1942年12月15日、国鉄の電気設備工事を専業とする鉄道電気工業が資本金100万円で設立登記を終えた。発端は同年8月、鉄道省電気局長の魚住朝治氏が工事請負業者と電気機器製造業者の代表を集め、新会社の設立で合意を得たことだった。鉄道省の狙いは、企業まで軍需へ動員される戦時下でも、輸送を支える電気設備の維持と拡充に専念する工事機関を確保することにあった。出資は工事業者121名が40万円、東京芝浦電気を含む指定製造業者16社が60万円を分け持ち、特定の出資者に支配が偏らない配分とした。12月10日の創立総会の後は社長を置かず、発起人総代で本沢組専務理事の内田境氏が専務取締役として経営を率いた。個々の業者を別々に動員するより、1社にまとめて国鉄の工事機関とするほうが統制しやすいと鉄道省はみたのだろう。
開業時に41名だった社員は、国鉄からの転入を軸に1944年5月末に449名、1945年5月末に938名へ増えた。1943年10月には事業目的に地方鉄道と軌道の電気設備を加えたものの、戦局の悪化で仕事は国鉄の工事に集中した。本店は1943年8月23日、事業規模の拡大に合わせて神田区須田町から東福田町へ移った。その本店は1945年2月15日の空襲で類焼し、移った先の仮事務所も3月10日と5月24日に相次いで焼けた。終戦間際には本支店が各鉄道局の防衛司令部に組み込まれ、鉄電工作隊として空襲で壊れた鉄道設備の復旧を担った。終戦後の10月10日、本店は神田区駿河台1丁目の駿河台ホテルに仮事務所を置いた。
1945年7月、専務取締役の内田境氏が初代社長に就任し、翌月の終戦とともに鉄電工作隊を含む戦時体制を解くよう指示した。石炭不足で、蒸気運転区間の輸送力は戦時中の半分以下に低下していた。運輸省は打開策として緊急電化方策を立て、上越線高崎〜水上間などの電化工事を1946年に始めた。鉄道電気工業は1945年12月15日に本店へ電化部を設け、戦災を受けた国鉄設備の復旧と上越線の電化工事を担った。1946年5月21日の臨時株主総会では事業目的を運輸事業全般の電気設備に広げ、鉄道以外の一般電気工事にも道を開いた。1948年12月にはGHQが国鉄の調達政策に関する覚書を出し、工事の公開競争入札が避けられなくなった。
1949年7月28日、鉄道電気工業は第7期定時株主総会で1,300万円の増資、社名の変更、事業目的の変更の3件を決議した。背景には、同年4月に日本国有鉄道法が施行され、国鉄工事が全面的な公開競争入札へ移ったことがあった。事業目的からは「運輸事業」の4文字を外し、電気機器と材料の製作・販売を新たに加えた。7月31日から日本電設工業を名乗り、官公庁や民間企業の電気設備工事も請け負う方針を掲げた。社長の内田境氏は同月の社報第36号で、社名の変更を武士が元服して幼名を改めることになぞらえた。国鉄工事の独占が崩れる前に、民間の受注で経営を支える体制を急いだとみられる。
改称の後、日本電設工業は国鉄の幹線電化による工事量の増加に合わせて増資を3度重ねた。1949年9月の増資で資本金を1,500万円とし、立ち退きを迫られていた松坂屋別館に代わる本店の取得資金を用意した。1950年6月には台東区元黒門町の旧東洋時計の土地と建物を2,732万円で取得し、1951年2月26日から新本店で営業を始めた。1951年5月期の完成工事高は21億2,600万円に達し、同年11月に資本金を3,000万円とした。1952年5月期は36億2,300万円となって運転資金が足りず、9月17日付の増資で資本金は6,000万円になった。経理では1949年10月の国税局の査察を機に、支店の収入をすべて本店へ送る方式へ1950年に改めた。
1953年7月、内田境氏が会長に退き、専務取締役が昇格して第2代社長に就任した。翌1954年からは財政と金融の引き締めで、国鉄の電気工事の発注量が大きく減った。その一方で国鉄に認められた工事業者は、1953年の910社から1954年に1,163社へ増えた。売上高は1957年5月期の4,331,459千円から1959年5月期に3,576,841千円へ減り、純利益は1,582千円にとどまった。第2代社長は1954年7月に本店へ営業部を新設し、国鉄以外の一般工事の獲得に着手した。社員は1952年5月末の2,098名から1954年5月末に2,496名へ膨らんでいた。そこで第2代社長は新規の採用を止め、1955年6月には定年を迎えた社員を嘱託として雇い続けることもやめた。
国鉄は1954年9月、仙山線北仙台〜作並間の23.9kmで交流電化の実地試験を始めた。試験で地上設備の課題がほぼ解けると、直流で工事中だった北陸本線米原〜敦賀間も交流へ切り替えられた。1957年に始まったこの国内初の本格的な交流電化工事に、日本電設工業は技術者を多数送り込んで新しい技術を習得した。国鉄工事の推定シェアは1949年度の67.6%から1956年度に55.9%へ下がっていた。それでも年間30億円を1社で受注することへの批判は強く、1957年4月に同業の千代田工事を設立して受注量を分けた。専務取締役の依藤義登氏らと社員307名を転籍させ、電力会社向けの新設送電線工事も千代田工事に譲った。
1958年7月5日、第2代社長が辞任し、鉄道省出身の佐治知足氏が第3代社長に就任した。佐治知足氏は部と支店ごとに完成工事高と利益の責任額を定め、超えた分を報奨金で配る制度を始めた。1959年10月には経営白書を出し、運用資金約16億円の6%にあたる約1億円の利益を確保すべき水準として示した。海外では、インド国鉄が1957年末に公示した東部・東南部幹線の交流25kV電化の国際入札に、日綿実業を窓口とする3社の調査団で加わった。第4工区の111kmを落札し、1959年1月下旬から技術者を送り、工事は1961年4月に完成した。売上高は1960年5月期に4,171,078千円、純利益は53,846千円まで戻った。
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事実根拠:出所(日本電設工業)