第2章 年〜年

きんでん:東証一部上場と1都1道2府43県の事業所網の完成

1962年〜空気調和設備工事への進出と受注先の分散

近畿電気工事が管工事の建設大臣登録を取り、空気調和設備工事の部門へ進出したのは1966年であった。それまでの仕事は、関西電力の発電所の配線に始まり、送電線、変電所、配電線へと続く電力設備の工事と、需要家側の屋内配線工事で占められていた。1969年9月時点の事業の構成は電気工事が99.74%、管工事が0.26%にすぎない。大森久司社長は、照明も温度調節もコンピューターが受け持つビルが現れた以上、これからのビル建設の工事は電気工事のままではいられないとみていた。電気、計装、空調、衛生をひとまとめに引き受けられれば、現場を施工し管理する人員が減り、原価も下がる。設備業者が建築業者と対等の立場に立つための条件でもあった。ただし進出から3年を経ても空調工事の比重は微小で、業績を動かすには至っていなかった。

  • 証券 1970年4月号(第22巻第4号)
    • [1]電気工事以外に管工事として昭和41年(1966年)から空気調和設備工事部門へ進出した。建設業の登録は建設大臣登録(カ)第83号。
    • [2]電力会社の電気工事は発電所の配線工事に始まり、送電線工事、変電所工事、配電線工事を経て需要側の屋内配線工事に至り、近畿電気工事は電力会社の業務用電話のための通信線工事も行なっていた。
    • [3]1969年9月15日現在の事業の構成は電気工事99.74%、管工事0.26%であり、空気調和設備工事が完成工事高に占める割合は微小で業績に影響を与えるまでには至っていなかった。
    • [7]1969年9月15日現在の事業の構成は電気工事99.74%、管工事0.26%であり、空気調和設備工事が完成工事高に占める割合は微小で業績に影響を与えるまでには至っていなかった。
  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)(大森久司社長インタビュー)
    • [4]大森久司社長は、ビルの照明や温度調節をコンピューターが記憶して行なう時代になったため、これからのビル建設の工事は電気工事だけではなく総合設備に脱皮してゆくのが時代の要求であり、電気・計装・空調・衛生工事を含む総合設備工事業者としての力をつけることが、設備業者と建築業者が対等の線でゆくうえでも、現場の施工・管理の人員の節約とコストダウンのうえでも必要だと述べた。
    • [5]大森久司社長は、ビルの照明や温度調節をコンピューターが記憶して行なう時代になったため、これからのビル建設の工事は電気工事だけではなく総合設備に脱皮してゆくのが時代の要求であり、電気・計装・空調・衛生工事を含む総合設備工事業者としての力をつけることが、設備業者と建築業者が対等の線でゆくうえでも、現場の施工・管理の人員の節約とコストダウンのうえでも必要だと述べた。
    • [6]大森久司社長は、ビルの照明や温度調節をコンピューターが記憶して行なう時代になったため、これからのビル建設の工事は電気工事だけではなく総合設備に脱皮してゆくのが時代の要求であり、電気・計装・空調・衛生工事を含む総合設備工事業者としての力をつけることが、設備業者と建築業者が対等の線でゆくうえでも、現場の施工・管理の人員の節約とコストダウンのうえでも必要だと述べた。

1969年7月時点の事業所は全国146か所に及んだ。大阪の本店のほかに大阪北、大阪南、京都、神戸、姫路、奈良、和歌山、滋賀の各支店を近畿に置き、名古屋、広島、東京に支社を構えていた。受注先は関西電力のほか、竹中工務店、鹿島建設、大林組、清水建設といった建設会社が並んだ。東京方面の受注高はこの3年で約2.1倍となり、全受注量の16.8%を占めるに至っている。同じ電力会社系の関東電気工事が東京電力への依存度を高く保っていたのに対し、近畿電気工事の関西電力への依存度は低く、工期の長い民間工事の手持ちが多かった。工事の前に受け取る未成工事受入金が少ないため、当座比率も負債比率も関東電気工事より劣った。受注は過去3年平均で11.3%伸び、1969年9月期の受注高は約250億円、完成工事高は約220億円、手持ち工事高は約290億円に達した。

