1942年ごろから配電統制令によって配電会社の再編が進み、電気工事業者のあいだにも統合の気運が起きた[1]。1944年8月に近畿電気工事が6業者を統合して発足したのを皮切りに、統合は次々と進んだ[2]。全国では9つの配電会社のブロックごとに9社の電気工事会社が作られ、中国電気工事もその1社である[3]。軍需省の要請を受け、中国5県下の電気工事12社を統合して1944年9月に広島市で発足した[4]。統合を指導したのは当時の中国配電であり、9月29日に資本金150万円で設立された[5]。翌1945年3月には29工事業者を追加して統合し、営業網を広げた[6]。
1945年8月、本社を置く広島市に原爆が投下され、本社は壊滅的な打撃を受けた[7]。復旧は早く、1946年4月には中国配電の電気工事部を吸収し、以後は中国配電が配電線工事と引込線工事をもっぱら中国電気工事へ発注した[8]。同じ年に製器工場を開いて電気機器の製作へ進出し、この工場は配電盤や制御盤を受注生産する電気機器製作部門へ育った[9][10]。このころの営業活動の中心は、広島・山口両県下で進駐軍が発注する電気工事[11]。1947年5月15日には従業員が中国電気工事労働組合を結成し、全日本電気工事労働組合連合会に加盟した[12]。
戦後の復興につれて中国配電からの受注工事は増え、1949年6月に広島証券取引所へ株式を上場した[13]。1950年1月には東京事務所を開き、中国5県の外に営業の足場を置いた[14]。1951年4月には建設部を設け、発変電所工事と送電線工事の部門を厚くした[15]。増資も重ね、資本金は1946年8月に250万円、1949年6月に1,500万円、1951年6月に3,000万円、1953年5月に5,000万円へと積み上がった[16]。こうして発電所の配線から特別高圧の送電線、変電所を経た配電線、一般家庭までの引込線、工場やビルの内線までを一貫して請け負う形になった[17]。
施工技術では同業他社に先んじて新しい工法を採り入れた[18]。1956年11月に導入したビニール外装ケーブル工法は、屋内配線で天井裏に電線を張る際に使っていた碍子を不要にするもので、無碍子配線工法として全国へ急速に広まり、屋内配線工事の生産性を押し上げた[19]。開発にあたったのは、中国電力の営業部長だった村田可朗氏と、中国電気工事の技術者だった古賀七郎氏である[20]。日本で最初にこの工法を導入・開発したことは、電気工事業界に大きな変化をもたらした[21]。1960年4月には技能者養成所を開き、技能オリンピックの電工部門では金メダルを取った[22]。
アルミ線の採用でも先んじた。戦争中に銅が不足したことからアルミ線を使う道を探り、接続が難しくスパークですぐ切れるという欠点を技術で解いた[23]。中国電力と協力して一部のアルミ電線の正式認可を取得し、東京晴海のジャパン・ファニチァ・センターでは関東地方で初めての本格的なアルミ配線工事を施工した[24]。1966年6月にはアルミ屋内配線工法を開発[25]。細物のアルミ線工事の施工について通商産業大臣の特別認可を受けたのは同社だけで、工場やマンション、ホテルの屋内工事にアルミ線を使えば工事費は1割ほど安くなった[26]。
電気工事の外にも稼ぎ口を広げ、1957年9月に中国電材を設立し、1967年4月には三親電材の株式を取得した[27]。1963年からは冷暖房・給排水・衛生設備を扱う管工事の研究開発に入り、電気設備と関連が深く受注先もほぼ重なる仕事を取り込んだ[28]。管工事の完成工事高は3年間で約3.4倍に伸び、1970年3月期には電気機器製作部門が2.0%、圧縮ペンチなどの販売部門が1.1%を占めた[29]。同じ期の完成工事高のうち中国電力からの工事は18.3%にとどまり、関東電気工事の約57%、近畿電気工事の約33%と比べて低い[30]。
