近畿電気工事は、誰かが起業を志して作った会社ではない。1942年の配電統制令で関西配電が生まれ、その傘下に140〜150軒の指定工事業者が契約も単価も工事方法も統合前のまま残された。これを整理するために軍需省が1944年4月に出した電気工事業整備要綱には法的強制力がなく、実際に集まったのは立花商会ほか6社、資本金250万円、従業員641名にすぎない。だから創立直後の課題は受注でも技術でもなく、寄合世帯をひとつの会社にすることだった。第二次統合で参加業者は50社を超え、翌1945年3月の大阪空襲では本店社屋を焼いている。会社の形が先にあり、事業の中身は後から埋める順序で始まった会社である。
この会社を戦後に生かしたのは市場ではなく発注元だった。終戦の直後、軍需監理部には解散論があり、結論は関西配電専属の工事部門として残すことに落ち着く。進駐軍工事で工事収入は伸びたものの利益率は3.5%から1.3%へ落ち、続く特修・特改工事も1949年4月のドッジ・プランで止まった。仕事の量を他人が決める以上、自分で決められるのは人と技術だけである。1949年10月の防爆工事、1955年11月の計装工事、そして1954年4月に開いた技術員養成所は、他の工事会社に例がないという批判のなかで外線技術員を育て始めた。1961年10月の大阪証券取引所市場第二部への上場は、その延長線上にある。
太平洋戦争が始まって間もない1942年4月、配電統制令によって全国の配電会社は9社に集中され、大阪市や電力・電鉄など14の電気事業者が電気供給設備を現物出資して関西配電が誕生した。関西配電が引き継いだ指定電気工事業者は近畿一円に140〜150軒あり、契約の方法も単価も工事方法も統合前のままで複雑多岐だった。そこで1942年10月、大阪市内の主な業者19社が参加する関西電業株式会社の設立案がまとまったものの、逓信省が待ったをかけ、その電力行政部門が1943年11月発足の軍需省へ移管されたため逓信省案は流産した。
全国9地区のうち最初に誕生した電気工事会社は、1944年8月26日に大阪市で発足した近畿電気工事である。発端は、電力の統合から丸2年を経た1944年4月に軍需省が出した電気工事業整備要綱と実施要領、電気工事会社設立要領である。近畿軍需監理部と関西配電の指導で新会社づくりの準備に入ったものの、要綱は法で強制するものではなく、業者はこぞって軍の工事に追われていたので、途中で抜ける者が少なくなかった。第一次統合に加わったのは立花商会、山田電気工業、浪速電気商会、中外電気工務所、東亜電気商会、京阪電気工事の6社で、立花商会本店での創立総会がその発足の場となった。資本金250万円、6社から引き継いだ従業員641名での出発であり、社長には立花商会の佐竹則翁氏、常務取締役には山田電気工業の山田善太郎氏が就任した。
第1期は1944年9月1日に始まり、1945年3月31日に締まった。初日の9月1日には大阪市東区本町二丁目の本店で開業式を開き、6社から受け継いだ20近い事業所を手を加えずに支店や出張所へ衣替えして営業に入った。ここを起点に第二次統合が進み、1944年12月の和歌山電気工業所の参加から始まって、1945年7月ごろにはおおむね終わった。その間に和歌山、奈良、神戸、京都、滋賀、姫路に支店ができ、加わった業者は通算で50社を上回った。本店社屋は1945年3月14日の大阪空襲で焼け、関西配電の厚意で宇治電ビル9階へ移ったが、その後も神戸、和歌山、姫路の各支店と堺、十三などの事務所が相次いで焼失した。こうしたなかでもこの期の決算は工事収入348万2000円、利益金28万7000円となった。
山田善太郎常務は創業のときから佐竹則翁社長を支え、会社の土台を築くことに身を尽くしてきたが、1945年8月29日に過労で亡くなった。その8月29日は、連合軍最高司令官マッカーサーの来日の前日にあたる。敗戦で存続の岐路に立った近畿電気工事の将来を話し合うため、この日、軍需監理部、関西配電、同社の幹部が顔をそろえた。解散を主張する声も軍需監理部の一部にはあったものの、会社は関西配電専属の工事部門として残すことで決着した。軍需省がなくなって電力行政を引き継いだ商工省は、10月に電気工事業刷新協議会を開き、電気工事業を育成する方針を固めた。創業からまだ1年、50社を超える寄合世帯の会社であった。
戦後の電気工事は進駐軍の電気設備の施工から始まった。近畿電気工事は1946年1月のイギリス軍呉基地港湾部電気設備工事をはじめ、近畿各府県のほか呉、江田島、福岡などの地区で大規模な工事を受注し、施工した。資材も人員も足りず、アウトレットボックスや埋込みタンブラスイッチがないため、木製ボックスや露出タンブラスイッチを代用に使った。ところが1947年に入ると、進駐軍工事ブームの後退、建築制限令による一般工事の激減、受注競争の激化が重なる。工事収入は1947年3月期8617万円、同年9月期1億1483万円、1948年3月期1億5077万円と伸びながら、利益率は3.5%、2%、1.3%と下がった。
