中電工 の歴史

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創業 1944年
母体 中国配電傘下の電気工事12社が統合
創業地 広島県広島市
創業 1944年9月、軍需省の要請を受けて中国5県下の電気工事12社が統合され、広島市
1944年9月、軍需省の要請を受けて中国5県下の電気工事12社が統合され、広島市で中国電気工事が発足した。統合を指導したのは配電を担う中国配電で、9月29日に資本金150万円で設立されている。翌1945年3月には29の工事業者を追加して統合し、営業網を広げた。同年8月の原爆投下で本社は壊滅的な打撃を受けたが、1946年4月に中国配電の電気工事部を吸収し、以後は中国配電が配電線工事と引込線工事をもっぱら同社へ発注した。1949年6月に広島証券取引所へ上場し、1968年10月に大阪証券取引所市場第二部、1970年11月に東京証券取引所市場第二部、1972年2月には両取引所の第一部へ移っている。商号を中電工へ改めたのは1990年10月である。
決断 借入をゼロにして守った財務を、2016年以降は買収に充てた。1975年6月に中国
借入をゼロにして守った財務を、2016年以降は買収に充てた。1975年6月に中国電力の副社長から社長へ就任した中野重美氏は、工事資材の在庫を1か月分へ減らし、30億〜40億円の借入金をゼロにした。電気工事業に徹し、土地や不動産には手を出さなかった。無借金経営は1990年代も続き、経営指標は業界の首位にあった。方針が動いたのは2016年で、7月に杉山管工設備、8月に早水電機工業を取得し、2017年10月にシンガポールのRYB Engineering、2019年12月に昭和コーポレーションを傘下に入れた。ただしRYBは2020年1月に17億円ののれん減損を出し、台湾の洋上風力への出資は2023年3月期に125億円の持分法投資損失となって、同期を69億円の最終赤字にした。
現況 2023年3月期の最終赤字から3期で、営業利益は3倍を超えた。2026年3月期の
2023年3月期の最終赤字から3期で、営業利益は3倍を超えた。2026年3月期の連結売上高は2,278億円、営業利益262億円、純利益185億円で、売上と営業利益は過去最高となった。報告セグメントは設備工事業ひとつである。2025年3月期の個別完成工事高1,778億円の内訳は中国電力グループ向け410億円で23.1%、官公庁392億円で22.1%、一般民間975億円で54.8%であり、中国電力が発行済株式の40.43%を持つ筆頭株主でありながら、受注では4分の1に満たない。2025年4月に定めた中期経営計画2027は2027年度に売上高2,400億円・営業利益230億円・ROE7.0%以上を置いたが、営業利益は2026年3月期に前倒しで超えた。
競合 割り当てられた区域が最も小さかったことが、系列外への傾きを早めた。1944年の統
割り当てられた区域が最も小さかったことが、系列外への傾きを早めた。1944年の統合では9つの配電ブロックごとに9社の電気工事会社が置かれたが、中国地方の電力需要は関東や近畿に及ばない。1970年3月期の完成工事高に占める中国電力からの工事は18.3%で、同じ年に発足した関東電気工事の約57%、近畿電気工事(現きんでん)の約33%を大きく下回った。不足を埋めたのは工法と工種で、1956年11月に導入したビニール外装ケーブル工法は屋内配線の碍子を不要にして全国へ広まり、1966年6月に開発したアルミ屋内配線工法では、細物のアルミ線工事の特別認可を通商産業大臣から受けたのが同社だけだった。1963年からは管工事の研究開発に入り、受注先が重なる仕事を取り込んでいる。1970年代に工種で埋めた不足を、2010年代は他社の買収で埋めた。
長期業績の推移 1950〜2025年
中電工:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2025年3月期

第1章 1944年〜 12社統合で発足した会社が電力以外に稼ぎ口を広げるまで

1944年〜12社統合による発足と原爆からの再建

1942年ごろから配電統制令によって配電会社の再編が進み、電気工事業者のあいだにも統合の気運が起きた。1944年8月に近畿電気工事が6業者を統合して発足したのを皮切りに、統合は次々と進んだ。全国では9つの配電会社のブロックごとに9社の電気工事会社が作られ、中国電気工事もその1社である。軍需省の要請を受け、中国5県下の電気工事12社を統合して1944年9月に広島市で発足した。統合を指導したのは当時の中国配電であり、9月29日に資本金150万円で設立された。広島・岡山・山口・松江・大阪の5市に支社を置いて営業を始め、翌1945年3月には29工事業者を追加して統合し、営業網を広げた。

  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [1]昭和17年ごろから配電統制令によって配電会社の再編成が行なわれ、それに伴い電気工事業者も統合しようという気運が起こった。昭和19年8月、近畿電気工事が6工事業者を統合して設立されたのを始めとして、次々と電気工事業者の統合が進められた
    • [2]昭和17年ごろから配電統制令によって配電会社の再編成が行なわれ、それに伴い電気工事業者も統合しようという気運が起こった。昭和19年8月、近畿電気工事が6工事業者を統合して設立されたのを始めとして、次々と電気工事業者の統合が進められた
    • [5]当時の中国配電の指導のもとに、昭和19年9月29日、12工事業者を統合して広島市に設立された。設立時の資本金は1,500千円
    • [7]次いで昭和20年3月、29工事業者を追加統合して営業網を拡大した
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年
    • [3]電気工事業界は9配電会社のブロック毎、すなわち全国に9つの電気工事会社に統合され、そのうちの1つ、中国5県下の業者を集めて出来たのが中国電気工事である
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [4]1944年9月、軍需省の要請で中国5県下の電気工事12社が統合した中国電気工事を広島市に設立
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [6]1944年9月、軍需省の要請により主に中国5県下の電気工事12社が統合し、資本金150万円の電気工事会社として広島市に中国電気工事株式会社を設立、また広島・岡山・山口・松江・大阪の5市に支社を設置、営業開始

1945年8月、本社を置く広島市に原爆が投下され、本社は壊滅的な打撃を受けた。復旧は早く、1946年4月には中国配電の電気工事部を吸収し、以後は中国配電が配電線工事と引込線工事をもっぱら中国電気工事へ発注した。同じ年に製器工場を開設して電気機器の製作へ進出し、この工場は配電盤や制御盤を受注生産する電気機器製作部門へ育った。このころの営業活動の中心は、広島・山口両県下で進駐軍が発注する電気工事。1947年5月15日には従業員が中国電気工事労働組合を結成し、全日本電気工事労働組合連合会に加盟した。

