在宅医療への参入と「医経分離」への一石
企業の医療参入を阻む規制のなかで、セコムはなぜ在宅医療に賭けたか
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- 概要
- セコムが1991年に在宅医療・訪問看護へ参入し、1994年に企業による看護婦採用が厚生省に認められたことを受けて「セコム在宅医療システム」を設立、全国展開へ動いた経営判断。倒産寸前の病院再建も引き受け、医療と経営を分ける「医経分離」の論議に一石を投じた。
- 背景
- セコムは「安心を売る」事業として、セキュリティーで培った24時間駆けつけの仕組みを医療領域へ広げようとしていた。しかし医療法は病院を開く主体を非営利に限り、企業の医療参入を認めていなかった。医療周辺分野であっても、民間企業の参入には拒絶反応に近いものがあった。
- 内容
- 1989年に米国の在宅医療会社HMSSを買収して在宅輸液療法のノウハウを蓄え、無菌調剤薬局を東京・大阪に設けて24時間の訪問看護に乗り出した。1992年には放漫経営で倒産寸前の久我山病院の再建を引き受け、社員を理事長に送り込んで収支を改善させた。1994年4月に在宅医療事業を新会社へ独立させ、看護婦を新会社所属に切り替えた。
- 含意
- 医療への企業参入を阻む規制と、確実に存在する高齢化ニーズとの間で、セコムは先行者利益を狙って長く赤字を覚悟する構えをとった。当時まだ約3億円の投資は、後にセコムの事業の柱の一つへと育つ医療・介護分野の入口であった。
規制の壁と、信頼という賭け
この参入の核心は、儲けの大きい市場へ乗り込む話ではなく、規制で守られた領域へどう足がかりを築くかという点にあった。医療法が企業の参入を阻み、医師以外の医療行為に厳しい線が引かれるなかで、セコムは在宅輸液療法や病院再建という迂回路から、制度の側に「医経分離」の議論を起こさせた。飯田亮会長が信頼の勝負どころとみたように、参入の論理は目先の採算ではなく、いったん信頼を得た者に長く続く先行者利益に置かれていた。規制と経営判断が絡み合う場面で、あえて制度の縁に踏み込んだ判断だったとみることができる。
もっとも、先行者利益という言葉は、裏を返せば長い赤字を正当化する論理にもなりうる。患者数が目標に遠く届かず赤字が続くなかで、10年・20年という時間軸を掲げ続けることは、本業のセキュリティーが潤沢な利益を生み続けるかぎりで成り立つ構えでもあった。医療・介護は確かに後にセコムの柱の一つへ育ったが、それは高齢化という追い風と、本業が支える体力があってのことといえる。規制の変化を待ちながら赤字事業を抱え続ける判断は、強い本業を持つ企業ゆえに取りえた選択だったとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「安心を売る」多角化と医療の壁
セコムは1981年に個人住宅向けのホームセキュリティーを始め、心臓病などの利用者がボタンを押せばコントロールセンターが救急車を手配する仕組みを提供してきた。異変を検知して人が駆けつけるという機械警備の型は、そのまま医療の領域へ広げられる余地があった。1991年6月、セコムは無菌調剤室を備えた調剤薬局を開設し、在宅医療・訪問看護サービスの提供を始めた。セキュリティー以外への多角化の第一歩であり、全国の拠点網と通信インフラを医療へ転用する狙いがあった[1]。
ただし、医療への参入には制度の厚い壁があった。日本では医療法により病院などの医療機関を開く主体は非営利が原則と決められ、民間企業の参入は認められていなかった。医療周辺分野であっても企業の参入には拒絶反応に近い空気があり、厚生省は企業が看護婦を雇うことにも難色を示していた。そのため在宅医療でも、当初は提携先の医療機関から看護婦を派遣してもらう形をとらざるを得ず、提携先が見つからなければ地域へのサービス拡大もできなかった[2]。
