太平洋戦争が始まって間もない1942年4月、配電統制令によって全国の配電会社は9社に集中され、大阪市や電力・電鉄など14の電気事業者が電気供給設備を現物出資して関西配電が誕生した[1]。関西配電が引き継いだ指定電気工事業者は近畿一円に140〜150軒あり、契約の方法も単価も工事方法も統合前のままで複雑多岐だった[2]。そこで1942年10月、大阪市内の主な業者19社が参加する関西電業株式会社の設立案がまとまったものの、逓信省が待ったをかけ、その電力行政部門が1943年11月発足の軍需省へ移管されたため逓信省案は流産した[3]。
軍需省が電気工事業整備要綱と実施要領、電気工事会社設立要領を発表したのは1944年4月で、電力統合から丸2年が過ぎていた[4]。近畿軍需監理部と関西配電の指導のもとで新会社設立の準備が始まったが、要綱に法的強制力がなく、業界があげて軍関係の工事に忙殺されていたため、脱落する業者が少なくなかった[5]。第一次統合に参加したのは立花商会、山田電気工業、浪速電気商会、中外電気工務所、東亜電気商会、京阪電気工事の6社で、1944年8月26日に立花商会本店で創立総会を開き、全国9地区のトップを切って近畿電気工事が大阪市に生まれた[6]。資本金250万円、6社から引き継いだ従業員641名での出発であり、社長には立花商会の佐竹則翁氏、常務取締役には山田電気工業の山田善太郎氏が就いた[7]。
9月1日、大阪市東区本町二丁目の本店で開業式を行ない、6社から引き継いだ20近い事業所をそのまま支店・出張所に切りかえて営業を始めた[8]。第二次統合はここから動いた[9]。1944年12月に和歌山電気工業所が参加したのを最初に、1945年7月ごろまでにほぼ完了し、和歌山、奈良、神戸、京都、滋賀、姫路の各支店が誕生して、統合に加わった業者は累計50社を超えた[10]。1945年3月14日の大阪空襲で本店社屋を焼失し、関西配電の好意で宇治電ビル9階に本店を移したのち、神戸、和歌山、姫路の各支店や堺、十三などの事務所も次々に焼けた[11]。それでも第1期にあたる1944年9月1日から1945年3月31日までに、工事収入348万2000円、利益金28万7000円を計上した[12]。
敗戦は近畿電気工事を存続の岐路に立たせ、連合軍最高司令官マッカーサーの来日前日にあたる1945年8月29日、軍需監理部、関西配電、近畿電気工事の幹部が集まって会社の将来を論議した[13]。同じ8月29日、創業以来、佐竹則翁社長の片腕として社業の基礎づくりに献身した山田善太郎常務が過労で世を去った[14]。軍需監理部には解散論を唱える者もいたが、関西配電専属の工事部門として存続させる結論に落ち着いた[15]。10月には、軍需省の廃止で電力行政を引き継いだ商工省が電気工事業刷新協議会を開き、電気工事業を育てる方針を決めた[16]。創業からまだ1年、50社を超える寄合世帯の会社であった[17]。
戦後の電気工事は進駐軍の電気設備の施工から始まった[18]。近畿電気工事は1946年1月のイギリス軍呉基地港湾部電気設備工事をはじめ、近畿各府県のほか呉、江田島、福岡などの地区で大規模な工事を受注し、施工した[19]。資材も人員も足りず、アウトレットボックスや埋込みタンブラスイッチがないため、木製ボックスや露出タンブラスイッチを代用に使った[20]。ところが1947年に入ると、進駐軍工事ブームの後退、建築制限令による一般工事の激減、受注競争の激化が重なる[21]。工事収入は1947年3月期8617万円、同年9月期1億1483万円、1948年3月期1億5077万円と伸びながら、利益率は3.5%、2%、1.3%と下がった[22]。