  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [8]昭和20年8月、本社所在地である広島市に原子爆弾が投下されて、本社は壊滅的打撃を受けた
    • [9]いち早く復興に努め、昭和21年4月、中国配電の電気工事部を吸収し、中国配電の配電線、引込線工事はもっぱら同社に発注されることになった
    • [10]さらに同年、製器工場を開設して、電気機器の製作部門に進出した
    • [11]電気機器製作部門では、配電盤、制御盤、ボーリング用ピンセッター等を受注生産している
    • [12]このごろの営業活動はおもに、広島、山口両県下の進駐軍発注の電気工事であった
    • [13]組合結成は昭和22年5月15日であり、上部団体としては全日本電気工事労働組合連合会に加盟している

戦後の復興につれて中国配電からの受注工事は増え、1949年6月に広島証券取引所へ株式を上場した。1950年1月には東京事務所を開設し、中国5県の外に営業の足場を置いた。1951年4月には建設部を設け、発変電所工事と送電線工事の部門を厚くした。増資も重ね、資本金は1946年8月に250万円、1949年6月に1,500万円、1951年6月に3,000万円、1953年5月に5,000万円へと積み上がった。こうして発電所の配線から特別高圧の送電線、変電所を経た配電線、一般家庭までの引込線、工場やビルの内線までを一貫して請け負う形になった。

  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [14]戦後の復興に伴って中国配電からの受注工事も増加し、昭和24年6月同社株式を広島証券取引所に上場している
    • [16]昭和26年4月には、建設部を設けて発変電所工事、送電線工事部門の充実を図った
    • [17]資本金の変遷は昭21.8.9に2,500千円、昭24.6.20に15,000千円、昭26.6.12に30,000千円、昭28.5.29に50,000千円
    • [18]同社の事業内容は、発電所の配線工事に始まり、特別高圧電気を送る送電線工事、さらに変電所を経て普通高圧電気、低圧電気を送る配電線工事に至る電力会社からの受注工事と、一般家庭までの引込線工事、一般内線工事となる
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [15]1950年1月、東京事務所(現 東京本部)を開設
参考文献[1]-[18]
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [1]昭和17年ごろから配電統制令によって配電会社の再編成が行なわれ、それに伴い電気工事業者も統合しようという気運が起こった。昭和19年8月、近畿電気工事が6工事業者を統合して設立されたのを始めとして、次々と電気工事業者の統合が進められた
    • [2]昭和17年ごろから配電統制令によって配電会社の再編成が行なわれ、それに伴い電気工事業者も統合しようという気運が起こった。昭和19年8月、近畿電気工事が6工事業者を統合して設立されたのを始めとして、次々と電気工事業者の統合が進められた
    • [5]当時の中国配電の指導のもとに、昭和19年9月29日、12工事業者を統合して広島市に設立された。設立時の資本金は1,500千円
    • [7]次いで昭和20年3月、29工事業者を追加統合して営業網を拡大した
    • [8]昭和20年8月、本社所在地である広島市に原子爆弾が投下されて、本社は壊滅的打撃を受けた
    • [9]いち早く復興に努め、昭和21年4月、中国配電の電気工事部を吸収し、中国配電の配電線、引込線工事はもっぱら同社に発注されることになった
    • [10]さらに同年、製器工場を開設して、電気機器の製作部門に進出した
    • [11]電気機器製作部門では、配電盤、制御盤、ボーリング用ピンセッター等を受注生産している
    • [12]このごろの営業活動はおもに、広島、山口両県下の進駐軍発注の電気工事であった
    • [13]組合結成は昭和22年5月15日であり、上部団体としては全日本電気工事労働組合連合会に加盟している
    • [14]戦後の復興に伴って中国配電からの受注工事も増加し、昭和24年6月同社株式を広島証券取引所に上場している
    • [16]昭和26年4月には、建設部を設けて発変電所工事、送電線工事部門の充実を図った
    • [17]資本金の変遷は昭21.8.9に2,500千円、昭24.6.20に15,000千円、昭26.6.12に30,000千円、昭28.5.29に50,000千円
    • [18]同社の事業内容は、発電所の配線工事に始まり、特別高圧電気を送る送電線工事、さらに変電所を経て普通高圧電気、低圧電気を送る配電線工事に至る電力会社からの受注工事と、一般家庭までの引込線工事、一般内線工事となる
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年
    • [3]電気工事業界は9配電会社のブロック毎、すなわち全国に9つの電気工事会社に統合され、そのうちの1つ、中国5県下の業者を集めて出来たのが中国電気工事である
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [4]1944年9月、軍需省の要請で中国5県下の電気工事12社が統合した中国電気工事を広島市に設立
    • [15]1950年1月、東京事務所(現 東京本部)を開設
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [6]1944年9月、軍需省の要請により主に中国5県下の電気工事12社が統合し、資本金150万円の電気工事会社として広島市に中国電気工事株式会社を設立、また広島・岡山・山口・松江・大阪の5市に支社を設置、営業開始

1956年〜自前の工法開発と電力以外への受注の広がり

施工技術では同業他社に先んじて新しい工法を採り入れた。1956年11月に導入したビニール外装ケーブル工法は、屋内配線で天井裏に電線を張る際に使っていた碍子を不要にするもので、無碍子配線工法として全国へ急速に広まり、屋内配線工事の生産性を押し上げた。開発にあたったのは、中国電力の営業部長だった村田可朗氏と、中国電気工事の技術者だった古賀七郎氏である。日本で最初にこの工法を導入・開発したことは、電気工事業界に大きな変化をもたらした。1960年4月には技能者養成所を開設し、技能オリンピックの電工部門では金メダルを取った。

  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
    • [19]同社の施工技術面では、昭和31年11月に「ビニール外装ケーブル工法」を導入。以前は天井裏に線を張るのに碍子を使っていたのを碍子なしにやる工法で、無碍子配線工法として全国に急速に普及し、屋内配線工事の生産性向上に大きく役立っている
    • [20]同社の施工技術面では、昭和31年11月に「ビニール外装ケーブル工法」を導入。以前は天井裏に線を張るのに碍子を使っていたのを碍子なしにやる工法で、無碍子配線工法として全国に急速に普及し、屋内配線工事の生産性向上に大きく役立っている
  • 野田豊「技術・サービスコストダウンを追求――中国電気工事社長 村田可朗氏」『野田経済』1970年
    • [21]村田可朗が中国電力の営業部長のころ、中国電気工事の技術者である古賀七郎とタイアップして平型ビニル外装ケーブルの工法を発明した
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [22]「ビニール外装ケーブル工法」をわが国で初めて導入開発し、電気工事業界に大きな変革をもたらしたのは同社である
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
    • [23]1960年4月に技能者養成所(現 研修所)を開設。技能部門では電工部門に金メダルを獲得した

アルミ線の採用でも先んじた。戦争中に銅が不足したことからアルミ線を使う道を探り、接続が難しくスパークですぐ切れるという欠点を技術で解いた。中国電力と協力して一部のアルミ電線の正式認可を取得し、東京晴海のジャパン・ファニチァ・センターでは関東地方で初めての本格的なアルミ配線工事を施工した。1966年6月にはアルミ屋内配線工法を開発。細物のアルミ線工事の施工について通商産業大臣の特別認可を受けたのは同社だけで、工場やマンション、ホテルの屋内工事にアルミ線を使えば工事費は1割ほど安くなった。