  • 証券 1970年4月号(第22巻第4号)
    • [8]1969年時点で全国に146か所の事業所を設け、完成工事高約220億円、手持ち工事高約290億円となっていた。
    • [10]おもな受注先は関西電力が最も高い比率を占め、民間では竹中工務店、鹿島建設、大林組、清水建設など建設会社が多かった。東京方面の工事受注高は3年で約2.1倍に達し、全受注量の16.8%となっていた。
    • [11]おもな受注先は関西電力が最も高い比率を占め、民間では竹中工務店、鹿島建設、大林組、清水建設など建設会社が多かった。東京方面の工事受注高は3年で約2.1倍に達し、全受注量の16.8%となっていた。
    • [12]関東電気工事が東京電力依存型であるのに対して近畿電気工事の関西電力への依存度は低く、手持ち工事は近畿電気工事のほうが多かった。工期の短い工事が多い関東電気工事は未成工事受入金が少なくて済むため、近畿電気工事の当座比率・負債比率は関東電気工事より悪くならざるを得なかった。
    • [13]関東電気工事が東京電力依存型であるのに対して近畿電気工事の関西電力への依存度は低く、手持ち工事は近畿電気工事のほうが多かった。工期の短い工事が多い関東電気工事は未成工事受入金が少なくて済むため、近畿電気工事の当座比率・負債比率は関東電気工事より悪くならざるを得なかった。
    • [14]工事の受注は過去3年間に平均11.3%の伸びを示し、昭和44年9月期(1969年9月期)の受注高は約250億円にのぼった。
  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)「事業所一覧」
    • [9]1969年7月1日現在の事業所は、大阪市北区南扇町の本店と、大阪北・大阪南・京都・神戸・姫路・奈良・和歌山・滋賀の各支店、名古屋・広島・東京の各支社で構成されていた。

1970年3月16日、近畿電気工事は東京証券取引所市場第一部へ上場した。1961年10月の大阪証券取引所市場第二部への上場から9年、1969年2月には大阪証券取引所市場第一部の指定を受けており、大阪の電気工事会社が東京の資本市場に名を置いたことになる。資本金は1963年9月に60万株の公募をともなう増資で7億5,000万円、1968年3月に15億円、東証上場に際して130万株を公募して15億6,500万円へ積み上がった。株主は1969年9月時点で5,000株未満の小口が4,174人と総株主の89.0%を占め、取引金融機関は住友、三菱、三井、大和、日本興業、富士、第一ほか14行に及んだ。上場の年にあたる1970年3月期の売上高は478億円、経常利益は43億円、当期純利益は22億円であった。