この苦境を関西配電の特修・特改工事が救った[23]。戦時中に酷使した供給施設の荒廃を直すため、1948年から発電所水路の改修や送・配電線の建替えと張替え、引込線の改修が復興金融公庫の融資で全国いっせいに行なわれ、近畿電気工事も全地域で施工にあたって、工事収入を1949年3月期の3億4526万円まで伸ばした[24]。ところが1949年4月、ドッジ・プランの実施で復興金融金庫の融資が止まり、特修・特改工事は全面的に止まった[25]。関西配電の仕事が圧倒的に多く一般工事の受注量はわずかだったため、営業第一線主義による配置転換、後方事務職員も参加させた受注獲得運動、設計部門の拡充を柱とする難局突破運動を起こし、全社で一般工事の獲得に動いた[26]。1949年10月には建設業法により建設大臣登録(イ)第83号を受け、同じ月に防爆工事の技術を開発した[27]。
1951年2月、近畿電気工事は大阪市北区南扇町に本店社屋を建てる計画を決め、4月28日に起工式を挙行した[28]。日建設計が設計し鴻池組が施工した鉄筋コンクリート造り2階建て355坪の社屋は、9か月の突貫工事で1952年1月に竣工し、宇治電ビル9階での6年間の間借りが終わった[29]。資金の面でも、1948年4月の500万円を第1回として、同年12月750万円、1949年6月1000万円、1950年11月3000万円と増資を重ね、1951年5月に資本金5000万円へ達した[30]。新本店の完成から5か月後の1952年6月14日、心臓病で療養していた佐竹則翁社長が死去し、7月1日に佐藤太氏が取締役会全員に推されて二代目社長となった[31]。
佐藤太氏は関西配電大阪支店の配電課長として近畿電気工事の創立に尽力した人物で、1947年に関西配電を退き、1948年2月に近畿電気工事の常任監査役へ移っていた[32]。1949年5月に常務取締役、1950年9月に専務取締役となり、一般電気工事業者が独占禁止法をタテに起こした外線解放運動では、公聴会の答弁や文書で防戦の矢面に立った[33]。社長就任後は組織づくりを進め、1953年に東京事務所を東京支社へ昇格させ、営業所に現業監督員と助手を配置して工事の機械化に乗りだした[34]。1954年4月には創業10周年記念事業の一環として大淀区大仁本町に技術員養成所を開き、工業高校電気科の卒業生を2年間教育訓練する外線科を設けた[35]。他の工事会社に例がないという批判が多いなかでの外線技術員養成であった[36]。
完成工事高は朝鮮動乱が始まった1950年9月期の4億6088万円から、1951年3月期に7億円、同年9月期に8億円を超え、1953年9月期に11億円、1954年3月期には14億円を突破し、利益率も1.3%から2.8%へ上がった[37]。1954年9月に迎えた創業10周年は資本金5000万円、従業員5000人、年間完工高30億円近くの規模で、10月1日に北区堂島の中央電気倶楽部で記念式典を開いた[38]。1955年11月には計装工事の技術を開発し、一般民間工事の受注も広げた[39]。資本金は1957年1月に9000万円、1959年10月に1億8000万円、1961年9月に3億8000万円と積み上がり、1961年10月2日、大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した[40]。
近畿電気工事は1961年2月、1960年度を基準年度とする五カ年計画を発表し、計画第5年度にあたる1965年度に年間完成工事高100億円を突破すること、利益4億5,600万円を確保することを基本目標に据えた[41]。ところが一般工事の契約が急増して1961年度のうちに目標へ届いたため、1962年1月、完成工事高の目標を1964年3月期に年間150億円とすることへ改めた[42]。1962年3月期の完成工事高は103億円に達した[43]。1961年秋の金融引締めにともなう建築投資抑制措置で、工事着工の延期や見積り引合いの激減が建設業界を襲うなか、関東をはじめとする新市場と公共投資へ営業を向け、1964年3月期には155億円に届いた[44]。
1961年5月29日、佐藤太社長が会長に退き、大森久司専務が3代目社長に就いた[45]。大森久司社長は就任挨拶で、前社長の確立した経営方針と長期計画を引き継ぎ、科学的経営管理方式を採用して経営を近代化すると述べた[46]。1962年1月には和と明朗、研究と努力、誠実と奉仕を社是に定め[47]、4月に創業以来の社報に代えて月刊の社内報『近畿電気ニュース』を創刊した[48]。1963年9月には資本金を7億5,000万円へ増資[49]。その前年の1962年8月には、スペインのヒホン市で開かれた第11回国際技能オリンピックの電工種目で、広島支社の石井広勝氏が世界10カ国の代表をおさえて優勝した[50]。
