1942年ごろから配電統制令によって配電会社の再編が進み、電気工事業者のあいだにも統合の気運が起きた。1944年8月に近畿電気工事が6業者を統合して発足したのを皮切りに、統合は次々と進んだ。全国では9つの配電会社のブロックごとに9社の電気工事会社が作られ、中国電気工事もその1社である。軍需省の要請を受け、中国5県下の電気工事12社を統合して1944年9月に広島市で発足した。統合を指導したのは当時の中国配電であり、9月29日に資本金150万円で設立された。広島・岡山・山口・松江・大阪の5市に支社を置いて営業を始め、翌1945年3月には29工事業者を追加して統合し、営業網を広げた。
1945年8月、本社を置く広島市に原爆が投下され、本社は壊滅的な打撃を受けた。復旧は早く、1946年4月には中国配電の電気工事部を吸収し、以後は中国配電が配電線工事と引込線工事をもっぱら中国電気工事へ発注した。同じ年に製器工場を開設して電気機器の製作へ進出し、この工場は配電盤や制御盤を受注生産する電気機器製作部門へ育った。このころの営業活動の中心は、広島・山口両県下で進駐軍が発注する電気工事。1947年5月15日には従業員が中国電気工事労働組合を結成し、全日本電気工事労働組合連合会に加盟した。
戦後の復興につれて中国配電からの受注工事は増え、1949年6月に広島証券取引所へ株式を上場した。1950年1月には東京事務所を開設し、中国5県の外に営業の足場を置いた。1951年4月には建設部を設け、発変電所工事と送電線工事の部門を厚くした。増資も重ね、資本金は1946年8月に250万円、1949年6月に1,500万円、1951年6月に3,000万円、1953年5月に5,000万円へと積み上がった。こうして発電所の配線から特別高圧の送電線、変電所を経た配電線、一般家庭までの引込線、工場やビルの内線までを一貫して請け負う形になった。
施工技術では同業他社に先んじて新しい工法を採り入れた。1956年11月に導入したビニール外装ケーブル工法は、屋内配線で天井裏に電線を張る際に使っていた碍子を不要にするもので、無碍子配線工法として全国へ急速に広まり、屋内配線工事の生産性を押し上げた。開発にあたったのは、中国電力の営業部長だった村田可朗氏と、中国電気工事の技術者だった古賀七郎氏である。日本で最初にこの工法を導入・開発したことは、電気工事業界に大きな変化をもたらした。1960年4月には技能者養成所を開設し、技能オリンピックの電工部門では金メダルを取った。
アルミ線の採用でも先んじた。戦争中に銅が不足したことからアルミ線を使う道を探り、接続が難しくスパークですぐ切れるという欠点を技術で解いた。中国電力と協力して一部のアルミ電線の正式認可を取得し、東京晴海のジャパン・ファニチァ・センターでは関東地方で初めての本格的なアルミ配線工事を施工した。1966年6月にはアルミ屋内配線工法を開発。細物のアルミ線工事の施工について通商産業大臣の特別認可を受けたのは同社だけで、工場やマンション、ホテルの屋内工事にアルミ線を使えば工事費は1割ほど安くなった。
電気工事の外にも稼ぎ口を広げ、1957年9月に中国電材を設立し、1967年4月には三親電材の株式を取得した。1963年からは冷暖房・給排水・衛生設備を扱う管工事の研究開発に入り、電気設備と関連が深く受注先もほぼ重なる仕事を取り込んだ。管工事の完成工事高は3年間で約3.4倍に伸び、1970年3月期には電気機器製作部門が2.0%、圧縮ペンチなどの販売部門が1.1%を占めた。同じ期の完成工事高のうち中国電力からの工事は18.3%にとどまり、関東電気工事の約57%、近畿電気工事の約33%と比べて低い。1963年3月末の従業員は5,705人で、広島・岡山・島根・鳥取の支店に加えて東京・名古屋・大阪・九州・四国へ支社を置き、電気工事業のほかに電気機器の製作・販売と管工事業を主な事業内容に掲げていた。工事の受注先は中国電力であり、電線や碍子金物は中国電材と三親電材から、変圧器は中国電機製造から仕入れ、電線器具類を松下電工と中国電材へ販売した。
1967年、大同電力から日本発送電、中国電力へと電力畑を40年余り歩き、中国電力の副社長を務めた村田可朗氏が社長に就任した。就任した1967年度の完成工事高は160億円を超え、下期だけで87億5,000万円と前年同期を14.5%上回った。伸びる工事量を賄うため、1968年10月に倍額増資を行った。新株660万株のうち528万株を株主へ1対0.8の割合で割り当て、132万株を公募して資本金を6億6,000万円とし、大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。集めた資金は工事車両や機械器具、職員の厚生施設、営業所と工事所の拡大に充てられた。