  • 「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
    • [24]戦争中で銅が少なかったのでアルミ線を使おうということになり、アルミは接続がむずかしい、スパークですぐ切れるといった欠点があったのを技術的に解決した
  • 野田豊「技術・サービスコストダウンを追求――中国電気工事社長 村田可朗氏」『野田経済』1970年
    • [25]中国電力と協力して一部のアルミ電線の正式認可をとり、その後、東京晴海のジャパン・ファニチァ・センターに関東地方ではじめての本格的なアルミ配線工事を施工した
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [26]昭和41年6月「アルミ屋内配線工法」を開発し、同業他社に先がけて採用している
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
    • [27]細もののアルミ線工事の施工について通産大臣の特別認可を受けているのは同社だけである。工場やマンション、ホテルでアルミ線を使うと工事費が1割ぐらい安くつく

電気工事の外にも稼ぎ口を広げ、1957年9月に中国電材を設立し、1967年4月には三親電材の株式を取得した。1963年からは冷暖房・給排水・衛生設備を扱う管工事の研究開発に入り、電気設備と関連が深く受注先もほぼ重なる仕事を取り込んだ。管工事の完成工事高は3年間で約3.4倍に伸び、1970年3月期には電気機器製作部門が2.0%、圧縮ペンチなどの販売部門が1.1%を占めた。同じ期の完成工事高のうち中国電力からの工事は18.3%にとどまり、関東電気工事の約57%、近畿電気工事の約33%と比べて低い。1963年3月末の従業員は5,705人で、広島・岡山・島根・鳥取の支店に加えて東京・名古屋・大阪・九州・四国へ支社を置き、電気工事業のほかに電気機器の製作・販売と管工事業を主な事業内容に掲げていた。工事の受注先は中国電力であり、電線や碍子金物は中国電材と三親電材から、変圧器は中国電機製造から仕入れ、電線器具類を松下電工と中国電材へ販売した。

  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [28]1957年9月に中国電材を設立、1967年4月に三親電材の株式を取得
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [29]管工事は同社が古く昭和38年からこの方面での研究開発を行なってきた。内容は冷暖房、給排水、衛生設備等であり、これらは電気設備との関連性が深く、受注先もほぼ同じで、1件当りの施工金額も電気工事より大きいものもある
    • [30]部門別に完成工事高の伸びを見ると、いちばん大きな伸びを示しているのは管工部門でこの3年間に約3.4倍。昭45.3期の販売実績で電気機器製作部門2.0%、販売部門(圧縮ペンチ等)1.1%
    • [31]前期は全完成工事高の19.6%が中国電力からの受注工事であったが、昭45.3期には全体の18.3%となった。電力会社からの受注では、多いところで関東電気工事が約57%、少ないところで近畿電気工事が約33%となっている
  • 「中国電気工事」『株式会社年鑑』1964年版
    • [32]従業員5,705人。主なる事業内容は電気工事業、電気機器の製作・販売並びに修理、管工事業。広島支店・岡山支店・島根支店・鳥取支店・東京支社・名古屋支社・大阪支社・九州支社・四国支社を置く(38年3月31日現在)
    • [33]主なる取引先は、仕入(電線・碍子金物)中国電材・三親電材、(変圧器)中国電機製造、販売(電線器具類)松下電工・中国電材、工事受注先 中国電力
参考文献[19]-[33]
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
    • [19]同社の施工技術面では、昭和31年11月に「ビニール外装ケーブル工法」を導入。以前は天井裏に線を張るのに碍子を使っていたのを碍子なしにやる工法で、無碍子配線工法として全国に急速に普及し、屋内配線工事の生産性向上に大きく役立っている
    • [20]同社の施工技術面では、昭和31年11月に「ビニール外装ケーブル工法」を導入。以前は天井裏に線を張るのに碍子を使っていたのを碍子なしにやる工法で、無碍子配線工法として全国に急速に普及し、屋内配線工事の生産性向上に大きく役立っている
  • 野田豊「技術・サービスコストダウンを追求――中国電気工事社長 村田可朗氏」『野田経済』1970年
    • [21]村田可朗が中国電力の営業部長のころ、中国電気工事の技術者である古賀七郎とタイアップして平型ビニル外装ケーブルの工法を発明した
    • [25]中国電力と協力して一部のアルミ電線の正式認可をとり、その後、東京晴海のジャパン・ファニチァ・センターに関東地方ではじめての本格的なアルミ配線工事を施工した
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [22]「ビニール外装ケーブル工法」をわが国で初めて導入開発し、電気工事業界に大きな変革をもたらしたのは同社である
    • [26]昭和41年6月「アルミ屋内配線工法」を開発し、同業他社に先がけて採用している
    • [29]管工事は同社が古く昭和38年からこの方面での研究開発を行なってきた。内容は冷暖房、給排水、衛生設備等であり、これらは電気設備との関連性が深く、受注先もほぼ同じで、1件当りの施工金額も電気工事より大きいものもある
    • [30]部門別に完成工事高の伸びを見ると、いちばん大きな伸びを示しているのは管工部門でこの3年間に約3.4倍。昭45.3期の販売実績で電気機器製作部門2.0%、販売部門(圧縮ペンチ等)1.1%
    • [31]前期は全完成工事高の19.6%が中国電力からの受注工事であったが、昭45.3期には全体の18.3%となった。電力会社からの受注では、多いところで関東電気工事が約57%、少ないところで近畿電気工事が約33%となっている
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
    • [23]1960年4月に技能者養成所(現 研修所)を開設。技能部門では電工部門に金メダルを獲得した
  • 「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
    • [24]戦争中で銅が少なかったのでアルミ線を使おうということになり、アルミは接続がむずかしい、スパークですぐ切れるといった欠点があったのを技術的に解決した
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
    • [27]細もののアルミ線工事の施工について通産大臣の特別認可を受けているのは同社だけである。工場やマンション、ホテルでアルミ線を使うと工事費が1割ぐらい安くつく
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [28]1957年9月に中国電材を設立、1967年4月に三親電材の株式を取得
  • 「中国電気工事」『株式会社年鑑』1964年版
    • [32]従業員5,705人。主なる事業内容は電気工事業、電気機器の製作・販売並びに修理、管工事業。広島支店・岡山支店・島根支店・鳥取支店・東京支社・名古屋支社・大阪支社・九州支社・四国支社を置く(38年3月31日現在)
    • [33]主なる取引先は、仕入(電線・碍子金物)中国電材・三親電材、(変圧器)中国電機製造、販売(電線器具類)松下電工・中国電材、工事受注先 中国電力