建設業では完成工事高1年分以上の手持工事をもつことが一流の目安とされ、その多寡が業績内容を示すものさしになっていた[51]。一般工事部門の手持工事高は、1959年9月期には完成工事高13億円に対して17億円にとどまっていたが、1962年9月期には完成工事高32億円に対して72億円、1963年9月期には完成工事高45億円に対して95億円と、1年分を超える受注残を抱えるまでになった[52]。得意先の信用を映す特命工事の比率も1962年9月期に77.5%へ達し、入札工事を大きく上回った[53]。1964年10月15日、その年の5月に増築したばかりの本店4階会議室で創業20周年の祝賀式が開かれ、大森久司社長が式辞を述べた[54]。
予算制度が始まった1956年4月ごろの完成工事高比率は、配電工事60%に対して一般工事40%ほどにすぎなかったが、1961年3月期には一般工事52.5%、配電工事42.2%と逆転した[55]。1963年9月期には一般工事が配電工事の2倍近くまでふくらんだ[56]。若山繁営業部長は社内報で、配電工事が関西電力の予算にもとづくものである以上、業績の飛躍は一般工事部門の双肩にかかっていると説いた[57]。電力工事も伸び、総完成工事高に占める比率は1964年9月期の3.3%から1966年9月期には6.1%へ倍近くふえた[58]。とりわけ地中線の伸びが大きく、1964年11月に地中線第一課と第二課を新設した[59]。
計装工事は1955年ごろ、とくに要望されたものだけを施工する形で始まった[60]。空気式計器が電気式へ替わり、装置が大型化して情報量がふえ、コンピューターが使われはじめたことで需要が伸びたため、1966年ごろから本格的に力を入れ、1967年には出光興産千葉製油所の海上出荷設備やブレンド装置の計装工事を施工した[61]。空調工事は1966年11月の第二営業部新設から始まった[62]。ビルや工場の近代化で空気調整が要るようになったのに電気設備と空調設備を別々に施工していては不経済になるとみて、一貫施工体制の確立にのりだした[63]。もっとも空調工事の完成工事高は1968年9月期でも全体の0.6%にとどまった[64]。
受注の増大に対して、近畿電気工事は少数精鋭主義を打ちだし、工事量がふえても人員をふやさずに業績を伸ばす方針をとった[65]。従業員は1954年の5,000名から1964年6,100名、1968年6,800名と1.3倍にとどまり、その間に完成工事高は約12倍にふえた[66]。原価計算は工事ごとに行ない、自動車1台と従業員1人当たりの時間単位のコストまで事前に計算した[67]。現業員の賃金は自己管理型の出来高払い制、職員の賃金は職能給へ改め、毎月発表される予算達成率で奨励金の額と賞与の上乗せが各人にわかるようになった[68]。技能者を育てる技術員養成所は1965年に西宮市今津へ移り、教育訓練所と改称した[69]。
1967年8月、会場への電力供給工事に協力するため、今元康彦専務を本部長とする万国博工事本部を置き、その下に営業工事部と電力工事部を設けた[70]。会場内配電の動脈にあたる管路工事は同年12月に始まった[71]。総亘長は約28キロメートルに達し、上下水道やガス管路の埋設工事と競合しながら約1年で仕上げなければならなかったため、ダクトにコルゲートパイプ、マンホールに鉄筋コンクリート製組立てマンホールを使う新工法を関西電力と共同で用意し、現場打ちコンクリート工法にくらべて工期を約3分の1、工事力を約2分の1に減らした[72]。約50億円といわれた工事を、1名も増員せず現有工事力で完成させる体制をとった[73]。
