「本業」と会長依存からの決別——事業5分割と専任役員制

好業績のさなか、飯田亮会長はなぜ自らへの依存を薄めようとしたか

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時期 1991年12月
意思決定者 飯田亮 会長
論点 経営体制と新規事業の推進
概要
1991年12月1日、28期連続増収増益を続けるセコムが、グループ事業を5分野に対等分割し、それぞれに専任役員を置く大規模な組織改革を実施した経営判断。中核のセキュリティー事業を「本業」の地位から降ろし、創業者・飯田亮会長への意思決定の集中を薄めることで、新規事業の自立を促す狙いであった。
背景
セコムの収益は、売上高の7割超を占める機械化セキュリティー事業に大きく依存していた。この事業が「打出の小槌」として連続増益を支える一方、新規事業はセキュリティーの企画部門や飯田会長の判断に「おんぶ」する体質から抜け出せず、大企業病の兆しが指摘されていた。
内容
事業をセキュリティー・周辺・情報処理・海外・メディカルの5分野に分け、それぞれに専任役員を配置して事業責任を明確にした。セキュリティー事業には小峰顕一社長を専念させ、一事業の責任者と位置づけた。飯田会長は「いつまでも僕に頼るな」と述べ、自らのマネジメントを希薄にして人材を育てる意図を示した。
含意
好業績のさなかに、創業者が自らへの求心力を意図的に薄める改革であった。事業責任者に権限を委ね、最も業績を上げた者を後継とする分権的な体制へ移す試みは、医療・情報・海外といった新規事業を次の柱へ育てる前提づくりでもあった。
筆者の見解

カリスマが求心力を手放すということ

この改革の際立った点は、業績が悪化したからではなく、28期連続増収増益という絶頂のなかで断行されたことにある。収益の大黒柱と、その事業を一人で牽引してきた創業者——その二つに寄りかかれるうちに、あえて寄りかかれない仕組みへ組み替えた。飯田亮会長が「僕のマネジメントを段々希薄にする」と語ったように、これは求心力を強める方向ではなく、意図して薄める方向の判断であった。強い創業者が自らの影響力を制度的に引き下げる試みとして読むことができる。

もっとも、本業が突出して強い企業で新規事業を対等に扱うことには、たえず引力が働く。セキュリティーが「打出の小槌」であり続けるかぎり、資源も人材もそこへ吸い寄せられやすい。飯田会長が危惧した大企業病、すなわち挑戦を避け本業に安住する空気は、分権の体制を用意しただけで消えるものではない。会長依存からの決別という号令が、その後どこまで組織の体質を変えたか——好調な本業を抱えた企業が多角化と向き合ううえで、この改革はひとつの実験だったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「打出の小槌」と本業依存

セコムは1992年3月期で28期連続の増収増益が確実視されるほど、好調な業績を続けていた。連続増益を支えていたのは、売上高1335億円(1991年3月期)の74%近くを占める機械化セキュリティー事業であった。顧客に置いたセンサーと警報機を通信回線でつなぎ、異常があれば警備員が急行する仕組みは、機器を5年契約のレンタルとしてストック収入を生む「打出の小槌」となっていた。全国5000社の警備会社のうち機械化を手掛けるのは約700社にとどまり、小峰顕一社長はシェアが6割に達しているとみていた[1]

本業が強すぎることには、別の面での重荷が伴っていた。新規事業はセキュリティー事業に収益面でおんぶし、企画部門もセキュリティー会社の中に置かれて他事業へ無料で機能を提供する格好になっていた。飯田亮会長は警報装置から消火器まで商品開発の陣頭指揮をとってきており、グループ戦略会議でもセキュリティー以外の議題になると会長の話を拝聴するだけになりがちであった。社内には、これだけ本業で儲かっている以上、新規事業に資金を投じなくてもよいという空気も生まれ、大企業病の兆しがうかがえた[2]

決断

事業の5分割と専任役員制

1991年12月1日、セコムは大規模な組織改革を実施した。グループ事業をセキュリティー・周辺事業・情報処理・海外・メディカルの5分野にはっきり分け、中核のセキュリティー事業を「本業」の地位から降ろして、ほかの新規事業をこれと同等に位置づけた。それぞれの分野に専任の役員を張りつけて事業責任を明確にし、セキュリティー会社の中にあった企画部門も、セキュリティー企画とグループ企画とに分けて人件費が本業に寄りかからないようにした。狙いは、収益の大黒柱であるセキュリティーと経営の大黒柱である飯田会長とに甘えず、責任を持って新規事業を育てさせる点にあった[3]

徹底ぶりを示したのは、セキュリティー事業の担当役員にセコム本体の小峰顕一社長を当てた点であった。飯田会長がグループを率いるCEO、社長がCOOという構成をとってきたが、今回は社長をグループ戦略から解き放ち、セキュリティー事業に専念させ、「セキュリティー事業部長」と呼べる位置づけへ移した。飯田会長はこの改革に、事業上の理由に加えて自らのマネジメントを段々希薄にして人材を育てる意味を込めており、「いつまでも僕に頼るな」という考えを明確にしていた[4][5]

結果

分権による新規事業の後押し

改革は、新規事業を次の柱へ育てるための足場づくりであった。飯田会長は、自分は創業者として一人で全てを見てきたが、次の代からは一人が全部を見るのは無理だとして、事業責任者がそれぞれ独創性を持って担う分権的な体制へ移す考えを示した。最も業績を上げた者を後継にするという方針は、カリスマ一人に頼らない経営への転換を意図していた。会長依存を薄めることは、新規事業への投資を白い目で見る空気を改め、挑戦する人材を育てる狙いと一体であった[6]

分権化が支えようとした新規事業は、その後に形をとっていった。1994年4月には子会社が担ってきた在宅医療事業を「セコム在宅医療システム」として独立させ、メディカル分野を本格展開へ進めた。情報処理や海外も含め、セキュリティーに次ぐ柱を育てる取り組みは続き、連結売上高はこの改革の翌1993年3月期に2440億円、1994年3月期に2575億円へと伸びた。本業に甘えないという号令のもとで、事業の多面化が進んでいった[7]

分権と新規事業育成という方向は、長い時間をかけて事業構成に表れた。セコムはセキュリティーを中核に置いたまま、防災・医療・保険・情報通信・地理空間情報へと事業を広げ、事業ポートフォリオはセキュリティーを含む6セグメントにまたがる形へ整った。2019年3月期には連結売上高が初めて1兆円を超えた。機械警備が生む安定したストック収益が、こうした保険・医療・防災・情報通信への多角化の原資となってきた。5分野への対等分割を掲げたこの改革は、その後の多角化を受け止める器の役割を果たした[8][9]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1992年2月24日号「セコム『本業』と会長への依存に決別 専任役員決め新規事業加速」
  • 日経ビジネス 1994年6月6日号「セコム 看護婦の採用認められ『在宅医療』展開に弾み」