  • 株式会社きんでん 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1970年3月に東京証券取引所市場第一部へ上場した。
  • 証券 1970年4月号(第22巻第4号)
    • [16]1961年10月2日に大阪証券取引所市場第二部へ上場し、1969年2月に大阪証券取引所において市場第一部の指定を受けた。
    • [17]資本金は昭和38年9月に60万株の公募(1株210円)を含む増資で7億5,000万円、昭和43年3月に15億円となり、昭和45年3月16日に130万株の公募をともなって15億6,500万円となった。
    • [18]昭和44年9月15日現在の株式持ち株数別分布では5,000株未満の株主が4,174人(89.0%)を占め、取引金融機関は住友銀行、三菱銀行、三井銀行、大和銀行、日本興業銀行、富士銀行、第一銀行ほか14行であった。
  • 会社年鑑 1971年版
    • [19]1970年3月期の売上高は478億円、経常利益は43億円、当期純利益は22億円だった。
参考文献[1]-[19]
  • 証券 1970年4月号(第22巻第4号)
    • [1]電気工事以外に管工事として昭和41年(1966年)から空気調和設備工事部門へ進出した。建設業の登録は建設大臣登録(カ)第83号。
    • [2]電力会社の電気工事は発電所の配線工事に始まり、送電線工事、変電所工事、配電線工事を経て需要側の屋内配線工事に至り、近畿電気工事は電力会社の業務用電話のための通信線工事も行なっていた。
    • [3]1969年9月15日現在の事業の構成は電気工事99.74%、管工事0.26%であり、空気調和設備工事が完成工事高に占める割合は微小で業績に影響を与えるまでには至っていなかった。
    • [7]1969年9月15日現在の事業の構成は電気工事99.74%、管工事0.26%であり、空気調和設備工事が完成工事高に占める割合は微小で業績に影響を与えるまでには至っていなかった。
    • [8]1969年時点で全国に146か所の事業所を設け、完成工事高約220億円、手持ち工事高約290億円となっていた。
    • [10]おもな受注先は関西電力が最も高い比率を占め、民間では竹中工務店、鹿島建設、大林組、清水建設など建設会社が多かった。東京方面の工事受注高は3年で約2.1倍に達し、全受注量の16.8%となっていた。
    • [11]おもな受注先は関西電力が最も高い比率を占め、民間では竹中工務店、鹿島建設、大林組、清水建設など建設会社が多かった。東京方面の工事受注高は3年で約2.1倍に達し、全受注量の16.8%となっていた。
    • [12]関東電気工事が東京電力依存型であるのに対して近畿電気工事の関西電力への依存度は低く、手持ち工事は近畿電気工事のほうが多かった。工期の短い工事が多い関東電気工事は未成工事受入金が少なくて済むため、近畿電気工事の当座比率・負債比率は関東電気工事より悪くならざるを得なかった。
    • [13]関東電気工事が東京電力依存型であるのに対して近畿電気工事の関西電力への依存度は低く、手持ち工事は近畿電気工事のほうが多かった。工期の短い工事が多い関東電気工事は未成工事受入金が少なくて済むため、近畿電気工事の当座比率・負債比率は関東電気工事より悪くならざるを得なかった。
    • [14]工事の受注は過去3年間に平均11.3%の伸びを示し、昭和44年9月期(1969年9月期)の受注高は約250億円にのぼった。
    • [16]1961年10月2日に大阪証券取引所市場第二部へ上場し、1969年2月に大阪証券取引所において市場第一部の指定を受けた。
    • [17]資本金は昭和38年9月に60万株の公募(1株210円)を含む増資で7億5,000万円、昭和43年3月に15億円となり、昭和45年3月16日に130万株の公募をともなって15億6,500万円となった。
    • [18]昭和44年9月15日現在の株式持ち株数別分布では5,000株未満の株主が4,174人(89.0%)を占め、取引金融機関は住友銀行、三菱銀行、三井銀行、大和銀行、日本興業銀行、富士銀行、第一銀行ほか14行であった。
  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)(大森久司社長インタビュー)
    • [4]大森久司社長は、ビルの照明や温度調節をコンピューターが記憶して行なう時代になったため、これからのビル建設の工事は電気工事だけではなく総合設備に脱皮してゆくのが時代の要求であり、電気・計装・空調・衛生工事を含む総合設備工事業者としての力をつけることが、設備業者と建築業者が対等の線でゆくうえでも、現場の施工・管理の人員の節約とコストダウンのうえでも必要だと述べた。
    • [5]大森久司社長は、ビルの照明や温度調節をコンピューターが記憶して行なう時代になったため、これからのビル建設の工事は電気工事だけではなく総合設備に脱皮してゆくのが時代の要求であり、電気・計装・空調・衛生工事を含む総合設備工事業者としての力をつけることが、設備業者と建築業者が対等の線でゆくうえでも、現場の施工・管理の人員の節約とコストダウンのうえでも必要だと述べた。
    • [6]大森久司社長は、ビルの照明や温度調節をコンピューターが記憶して行なう時代になったため、これからのビル建設の工事は電気工事だけではなく総合設備に脱皮してゆくのが時代の要求であり、電気・計装・空調・衛生工事を含む総合設備工事業者としての力をつけることが、設備業者と建築業者が対等の線でゆくうえでも、現場の施工・管理の人員の節約とコストダウンのうえでも必要だと述べた。
  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)「事業所一覧」
    • [9]1969年7月1日現在の事業所は、大阪市北区南扇町の本店と、大阪北・大阪南・京都・神戸・姫路・奈良・和歌山・滋賀の各支店、名古屋・広島・東京の各支社で構成されていた。
  • 株式会社きんでん 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1970年3月に東京証券取引所市場第一部へ上場した。
  • 会社年鑑 1971年版
    • [19]1970年3月期の売上高は478億円、経常利益は43億円、当期純利益は22億円だった。

1967年〜日本万国博覧会の管路工事と現有工事力での完成

1970年に大阪で開かれる日本万国博覧会では、会場への送電が乱れると会場の機能がすべて止まるおそれがあった。近畿電気工事は1967年8月、今元康彦専務を本部長とし、下に営業工事部と電力工事部を置く万国博工事本部をつくった。関西電力の工事部門として、全面的に協力するための体制である。会場の配電の幹線となる管路工事は同年12月に着工した。総亘長は約28キロメートルあり、上下水道、ガス、通信の管路を埋める工事とぶつかり合いながら、約1年間で仕上げる必要があった。そのために、関西電力と共同で研究してきた新工法を使い、ダクトには硬質ポリエチレン製の波付き管を、マンホールには鉄筋コンクリート製の組立てマンホールを採り、掘削も大きく機械化した。工期は従来の現場打ちコンクリート工法の約3分の1、工事力は約2分の1に縮まり、地中化工事の先例になった。