戦時中の酷使で供給施設は荒れており、その手直しとして1948年から、発電所水路の改修、送・配電線の建替えと張替え、引込線の改修が、復興金融公庫の融資を受けて全国で一斉に始まった。関西配電のこの特修・特改工事に近畿電気工事は全域で加わって苦しい局面を脱し、1949年3月期の工事収入は3億4526万円に達した。流れが変わったのは1949年4月で、ドッジ・プランによって復興金融金庫の融資が打ち切られ、特修・特改工事はすべて止まった。受注の大半を関西配電に頼り、一般工事はわずかしかなかったため、会社は難局突破運動を起こした。営業第一線主義による配置転換、後方の事務職員まで加わる受注獲得運動、設計部門の拡充をその柱に据え、全社を挙げて一般工事を取りにいった。1949年10月には建設業法により建設大臣登録(イ)第83号を受け、同じ月に防爆工事の技術を開発した。
1951年2月、近畿電気工事は大阪市北区南扇町に本店社屋を建てる計画を決め、4月28日に起工式を挙行した。日建設計が設計し鴻池組が施工した鉄筋コンクリート造り2階建て355坪の社屋は、9か月の突貫工事で1952年1月に竣工し、宇治電ビル9階での6年間の間借りが終わった。資金の面でも、1948年4月の500万円を第1回として、同年12月750万円、1949年6月1000万円、1950年11月3000万円と増資を重ね、1951年5月に資本金5000万円へ達した。新本店の完成から5か月後の1952年6月14日、心臓病で療養していた佐竹則翁社長が死去し、7月1日に佐藤太氏が取締役会全員に推されて二代目社長となった。
佐藤太氏は関西配電大阪支店の配電課長として近畿電気工事の創立に尽力した人物で、1947年に関西配電を退き、1948年2月に近畿電気工事の常任監査役へ移っていた。1949年5月に常務取締役、1950年9月に専務取締役となり、一般電気工事業者が独占禁止法をタテに起こした外線解放運動では、公聴会の答弁や文書で防戦の矢面に立った。社長就任後は組織づくりを進め、1953年に東京事務所を東京支社へ昇格させ、営業所に現業監督員と助手を配置して工事の機械化に乗りだした。1954年4月には創業10周年記念事業の一環として大淀区大仁本町に技術員養成所を開設し、工業高校電気科の卒業生を2年間教育訓練する外線科を設けた。他の工事会社に例がないという批判が多いなかでの外線技術員養成であった。
完成工事高は朝鮮動乱が始まった1950年9月期の4億6088万円から、1951年3月期に7億円、同年9月期に8億円を超え、1953年9月期に11億円、1954年3月期には14億円を突破し、利益率も1.3%から2.8%へ上がった。1954年9月に迎えた創業10周年は資本金5000万円、従業員5000人、年間完工高30億円近くの規模で、10月1日に北区堂島の中央電気倶楽部で記念式典を開いた。1955年11月には計装工事の技術を開発し、一般民間工事の受注も広げた。資本金は1957年1月に9000万円、1959年10月に1億8000万円、1961年9月に3億8000万円と積み上がり、1961年10月2日、大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。
1960年代の近畿電気工事が選んだのは、関西電力への依存を減らすことではなく、関西電力の工事を抱えたまま別の需要を足すことだった。1966年に空気調和設備工事へ進出しても、1969年の構成比は電気工事99.74%、管工事0.26%にすぎない。むしろ効いたのは受注先の広がりで、東京方面の受注高は3年で約2.1倍、全受注量の16.8%に達した。ただし依存度の低さは安全を意味しなかった。東京電力依存型の関東電気工事にくらべ、近畿電気工事は工期の長い民間工事を多く抱え、前受けにあたる未成工事受入金が少なく、当座比率も負債比率も劣った。独立の代価は運転資金として現れた。
万国博覧会という一回きりの需要を人員で受けなかったことが、その後の伸び方を決めた。約50億円の工事に対し、今元康彦本部長は臨時仕事のために人をふやすわけにはいかないとして増員を退け、総亘長28キロメートルの管路を工期3分の1の新工法で施工した。1969年1月には富士通のFACOM二三〇-一〇型を動かし、労働力の不足と人件費の高騰に事務の側からも手を打っている。近畿電気工事は人員を増やさずに工事量を捌き、1981年3月期には屋内配線工事54.2%が配電線工事37.0%を上回る構成へ移って、完成工事高1,942億円に達した。関西配電の専属部門として出発した会社の主力は、発注元の外へ移っていた。
