電卓の価格競争から降り、半導体と液晶という独自デバイスに賭けた転進

1973年実施

安売り競争を続けるか、半導体と液晶という自前の技術に活路を求めるか——電卓戦争のさなかの選択

更新:

時期 1973年6月
意思決定者 早川徳次(社長)・佐伯旭(後継社長)・佐々木正氏(技術担当)
論点 価格競争からの転進と独自デバイスへの多角化
概要
1964年に世界初のオールトランジスタ電卓CS-10Aで電卓時代を開いた早川電機工業(現・シャープ)が、カシオ計算機らとの安売り競争のなかで価格の消耗戦から降り、半導体の内製化(1970年 天理・総合開発センター)と液晶(1973年 世界初の液晶電卓EL-805)という自前のデバイスへ技術を寄せた判断。
背景
電卓市場には1969年までに18社が参入し、計算能力1桁あたり1万円割れを焦点とする安売り競争が激化、採算悪化で生産を止めるメーカーも出た。先発のシャープも、価格だけで競い合う消耗戦の岐路に立った。
内容
1970年に社名を早川電機工業からシャープへ改め、佐伯旭社長のもとで半導体を天理の総合開発センターで内製化した。LSIを米ロックウェル社から導入して自社生産へ切り替え、佐々木正氏らが低消費電力の集積回路と液晶を1枚のガラス基板にまとめるCOS方式を確立、1973年に単3電池1本で100時間動く世界初の液晶電卓EL-805を発売した。
含意
「シャープは半導体投資でつぶれる」との懐疑のなか、価格ではなく自前の基幹デバイスで差をつける道を選んだ。この液晶への投資が、のちに「液晶王国」と呼ばれた収益基盤の原点になった。
筆者の見解

価格で競うか、自前の技術で差を作るか

この判断の核心は、勝者の見えない価格競争から降り、半導体と液晶という自前の基幹デバイスに技術と資金を寄せた点にある。電卓は、1桁1万円を割るかどうかを競う消耗戦に沈みつつあった。そこでシャープが選んだのは、より安く作る競争に踏みとどまることではなく、他社がまだ持たない部品を自分で作り、その部品で製品の中身に差をつける道だった。「シャープは半導体投資でつぶれる」と言われながら投資を続けた点に、目先の採算より技術の蓄積を優先する経営の色がにじむ。

もっとも、この選択は一本道の成功ではなかった。電卓の回路を発展させたマイコンでは米インテルに主導権を奪われ、後年の液晶への集中投資は、大型パネル工場への巨額投資と業績の急降下をへて、2016年の経営権の移動につながっていく。それでも、価格で消耗するより自前の技術で違いを作るという1970年代の選択が、「液晶王国」と呼ばれた時代の輝きと、その後の試練の双方の出発点になった。価格競争のさなかに独自デバイスへ賭けたこの決断は、技術で立つ企業が向き合い続ける問いを、早くに経営の中心へ据えた例といえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

世界初の電卓と、始まった安売り競争

早川電機工業(現・シャープ)は1964年3月、机の上に置ける計算機として世界で初めてすべてを半導体のトランジスタで組んだ「コンペット CS-10A」を発売した。真空管を使わず約530個のトランジスタと2300個のダイオードを並べ、重さは25キロ、価格は当時の小型乗用車に近い53万5000円に達した。個人が気軽に買える品ではなかったが、速く静かに答えを出すこの機械は、シャープを電卓という新しい市場の先頭に立たせた[1]

電卓が花形商品になると、参入が相次いだ。早川電機や東芝といった電機メーカーに、キヤノンやカシオ計算機などカメラ・事務機のメーカーも加わり、1969年には作り手が18社に達した。3か月に1度の新型投入と値下げが続き、計算能力1桁あたり1万円を割るかどうかが焦点になった。採算の悪化で生産を止めるメーカーも出るなか、先発のシャープも、価格だけで競い合う消耗戦の岐路に立った[2]

家電からエレクトロニクスへの転進

1970年1月、同社は社名を早川電機工業からシャープへ改め、家電からエレクトロニクスへ主力を移そうとした。電卓でも回路の集積が進み、部品はトランジスタからIC、さらにLSI(大規模集積回路)へと減っていった。当初はLSIを米ノースアメリカン・ロックウェル社から輸入していたが、シャープはこれを天理工場での自社生産へ順次切り替え、全LSI化した「マイクロコンペット」を1969年12月から国内で売り出した。基幹部品を自前で握る動きが、ここから始まった[3]

決断

半導体を自前で持つという賭け

社名を改めた1970年、経営も代替わりした。同年9月、専務の佐伯旭氏が社長に就き、創業者の早川徳次氏は会長へ退いた。佐伯氏のもとでシャープは、半導体の研究と量産を担う総合開発センターを奈良県天理市に建てた。他社の多くが外から部品を買って組み立てるなか、自前で半導体を作る設備に資金を投じる選択は、規模で勝る大手を相手にした重い賭けだった[4]

この投資には冷ややかな声もつきまとった。同業や市場からは「シャープは半導体投資でつぶれる」との見方さえ出た。それでも同社は、半導体需要の伸びは読み切れないものの電子化の流れそのものは間違いないと信じ、3年から5年の苦労は覚悟していたと後年振り返る。価格を下げ合う電卓の消耗戦から一歩引き、自前の基幹デバイスで製品の中身に差をつける道に、シャープは資源を寄せていった[5]

液晶という独自デバイス——COSとEL-805

技術面を引っ張ったのが、1964年に神戸工業から移り、のちに副社長を務めた佐々木正氏である。佐々木氏は、消費電力の小さいモス型の集積回路(MOS・LSI)を電卓に採用し、表示装置にも消費電力の少ない液晶を選んだ。回路と液晶表示、配線を1枚のガラス基板にまとめるCOS(カルキュレーター・オン・サブストレート)という独自方式に行き着き、これがのちの液晶技術の土台になった[6]

1973年6月、シャープはCOS方式による世界初の液晶電卓「EL-805」を発売した。厚さ2センチ弱の薄い本体は、単3電池1本で100時間動いた。蛍光表示管を光らせる当時の電卓が単3電池数本で数時間しかもたなかったことを思えば、消費電力の差は桁違いだった。価格は2万6800円。集積回路と液晶表示を1枚のガラス基板にまとめた設計が、低い消費電力と小型・軽量を同時に実現し、電卓を手のひらに載る日用品へと近づけた[7]

結果

電卓戦争の帰趨と、液晶への布石

価格の消耗戦そのものは、その後も続いた。1972年に6桁1万2800円の「カシオミニ」を出したカシオ計算機は、低価格の個人向けに徹し、1974年度には販売台数480万台、個人用電卓のシェア5割超で台数首位に立った。売上金額ではシャープが上回ったが、台数を競う争いは利益を削り、半導体への重い投資も重なって、シャープの手元の利益は社名変更の直後より薄くなった[8]

電卓依存から抜け出す狙いも、半導体・液晶への投資も、すぐには実らなかった。だが1965年前後から積み上げたエレクトロニクス戦略は、1970年代後半から利益となって表れ、シャープは安売りの中堅から高い利益率の総合エレクトロニクス企業へと姿を変えていく。液晶では、電卓で培った技術をTFT(薄膜トランジスタ)方式の大型パネルへつなぎ、テレビや情報機器の表示装置を自前の基幹デバイスとして持つ路線をとった。この積み重ねが、のちに「液晶王国」と呼ばれる収益基盤に育った[9]

出典・参考