  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)「使命を果たす万国博体制」
    • [20]1967年8月に今元康彦専務を本部長とする万国博工事本部を設置し、営業工事部と電力工事部を置いた。営業工事部長には若山繁常務、電力工事部長には九井常務が就いた。
    • [21]万国博で電力の果たす役割は重く、供給に支障が起これば会場内のあらゆる機能が麻痺すると予想されたため、近畿電気工事は関西電力の工事部門として会場への電力供給工事に全面的に協力する体制をとった。
    • [22]会場内配電工事の動脈にあたる管路工事は1967年12月に始まり、総亘長約28キロメートルを約1年間で、上下水道・ガス管路・通信用管路などの埋設工事と競合しながら施工する必要があった。
    • [23]会場内配電工事の動脈にあたる管路工事は1967年12月に始まり、総亘長約28キロメートルを約1年間で、上下水道・ガス管路・通信用管路などの埋設工事と競合しながら施工する必要があった。
    • [24]関西電力と共同で研究してきた新工法は、ダクトにコルゲートパイプ(硬質ポリエチレン製波付き管)、マンホールに鉄筋コンクリート製組立てマンホールを使い、掘削も大幅に機械化するもので、現場打ちコンクリート工法にくらべ工期は約3分の1、工事力は約2分の1に節減され、地中化工事のテストケースとして注目された。
    • [25]関西電力と共同で研究してきた新工法は、ダクトにコルゲートパイプ(硬質ポリエチレン製波付き管)、マンホールに鉄筋コンクリート製組立てマンホールを使い、掘削も大幅に機械化するもので、現場打ちコンクリート工法にくらべ工期は約3分の1、工事力は約2分の1に節減され、地中化工事のテストケースとして注目された。

本部長は万国博を、歴史に刻まれる国家の大事業とみて、地元の業者として、また関西電力の工事部門を日頃受け持つ立場として関われるのは名誉なことだと受け止めていた。それでも、金額で約50億円にのぼるこの工事を、近畿電気工事は一名も増やさず、いまいる工事力だけで仕上げることにした。増員を退けたのは、万国博の工事が一回で終わる臨時の仕事にすぎず、意義がどれほど大きくても臨時の仕事のために人員を増やすことはできない、という理由による。こうした判断の裏には、管路工事の新工法と、15トントラッククレーンなどを使った機械化の進み具合があった。万国博が開幕した1970年3月期、完成工事高は前期の359億円から33%増えて478億円となった。

  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)「使命を果たす万国博体制」
    • [26]万国博工事本部の発足にあたり今元康彦本部長は、万国博は歴史に残る国の大事業であり、地元業者として、また関西電力の工事部門を常時担当する者として参画できることはこの上もない名誉であり喜びであるとともに、責任の重大さを痛感すると述べた。
    • [27]金額にして約50億円といわれる万国博の大工事を現有工事力で完成しようとし、万博のために一名の増員もしないとした。
    • [28]増員しない理由について今元本部長は、規模はともかく万博工事はあくまで一回きりの臨時仕事であり、いかに意義のある仕事でも臨時仕事のために人をふやすわけにはいかないと説明した。
    • [29]増員を避けられた背景には、新工法や15トントラッククレーンなどによる機械化の充実があった。
  • 会社年鑑 1971年版
    • [30]完成工事高は1969年3月期359億円から1970年3月期478億円へ増加した。

人手が足りず、人件費が跳ね上がり、受注の競争も激しくなるなかで、経営の管理に要る情報を素早く正しくつかみ、対応を早める必要に迫られていた。それまで記録を取るのもデータを集めるのも計算も大部分が人の手によるもので、それで足りてはいたが、社会の仕組みが入り組み、会社が大きくなれば、情報を扱う仕事は人力では追いつかなくなる。そこで1968年9月に電算課を置き、約3か月の試運転を経た。1969年1月に近畿電気工事で動き出した富士通製の小型電子計算機FACOM二三〇-一〇型が扱うのは、全国146か所の事業所と、1969年9月期に約250億円に達した受注高で、情報の量は創業期と桁が違っていた。万国博の臨時需要を人員の増加に変えない方針は、工法の機械化と事務の機械化の両方に支えられていた。

