの批判は出なかった
    • [14]ダスキンは外資と提携はしても合弁事業は行わず、創業者鈴木清一の哲学が損なわれることを避けた
    • [16]ロイヤリティなど払うべきものは払い、あとは自社の責任でやるほうが責任を分担する甘えた姿にならずに済むとした
    • [17]ミスタードーナツのロイヤリティは当初売上高の3.35%だったが、100店を超えた時点で交渉し直して1.85%に引き下げた
    • [18]株式の保有比率より販売の大半を引き受けている側のほうが企業への影響力は強いと駒井社長は述べた
  • 日経ベンチャー別冊 創業者精神 1993年「「祈りの経営」に光明を見い出す」(駒井茂春)
    • [5]ケントクの入社試験は技術者募集で、物理・化学を白紙で提出した駒井茂春のもとを試験官だった鈴木清一社長が数日後に訪ね、約三時間話し込んだうえで採用を決めた
    • [15]1963年にケントクは米国資本のジョンソン社と提携したが実質支配され、鈴木清一社長は追われるように去った

1982年〜米国業態の量産と、撤収を前提にした新規開発

1982年10月1日、ダスキンは事業本部制と支社長制度を敷いた。同時にクリーンマネジメント事業本部が発足し、サービスマスター、ヘルスケア、化粧品の各事業を一人の本部長が統括する形に改めた。ヘルスケアは同年7月に始めた医療関連施設マネジメントサービスで、12月には第2号契約先の東京衛生病院でサービスに入っている。1982年の法人申告所得でダスキンは全体で460位、サービス部門では日本警備保障と東洋現像所に次ぐ3位に入った。1983年6月の第21回定時株主総会では、企業集団売上高1351億円が報告されている。化学ぞうきんのレンタルのために組んだ一つの営業組織では、増えた事業を動かしきれなくなっていた。

  • ダスキン 祈りの経営 ダスキンの30年 1963-1993 第2巻 1994年「企業年表」
    • [19]1982年10月1日、事業本部制の確立と支社長制度発足を中心とした組織・人事の改革を発令した
    • [20]1982年10月1日にクリーンマネジメント事業本部が発足し、初代本部長がサービスマスター・ヘルスケア・化粧品の各事業を統括した
    • [22]1982年12月15日、ヘルスケア事業が第2号契約の東京衛生病院でサービスを開始した
    • [23]1982年の法人ランキングでダスキンは460位、サービス部門では日本警備保障・東洋現像所に次ぐ第3位だった
    • [24]1983年6月23日の第21回定時株主総会で企業集団売上高1351億円の達成が報告された
  • ダスキン 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1982年7月 米国サービスマスター社との事業提携による医療関連施設のマネジメントサービス事業を開始

駒井社長の下で、ダスキンは米国で完成した業態を次々に買い付けた。工具や日用品を貸すユナイテッドレントオール、水産物を売るロングジョンシルバーに続き、1985年12月にはマックファーデン・ベンチャーズ社とスチュードベーカーズ事業の提携に調印した。1988年11月には日本初のダイナーレストランであるエド・デベヴィックスを大阪府枚方市に、同じ月にサーカスレストランのカーニバルプラザ市川スタジアムを千葉県市川市に開いている。買った業態は品質も味付けも米国流のままとし、日本に合わせて変えるのは土地の値段と立地に縛られる建物と、接客の側だけに限った。1989年2月20日には、ミスタードーナツの太平洋地域11カ国のフランチャイズ営業権を譲り受ける契約に調印した。ノウハウを買う側だったダスキンが、地域の営業権ごと引き取る側へ回った。

  • ダスキン 祈りの経営 ダスキンの30年 1963-1993 第2巻 1994年「企業年表」
    • [25]1980年にロングジョンシルバーのフランチャイズ第1号店が埼玉県熊谷市にオープンし、同年にはユナイテッドレントオール事業の直営3店が第2期目で黒字を計上した
    • [26]1985年12月25日、マックファーデン・ベンチャーズ社との間でスチュードベーカーズ事業提携の基本合意書に調印した
    • [27]1988年11月18日、日本初のダイナーレストランであるエド・デベヴィックス枚方バイパスショップを大阪府枚方市にオープンした
    • [28]1988年11月25日、サーカスレストランのカーニバルプラザ市川スタジアムがオープンした
    • [30]1989年2月20日、ミスタードーナツ太平洋地域11カ国のフランチャイズ営業権の譲渡契約に調印した
  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
    • [29]品質・味付けとも100%米国流とし、日本的なアレンジは土地の値段や立地に応じた建物とサービスの面で行った