決断
在宅輸液療法と病院再建
セコムは1989年に米国の在宅医療会社HMSSを買収し、同社の専門である在宅輸液療法のノウハウを蓄えていた。輸液療法は、腸が短かったり手術で腸の大部分を失った患者や、口から食事ができないがん末期の患者を対象に、鎖骨あたりから心臓近くの太い静脈にカテーテルを差し込んで高カロリーの点滴栄養剤を供給する治療である。セコムは無菌調剤薬局で栄養剤を調製し、24時間体制で看護婦が駆けつける仕組みを整えた。医師以外がカテーテルをつなぐ行為は原則として認められないという規制のなかで、在宅医療の運営を積み上げていった[3]。
参入の本気度を映し出したのが、病院再建への関与であった。1992年、放漫経営で毎月3000万円の欠損を出し累損10億円を超えていた世田谷区の久我山病院について、経営する社会福祉法人康和会がセコムに支援を打診した。セコムは社員の吉田誠二氏を理事長に送り込み、過剰な人件費と患者受け入れ努力の欠如にメスを入れ、常勤医・非常勤医を絞って人件費を月1000万円削減、入院患者を増やして収支を大幅に改善させた。民間企業が正面から病院経営に当たる初のケースであり、医療と経営を分ける「医経分離」の論議に一石を投じた[4]。
看護婦採用の認可と新会社設立
1994年、風向きが変わった。厚生省が企業による看護婦の採用を認めたことで、セコムは提携先に頼らず自由に地域展開できる体制を得た。同年4月1日付で新会社「セコム在宅医療システム」を設立し、それまで子会社が担ってきた在宅医療事業を独立させて、提携医療機関に所属していた看護婦をすべて新会社の所属に切り替えた。東京・大阪・名古屋に限られていた訪問看護サービスは、仙台を皮切りに、2年以内に札幌・福岡、3年後に広島へと、政令指定都市を軸に全国へ広げる計画が立てられた[5]。
もっとも、看護婦を自前で雇えるようになっても、在宅医療の普及には別の壁が残っていた。医師以外の者がカテーテルをつなぐ行為は違法とされ、在宅で看護婦にその行為を任せることには医師側の抵抗が強かった。在宅医療に関心を持つ医師自体がまだ限られ、医療行為を部分的にせよ看護婦に委ねることに躊躇する医師も少なくなかった。制度上の参入資格を得ても、現場で医師の理解を広げることが、事業拡大の次の課題として残った[6]。
結果
先行者利益への長期戦
事業の採算は、当初から長い時間軸で捉えられていた。セコムがこれまで在宅医療に投じた金額は約3億円で、年間経常利益が300億円強であることを考えれば投資負担は小さかった。それでも患者数は伸び悩み、3年後の患者数500人という目標に対して1994年5月末で99人にとどまり、赤字が続いていた。同社は在宅医療事業がなお4、5年は赤字が続くとみながら、「じっくり育てて10年、20年後には新たな本業の柱として大きく花を開かせたい」という長期戦の構えをとった[7]。
医療参入は、周辺の事業とも結びついていった。セコムは1993年から、ホームセキュリティー契約者向けに24時間無料で健康・医療相談に応じる「ほっと健康ライン」を展開し、同年に介護専門の会社を買収して1994年4月から介護サービスにも乗り出した。在宅医療で先行者となることは、飯田亮会長が信頼の勝負どころとみた領域であった。これらの事業は2002年にセコム医療システムへと統合され、当初は赤字を覚悟した医療・介護分野は、後にセコムの事業の一角を占めるまでに育っていった[8]。
- 日経ビジネス 1994年6月6日号「セコム 看護婦の採用認められ『在宅医療』展開に弾み」
- 日経ビジネス 1992年11月16日号「放漫経営で倒産寸前の病院急増 セコムの再建、医経分離論議に一石」
- セコム 有価証券報告書【沿革】