1967年〜株式公開の積み重ねと借入金ゼロへの転換

1967年、大同電力から日本発送電、中国電力へと電力畑を40年余り歩き、中国電力の副社長を務めた村田可朗氏が社長に就任した。就任した1967年度の完成工事高は160億円を超え、下期だけで87億5,000万円と前年同期を14.5%上回った。伸びる工事量を賄うため、1968年10月に倍額増資を行った。新株660万株のうち528万株を株主へ1対0.8の割合で割り当て、132万株を公募して資本金を6億6,000万円とし、大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。集めた資金は工事車両や機械器具、職員の厚生施設、営業所と工事所の拡大に充てられた。

  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年
    • [34]昭和42年12月、中国電力(持株率21.6%の筆頭株主)から村田可朗副社長を新社長として迎え入れた
    • [35]村田社長(大正14年東大電気卒)は大同電力―日発―中国電力と電気事業に従事すること40余年間の大ベテランである
    • [36]昭和42年度の完工高は160億円を突破した。前期(昭和42年度下期)の完工高は87億5,000万円と前年同期比で14.5%の増加を示している
    • [39]増資による資金は工事車両、機械器具、職員厚生施設の充実、営業所、工事所の拡大などに当てられる
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年/堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [37]増資の内容は、新株式660万株のうち528万株を7月31日現在の株主に1対0.8の割合で割り当て、残り132万株を一般公募とし、払い込み期日は9月30日で新資本金は6億6千万円。増資を機会に大阪取引所二部に上場することも決定した(昭43.10.1 資本金660,000千円)
    • [38]増資の内容は、新株式660万株のうち528万株を7月31日現在の株主に1対0.8の割合で割り当て、残り132万株を一般公募とし、払い込み期日は9月30日で新資本金は6億6千万円。増資を機会に大阪取引所二部に上場することも決定した(昭43.10.1 資本金660,000千円)

1970年11月には108万株を公開価格300円で公募し、資本金を7億8,000万円へ増やして東京証券取引所市場第二部に上場した。1972年2月には東京・大阪の両取引所で市場第一部に指定された。その背景には受注の厚みがあり、1968年10月からの1年間の完成工事高は206億100万円で、近畿電気工事、関東電気工事、東海電気工事に次ぐ業界4位、占有率は5.2%だった。1件20万円未満の住宅向け工事が全施工高の2割近くを占め、完成工事件数は年約30万件に達し、約400社の外注先のうち240社を専属として抱えた。

  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [40]昭45.11.1 資本金780,000千円、公募108万株。公開株数1,080,000株、公開価格300円。1970年11月、東京証券取引所市場第二部に上場
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [41]1972年2月、東京証券取引所市場第一部・大阪証券取引所市場第一部に指定
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [42]業界順位(43.10〜44.9 完成工事高)は1位近畿電気工事41,639百万円、2位関東電気工事39,463百万円、3位東海電気工事21,495百万円、4位同社20,601百万円、占有率5.2%
    • [43]1件20万円未満の住宅向け工事が全施工高の2割近くを占めており、昭45.3期の完成工事件数は約30万件。外注先は昭45.3期現在で約400社、このうち同社専属の外注先は約240社

1975年6月、中国電力の副社長だった中野重美氏が社長に就任した。就任から4カ月ほどの1975年10月ごろ、2カ月分以上あった工事資材の在庫を1カ月分へ減らし、30億円から40億円あった借入金をゼロにした。残る借入は厚生年金などの基金から借りた1億円から2億円の長期資金にとどまった。1976年3月末割当の増資では約10億円を公募して資本金を14億4,000万円から20億円へ引き上げ、全額を設備資金に充てて35カ所の事業場を整えた。翌1977年4月には5%の無償増資を行い、資本金は21億円になった。従業員8,000人と約3,000台の車両を抱えるなか、中野重美社長は電気工事業に徹すると常務会や支店長会議で説き、土地や不動産には手を出さなかった。

  • 野田皓一「八、〇〇〇人の従業員と共に生きる――中国電気工事社長 中野重美氏」『野田経済』1976年
    • [44]中野重美氏は、昭和50年6月に中国電力の副社長から中国電気工事の社長に就任した
    • [45]就任以来、借金というものを一切やめた。その最たるものは今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃。借金は厚生年金とか何とかの基金から借りている長期的なものが1〜2億円あるだけ
    • [46]就任以来、借金というものを一切やめた。その最たるものは今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃。借金は厚生年金とか何とかの基金から借りている長期的なものが1〜2億円あるだけ
    • [47]3月末割当で3分の1の増資中、新資本金は20億円になる。現在の資本金は14億4,000万円。全額、設備資金で、公募を付けるから約10億円近く入り、残り10億円は内部資金から出せる見込み。事業場の整備は35カ所
    • [49]従業員は8,000人、自動車が約3,000台ある。「電気工事業は、あくまで電気工事業に徹すべきだ」電気工事業であって資金があるからといって、土地や不動産を買ったり、電気工事以外の素人の仕事をしてはいけないということだけはチャンと頭に入れていると常務会や支店長会議で述べた
  • 『資本異動総覧』1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
    • [48]1977年4月1日 無償増資 割当率0.05、増加資本金100百万円、増資後資本金2,100百万円
参考文献[34]-[49]
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年
    • [34]昭和42年12月、中国電力(持株率21.6%の筆頭株主)から村田可朗副社長を新社長として迎え入れた
    • [35]村田社長(大正14年東大電気卒)は大同電力―日発―中国電力と電気事業に従事すること40余年間の大ベテランである
    • [36]昭和42年度の完工高は160億円を突破した。前期(昭和42年度下期)の完工高は87億5,000万円と前年同期比で14.5%の増加を示している
    • [39]増資による資金は工事車両、機械器具、職員厚生施設の充実、営業所、工事所の拡大などに当てられる
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年/堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [37]増資の内容は、新株式660万株のうち528万株を7月31日現在の株主に1対0.8の割合で割り当て、残り132万株を一般公募とし、払い込み期日は9月30日で新資本金は6億6千万円。増資を機会に大阪取引所二部に上場することも決定した(昭43.10.1 資本金660,000千円)
    • [38]増資の内容は、新株式660万株のうち528万株を7月31日現在の株主に1対0.8の割合で割り当て、残り132万株を一般公募とし、払い込み期日は9月30日で新資本金は6億6千万円。増資を機会に大阪取引所二部に上場することも決定した(昭43.10.1 資本金660,000千円)
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [40]昭45.11.1 資本金780,000千円、公募108万株。公開株数1,080,000株、公開価格300円。1970年11月、東京証券取引所市場第二部に上場
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [41]1972年2月、東京証券取引所市場第一部・大阪証券取引所市場第一部に指定
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [42]業界順位(43.10〜44.9 完成工事高)は1位近畿電気工事41,639百万円、2位関東電気工事39,463百万円、3位東海電気工事21,495百万円、4位同社20,601百万円、占有率5.2%
    • [43]1件20万円未満の住宅向け工事が全施工高の2割近くを占めており、昭45.3期の完成工事件数は約30万件。外注先は昭45.3期現在で約400社、このうち同社専属の外注先は約240社
  • 野田皓一「八、〇〇〇人の従業員と共に生きる――中国電気工事社長 中野重美氏」『野田経済』1976年
    • [44]中野重美氏は、昭和50年6月に中国電力の副社長から中国電気工事の社長に就任した
    • [45]就任以来、借金というものを一切やめた。その最たるものは今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃。借金は厚生年金とか何とかの基金から借りている長期的なものが1〜2億円あるだけ
    • [46]就任以来、借金というものを一切やめた。その最たるものは今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃。借金は厚生年金とか何とかの基金から借りている長期的なものが1〜2億円あるだけ
    • [47]3月末割当で3分の1の増資中、新資本金は20億円になる。現在の資本金は14億4,000万円。全額、設備資金で、公募を付けるから約10億円近く入り、残り10億円は内部資金から出せる見込み。事業場の整備は35カ所
    • [49]従業員は8,000人、自動車が約3,000台ある。「電気工事業は、あくまで電気工事業に徹すべきだ」電気工事業であって資金があるからといって、土地や不動産を買ったり、電気工事以外の素人の仕事をしてはいけないということだけはチャンと頭に入れていると常務会や支店長会議で述べた
  • 『資本異動総覧』1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
    • [48]1977年4月1日 無償増資 割当率0.05、増加資本金100百万円、増資後資本金2,100百万円