買った業態のすべてが残ったわけではない。基礎衣料のエスプランジェは1983年5月に始めて1990年に撤収し、米トライケム社のペインティングアートは1985年に検証へ入って1990年3月に畳んだ。1986年3月に発足したサービスディレクション事業部と、同じ年の4月に発足したスチュードベーカーズ事業部は、どちらも1992年に撤収された。また1989年4月に第1号店を出した靴工房事業も1993年に撤収している。駒井社長は新規事業の担当者に対し、損益分岐点に達する時期はいつか、そこまでに累積赤字も含めた純投資額はどれだけ必要か、本当に黒字化するのはいつかという三つの問いを必ず投げかけ、これに答えられない者には担当させなかった。

  • ダスキン 祈りの経営 ダスキンの30年 1963-1993 第2巻 1994年「企業年表」
    • [31]1983年5月に第1回専門商品(基礎衣料)研修会を開催してエスプランジェ事業が始まり、1990年に撤収した
    • [32]1985年に米トライケム社が開発したペインティングアートのプロジェクトが発足して検証活動を始め、1990年3月に撤収した
    • [33]1986年3月25日にサービスディレクション事業部が、同年4月4日にスチュードベーカーズ事業部が発足し、いずれも1992年に撤収した
    • [34]1989年4月1日に靴工房事業部第1号店の梅田北ショップがオープンし、1993年に撤収した
  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
    • [35]新事業の担当者には、いつ損益分岐点に達するかの見通し、累積赤字を含めて必要な純投資額、黒字転換の時期の三つを問い、答えられない人間には担当する資格がないとした
参考文献[19]-[35]
  • ダスキン 祈りの経営 ダスキンの30年 1963-1993 第2巻 1994年「企業年表」
    • [19]1982年10月1日、事業本部制の確立と支社長制度発足を中心とした組織・人事の改革を発令した
    • [20]1982年10月1日にクリーンマネジメント事業本部が発足し、初代本部長がサービスマスター・ヘルスケア・化粧品の各事業を統括した
    • [22]1982年12月15日、ヘルスケア事業が第2号契約の東京衛生病院でサービスを開始した
    • [23]1982年の法人ランキングでダスキンは460位、サービス部門では日本警備保障・東洋現像所に次ぐ第3位だった
    • [24]1983年6月23日の第21回定時株主総会で企業集団売上高1351億円の達成が報告された
    • [25]1980年にロングジョンシルバーのフランチャイズ第1号店が埼玉県熊谷市にオープンし、同年にはユナイテッドレントオール事業の直営3店が第2期目で黒字を計上した
    • [26]1985年12月25日、マックファーデン・ベンチャーズ社との間でスチュードベーカーズ事業提携の基本合意書に調印した
    • [27]1988年11月18日、日本初のダイナーレストランであるエド・デベヴィックス枚方バイパスショップを大阪府枚方市にオープンした
    • [28]1988年11月25日、サーカスレストランのカーニバルプラザ市川スタジアムがオープンした
    • [30]1989年2月20日、ミスタードーナツ太平洋地域11カ国のフランチャイズ営業権の譲渡契約に調印した
    • [31]1983年5月に第1回専門商品(基礎衣料)研修会を開催してエスプランジェ事業が始まり、1990年に撤収した
    • [32]1985年に米トライケム社が開発したペインティングアートのプロジェクトが発足して検証活動を始め、1990年3月に撤収した
    • [33]1986年3月25日にサービスディレクション事業部が、同年4月4日にスチュードベーカーズ事業部が発足し、いずれも1992年に撤収した
    • [34]1989年4月1日に靴工房事業部第1号店の梅田北ショップがオープンし、1993年に撤収した
  • ダスキン 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1982年7月 米国サービスマスター社との事業提携による医療関連施設のマネジメントサービス事業を開始
  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
    • [29]品質・味付けとも100%米国流とし、日本的なアレンジは土地の値段や立地に応じた建物とサービスの面で行った
    • [35]新事業の担当者には、いつ損益分岐点に達するかの見通し、累積赤字を含めて必要な純投資額、黒字転換の時期の三つを問い、答えられない人間には担当する資格がないとした