  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)「コンピューターを導入して」
    • [31]コンピューターの導入を決めたのは、労働力の不足・人件費の高騰・受注競争の激化といった企業環境のなかで、経営管理に必要な情報を迅速かつ正確に把握し早く適切な措置をとる必要が生じたためで、従来は人手で行なっていた記録・データ集め・計算が、社会構造の複雑化と企業規模の拡大によって人間の手では処理しきれなくなっていた。
    • [32]コンピューターの導入を決めたのは、労働力の不足・人件費の高騰・受注競争の激化といった企業環境のなかで、経営管理に必要な情報を迅速かつ正確に把握し早く適切な措置をとる必要が生じたためで、従来は人手で行なっていた記録・データ集め・計算が、社会構造の複雑化と企業規模の拡大によって人間の手では処理しきれなくなっていた。
    • [33]1968年9月に電算課を設置し、約3か月のテスト運転を行なったうえで、1969年1月から富士通製の小型電子計算機「FACOM二三〇-一〇型」を稼働させた。
    • [34]1968年9月に電算課を設置し、約3か月のテスト運転を行なったうえで、1969年1月から富士通製の小型電子計算機「FACOM二三〇-一〇型」を稼働させた。
  • 証券 1970年4月号(第22巻第4号)
    • [35]1969年時点で事業所は全国146か所、昭和44年9月期の受注高は約250億円にのぼった。
参考文献[20]-[35]
  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)「使命を果たす万国博体制」
    • [20]1967年8月に今元康彦専務を本部長とする万国博工事本部を設置し、営業工事部と電力工事部を置いた。営業工事部長には若山繁常務、電力工事部長には九井常務が就いた。
    • [21]万国博で電力の果たす役割は重く、供給に支障が起これば会場内のあらゆる機能が麻痺すると予想されたため、近畿電気工事は関西電力の工事部門として会場への電力供給工事に全面的に協力する体制をとった。
    • [22]会場内配電工事の動脈にあたる管路工事は1967年12月に始まり、総亘長約28キロメートルを約1年間で、上下水道・ガス管路・通信用管路などの埋設工事と競合しながら施工する必要があった。
    • [23]会場内配電工事の動脈にあたる管路工事は1967年12月に始まり、総亘長約28キロメートルを約1年間で、上下水道・ガス管路・通信用管路などの埋設工事と競合しながら施工する必要があった。
    • [24]関西電力と共同で研究してきた新工法は、ダクトにコルゲートパイプ(硬質ポリエチレン製波付き管)、マンホールに鉄筋コンクリート製組立てマンホールを使い、掘削も大幅に機械化するもので、現場打ちコンクリート工法にくらべ工期は約3分の1、工事力は約2分の1に節減され、地中化工事のテストケースとして注目された。
    • [25]関西電力と共同で研究してきた新工法は、ダクトにコルゲートパイプ(硬質ポリエチレン製波付き管)、マンホールに鉄筋コンクリート製組立てマンホールを使い、掘削も大幅に機械化するもので、現場打ちコンクリート工法にくらべ工期は約3分の1、工事力は約2分の1に節減され、地中化工事のテストケースとして注目された。
    • [26]万国博工事本部の発足にあたり今元康彦本部長は、万国博は歴史に残る国の大事業であり、地元業者として、また関西電力の工事部門を常時担当する者として参画できることはこの上もない名誉であり喜びであるとともに、責任の重大さを痛感すると述べた。
    • [27]金額にして約50億円といわれる万国博の大工事を現有工事力で完成しようとし、万博のために一名の増員もしないとした。
    • [28]増員しない理由について今元本部長は、規模はともかく万博工事はあくまで一回きりの臨時仕事であり、いかに意義のある仕事でも臨時仕事のために人をふやすわけにはいかないと説明した。
    • [29]増員を避けられた背景には、新工法や15トントラッククレーンなどによる機械化の充実があった。
  • 会社年鑑 1971年版
    • [30]完成工事高は1969年3月期359億円から1970年3月期478億円へ増加した。
  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)「コンピューターを導入して」
    • [31]コンピューターの導入を決めたのは、労働力の不足・人件費の高騰・受注競争の激化といった企業環境のなかで、経営管理に必要な情報を迅速かつ正確に把握し早く適切な措置をとる必要が生じたためで、従来は人手で行なっていた記録・データ集め・計算が、社会構造の複雑化と企業規模の拡大によって人間の手では処理しきれなくなっていた。
    • [32]コンピューターの導入を決めたのは、労働力の不足・人件費の高騰・受注競争の激化といった企業環境のなかで、経営管理に必要な情報を迅速かつ正確に把握し早く適切な措置をとる必要が生じたためで、従来は人手で行なっていた記録・データ集め・計算が、社会構造の複雑化と企業規模の拡大によって人間の手では処理しきれなくなっていた。
    • [33]1968年9月に電算課を設置し、約3か月のテスト運転を行なったうえで、1969年1月から富士通製の小型電子計算機「FACOM二三〇-一〇型」を稼働させた。
    • [34]1968年9月に電算課を設置し、約3か月のテスト運転を行なったうえで、1969年1月から富士通製の小型電子計算機「FACOM二三〇-一〇型」を稼働させた。
  • 証券 1970年4月号(第22巻第4号)
    • [35]1969年時点で事業所は全国146か所、昭和44年9月期の受注高は約250億円にのぼった。