近畿電気工事が管工事の建設大臣登録を取り、空気調和設備工事の部門へ進出したのは1966年であった。それまでの仕事は、関西電力の発電所の配線に始まり、送電線、変電所、配電線へと続く電力設備の工事と、需要家側の屋内配線工事で占められていた。1969年9月時点の事業の構成は電気工事が99.74%、管工事が0.26%にすぎない。大森久司社長は、照明も温度調節もコンピューターが受け持つビルが現れた以上、これからのビル建設の工事は電気工事のままではいられないとみていた。電気、計装、空調、衛生をひとまとめに引き受けられれば、現場を施工し管理する人員が減り、原価も下がる。設備業者が建築業者と対等の立場に立つための条件でもあった。ただし進出から3年を経ても空調工事の比重は微小で、業績を動かすには至っていなかった。
1969年7月時点の事業所は全国146か所に及んだ。大阪の本店のほかに大阪北、大阪南、京都、神戸、姫路、奈良、和歌山、滋賀の各支店を近畿に置き、名古屋、広島、東京に支社を構えていた。受注先は関西電力のほか、竹中工務店、鹿島建設、大林組、清水建設といった建設会社が並んだ。東京方面の受注高はこの3年で約2.1倍となり、全受注量の16.8%を占めるに至っている。同じ電力会社系の関東電気工事が東京電力への依存度を高く保っていたのに対し、近畿電気工事の関西電力への依存度は低く、工期の長い民間工事の手持ちが多かった。工事の前に受け取る未成工事受入金が少ないため、当座比率も負債比率も関東電気工事より劣った。受注は過去3年平均で11.3%伸び、1969年9月期の受注高は約250億円、完成工事高は約220億円、手持ち工事高は約290億円に達した。
1970年3月16日、近畿電気工事は東京証券取引所市場第一部へ上場した。1961年10月の大阪証券取引所市場第二部への上場から9年、1969年2月には大阪証券取引所市場第一部の指定を受けており、大阪の電気工事会社が東京の資本市場に名を置いたことになる。資本金は1963年9月に60万株の公募をともなう増資で7億5,000万円、1968年3月に15億円、東証上場に際して130万株を公募して15億6,500万円へ積み上がった。株主は1969年9月時点で5,000株未満の小口が4,174人と総株主の89.0%を占め、取引金融機関は住友、三菱、三井、大和、日本興業、富士、第一ほか14行に及んだ。上場の年にあたる1970年3月期の売上高は478億円、経常利益は43億円、当期純利益は22億円であった。
1970年に大阪で開かれる日本万国博覧会では、会場への送電が乱れると会場の機能がすべて止まるおそれがあった。近畿電気工事は1967年8月、今元康彦専務を本部長とし、下に営業工事部と電力工事部を置く万国博工事本部をつくった。関西電力の工事部門として、全面的に協力するための体制である。会場の配電の幹線となる管路工事は同年12月に着工した。総亘長は約28キロメートルあり、上下水道、ガス、通信の管路を埋める工事とぶつかり合いながら、約1年間で仕上げる必要があった。そのために、関西電力と共同で研究してきた新工法を使い、ダクトには硬質ポリエチレン製の波付き管を、マンホールには鉄筋コンクリート製の組立てマンホールを採り、掘削も大きく機械化した。工期は従来の現場打ちコンクリート工法の約3分の1、工事力は約2分の1に縮まり、地中化工事の先例になった。
本部長は万国博を、歴史に刻まれる国家の大事業とみて、地元の業者として、また関西電力の工事部門を日頃受け持つ立場として関われるのは名誉なことだと受け止めていた。それでも、金額で約50億円にのぼるこの工事を、近畿電気工事は一名も増やさず、いまいる工事力だけで仕上げることにした。増員を退けたのは、万国博の工事が一回で終わる臨時の仕事にすぎず、意義がどれほど大きくても臨時の仕事のために人員を増やすことはできない、という理由による。こうした判断の裏には、管路工事の新工法と、15トントラッククレーンなどを使った機械化の進み具合があった。万国博が開幕した1970年3月期、完成工事高は前期の359億円から33%増えて478億円となった。
人手が足りず、人件費が跳ね上がり、受注の競争も激しくなるなかで、経営の管理に要る情報を素早く正しくつかみ、手を打つのを早める必要に迫られていた。それまで記録を取るのもデータを集めるのも計算も大部分が人の手によるもので、それで足りてはいたが、社会の仕組みが入り組み、会社が大きくなれば、情報を扱う仕事は人力では追いつかなくなる。そこで1968年9月に電算課を置き、約3か月の試運転を経た。1969年1月に近畿電気工事で動き出した富士通製の小型電子計算機FACOM二三〇-一〇型が扱うのは、全国146か所の事業所と、1969年9月期に約250億円に達した受注高で、情報の量は創業期と桁が違っていた。万国博の臨時需要を人員の増加に変えない方針は、工法の機械化と事務の機械化の両方に支えられていた。