第2章 1980年〜 中電工への改称と中国電力依存からの一般工事の拡大

1980年〜商号から電気工事の三文字が落ちるまでに変わった受注の構成

1990年10月、中国電気工事は商号を中電工へ変更した。中国5県の電気工事12社を統合して発足した会社の名は、中国電力の系列で電気工事を請け負う立場をそのまま表していたが、そのころの受注の構成はすでに名前から離れていた。1993年初めの時点で、中国電力への金額的な依存度は3割を少し切り、残る7割強を一般工事が占めた。一般工事のうち官公庁関係は約10%で、残りは民間の工事である。中国電力からは35%の出資を受けており、資本の関係は濃いまま、仕事の出どころだけが電力の外へ移っていた。

  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [50]1990年10月、商号を株式会社中電工に変更
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [51]中国電力への金額的な依存度は3割を少し切っている。残りの7割強は一般工事で、その中で官公庁関係が約10%程度である
    • [52]中国電力への金額的な依存度は3割を少し切っている。残りの7割強は一般工事で、その中で官公庁関係が約10%程度である
    • [53]わが社には中国電力から35%の出資金がある

電力会社が一つの区域を独占して商売をするのに対し、電気工事会社の商売は全国で重なった。東は関東から西は沖縄まで各同業者が入り乱れ、宮崎敏夫社長が厳しい競争と呼ぶ状態にあった。それでも中電工の受注は地域別に中国5県内が9割強を占め、東京・大阪・名古屋・九州・沖縄は1割弱にとどまった。中国電力への依存が3割を切る水準は、九電工やきんでんとほぼ同じ割合である。1996年に本店社屋の移転披露が開かれた際には、きんでんの荒巻恭二会長、トーエネックの石田英夫社長、ユアテックの中沢博司社長、九電工の白石司社長が広島へ集まった。各電力会社の管内に置かれた工事会社どうしは、区域の外で競い合う一方、区域の内では隣り合わなかった。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [54]東は関東から西は沖縄まで入り乱れて各同業者が厳しい競争をしながらやっている
    • [55]地域別に見た場合、中国5県内が大体9割強、中国以外の東京、大阪、名古屋、九州、沖縄が1割弱の割合である
    • [56]中国電力への依存度は九電工および「きんでん」の場合と大体似かよった割合である
  • 「中電工が新社屋の披露パーティー開催」『経営コンサルタント』1996年
    • [57]パーティーには300人近くが出席し、きんでん荒巻恭二会長、トーエネックの石田英夫社長、ユアテックの中沢博司社長、九電工の白石司社長らが出席した

一般工事の比重が上がったことは、受注が地域の製造業の景気に連動することを意味した。1993年初めには、広島のマツダが不況に陥り、自動車産業のすそ野の広さから不況感が強まっていた。福山や西条にあるシャープ、日本電気の家電製品の生産も大きく落ち、福山の日本鋼管、水島の川崎製鉄、呉の日新製鋼も操業がかなり低下していた。それでも瀬戸内側はバブル経済の崩壊の影響を大きくは受けず、中国地区の工事量は保たれた。1990年4月には保険代理やリースを扱う中工開発を設立し、工事の周辺へ業容を伸ばした。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [58]広島にはマツダという自動車会社があるが、これが不況で、自動車産業は非常にすそ野が広く、そういう意味では不況感は強まっている
    • [59]福山、西条あたりにあるシャープ、日本電気などの家電製品も生産はグンと落ちている。直接的ではないが、福山の日本鋼管、水島の川崎製鉄、呉の日新製鋼も操業がかなり落ちている
    • [60]中国地区はバブル経済崩壊の影響度合が他に比べて比較的小さいという見通しが一つはあった。瀬戸内側がそれほど大きなバブル経済の崩壊の影響を受けなかった
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [61]1990年4月、中工開発株式会社を設立。中工開発㈱は保険代理、リース等の事業を営んでいる
参考文献[50]-[61]
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [50]1990年10月、商号を株式会社中電工に変更
    • [61]1990年4月、中工開発株式会社を設立。中工開発㈱は保険代理、リース等の事業を営んでいる
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [51]中国電力への金額的な依存度は3割を少し切っている。残りの7割強は一般工事で、その中で官公庁関係が約10%程度である
    • [52]中国電力への金額的な依存度は3割を少し切っている。残りの7割強は一般工事で、その中で官公庁関係が約10%程度である
    • [53]わが社には中国電力から35%の出資金がある
    • [54]東は関東から西は沖縄まで入り乱れて各同業者が厳しい競争をしながらやっている
    • [55]地域別に見た場合、中国5県内が大体9割強、中国以外の東京、大阪、名古屋、九州、沖縄が1割弱の割合である
    • [56]中国電力への依存度は九電工および「きんでん」の場合と大体似かよった割合である
    • [58]広島にはマツダという自動車会社があるが、これが不況で、自動車産業は非常にすそ野が広く、そういう意味では不況感は強まっている
    • [59]福山、西条あたりにあるシャープ、日本電気などの家電製品も生産はグンと落ちている。直接的ではないが、福山の日本鋼管、水島の川崎製鉄、呉の日新製鋼も操業がかなり落ちている
    • [60]中国地区はバブル経済崩壊の影響度合が他に比べて比較的小さいという見通しが一つはあった。瀬戸内側がそれほど大きなバブル経済の崩壊の影響を受けなかった
  • 「中電工が新社屋の披露パーティー開催」『経営コンサルタント』1996年
    • [57]パーティーには300人近くが出席し、きんでん荒巻恭二会長、トーエネックの石田英夫社長、ユアテックの中沢博司社長、九電工の白石司社長らが出席した