1971年〜屋内配線工事への比重の移動と全国事業所網

完成工事高は1971年3月期に581億円、1975年3月期に1,099億円と、4年で1,000億円台へ乗せた。石油危機の翌1976年3月期は1,074億円と前期をわずかに下回ったが、1978年3月期1,308億円、1980年3月期1,649億円、1981年3月期1,942億円と伸び続ける。1981年3月期は施工体制の合理化と工事の質の向上によって受注高2,023億2,342万円、完成工事高1,941億6,949万円を計上し、期末の手持工事高も1,504億8,951万円を繰り越した。このときの工事の種類別の構成は、屋内配線工事54.2%、配電線工事37.0%、送電線工事4.5%、空調工事2.8%、発変電所工事0.9%、通信線工事0.5%である。関西配電の専属工事部門として発足した会社の主力は、電力会社の側の配電線工事から、建築物の側の屋内配線工事へ移っていた。

  • 会社年鑑 1976年版 / 1986年版
    • [36]完成工事高は1971年3月期581億円、1975年3月期1,099億円、1976年3月期1,074億円、1978年3月期1,308億円、1980年3月期1,649億円、1981年3月期1,942億円と推移した。
    • [37]完成工事高は1971年3月期581億円、1975年3月期1,099億円、1976年3月期1,074億円、1978年3月期1,308億円、1980年3月期1,649億円、1981年3月期1,942億円と推移した。
  • 日本企業要覧 1981年版「近畿電気工事」
    • [38]1981年3月期は施工体制の合理化と工事の質の向上に努めた結果、受注高2,023億2,342万円余(前期比15.7%増)、完成工事高1,941億6,949万円余(前期比17.8%増)をあげ、期末手持工事高も前期比5.7%増の1,504億8,951万円余を次期へ繰り越した。
    • [39]1981年時点の事業の内容は、屋内配線工事54.2%、配電線工事37.0%、送電線工事4.5%、空調工事2.8%、発変電所工事0.9%、通信線工事0.5%、土木工事0.1%であった。

1983年3月、近畿電気工事は1都1道2府43県を網羅する事業所網を完成させた。1953年に東京事務所を東京支社へ昇格させ、1969年時点で146か所だった事業所は、近畿と名古屋、広島、東京を結ぶ線から全国の府県へ広がったことになる。網を担ったのは長く勤める人であり、1981年3月末の従業員は男6,812名、女683名の計7,495名、平均年齢36.2歳、平均勤続年数は13.5年を数えた。資本の側は動いていない。同時点の大株主は関西電力が24,376,172株で33.76%、関電産業が6.27%、近電工従業員持株会が3.14%を持ち、上位10名で55.0%を占めた。筆頭株主を関西電力に置いたまま営業の地理だけが全国へ延びた形であり、受注先の分散と資本の系列は別の問題として扱われていた。

  • 株式会社きんでん 公式サイト(沿革)
    • [40]1983年3月に1都1道2府43県を網羅する事業所網が完成した。
  • 証券 1970年4月号(第22巻第4号)
    • [41]1953年に東京事務所を東京支社へ昇格させた。1969年時点の事業所は全国146か所で、近畿の各支店と名古屋・広島・東京の各支社で構成されていた。
  • 日本企業要覧 1981年版「近畿電気工事」
    • [42]1981年3月時点の在籍人員は男6,812名、女683名の計7,495名、平均年齢は男36.8歳・女30.1歳の平均36.2歳、勤続年数は平均13.5年であった。
    • [43]1981年3月31日現在の大株主は関西電力24,376,172株(33.76%)、関電産業4,525,424株(6.27%)、大阪証券金融4,036,000株(5.59%)、近電工従業員持株会2,264,062株(3.14%)で、上位10名の合計は39,758,117株(55.0%)だった。