1968年3月16日、資本金を15億円へふやし、手取資金約6億6,000万円を全額、工事力強化のための設備資金にあてた[74]。1968年9月には電算課を置き、富士通製の小型電子計算機FACOM 230-10を約3カ月のテスト運転にかけたうえで、1969年1月から本格稼働させた[75]。1969年2月には大阪証券取引所市場第一部銘柄に指定され[76]、1970年3月に東京証券取引所市場第一部へ上場した[77]。完成工事高は1970年3月期の478億円から1975年3月期には1,099億円へ伸び、1976年3月期は1,074億円に落ちた[78]。1981年3月期1,942億円、1982年3月期2,168億円と戻したものの、1985年3月期は2,324億円で、経常利益は1982年3月期の190億円から1984年3月期には156億円へ減った[79]。
全国の営業網は、1944年に統合した各業者が持ち寄ったものが元手であった[80]。名古屋支社は立花商会名古屋出張所を、広島支社は山田電気工業広島出張所を引き継いだものであり、東京支社は1950年に大日本製糖横浜工場と大阪製糖川崎工場の電気工事を受注したのをきっかけに開いた本店直轄の東京事務所に始まる[81]。1969年には8支店3支社の下に営業所53カ所、出張所・事務所73カ所が北海道から九州まで分布していた[82]。ここへ1970年11月に九州支社と北海道支社、1976年2月に東北支社、翌3月に四国支社、1984年3月に横浜支社を加えた[83]。海外工事はブラジルの冷凍工場や台湾のアンモニア工場など得意先の依頼に応じる程度にとどまっていたが[84]、1984年8月にキンデンコウ(タイランド)・カンパニー・リミテッドを設立した[85]。
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|---|---|---|---|---|
| 1944〜1961年軍需省の整備要綱が束ねた6社から大阪証券取引所上場まで | 近畿電気工事を設立 | ★★★ | ||
| 建設業法により建設大臣登録(イ)第83号を取得 | ★ | |||
| 佐藤太 | 東京支社を設置 | ★★ | ||
| 佐藤太 | 技術員養成所を開設 | ★★ | ||
| 大森久司 | 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 1962〜1985年関西電力の配電工事から完成工事高2,324億円の総合設備産業へ | 大森久司 | 大阪証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |
| 大森久司 | 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 若山繁 | 1都1道2府43県を網羅する事業所網が完成 | ★★ | ||
| 若山繁 | キンデンコウ(タイランド)・カンパニー・リミテッドを設立 | ★★ | ||
| 1986〜2006年社名をきんでんに改めた1990年と、4659億円からの減少 | 若山繁 | 東京本社を設置 | ★★ | |
| 若山繁 | 商号を近畿電気工事からきんでんに変更 | ★★★ | ||
| 若山繁 | 京都研究所を開設 | ★ | ||
| 若山繁 | ビナ・キンデン・コーポレーションを設立 | ★ | ||
| 2007〜2026年西原衛生工業所から弘電社まで、束ねる側に回った20年 | 中谷修己 | 西原衛生工業所を子会社化 | ★★★ | |
| 藤田訓彦 | 白滝山太陽光発電実証施設を開設 | ★ | ||
| 前田幸一 | アンテレック・リミテッドを完全子会社化 | ★★ | ||
| 前田幸一 | インターナショナル・エレクトロ-メカニカル・サービスに出資 | ★ | ||
| 上坂隆勇 | フジクラエンジニアリングを子会社化 | ★★ | ||
| 上坂隆勇 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 上坂隆勇 | 北弘電社を子会社化 | ★★ |
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事実根拠:出所(きんでん)