1989年〜発注する側から受注する側へ回った社長

1989年、中国電力の副社長だった宮崎敏夫氏が中国電気工事の社長に就任した。1922年に広島県で生まれ、1944年に京都大学経済学部を卒業し、1947年に中国配電へ入社、1951年の中国電力への継承を経て、1979年に取締役、1981年に常務、1987年に副社長を務めた経歴である。中国電力では燃料や資材を扱う仕事が長く、こちらから出ていって頼むことはほとんどなく、取引先のほうから依頼してきた。社長に就任してその関係は180度変わり、競争の厳しさに最初の1年はとまどったという。営業が受注へ向けて積み上げた最後の段階では社長自身が出向いて頼むことになり、外へ出回る機会が増えた。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫略歴
    • [62]1989年(平成元年)中国電気工事(現、株式会社中電工)社長に就任
    • [63]昭和19年京都大学経済学部卒業、22年中国配電入社、26年中国電力継承、54年取締役、56年常務、62年副社長。大正11年生まれ、広島県出身
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [64]燃料や資材といった立場での仕事が長かったために、こちらから出ていってお願いすることはほとんどなくて、むこうから依頼してきた。それが180度変わり、しかも競争が非常に厳しいなかで、最初の一年は本当にとまどった
    • [65]燃料や資材といった立場での仕事が長かったために、こちらから出ていってお願いすることはほとんどなくて、むこうから依頼してきた。それが180度変わり、しかも競争が非常に厳しいなかで、最初の一年は本当にとまどった
    • [66]皆が営業活動して受注に結び付けるべく積み上げてくれた最後の段階は、社長として私が行ってお願いもしなければいけないということで、昔に比べて非常に出回る機会が多くなってきた

引き継いだのは、借入を持たない財務だった。無借金経営を続け、自己資本比率や売上高利益率といった経営力を示す指標は業界の首位にあった。1975年に中野重美社長が工事資材の在庫を1カ月分へ減らして借入金をゼロにしてから、その状態が十数年続いたことになる。中野氏の経営方針と努力が実り、矢田貝会長がその方針を継承して伸ばした結果であり、無駄の排除が一つ一つ積み重なっていた。なかでも工程管理には最も力を入れていた。トーエネックやユアテックの首脳が来社しては、なぜそれだけ利益が上がるのかと尋ねた。売上高5,000億円以上の関電工に対し、中電工の株価はその倍の水準にあった。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」酒井節雄発言・宮崎敏夫応答
    • [67]今でも無借金経営で、自己資本率、売上高率など経営力を示す指標が業界トップで、超優良企業である
    • [72]株価の動向をみると、売上高が5,000億円以上の関電工の株価に対し、中電工はその倍である
  • 野田皓一「八、〇〇〇人の従業員と共に生きる――中国電気工事社長 中野重美氏」『野田経済』1976年
    • [68]今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [69]先輩の中野さんの経営方針と努力が実ったもの。今の矢田貝会長がその方針を継承されてうまく伸ばしていった。とにかく無駄排除が一つ一つ積み重なっている。特に工程管理は一番力を入れている分野である
    • [70]先輩の中野さんの経営方針と努力が実ったもの。今の矢田貝会長がその方針を継承されてうまく伸ばしていった。とにかく無駄排除が一つ一つ積み重なっている。特に工程管理は一番力を入れている分野である
    • [71]よくトーエネックやユアテックの方が私の会社へいらして、「なぜそれだけ利益が上がるのか教えてくれ」とおっしゃる

1991年度の売上高は約1,900億円だった。1992年度は売上高が2,000億円を突破し、受注も2,100億円を確保できるとの見通しを宮崎社長は示した。これを支えたのは3つの工事量である。一昨年から持ち越した工事額が約820億円あり、1991年の台風で電力設備が大きな塩害の被害を受けたため1992年度から塩害対策の工事が増え、広島を中心としたアジア競技大会の施設整備が直接にも間接にも続いていた。1968年10月からの1年間の完成工事高は206億100万円で業界4位だったから、20年あまりで売上は9倍を超えたことになる。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」酒井節雄発言・宮崎敏夫応答
    • [73]1991年度(平成3年度)の売上高は1,900億円ぐらいであった
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [74]売上も2,000億円を突破すると思っている。受注も2,100億円は出るのではないか
    • [75]一昨年から今年に持ち越した工事額が約820億円ぐらいあった
    • [76]昨年10号台風で電力が非常に大きな塩害の被害を受けた。これではいかんというので、今年から塩害対策を特別に進める電力の工事量が昨年に比べてかなり増えてくる
    • [77]広島を中心にしてアジア大会の施設の整備が直接、間接に現在もまだ続いている
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [78]業界順位(43.10〜44.9 完成工事高)は4位同社20,601百万円、占有率5.2%
参考文献[62]-[78]
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫略歴
    • [62]1989年(平成元年)中国電気工事(現、株式会社中電工)社長に就任
    • [63]昭和19年京都大学経済学部卒業、22年中国配電入社、26年中国電力継承、54年取締役、56年常務、62年副社長。大正11年生まれ、広島県出身
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [64]燃料や資材といった立場での仕事が長かったために、こちらから出ていってお願いすることはほとんどなくて、むこうから依頼してきた。それが180度変わり、しかも競争が非常に厳しいなかで、最初の一年は本当にとまどった
    • [65]燃料や資材といった立場での仕事が長かったために、こちらから出ていってお願いすることはほとんどなくて、むこうから依頼してきた。それが180度変わり、しかも競争が非常に厳しいなかで、最初の一年は本当にとまどった
    • [66]皆が営業活動して受注に結び付けるべく積み上げてくれた最後の段階は、社長として私が行ってお願いもしなければいけないということで、昔に比べて非常に出回る機会が多くなってきた
    • [69]先輩の中野さんの経営方針と努力が実ったもの。今の矢田貝会長がその方針を継承されてうまく伸ばしていった。とにかく無駄排除が一つ一つ積み重なっている。特に工程管理は一番力を入れている分野である
    • [70]先輩の中野さんの経営方針と努力が実ったもの。今の矢田貝会長がその方針を継承されてうまく伸ばしていった。とにかく無駄排除が一つ一つ積み重なっている。特に工程管理は一番力を入れている分野である
    • [71]よくトーエネックやユアテックの方が私の会社へいらして、「なぜそれだけ利益が上がるのか教えてくれ」とおっしゃる
    • [74]売上も2,000億円を突破すると思っている。受注も2,100億円は出るのではないか
    • [75]一昨年から今年に持ち越した工事額が約820億円ぐらいあった
    • [76]昨年10号台風で電力が非常に大きな塩害の被害を受けた。これではいかんというので、今年から塩害対策を特別に進める電力の工事量が昨年に比べてかなり増えてくる
    • [77]広島を中心にしてアジア大会の施設の整備が直接、間接に現在もまだ続いている
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」酒井節雄発言・宮崎敏夫応答
    • [67]今でも無借金経営で、自己資本率、売上高率など経営力を示す指標が業界トップで、超優良企業である
    • [72]株価の動向をみると、売上高が5,000億円以上の関電工の株価に対し、中電工はその倍である
    • [73]1991年度(平成3年度)の売上高は1,900億円ぐらいであった
  • 野田皓一「八、〇〇〇人の従業員と共に生きる――中国電気工事社長 中野重美氏」『野田経済』1976年
    • [68]今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [78]業界順位(43.10〜44.9 完成工事高)は4位同社20,601百万円、占有率5.2%

