シャープシャープ創業——金属繰出鉛筆から関東大震災を経て大阪のラジオメーカーへ
金属加工の徒弟修業を積んだ19歳・早川徳次 氏は、シャープペンシルの発明と震災後の大阪再起をどうラジオの国産化へ結びつけたか
- 概要
- 1912年9月、金属加工の徒弟修業を積んだ19歳の早川徳次 氏が東京市本所松井町で個人企業を開き、バックルや万年筆のキャップなど雑貨金具の下請け加工から出発した。1915年に金属繰出鉛筆を発明して自社製品を持つ文具メーカーへ転じ、1923年の関東大震災で工場・家族・特許を失った末、翌年大阪市阿倍野に早川金属工業研究所を設けてラジオ受信機の国産化へ進んだ。金属を扱う技術を軸に、文具から電機へ製品を乗り換えて再起した創業であった。
- 背景
- 早川徳次 氏は1893年に東京日本橋で生まれ、8歳で東京下谷区の金属加工業・坂田芳松方へ丁稚奉公に出された。金属プレスと打抜きを軸とするバックル・金具の加工に11年従事し、19歳で独立を認められている。当時の国内金具市場は輸入品が主流で、学歴のない徒弟上がりが自らの事業を興す道筋は限られていた。早川 氏は修業で得た技術と取引先からの信用を、そのまま個人企業の足場に転用した。
- 内容
- 早川 氏は芯を回転させて押し出す片手操作の金属繰出鉛筆を考案し、分解を要した舶来の片繰出式に対して文具問屋や小売店から継続の発注を得た。この自社製品の量産で下請けから文具メーカーへ転じ、第一次世界大戦下の欧米輸出も加わって1923年の震災直前には従業員約200名の規模へ広がった。エバーレディーシャープペンシルと名づけられたこの製品が、現在の社名の由来ともなっている。
- 含意
- 1923年の関東大震災で早川 氏は工場・自宅・家族を失い、返済不能となった借入金の代償にシャープペンシルの特許を日本文具製造へ無償で譲渡した。譲渡条件に含まれた関西での製造権と技術指導料の積み立てを足場に、1924年大阪でラジオ受信機の国産化へ転じ、1925年には輸入品の半額の鉱石ラジオを、1929年には真空管ラジオを輸入品の10分の1で売り出した。新しい技術を国産に置き換えて低価格で量産するという以後の型を、初期十数年で固めている。
金属の手仕事から電機メーカーへ
この創業から見えてくるのは、華やかな完成品ではなく、金属を打ち抜き曲げる下請けの手仕事から事業を起こした選択の意味である。早川 氏が最初に売ったのはバックルや万年筆の金具で、そこで培った金属加工の精度が、繰出鉛筆の量産にも、後の受信機部品の量産にも受け継がれていった。特定の完成品への思い入れではなく、金属を扱う一つの技術を軸に、扱う製品を文具から電機へと乗り換えていった柔らかさが、この会社の初期を貫いていたと読める。
もう一つ浮かぶのは、震災という破局が事業の向きを変えた経緯である。東京で文具メーカーとして築いた基盤を失い、特許まで手放した早川 氏は、譲渡条件として残った関西での製造権と資金を頼りに、まったく別のラジオという分野で立ち直った。失った文具事業に戻らず、輸入品の国産化という当時の空白へ向かった判断が、金属加工の下請けを関西の電機メーカーへと変えていったといえる。個人の職人技から出発した工房が、時代の必需品となる電機へ事業を移していった過程として読める。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
丁稚奉公から金属加工の職人へ
早川徳次 氏は1893年に東京日本橋で生まれ、生母を失ったのち継母との折り合いがつかず、8歳で東京下谷区の金属加工業・坂田芳松方へ丁稚奉公に出された[1]。坂田方では金属プレスと打抜きを軸とするバックル・金具の加工に従事し、11年間の徒弟修業を積んで19歳で独立を認められている[2]。尋常小学校もろくに通えないまま職人の世界へ入った少年が、金属を打ち抜き曲げて製品へ仕上げる手仕事を、住み込みの歳月をかけて身につけていった。
