関電工土木・空調管・原子力工事への業域拡張と「関電工」への社名変更
業務の名前をそのまま社名にしてきた会社が、その名前で事業を説明できなくなったとき何を選んだか
- 概要
- 1984年9月、関東電気工事株式会社が商号を株式会社関電工へ変更した経営判断。1970年の土木工事・空調管工事への参入、1979年の原子力関連工事の営業開始を経て広がった事業範囲を、略称であった「関電工」を正式な商号に格上げすることで受け止めた。
- 背景
- 1970年2月の東証第一部指定を挟む1年余りのあいだに、仙台・信越・札幌の各支社設置と土木工事・空調管工事の営業開始が重なった。1979年7月には原子力関連工事の営業を始め、1981年10月にはシンガポールに初の海外拠点を置いた。
- 内容
- 社名から「電気工事」の四文字が外れた。同年11月には関工不動産管理㈱を設立し、翌1985年1月に東京工事警備㈱へ資本参加、同年5月には第1回無担保転換社債100億円を発行して、施工以外の領域と資金調達の手段を同時に広げた。
- 含意
- 商号の変更は事業の中身の変化に追いついたが、収益の出どころは変わらなかった。1998年の日経ビジネスは、電力会社への売り上げ依存度が電力会社系の同業のなかで突出して高い会社として関電工を取り上げている。
名前を変えても発注書は変わらない
社名の変更それ自体は、誰の取引条件も動かさない。1984年9月に「関東電気工事」の四文字が消えた日、工事現場も発注書も前日と同じであった。それでも改称を経営判断として読む価値があるとすれば、この会社が自分の事業をどう説明するかを一度決め直した点にある。電気工事という業務名は、発注元である配電会社の仕事の呼び名でもあった。その呼び名を社名から外すことは、発注元の外側に顧客を探すという宣言と重なる。
宣言から現実までは長かった。14年後の1998年、関電工はなお電力会社への依存度が同業のなかで最も高い会社として誌面に載り、リニューアル工事の専門部署をつくり、保守部門を県別の子会社へ移す作業に取りかかっていた。2025年3月期の完成工事高で屋内線・環境設備が3,506億円、配電線が1,267億円という比になるまでには、さらに四半世紀を要している。会社の名前は先に変えられるが、受注の内訳は年に一度しか動かない。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
1970年、営業網と業域を同時に広げた1年余り
1961年10月の東証第二部上場から9年、関東電気工事は営業の範囲と工事の種類を同じ時期にまとめて広げた。1970年1月に仙台支社、2月に信越支社を設け、その2月には土木工事の営業を始めると同時に東京証券取引所市場第一部へ指定された。資本金は17億円になっている。続く5月には空調管工事の営業を開始し、8月に札幌支社を置いた。翌1971年4月には第一企業㈱へ資本参加し、施工を担うグループ会社も抱えた[1]。
業域を広げる余地は、電力需要の伸びが与えた。単体の売上高は1971年3月期の605億円から1975年3月期に1,045億円、1980年3月期には1,933億円へ伸びている。ただし工事の種類ごとの構成を見ると、1975年3月期の受注工事高は屋内線工事が51%、配電線工事が29%で、土木も空調管もまだ「その他工事」21%のなかにあった。営業を始めたことと、収益の柱になることのあいだには距離があった[2][3]。
原子力工事と海外拠点
1979年7月、原子力関連工事の営業を始めた。東京電力が福島や新潟で原子力発電所の建設と運転の体制を広げていた時期にあたり、電気工事を担う側もその設備に対応する技術と資格を備える必要があった。原子力施設の電気工事は、工事の管理も要員の教育も一般の建築物とは別の規律で行われる。1973年6月に総合教育センターを設け、1974年4月の建設業法改正に合わせて特定建設業の許可を取得していたことが、この参入の下地にあたる[4]。
1981年10月にはシンガポールに事務所を置き、初めて国外に足場を構えた。日本の建設業が東南アジアや中東で仕事を取りに動いた時期で、関東電気工事も日系企業の進出に付き添う形で工事を請け負った。もっとも海外の売上高は連結の1割に届かず、拠点の規模も限られていた。1970年代からの十数年で加わったのは、土木、空調管、原子力、そして海外という四つの領域であり、いずれも「電気工事」という言葉の外側にあった[5]。
決断