1992年〜5ヵ年計画が置いた有資格者の頭数と休日

中電工の工事は大半が施工の管理であり、社員が直営で作業に当たる場面は多くない。1992年、同社は5ヵ年の中期経営計画を立てた。社会や個々の顧客から求められる水準がより高く多様になっていくと見て、第一の柱には、技術を売る会社にふさわしい高い水準の技術集団になることを据えた。通商産業省所管の電気主任技術者の一種・二種の資格者や、内線・空調管の分野で技術士と呼ばれる有資格者を、社内で数多く育てる方針である。施工管理の力を高める狙いから、一級施工管理技士は最終年度の1995年度に500人ほどまで増やす目標とした。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [79]工事をするにあたっては、我々は施工を管理する仕事が大半で、直営でやることはあまりない
    • [80]昨年から中期経営計画を5ヵ年計画として作った
    • [81]これから社会的な要請にしても、お客さん個々人の要請にしても、我々に対する要請は非常に高度化し多様化してくる。それに即応できるためには、技術を売り物にしている我々の会社としては、ハイレベルの技術集団にしていかなくてはならない。これが経営計画の第一点である
    • [82]通産省が主管している電気の主任技術者など1種、2種の資格者を社内にたくさん養成する。内線、空調管ではそれに匹敵するものを技術士といっている。一級施工管理技士の養成も5ヵ年計画の最後の段階の1995年(平成7年)には500人ぐらいにもっていく

成長率と労働時間も数字で置いた。計画の数字は、最終年度の1995年度に受注2,500億円、売上2,300億円である。前提には、日本の実質経済成長率を2.5%から3%とみて、名目でおよそ5%の伸びは確保しなければならないという判断があった。労働時間は21世紀に向けて短くなっていくとの見通しから、景気がよくなると人手を集めにくくなる3Kの職場を改めることに重点を置いた。機械で代われる作業はできる限り機械に任せる方針で、配電線の工事では電柱に登ることがほぼなくなり、高所作業車のブームの先のバケットに2人で乗る形になっていた。夏の間、冷房が効く装置を取り付ける実験も行っていた。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [83]日本のGNPの実質伸び率は2.5〜3%だと考えている。名目的には5%程度の伸びで考えないといかん。最終年度の1995年度(平成7年度)は受注は2,500億円、売上は2,300億円という数字をおいている
    • [84]21世紀を展望した場合に、当然これから労働時間が短縮されていくと考えざるをえない。合わせて、我々の事業は3Kという言葉でいつも呼ばれ、好況になると人材確保が難しい。労働時間の短縮と3Kの改善に力を注がなくてはならない
    • [85]人力を機械に置き換えられるものは最大限機械化していく。今は配電線の工事は電柱へ昇ってやることはほとんどなく、全部高所作業車で、ブームの先のバケットの中に2人入ってやっている
    • [86]夏季は冷房が出る装置をつけて作業ができるようなことも考えていろいろと実験中である

完全週休二日制は1992年から実施し、電力関係以外の仕事はわりにスムーズに定着したが、塩害対策工事と配電設備の強化工事は停電させることが難しく深夜作業が多いため、外線に携わる者だけは代休を取りきれなかった。人員は6,000人強である。男性が操作していたOA機器と設計・施工のCADの操作を女性へ置き換えるべく、2年で短大卒・高卒の女性を約150名採用し、浮いた男性の手を工事能力へ充当した。定年は60歳としたうえで職種を限って再雇用の制度も設け、Uターン組の中途採用も年に5人から8人ほど続けた。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [87]完全週休二日制を今年から採用して、この半年あまりの実績を見ると、電力関係の仕事以外はわりにスムーズに定着しつつある。電力では塩害対策工事、配電設備の強化工事が今年から5ヵ年計画で打ち出され、停電することが非常に難しいものだから深夜作業のケースが多くて、外線関係者だけ週休二日制の定着が今のところ難しい
    • [88]現在は6,000人強の人員数である
    • [89]今まで男性が操作していたOA関係の機器、設計・施工のためのCADの操作を全部女性に置き換えようということで、昨年と今年だけで短大・高卒の女性を約150名ばかり採用した。それで男の手を浮かせて工事能力増強へつないでいる
    • [90]わが社は定年60歳だが、職種は限定してあるが再雇用制度も作って活用している。定期採用の他に中途採用もやっており、Uターン組に対して中途採用をやっている。年間で大体5〜8名ぐらいいる