1988年〜在宅介護の採算づくりと、配達を本部へ戻したサーヴ100

米国のサービスマスター社とダスキンの提携は1983年にさかのぼり、このときは病院衛生管理サービスの導入が目的だった。1987年ごろ、同社は都内に住む高齢者数十人に面接で調査し、自宅で介護サービスを受けられるなら使いたいとする回答が多いことを確かめた。ただ自社には介護のノウハウがなかった。そこで組む相手に選んだのが、再びサービスマスター社だった。ホームヘルスケア事業部の正式発足は1988年7月16日で、杉並区での在宅介護事業は1989年1月に始まった。当初のヘルパーは7人だった。同年3月には東京の河北総合病院で在宅ケアサービスのパイロットテストを始めている。同病院は8年ほど前から在宅医療に力を注いでいたが、看護婦が身の回りの世話まで担う余裕はなく、医療は病院、介護はダスキンという役割分担で提携がまとまった。

  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [36]1987年ごろ都内の高齢者数十人に面接調査を行い、在宅介護サービスがあれば使いたいとの回答が多く潜在需要が大きいことが分かった
    • [37]在宅介護のノウハウがなかったため、病院衛生管理サービスのノウハウ導入で1983年に提携した米国のサービスマスター社と再び提携した
    • [39]ダスキンが杉並区で在宅介護事業を開始したのは1989年1月で、営業区域は杉並区とその周辺だった
    • [40]在宅介護事業は当初ヘルパー7人でスタートした
    • [42]河北総合病院は8年ほど前から在宅医療に力を注いでいたが看護婦が身の回りの世話をする余裕はなく、医療面は病院、介護はダスキンという役割分担で提携が決まった
  • ダスキン 祈りの経営 ダスキンの30年 1963-1993 第2巻 1994年「企業年表」
    • [38]1988年7月16日、ホームヘルスケア事業部が正式に活動をスタートした
    • [41]1989年3月1日から6日にかけて、ホームヘルスケア事業が東京の河北総合病院で在宅ケアサービスのパイロットテストを開始した

人手に頼るサービスが事業として成り立つかどうかは、採算の組み方で決まった。1991年の杉並では看護婦3人、ソーシャルワーカー1人、ヘルパー63人で47人を介護し、顧客1人あたりの月額は8万5000円、収入は420万円ほどで、その半分近くが人件費だった。ヘルパー50人程度の店舗なら月750万円の売上高で黒字になる計算で、高額所得者の多い目黒の客単価は16万円に達した。新たに雇うヘルパーには介護実習と講義を合わせて104時間の研修を課したが、折り込み求人50万部から研修を終えるのは6人にとどまり、1人あたり約14万3000円の養成費がかかった。杉並では2年で3分の2のヘルパーが入れ替わった。1989年7月には一般家庭の清掃を代行するメリーメイド事業も始まっている。

  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [43]1991年時点の杉並は看護婦3人・ソーシャルワーカー1人・ヘルパー63人で47人を介護し、1カ月の顧客平均単価8万5000円、収入は420万円ほどでその半分近くが人件費だった
    • [44]ヘルパー50人程度の店舗なら月750万円の売り上げが見込めれば黒字になることが分かった
    • [45]目黒はヘルパー28人と規模は小さいが高額所得者が多く住む地域で、ひと月の客単価は16万円だった
    • [46]新たに雇うヘルパーには介護実習6割・講義4割の合計104時間の研修を実施した
    • [47]折り込み求人広告50万部から研修を終えるのは6人で、1人当たり約14万3000円の経費がかかった
    • [48]杉並では2年で3分の2のヘルパーが入れ代わった
  • ダスキン 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1989年7月 米国サービスマスター社との事業提携によるメリーメイド事業を開始

1993年3月1日、ダスキンは第二の創業を掲げた新しいフランチャイズシステムであるサーヴ100の構想を発表した。サーヴ100は全国の支店とフランチャイズ契約を結んだ独立事業者の呼び名で、1000事業所と2000世帯を責任ユニットとして受け持ち、サーヴ車で配達と営業にあたる形とした。同年10月1日、全国53支店と29支社、総勢365人で活動が始まった。直営配送センターは前日の午後9時まで注文を受け、サーヴ車ごとに仕分けて当日午前7時までに担当支店へ届ける段取りを組んだ。同じ日に営業所は支店へ改称され、メリーメイドとターミニックスの紹介業務も担わせた。加盟店に預けてきた末端の配達を、本部の引いた線の上へ載せ直す試みだった。