社名から「電気工事」が外れた
1984年9月、関東電気工事株式会社は商号を株式会社関電工へ改めた。創業から40年使ってきた社名を捨て、日ごろ呼ばれていた略称をそのまま正式な商号に据えた。関東という地域名も、電気工事という業務名も、社名の表記からは消える。土木を請け、空調管を請け、原子力施設の電気工事を請け、国外にも拠点を持つ会社を、旧来の四文字で言い表すことは難しくなっていた[6]。
商号の変更は、事業の中身を変える判断ではなく、すでに変わった中身を認める判断であった。土木工事の営業開始から14年、空調管工事から14年、原子力関連工事から5年が経っている。社名を先に掲げて事業を追わせるのではなく、事業が広がりきったあとで名前を合わせにいった順序に、この会社の慎重さがうかがえる。同じ要綱で生まれた九州電気工事が「九電工」へ商号を改めたのは、5年後の1989年12月であった[7]。
施工の外側へ伸ばした手
改称の2か月後、1984年11月に関工不動産管理㈱を設立した。翌1985年1月には東京工事警備㈱へ資本参加して工事現場の警備を内側に取り込み、1987年7月には関工メンテナンスサービス㈱を設けて、引き渡したあとのビル設備を保守する事業に着手した。工事を受けて造り、引き渡して終わる商売から、造ったものの周りで継続的に代金を受け取る商売へ、手を伸ばす動きが続いた[8]。
資金の調達方法も同じ時期に変わった。1985年5月、第1回無担保転換社債100億円を発行している。東証第一部に指定された1970年の資本金が17億円であることを思えば、その6倍近い額を無担保の転換社債で市場から集めたことになる。1985年3月期の単体売上高は2,766億円、経常利益141億円、当期純利益53億円で、社名を改めた時点の関電工は、銀行借入に頼らずに投資原資を用意できる規模と信用に達していた[9][10]。
結果
改称から14年後の点検
1998年2月、日経ビジネスは関電工を「電力、ゼネコン依存から転換」の見出しで取り上げた。改正電気事業法による規制緩和で発電事業への新規参入が始まり、電気料金の引き下げを求められた東京電力は設備工事や保守の費用を抑えにかかる。総合建設会社の側も経営が悪化し、下請けに回す工事費を切り下げていた。星野聰史社長は、ゼネコンからの請負仕事について「採算が合わないほどひどいものは、お断りせざるを得ない」と述べている[11][12]。
同じ記事は、関西電力系のきんでんや中国電力系の中電工が早くから電力への依存を薄めてきたのに対し、首都圏という需要の大きい地域を受け持つ関電工は東京電力からの仕事が多く、コスト意識が緩んだままだったと指摘している。社員一人当たりの人件費も電力会社系の同業大手のなかで際立って重かった。手当てとして打たれたのが、ビルの改装に伴うリニューアル工事の専門部署の新設、保守・点検の受託の拡大、そして地域別に配電設備の保守部門を子会社へ移す措置であった。1997年10月に茨城・栃木・群馬・山梨・静岡、1998年7月に神奈川・千葉・埼玉の各ケイテクノを設立した動きが、これにあたる[13][14][15]。
名前が先取りした構成へ、40年かけて届く
商号を改めた翌年、1985年3月期の受注工事高は配電線工事が1,316億円で48%を占め、屋内線・空調管工事が1,084億円で39%、工務関係工事が365億円で13%であった。社名から「電気工事」を外した時点でも、受注の半分近くは電力会社の配電網に関わる工事が支えていた。総合設備工事業という自己申告と、帳簿に載る工事の中身とのあいだには、なお開きがあった[16]。
開きが埋まったのは40年後であった。2025年3月期の単体完成工事高5,831億円の区分別内訳は、屋内線・環境設備工事3,506億円、配電線工事1,267億円、工務関係工事616億円、情報通信工事441億円である。1984年に社名から外した「電気工事」の中核であった配電線は全体の2割強に退き、空調管工事を前身とする環境設備が屋内線と並んで六割を占めた。改称のときに掲げた総合設備工事業という説明に、数字のほうが後から追いついた[17]。
- 関電工 有価証券報告書【沿革】
- 関電工 有価証券報告書(2025年3月期)【生産、受注及び販売の状況】
- 会社年鑑(1976年版・1986年版)
- 日経ビジネス 1998年2月2日号「電力、ゼネコン依存から転換 顧客に密着し受注増狙う」
- クラフティア(旧 九電工)有価証券報告書【沿革】