1994年に迎える創業50周年の記念事業として、本社の移転を計画へ組み込んだ。中国電力の土地と中電工の土地は地続きで千坪余りあり、平和公園から少し西へ寄った100メートル道路沿いに位置した。中国電力も地下変電所を必要としていたことから、両社共同で20階建てのビルを建て、中国電力広島支店と共用して1996年度までに本社を移すこととした。この計画は前倒しで実り、1996年3月に本店は広島市中区小網町6番12号へ移った。竣工した平和通り電気ビルでは本店社屋の移転披露が開かれ、300人近くが出席した。50余年の歴史のなかで社業の発展に合わせた社屋の移転は、これが何回目かにあたる。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [91]ちょうどアジアオリンピックの年の1994年(平成6年)が、わが社にとっては50周年になる。本社移転は記念事業の一つと考えている
    • [92]中国電力の土地とわが社の土地が地続きで1,000坪余りだが、平和公園から少し西へ寄った100m道路沿いにある
    • [93]中電も地下変電所が必要だということで、1996年度(平成8年度)までに両社共同の20階建てのビルを作り(中国電力広島支店と共用)、それに本社を移行しようと考えている。現在の位置から南へ400mぐらい移る
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [94]1996年3月、本店を広島市中区小網町6番12号(現在地)に移転
  • 「中電工が新社屋の披露パーティー開催」『経営コンサルタント』1996年
    • [95]中電工は、このほど竣工したばかりの平和通り電気ビルにおいて本店社屋移転披露パーティーを開催した。パーティーには300人近くの人々が出席した
    • [96]中国電力の多田公熙会長は「中電工は五〇余年の歴史の中で社業の発展に合わせて、何回か社屋移転してきたが、今回の移転を契機にして、ますますの発展を期待している」と挨拶した
参考文献[79]-[96]
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [79]工事をするにあたっては、我々は施工を管理する仕事が大半で、直営でやることはあまりない
    • [80]昨年から中期経営計画を5ヵ年計画として作った
    • [81]これから社会的な要請にしても、お客さん個々人の要請にしても、我々に対する要請は非常に高度化し多様化してくる。それに即応できるためには、技術を売り物にしている我々の会社としては、ハイレベルの技術集団にしていかなくてはならない。これが経営計画の第一点である
    • [82]通産省が主管している電気の主任技術者など1種、2種の資格者を社内にたくさん養成する。内線、空調管ではそれに匹敵するものを技術士といっている。一級施工管理技士の養成も5ヵ年計画の最後の段階の1995年(平成7年)には500人ぐらいにもっていく
    • [83]日本のGNPの実質伸び率は2.5〜3%だと考えている。名目的には5%程度の伸びで考えないといかん。最終年度の1995年度(平成7年度)は受注は2,500億円、売上は2,300億円という数字をおいている
    • [84]21世紀を展望した場合に、当然これから労働時間が短縮されていくと考えざるをえない。合わせて、我々の事業は3Kという言葉でいつも呼ばれ、好況になると人材確保が難しい。労働時間の短縮と3Kの改善に力を注がなくてはならない
    • [85]人力を機械に置き換えられるものは最大限機械化していく。今は配電線の工事は電柱へ昇ってやることはほとんどなく、全部高所作業車で、ブームの先のバケットの中に2人入ってやっている
    • [86]夏季は冷房が出る装置をつけて作業ができるようなことも考えていろいろと実験中である
    • [87]完全週休二日制を今年から採用して、この半年あまりの実績を見ると、電力関係の仕事以外はわりにスムーズに定着しつつある。電力では塩害対策工事、配電設備の強化工事が今年から5ヵ年計画で打ち出され、停電することが非常に難しいものだから深夜作業のケースが多くて、外線関係者だけ週休二日制の定着が今のところ難しい
    • [88]現在は6,000人強の人員数である
    • [89]今まで男性が操作していたOA関係の機器、設計・施工のためのCADの操作を全部女性に置き換えようということで、昨年と今年だけで短大・高卒の女性を約150名ばかり採用した。それで男の手を浮かせて工事能力増強へつないでいる
    • [90]わが社は定年60歳だが、職種は限定してあるが再雇用制度も作って活用している。定期採用の他に中途採用もやっており、Uターン組に対して中途採用をやっている。年間で大体5〜8名ぐらいいる
    • [91]ちょうどアジアオリンピックの年の1994年(平成6年)が、わが社にとっては50周年になる。本社移転は記念事業の一つと考えている
    • [92]中国電力の土地とわが社の土地が地続きで1,000坪余りだが、平和公園から少し西へ寄った100m道路沿いにある
    • [93]中電も地下変電所が必要だということで、1996年度(平成8年度)までに両社共同の20階建てのビルを作り(中国電力広島支店と共用)、それに本社を移行しようと考えている。現在の位置から南へ400mぐらい移る
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [94]1996年3月、本店を広島市中区小網町6番12号(現在地)に移転
  • 「中電工が新社屋の披露パーティー開催」『経営コンサルタント』1996年
    • [95]中電工は、このほど竣工したばかりの平和通り電気ビルにおいて本店社屋移転披露パーティーを開催した。パーティーには300人近くの人々が出席した
    • [96]中国電力の多田公熙会長は「中電工は五〇余年の歴史の中で社業の発展に合わせて、何回か社屋移転してきたが、今回の移転を契機にして、ますますの発展を期待している」と挨拶した

第3章 2000-2015 (気が向いたら執筆します!) マレーシア現地法人の設立と中電工ワールドファームによる農業参入

第4章 2016-2026 (気が向いたら執筆します!) 杉山管工設備・早水電機工業などの買収で管工事と海外へ領域を拡大

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歴史年表 1944〜2023年

中電工の沿革1944〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1944〜1979年12社統合で発足した会社が電力以外に稼ぎ口を広げるまで軍需省の要請で中国5県下の電気工事12社が統合した中国電気工事を広島市に設立★★★
広島証券取引所市場に上場★
東京事務所(現 東京本部)を開設★
送電線・発変電所工事を担う建設部(現 電力建設所)を開設★★
ビニール外装ケーブル工法を開発★★
中国電材を設立★
技能者養成所(現 研修所)を開設★★
三親電材の株式を取得★
大阪証券取引所市場第二部に上場★
東京証券取引所市場第二部に上場★
東京証券取引所市場第一部・大阪証券取引所市場第一部に指定★
1980〜1999年中電工への改称と中国電力依存からの一般工事の拡大商号を中電工に変更★★★
2000〜2015年マレーシア現地法人の設立と中電工ワールドファームによる農業参入加藤義明大阪証券取引所への上場を廃止★
細田順弘CHUDENKO(MALAYSIA)SDN. BHD.を設立★
小畑博文農業に参入する中電工ワールドファームを設立★★
2016〜2026年杉山管工設備・早水電機工業などの買収で管工事と海外へ領域を拡大小畑博文杉山管工設備の株式を取得し管工事に領域を拡大★★★
小畑博文早水電機工業の株式を取得★★
小畑博文RYB ENGINEERING PTE LTDの株式を取得★
迫谷章昭和コーポレーションの株式を取得★★
迫谷章東京証券取引所の市場区分の見直しによりプライム市場に移行★
重藤隆文監査役会設置会社から監査等委員会設置会社に移行★
出典・参考 18件
出典・参考
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/中国電気工事 有価証券報告書 沿革
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
  • 「中国電気工事」『株式会社年鑑』1964年版
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年/堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
  • 『資本異動総覧』1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫略歴
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」酒井節雄発言・宮崎敏夫応答
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年
  • 「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
  • 野田豊「技術・サービスコストダウンを追求――中国電気工事社長 村田可朗氏」『野田経済』1970年
  • 野田皓一「八、〇〇〇人の従業員と共に生きる――中国電気工事社長 中野重美氏」『野田経済』1976年
  • 「中電工が新社屋の披露パーティー開催」『経営コンサルタント』1996年

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