1984年8月、近畿電気工事はキンデンコウ(タイランド)・カンパニー・リミテッドを設立し、国外に足場を置いた。国内の伸びは鈍っていた。完成工事高は1982年3月期2,168億円、1983年3月期2,204億円、1984年3月期2,227億円と横ばいに近づき、経常利益は1982年3月期の190億円を頂点に、165億円、156億円と後退する。1985年3月期は完成工事高2,324億円、経常利益164億円、当期純利益65億円で、額はなお過去最高を更新しながら利益率は低下した。創業から40年、関西配電の指定工事業者6社の統合として生まれた会社は、電気工事を軸に空調と通信線を加え、全国の府県と東南アジアへ事業所を置く規模に達している。国内市場の伸びが止まったとき、どこで次の需要を取るかが次の40年の問いになった。

  • 株式会社きんでん 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1984年8月にキンデンコウ(タイランド)・カンパニー・リミテッド(現・キンデン(タイランド)・カンパニー・リミテッド)を設立した。
  • 会社年鑑 1986年版
    • [45]完成工事高は1982年3月期2,168億円、1983年3月期2,204億円、1984年3月期2,227億円、1985年3月期2,324億円と推移し、経常利益は1982年3月期190億円、1983年3月期165億円、1984年3月期156億円、1985年3月期164億円と推移した。
    • [46]完成工事高は1982年3月期2,168億円、1983年3月期2,204億円、1984年3月期2,227億円、1985年3月期2,324億円と推移し、経常利益は1982年3月期190億円、1983年3月期165億円、1984年3月期156億円、1985年3月期164億円と推移した。
  • 日本企業要覧 1981年版「近畿電気工事」
    • [47]1944年8月26日に関西配電関係の電気工事6業者の統合により資本金250万円、従業員641名で設立された。1981年時点の事業の内容には電気工事のほか空調工事・通信線工事が含まれた。
参考文献[36]-[47]
  • 会社年鑑 1976年版 / 1986年版
    • [36]完成工事高は1971年3月期581億円、1975年3月期1,099億円、1976年3月期1,074億円、1978年3月期1,308億円、1980年3月期1,649億円、1981年3月期1,942億円と推移した。
    • [37]完成工事高は1971年3月期581億円、1975年3月期1,099億円、1976年3月期1,074億円、1978年3月期1,308億円、1980年3月期1,649億円、1981年3月期1,942億円と推移した。
  • 日本企業要覧 1981年版「近畿電気工事」
    • [38]1981年3月期は施工体制の合理化と工事の質の向上に努めた結果、受注高2,023億2,342万円余(前期比15.7%増)、完成工事高1,941億6,949万円余(前期比17.8%増)をあげ、期末手持工事高も前期比5.7%増の1,504億8,951万円余を次期へ繰り越した。
    • [39]1981年時点の事業の内容は、屋内配線工事54.2%、配電線工事37.0%、送電線工事4.5%、空調工事2.8%、発変電所工事0.9%、通信線工事0.5%、土木工事0.1%であった。
    • [42]1981年3月時点の在籍人員は男6,812名、女683名の計7,495名、平均年齢は男36.8歳・女30.1歳の平均36.2歳、勤続年数は平均13.5年であった。
    • [43]1981年3月31日現在の大株主は関西電力24,376,172株(33.76%)、関電産業4,525,424株(6.27%)、大阪証券金融4,036,000株(5.59%)、近電工従業員持株会2,264,062株(3.14%)で、上位10名の合計は39,758,117株(55.0%)だった。
    • [47]1944年8月26日に関西配電関係の電気工事6業者の統合により資本金250万円、従業員641名で設立された。1981年時点の事業の内容には電気工事のほか空調工事・通信線工事が含まれた。
    • [40]1983年3月に1都1道2府43県を網羅する事業所網が完成した。
  • 証券 1970年4月号(第22巻第4号)
    • [41]1953年に東京事務所を東京支社へ昇格させた。1969年時点の事業所は全国146か所で、近畿の各支店と名古屋・広島・東京の各支社で構成されていた。
  • 株式会社きんでん 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1984年8月にキンデンコウ(タイランド)・カンパニー・リミテッド(現・キンデン(タイランド)・カンパニー・リミテッド)を設立した。
  • 会社年鑑 1986年版
    • [45]完成工事高は1982年3月期2,168億円、1983年3月期2,204億円、1984年3月期2,227億円、1985年3月期2,324億円と推移し、経常利益は1982年3月期190億円、1983年3月期165億円、1984年3月期156億円、1985年3月期164億円と推移した。
    • [46]完成工事高は1982年3月期2,168億円、1983年3月期2,204億円、1984年3月期2,227億円、1985年3月期2,324億円と推移し、経常利益は1982年3月期190億円、1983年3月期165億円、1984年3月期156億円、1985年3月期164億円と推移した。