早川 氏が独立した当時、国内の金具市場は舶来品が主流で、国産の下請けは雑貨金具を中心に小規模な工房が乱立していた。学歴のない徒弟上がりが自らの事業を興す道筋は限られ、資金も後ろ盾も乏しかった。早川 氏は坂田方での修業で得た金属加工の技術と、取引先から積み重ねた信用を、そのまま個人企業の足場に転用している[3]。手元にあったのは大がかりな設備ではなく、金属を扱う一組の手仕事の熟練であった。
決断
本所の個人工房と金属繰出鉛筆
1912年9月、早川 氏は東京市本所松井町に個人企業を開いた[4]。当初はバックルや万年筆のキャップといった雑貨金具の下請け加工を手がけ、輸入品が幅を利かせる金具市場へ国産の下請けとして参入している。有価証券報告書の沿革は、この年月をもって早川徳次 氏の個人企業としての創業と記録している[5]。数名の徒弟工を抱えるだけの小さな金属加工の工房が、後に関西を代表する電機メーカーへ育つ会社の出発点であった。
1915年8月、早川 氏は金属繰出鉛筆を発明し、後にエバーレディーシャープペンシルと名づけて売り出した[6]。舶来の繰出鉛筆は芯を出すたびに本体を分解する片繰出式が主流だったが、早川 氏は芯を回転させて押し出す機構と金属の外装を組み合わせ、片手で扱える構造に改めている[7]。この改良が文具問屋や小売店の継続発注を呼び、受託加工の職人から自社製品を持つ文具メーカーへ転じた。第一次世界大戦下の欧米への輸出も加わって事業は広がり、1923年の関東大震災の直前には従業員約200名の工場へ達し、現在の社名もこの製品に由来している[8]。
結果
関東大震災と大阪への再起
1923年9月1日の関東大震災で、本所松井町の工場と自宅はともに焼失し、早川 氏は妻と二人の幼児を含む家族を失った[9]。11年をかけて築いた事業の基盤も同時に崩れ、再建のための借入金は返済のあてを失っている。早川 氏は返済の代償として、自ら発明した金属繰出鉛筆の特許権を、債権者である文具卸の日本文具製造へ無償で譲渡した[10]。譲渡の条件には関西での製造権と技術指導料の積み立てが含まれ、譲渡先の工場で技術指導にあたる間に、関西で立て直すための資金が積み上がる仕組みになっていた。
1924年9月、早川 氏は大阪市阿倍野区に早川金属工業研究所を設立した[11]。譲渡したシャープペンシルの製造には戻らず、当時欧米から輸入されつつあった鉱石ラジオ受信機の国産化という新しい分野に取り組んでいる。有価証券報告書は、関東大震災により西下して大阪に研究所を設け、ラジオ受信機とその部品の製作を始めたと沿革に記している[12]。震災から再起まではおよそ1年で、事業の性格は東京時代の金属加工と文具から、大阪時代の電機部品と受信機へと書き換えられた。
ラジオの国産化と低価格量産
1925年3月に日本で初のラジオ放送が始まると、早川金属工業研究所は同年、自社で設計した国内初の鉱石ラジオ受信機を売り出した。価格は輸入品のおよそ半額にあたる3円50銭で、関西の家電販売店を通じて一般家庭へ広がっている[13]。鉱石ラジオは真空管を用いない受信機で、構造が単純な分だけ金属プレスの精度と組み立ての巧拙が製品の出来を左右した。シャープペンシルの量産で蓄えた金属加工の技術が、そのまま受信機部品の量産へ応用でき、関西の中堅メーカーが先発の輸入勢へ低価格の量産で挑む形ができあがった[14]。
1929年には真空管を使うラジオも国産化し、輸入品の10分の1という価格で市場へ投入した[15]。新しい技術を国産に置き換え、輸入品を下回る価格で量産して普及させるという進め方は、この時期の受信機事業で形をとり、以後の早川電機の製品づくりの型となっていった。1935年5月には資本金30万円で株式会社早川金属工業研究所として法人へ改組し、1942年5月に早川電機工業株式会社へ商号を変え、金属工業から電機メーカーへと自らの定義を改めている[16]。戦後の1949年5月には大阪証券取引所へ株式を上場し、公開企業として復興期の成長資金を調達する体制を整えた。
- 有価証券報告書(沿革)
- 経済展望 1970/2/1
- 実業の世界 1959/6