  • ダスキン 祈りの経営 ダスキンの30年 1963-1993 第2巻 1994年「企業年表」
    • [50]1993年3月1日、愛の店グループ働きさん勉強会で「第二の創業」を掲げた新フランチャイズシステム「サーヴ100」構想が発表された
    • [51]サーヴ100は全国59支店とフランチャイズ契約を交わした独立事業者の名称で、サーヴ車を駆動して1000事業所・2000世帯の責任ユニットのお世話と営業を実践する仕組みだった
    • [52]1993年10月1日、全国53支店と29支社で「サーヴ100」活動を開始し、総勢365人がスタートした
    • [53]直営配送センターは前日午後9時まで注文を受け付け、サーヴカーごとにワゴンピッキングを行い、当日午前7時までに商品を担当支店へ配送した
    • [54]1993年10月1日、全国を4ブロックに分割して地域担当役員を置き、ダスキン事業本部の各営業所を支店に名称変更した
  • ダスキン 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1993年10月 新フランチャイズシステム「ダスキンサーヴ100」開始
参考文献[36]-[55]
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [36]1987年ごろ都内の高齢者数十人に面接調査を行い、在宅介護サービスがあれば使いたいとの回答が多く潜在需要が大きいことが分かった
    • [37]在宅介護のノウハウがなかったため、病院衛生管理サービスのノウハウ導入で1983年に提携した米国のサービスマスター社と再び提携した
    • [39]ダスキンが杉並区で在宅介護事業を開始したのは1989年1月で、営業区域は杉並区とその周辺だった
    • [40]在宅介護事業は当初ヘルパー7人でスタートした
    • [42]河北総合病院は8年ほど前から在宅医療に力を注いでいたが看護婦が身の回りの世話をする余裕はなく、医療面は病院、介護はダスキンという役割分担で提携が決まった
    • [43]1991年時点の杉並は看護婦3人・ソーシャルワーカー1人・ヘルパー63人で47人を介護し、1カ月の顧客平均単価8万5000円、収入は420万円ほどでその半分近くが人件費だった
    • [44]ヘルパー50人程度の店舗なら月750万円の売り上げが見込めれば黒字になることが分かった
    • [45]目黒はヘルパー28人と規模は小さいが高額所得者が多く住む地域で、ひと月の客単価は16万円だった
    • [46]新たに雇うヘルパーには介護実習6割・講義4割の合計104時間の研修を実施した
    • [47]折り込み求人広告50万部から研修を終えるのは6人で、1人当たり約14万3000円の経費がかかった
    • [48]杉並では2年で3分の2のヘルパーが入れ代わった
  • ダスキン 祈りの経営 ダスキンの30年 1963-1993 第2巻 1994年「企業年表」
    • [38]1988年7月16日、ホームヘルスケア事業部が正式に活動をスタートした
    • [41]1989年3月1日から6日にかけて、ホームヘルスケア事業が東京の河北総合病院で在宅ケアサービスのパイロットテストを開始した
    • [50]1993年3月1日、愛の店グループ働きさん勉強会で「第二の創業」を掲げた新フランチャイズシステム「サーヴ100」構想が発表された
    • [51]サーヴ100は全国59支店とフランチャイズ契約を交わした独立事業者の名称で、サーヴ車を駆動して1000事業所・2000世帯の責任ユニットのお世話と営業を実践する仕組みだった
    • [52]1993年10月1日、全国53支店と29支社で「サーヴ100」活動を開始し、総勢365人がスタートした
    • [53]直営配送センターは前日午後9時まで注文を受け付け、サーヴカーごとにワゴンピッキングを行い、当日午前7時までに商品を担当支店へ配送した
    • [54]1993年10月1日、全国を4ブロックに分割して地域担当役員を置き、ダスキン事業本部の各営業所を支店に名称変更した
  • ダスキン 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1989年7月 米国サービスマスター社との事業提携によるメリーメイド事業を開始
    • [55]1993年10月 新フランチャイズシステム「ダスキンサーヴ100」開始

出典・参考

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出典・参考
  • ダスキン 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
  • ダスキン 祈りの経営 ダスキンの30年 1963-1993 第2巻 1994年「企業年表」
  • 日経ベンチャー別冊 創業者精神 1993年「「祈りの経営」に光明を見い出す」(駒井茂春)

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