1967年、大同電力から日本発送電、中国電力へと電力畑を40年余り歩き、中国電力の副社長を務めた村田可朗氏が社長に就いた[31][32]。就任した1967年度の完成工事高は160億円を超え、下期だけで87億5,000万円と前年同期を14.5%上回った[33]。伸びる工事量を賄うため、1968年10月に倍額増資を行った[34]。新株660万株のうち528万株を株主へ1対0.8の割合で割り当て、132万株を公募して資本金を6億6,000万円とし、大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した[35]。集めた資金は工事車両や機械器具、職員の厚生施設、営業所と工事所の拡大に充てられた[36]。
1970年11月には108万株を公開価格300円で公募し、資本金を7億8,000万円へ増やして東京証券取引所市場第二部に上場した[37]。1972年2月には東京・大阪の両取引所で市場第一部に指定された[38]。その背景には受注の厚みがあり、1968年10月からの1年間の完成工事高は206億100万円で、近畿電気工事、関東電気工事、東海電気工事に次ぐ業界4位、占有率は5.2%だった[39]。1件20万円未満の住宅向け工事が全施工高の2割近くを占め、完成工事件数は年約30万件に達し、約400社の外注先のうち240社を専属として抱えた[40]。
1975年6月、中国電力の副社長だった中野重美氏が社長に就いた[41]。就任から4カ月ほどの1975年10月ごろ、2カ月分以上あった工事資材の在庫を1カ月分へ減らし、30億円から40億円あった借入金をゼロにした[42]。残る借入は厚生年金などの基金から借りた1億円から2億円の長期資金にとどまった[43]。1976年3月末割当の増資では約10億円を公募して資本金を14億4,000万円から20億円へ引き上げ、全額を設備資金に充てて35カ所の事業場を整えた[44]。従業員8,000人と約3,000台の車両を抱えるなか、中野重美社長は電気工事業に徹すると常務会や支店長会議で説き、土地や不動産には手を出さなかった[45]。
1989年、中国電力の副社長だった宮崎敏夫氏が中国電気工事の社長に就任した[46]。宮崎敏夫社長は1947年に中国配電へ入り、1951年に中国電力が事業を継承したのちは燃料と資材の仕事を長く担い、1979年に取締役、1981年に常務、1987年に副社長を務めた[47]。電力会社は一つの区域を独占して商売をし、燃料や資材の部署には取引先のほうから話が持ち込まれたが、工事会社ではその関係が逆になった[48][49]。東は関東から西は沖縄まで同業者が入り乱れて競争し、営業が積み上げた案件の最後は社長が出向いて受注を頼む場面が増えた[50]。宮崎敏夫社長は就任からの1年を戸惑いの連続だったと1993年の対談で振り返った[51]。
1990年10月、中国電気工事は商号を中電工に改めた[52]。中国電力は中電工に35%を出資していたが、中国電力向けの金額的な依存度は3割を少し切り、九電工やきんでんとほぼ同じ割合だった[53]。残る7割強は一般工事で、うち官公庁関係が約10%を占めた[54]。地域別では中国5県内が9割強、東京・大阪・名古屋・九州・沖縄を合わせても1割弱にとどまった[55]。広島を中心としたアジア大会の施設整備は1993年になっても直接、間接に続き、前々年度から持ち越した工事額は約820億円あった[56]。中国地区が受けたバブル経済崩壊の影響は他地域に比べて小さいと宮崎敏夫社長はみていた[57]。
1991年度の売上高は約1,900億円で、宮崎敏夫社長は1992年度に売上高が2,000億円を超え、受注は2,100億円、経常利益は300億円に達すると見通した[58][59]。前年の台風10号で中国電力の設備が大きな塩害を受け、1993年から塩害対策の工事量が増えたことも受注を押し上げた[60]。中電工は無借金経営を続け、自己資本比率や売上高利益率といった経営指標は業界の首位にあった[61]。宮崎敏夫社長はその理由を、中野重美元社長が敷いた経営方針を矢田貝会長が継承し、無駄の排除を細かく積み上げた結果だと説明し、なかでも工程管理を最も重んじていると述べた[62]。