1970年11月には108万株を公開価格300円で公募し、資本金を7億8,000万円へ増やして東京証券取引所市場第二部に上場した。1972年2月には東京・大阪の両取引所で市場第一部に指定された。その背景には受注の厚みがあり、1968年10月からの1年間の完成工事高は206億100万円で、近畿電気工事、関東電気工事、東海電気工事に次ぐ業界4位、占有率は5.2%だった。1件20万円未満の住宅向け工事が全施工高の2割近くを占め、完成工事件数は年約30万件に達し、約400社の外注先のうち240社を専属として抱えた。
1975年6月、中国電力の副社長だった中野重美氏が社長に就任した。就任から4カ月ほどの1975年10月ごろ、2カ月分以上あった工事資材の在庫を1カ月分へ減らし、30億円から40億円あった借入金をゼロにした。残る借入は厚生年金などの基金から借りた1億円から2億円の長期資金にとどまった。1976年3月末割当の増資では約10億円を公募して資本金を14億4,000万円から20億円へ引き上げ、全額を設備資金に充てて35カ所の事業場を整えた。翌1977年4月には5%の無償増資を行い、資本金は21億円になった。従業員8,000人と約3,000台の車両を抱えるなか、中野重美社長は電気工事業に徹すると常務会や支店長会議で説き、土地や不動産には手を出さなかった。
1990年10月、中国電気工事は商号を中電工へ変更した。中国5県の電気工事12社を統合して発足した会社の名は、中国電力の系列で電気工事を請け負う立場をそのまま表していたが、そのころの受注の構成はすでに名前から離れていた。1993年初めの時点で、中国電力への金額的な依存度は3割を少し切り、残る7割強を一般工事が占めた。一般工事のうち官公庁関係は約10%で、残りは民間の工事である。中国電力からは35%の出資を受けており、資本の関係は濃いまま、仕事の出どころだけが電力の外へ移っていた。
電力会社が一つの区域を独占して商売をするのに対し、電気工事会社の商売は全国で重なった。東は関東から西は沖縄まで各同業者が入り乱れ、宮崎敏夫社長が厳しい競争と呼ぶ状態にあった。それでも中電工の受注は地域別に中国5県内が9割強を占め、東京・大阪・名古屋・九州・沖縄は1割弱にとどまった。中国電力への依存が3割を切る水準は、九電工やきんでんとほぼ同じ割合である。1996年に本店社屋の移転披露が開かれた際には、きんでんの荒巻恭二会長、トーエネックの石田英夫社長、ユアテックの中沢博司社長、九電工の白石司社長が広島へ集まった。各電力会社の管内に置かれた工事会社どうしは、区域の外で競い合う一方、区域の内では隣り合わなかった。
一般工事の比重が上がったことは、受注が地域の製造業の景気に連動することを意味した。1993年初めには、広島のマツダが不況に陥り、自動車産業のすそ野の広さから不況感が強まっていた。福山や西条にあるシャープ、日本電気の家電製品の生産も大きく落ち、福山の日本鋼管、水島の川崎製鉄、呉の日新製鋼も操業がかなり低下していた。それでも瀬戸内側はバブル経済の崩壊の影響を大きくは受けず、中国地区の工事量は保たれた。1990年4月には保険代理やリースを扱う中工開発を設立し、工事の周辺へ業容を伸ばした。
1989年、中国電力の副社長だった宮崎敏夫氏が中国電気工事の社長に就任した。1922年に広島県で生まれ、1944年に京都大学経済学部を卒業し、1947年に中国配電へ入社、1951年の中国電力への継承を経て、1979年に取締役、1981年に常務、1987年に副社長を務めた経歴である。中国電力では燃料や資材を扱う仕事が長く、こちらから出ていって頼むことはほとんどなく、取引先のほうから依頼してきた。社長に就任してその関係は180度変わり、競争の厳しさに最初の1年はとまどったという。営業が受注へ向けて積み上げた最後の段階では社長自身が出向いて頼むことになり、外へ出回る機会が増えた。
引き継いだのは、借入を持たない財務だった。無借金経営を続け、自己資本比率や売上高利益率といった経営力を示す指標は業界の首位にあった。1975年に中野重美社長が工事資材の在庫を1カ月分へ減らして借入金をゼロにしてから、その状態が十数年続いたことになる。中野氏の経営方針と努力が実り、矢田貝会長がその方針を継承して伸ばした結果であり、無駄の排除が一つ一つ積み重なっていた。なかでも工程管理には最も力を入れていた。トーエネックやユアテックの首脳が来社しては、なぜそれだけ利益が上がるのかと尋ねた。売上高5,000億円以上の関電工に対し、中電工の株価はその倍の水準にあった。
1991年度の売上高は約1,900億円だった。1992年度は売上高が2,000億円を突破し、受注も2,100億円を確保できるとの見通しを宮崎社長は示した。これを支えたのは3つの工事量である。一昨年から持ち越した工事額が約820億円あり、1991年の台風で電力設備が大きな塩害の被害を受けたため1992年度から塩害対策の工事が増え、広島を中心としたアジア競技大会の施設整備が直接にも間接にも続いていた。1968年10月からの1年間の完成工事高は206億100万円で業界4位だったから、20年あまりで売上は9倍を超えたことになる。