筆者考察

1960年代の近畿電気工事が選んだのは、関西電力への依存を減らすことではなく、関西電力の工事を抱えたまま別の需要を足すことだった。1966年に空気調和設備工事へ進出しても、1969年の構成比は電気工事99.74%、管工事0.26%にすぎない。むしろ効いたのは受注先の広がりで、東京方面の受注高は3年で約2.1倍、全受注量の16.8%に達した。ただし依存度の低さは安全を意味しなかった。東京電力依存型の関東電気工事にくらべ、近畿電気工事は工期の長い民間工事を多く抱え、前受けにあたる未成工事受入金が少なく、当座比率も負債比率も劣った。独立の代価は運転資金として現れた。

万国博覧会という一回きりの需要を人員で受けなかったことが、その後の伸び方を決めた。約50億円の工事に対し、今元康彦本部長は臨時仕事のために人をふやすわけにはいかないとして増員を退け、総亘長28キロメートルの管路を工期3分の1の新工法で施工した。1969年1月には富士通のFACOM二三〇-一〇型を動かし、労働力の不足と人件費の高騰に事務の側からも対策を講じている。近畿電気工事は人員を増やさずに工事量を捌き、1981年3月期には屋内配線工事54.2%が配電線工事37.0%を上回る構成へ移って、完成工事高1,942億円に達した。関西配電の専属部門として出発した会社の主力は、発注元の外へ移っていた。

売上高(完成工事高)の推移 1962年3月期〜1985年3月期(億円)

103 1962/3 196 1965/3 478 1970/3 1,099 1975/3 1,649 1980/3 2,324 1985/3
  • 単体。1975年3月期までは半期決算の合算。
  • 出所は会社年鑑(1963年版・1967年版・1971年版・1976年版・1986年版)。

1962年〜1985年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1962年03月期 単体 103 n/a n/a n/a n/a 近電商事を設立(1961/11)
1963年03月期 単体 89 ▲13.6% n/a 7 7.9% n/a
1964年03月期 単体 155 +74.2% n/a 8 5.2% n/a
1965年03月期 単体 196 +26.5% n/a 8 4.1% n/a
1966年03月期 単体 221 +12.8% n/a 9 4.1% n/a
1967年03月期 単体 253 +14.5% n/a 10 4.0% n/a
1968年03月期 単体 295 +16.6% n/a 12 4.1% n/a
1969年03月期 単体 359 +21.7% n/a 15 4.2% n/a
1970年03月期 単体 478 +33.1% 43 22 4.6% 近電サービス(現きんでん関西サービス)を設立(1970/02)
1971年03月期 単体 581 +21.5% 54 28 4.8% n/a
1972年03月期 単体 636 +9.5% 53 27 4.2% n/a
1973年03月期 単体 703 +10.5% 56 28 4.0% n/a
1974年03月期 単体 863 +22.8% 57 26 3.0% n/a
1975年03月期 単体 1,099 +27.3% 89 34 3.1% n/a
1976年03月期 単体 1,074 ▲2.3% 85 35 3.3% n/a
1977年03月期 単体 1,145 +6.6% 110 43 3.8% n/a
1978年03月期 単体 1,308 +14.2% 111 48 3.7% n/a
1979年03月期 単体 1,486 +13.6% 121 49 3.3% n/a
1980年03月期 単体 1,649 +11.0% 141 52 3.2% n/a
1981年03月期 単体 1,942 +17.8% 182 70 3.6% n/a
1982年03月期 単体 2,168 +11.6% 190 79 3.6% n/a
1983年03月期 単体 2,204 +1.7% 165 71 3.2% n/a
1984年03月期 単体 2,227 +1.0% 156 58 2.6% n/a
1985年03月期 単体 2,324 +4.4% 164 65 2.8% n/a

出所:会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

11件
出典・参考
  • 株式会社きんでん 有価証券報告書【沿革】
  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)(大森久司社長インタビュー)
  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)「事業所一覧」
  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)「使命を果たす万国博体制」
  • 産業フロンティア物語 電気工事(ダイヤモンド社、1969年)「コンピューターを導入して」
  • 会社年鑑 1971年版
  • 会社年鑑 1976年版 / 1986年版
  • 会社年鑑 1986年版
  • 証券 1970年4月号(第22巻第4号)
  • 日本企業要覧 1981年版「近畿電気工事」
  • 株式会社きんでん 公式サイト(沿革)

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