1992年に始めた5ヵ年の中期経営計画は、最終年度の1995年度に受注2,500億円、売上高2,300億円を置いた[63]。技術者では電気主任技術者の一種・二種の有資格者と技術士を社内で養成し、一級施工管理技士を1995年に約500人まで増やす目標を掲げた[64]。1992年に完全週休二日制を導入し、一般工事では半年余りで定着した[65]。電力の塩害対策工事と配電設備の工事は停電が難しく深夜作業が多いため、外線関係では代休を取り切れずにいた[66]。人力の機械への置き換えも進み、配電線工事で電柱に昇ることはほとんどなくなり、高所作業車のバケットに2人が入る方式に替わっていた[67]。1991年と1992年には短大・高校卒の女性を約150人採用し、OA機器とCADの操作を任せて男性を工事へ回した[68]。従業員は6,000人強を数えた[69]。
本社が手狭になったため、中電工は中国電力と共同で20階建てのビルを建てる計画を中期経営計画に入れた[70]。用地は平和公園の西寄りを走る100m道路沿いで、中国電力と中電工の土地が地続きに千坪余りあり、中国電力も地下変電所を必要としていた[71]。1996年、中電工は竣工した平和通り電気ビルへ本店を移した[72]。移転披露のパーティーには300人近くが出席し、平岡敬広島市長、中国電力の多田公照会長、きんでんの荒巻恭二会長、トーエネックの石田英夫社長、ユアテックの中沢博司社長、九電工の白石司社長、マツダの和田淑弘社長が顔をそろえた[73]。多田会長は50余年の歴史のなかで何度か社屋を移してきた中電工に、この移転を機とした発展を期待すると述べた[74]。
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|---|---|---|---|---|
| 1944〜1979年12社統合で発足した会社が電力以外に稼ぎ口を広げるまで | 軍需省の要請で中国5県下の電気工事12社が統合した中国電気工事を広島市に設立 | ★★★ | ||
| 広島証券取引所市場に上場 | ★ | |||
| 東京事務所(現 東京本部)を開設 | ★ | |||
| 送電線・発変電所工事を担う建設部(現 電力建設所)を開設 | ★★ | |||
| ビニール外装ケーブル工法を開発 | ★★ | |||
| 中国電材を設立 | ★ | |||
| 技能者養成所(現 研修所)を開設 | ★★ | |||
| 三親電材の株式を取得 | ★ | |||
| 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部・大阪証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |||
| 1980〜1999年中国電気工事から中電工へ、受注の7割強を占めた一般工事 | 商号を中電工に変更 | ★★★ | ||
| 2000〜2025年電力向け工事の外へ、買収と出資で稼ぎ口を広げる | 加藤義明 | 大阪証券取引所への上場を廃止 | ★ | |
| 細田順弘 | CHUDENKO(MALAYSIA)SDN. BHD.を設立 | ★ | ||
| 小畑博文 | 農業に参入する中電工ワールドファームを設立 | ★★ | ||
| 小畑博文 | 杉山管工設備の株式を取得し管工事に領域を拡大 | ★★★ | ||
| 小畑博文 | 早水電機工業の株式を取得 | ★★ | ||
| 小畑博文 | RYB ENGINEERING PTE LTDの株式を取得 | ★ | ||
| 迫谷章 | 昭和コーポレーションの株式を取得 | ★★ | ||
| 迫谷章 | 東京証券取引所の市場区分の見直しによりプライム市場に移行 | ★ | ||
| 重藤隆文 | 監査役会設置会社から監査等委員会設置会社に移行 | ★ |
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事実根拠:出所(中電工)