中電工の工事は大半が施工の管理であり、社員が直営で作業に当たる場面は多くない。1992年、同社は5ヵ年の中期経営計画を立てた。社会や個々の顧客から求められる水準がより高く多様になっていくと見て、第一の柱には、技術を売る会社にふさわしい高い水準の技術集団になることを据えた。通商産業省所管の電気主任技術者の一種・二種の資格者や、内線・空調管の分野で技術士と呼ばれる有資格者を、社内で数多く育てる方針である。施工管理の力を高める狙いから、一級施工管理技士は最終年度の1995年度に500人ほどまで増やす目標とした。
成長率と労働時間も数字で置いた。計画の数字は、最終年度の1995年度に受注2,500億円、売上2,300億円である。前提には、日本の実質経済成長率を2.5%から3%とみて、名目でおよそ5%の伸びは確保しなければならないという判断があった。労働時間は21世紀に向けて短くなっていくとの見通しから、景気がよくなると人手を集めにくくなる3Kの職場を改めることに重点を置いた。機械で代われる作業はできる限り機械に任せる方針で、配電線の工事では電柱に登ることがほぼなくなり、高所作業車のブームの先のバケットに2人で乗る形になっていた。夏の間、冷房が効く装置を取り付ける実験も行っていた。
完全週休二日制は1992年から実施し、電力関係以外の仕事はわりにスムーズに定着したが、塩害対策工事と配電設備の強化工事は停電させることが難しく深夜作業が多いため、外線に携わる者だけは代休を取りきれなかった。人員は6,000人強である。男性が操作していたOA機器と設計・施工のCADの操作を女性へ置き換えるべく、2年で短大卒・高卒の女性を約150名採用し、浮いた男性の手を工事能力へ充当した。定年は60歳としたうえで職種を限って再雇用の制度も設け、Uターン組の中途採用も年に5人から8人ほど続けた。
1994年に迎える創業50周年の記念事業として、本社の移転を計画へ組み込んだ。中国電力の土地と中電工の土地は地続きで千坪余りあり、平和公園から少し西へ寄った100メートル道路沿いに位置した。中国電力も地下変電所を必要としていたことから、両社共同で20階建てのビルを建て、中国電力広島支店と共用して1996年度までに本社を移すこととした。この計画は前倒しで実り、1996年3月に本店は広島市中区小網町6番12号へ移った。竣工した平和通り電気ビルでは本店社屋の移転披露が開かれ、300人近くが出席した。50余年の歴史のなかで社業の発展に合わせた社屋の移転は、これが何回目かにあたる。
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|---|---|---|---|---|
| 1944〜1979年12社統合で発足した会社が電力以外に稼ぎ口を広げるまで | 軍需省の要請で中国5県下の電気工事12社が統合した中国電気工事を広島市に設立 | ★★★ | ||
| 広島証券取引所市場に上場 | ★ | |||
| 東京事務所(現 東京本部)を開設 | ★ | |||
| 送電線・発変電所工事を担う建設部(現 電力建設所)を開設 | ★★ | |||
| ビニール外装ケーブル工法を開発 | ★★ | |||
| 中国電材を設立 | ★ | |||
| 技能者養成所(現 研修所)を開設 | ★★ | |||
| 三親電材の株式を取得 | ★ | |||
| 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部・大阪証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |||
| 1980〜1999年中電工への改称と中国電力依存からの一般工事の拡大 | 商号を中電工に変更 | ★★★ | ||
| 2000〜2015年マレーシア現地法人の設立と中電工ワールドファームによる農業参入 | 加藤義明 | 大阪証券取引所への上場を廃止 | ★ | |
| 細田順弘 | CHUDENKO(MALAYSIA)SDN. BHD.を設立 | ★ | ||
| 小畑博文 | 農業に参入する中電工ワールドファームを設立 | ★★ | ||
| 2016〜2026年杉山管工設備・早水電機工業などの買収で管工事と海外へ領域を拡大 | 小畑博文 | 杉山管工設備の株式を取得し管工事に領域を拡大 | ★★★ | |
| 小畑博文 | 早水電機工業の株式を取得 | ★★ | ||
| 小畑博文 | RYB ENGINEERING PTE LTDの株式を取得 | ★ | ||
| 迫谷章 | 昭和コーポレーションの株式を取得 | ★★ | ||
| 迫谷章 | 東京証券取引所の市場区分の見直しによりプライム市場に移行 | ★ | ||
| 重藤隆文 | 監査役会設置会社から監査等委員会設置会社に移行 | ★ |
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事実根拠:出所(中電工)