完成工事高は1971年3月期に581億円、1975年3月期に1,099億円と、4年で1,000億円台へ乗せた。石油危機の翌1976年3月期は1,074億円と前期をわずかに下回ったが、1978年3月期1,308億円、1980年3月期1,649億円、1981年3月期1,942億円と伸び続ける。1981年3月期は施工体制の合理化と工事の質の向上によって受注高2,023億2,342万円、完成工事高1,941億6,949万円を計上し、期末の手持工事高も1,504億8,951万円を繰り越した。このときの工事の種類別の構成は、屋内配線工事54.2%、配電線工事37.0%、送電線工事4.5%、空調工事2.8%、発変電所工事0.9%、通信線工事0.5%である。関西配電の専属工事部門として発足した会社の主力は、電力会社の側の配電線工事から、建築物の側の屋内配線工事へ移っていた。
1983年3月、近畿電気工事は1都1道2府43県を網羅する事業所網を完成させた。1953年に東京事務所を東京支社へ昇格させ、1969年時点で146か所だった事業所は、近畿と名古屋、広島、東京を結ぶ線から全国の府県へ広がったことになる。網を担ったのは長く勤める人であり、1981年3月末の従業員は男6,812名、女683名の計7,495名、平均年齢36.2歳、平均勤続年数は13.5年を数えた。資本の側は動いていない。同時点の大株主は関西電力が24,376,172株で33.76%、関電産業が6.27%、近電工従業員持株会が3.14%を持ち、上位10名で55.0%を占めた。筆頭株主を関西電力に置いたまま営業の地理だけが全国へ延びた形であり、受注先の分散と資本の系列は別の問題として扱われていた。
1984年8月、近畿電気工事はキンデンコウ(タイランド)・カンパニー・リミテッドを設立し、国外に足場を置いた。国内の伸びは鈍っていた。完成工事高は1982年3月期2,168億円、1983年3月期2,204億円、1984年3月期2,227億円と横ばいに近づき、経常利益は1982年3月期の190億円を頂点に、165億円、156億円と後退する。1985年3月期は完成工事高2,324億円、経常利益164億円、当期純利益65億円で、額はなお過去最高を更新しながら利益率は低下した。創業から40年、関西配電の指定工事業者6社の統合として生まれた会社は、電気工事を軸に空調と通信線を加え、全国の府県と東南アジアへ事業所を置く規模に達している。国内市場の伸びが止まったとき、どこで次の需要を取るかが次の40年の問いになった。
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|---|---|---|---|---|
| 1944〜1961年軍需省の整備要綱が束ねた6社から大阪証券取引所上場まで | 佐竹則翁 | 近畿電気工事を設立 | ★★★ | |
| 佐竹則翁 | 建設業法により建設大臣登録(イ)第83号を取得 | ★ | ||
| 佐藤太 | 東京支社を設置 | ★★ | ||
| 佐藤太 | 技術員養成所を開設 | ★★ | ||
| 大森久司 | 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 1962〜1985年関西電力の配電工事から完成工事高2,324億円の総合設備産業へ | 大森久司 | 大阪証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |
| 大森久司 | 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 若山繁 | 1都1道2府43県を網羅する事業所網が完成 | ★★ | ||
| 若山繁 | キンデンコウ(タイランド)・カンパニー・リミテッドを設立 | ★★ | ||
| 1986〜2006年社名をきんでんに改めた1990年と、4659億円からの減少 | 若山繁 | 東京本社を設置 | ★★ | |
| 若山繁 | 商号を近畿電気工事からきんでんに変更 | ★★★ | ||
| 若山繁 | 京都研究所を開設 | ★ | ||
| 若山繁 | ビナ・キンデン・コーポレーションを設立 | ★ | ||
| 2007〜2026年西原衛生工業所から弘電社まで、束ねる側に回った20年 | 中谷修己 | 西原衛生工業所を子会社化 | ★★★ | |
| 藤田訓彦 | 白滝山太陽光発電実証施設を開設 | ★ | ||
| 前田幸一 | アンテレック・リミテッドを完全子会社化 | ★★ | ||
| 前田幸一 | インターナショナル・エレクトロ-メカニカル・サービスに出資 | ★ | ||
| 上坂隆勇 | フジクラエンジニアリングを子会社化 | ★★ | ||
| 上坂隆勇 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 上坂隆勇 | 北弘電社を子会社化 | ★★ |
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事実根拠:出所(きんでん)