中電工 の歴史

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創業 1944年
母体 中国配電傘下の電気工事12社が統合
創業地 広島県広島市
創業
1944年9月、軍需省の要請を受けて中国5県下の電気工事12社が統合され、広島市で中国電気工事が発足した。統合を指導したのは配電を担う中国配電で、9月29日に資本金150万円で設立されている。翌1945年3月には29の工事業者を追加して統合し、営業網を広げた。同年8月の原爆投下で本社は壊滅的な打撃を受けたが、1946年4月に中国配電の電気工事部を吸収し、以後は中国配電が配電線工事と引込線工事をもっぱら同社へ発注した。1949年6月に広島証券取引所へ上場し、1968年10月に大阪証券取引所市場第二部、1970年11月に東京証券取引所市場第二部、1972年2月には両取引所の第一部へ移っている。商号を中電工へ改めたのは1990年10月である。
決断
借入をゼロにして守った財務を、2016年以降は買収に充てた。1975年6月に中国電力の副社長から社長へ就任した中野重美氏は、工事資材の在庫を1か月分へ減らし、30億〜40億円の借入金をゼロにした。電気工事業に徹し、土地や不動産には手を出さなかった。無借金経営は1990年代も続き、経営指標は業界の首位にあった。方針が動いたのは2016年で、7月に杉山管工設備、8月に早水電機工業を取得し、2017年10月にシンガポールのRYB Engineering、2019年12月に昭和コーポレーションを傘下に入れた。ただしRYBは2020年1月に17億円ののれん減損を出し、台湾の洋上風力への出資は2023年3月期に125億円の持分法投資損失となって、同期を69億円の最終赤字にした。
現況
2023年3月期の最終赤字から3期で、営業利益は3倍を超えた。2026年3月期の連結売上高は2,278億円、営業利益262億円、純利益185億円で、売上と営業利益は過去最高となった。報告セグメントは設備工事業ひとつである。2025年3月期の個別完成工事高1,778億円の内訳は中国電力グループ向け410億円で23.1%、官公庁392億円で22.1%、一般民間975億円で54.8%であり、中国電力が発行済株式の40.43%を持つ筆頭株主でありながら、受注では4分の1に満たない。2025年4月に定めた中期経営計画2027は2027年度に売上高2,400億円・営業利益230億円・ROE7.0%以上を置いたが、営業利益は2026年3月期に前倒しで超えた。
競合
割り当てられた区域が最も小さかったことが、系列外への傾きを早めた。1944年の統合では9つの配電ブロックごとに9社の電気工事会社が置かれたが、中国地方の電力需要は関東や近畿に及ばない。1970年3月期の完成工事高に占める中国電力からの工事は18.3%で、同じ年に発足した関東電気工事の約57%、近畿電気工事(現きんでん)の約33%を大きく下回った。不足を埋めたのは工法と工種で、1956年11月に導入したビニール外装ケーブル工法は屋内配線の碍子を不要にして全国へ広まり、1966年6月に開発したアルミ屋内配線工法では、細物のアルミ線工事の特別認可を通商産業大臣から受けたのが同社だけだった。1963年からは管工事の研究開発に入り、受注先が重なる仕事を取り込んでいる。1970年代に工種で埋めた不足を、2010年代は他社の買収で埋めた。
長期業績の推移 1950〜2025年
中電工:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2025年3月期

設立ストーリー 12社統合で発足した会社が電力以外に稼ぎ口を広げるまで (1944年〜)

設立ストーリー(1)

12社統合による発足と原爆からの再建

1942年ごろから配電統制令によって配電会社の再編が進み、電気工事業者のあいだにも統合の気運が起きた[1]。1944年8月に近畿電気工事が6業者を統合して発足したのを皮切りに、統合は次々と進んだ[2]。全国では9つの配電会社のブロックごとに9社の電気工事会社が作られ、中国電気工事もその1社である[3]。軍需省の要請を受け、中国5県下の電気工事12社を統合して1944年9月に広島市で発足した[4]。統合を指導したのは当時の中国配電であり、9月29日に資本金150万円で設立された[5]。翌1945年3月には29工事業者を追加して統合し、営業網を広げた[6]

  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [1]昭和17年ごろから配電統制令によって配電会社の再編成が行なわれ、それに伴い電気工事業者も統合しようという気運が起こった。昭和19年8月、近畿電気工事が6工事業者を統合して設立されたのを始めとして、次々と電気工事業者の統合が進められた
    • [2]昭和17年ごろから配電統制令によって配電会社の再編成が行なわれ、それに伴い電気工事業者も統合しようという気運が起こった。昭和19年8月、近畿電気工事が6工事業者を統合して設立されたのを始めとして、次々と電気工事業者の統合が進められた
    • [5]当時の中国配電の指導のもとに、昭和19年9月29日、12工事業者を統合して広島市に設立された。設立時の資本金は1,500千円
    • [6]次いで昭和20年3月、29工事業者を追加統合して営業網を拡大した
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年
    • [3]電気工事業界は9配電会社のブロック毎、すなわち全国に9つの電気工事会社に統合され、そのうちの1つ、中国5県下の業者を集めて出来たのが中国電気工事である
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [4]1944年9月、軍需省の要請で中国5県下の電気工事12社が統合した中国電気工事を広島市に設立

1945年8月、本社を置く広島市に原爆が投下され、本社は壊滅的な打撃を受けた[7]。復旧は早く、1946年4月には中国配電の電気工事部を吸収し、以後は中国配電が配電線工事と引込線工事をもっぱら中国電気工事へ発注した[8]。同じ年に製器工場を開いて電気機器の製作へ進出し、この工場は配電盤や制御盤を受注生産する電気機器製作部門へ育った[9][10]。このころの営業活動の中心は、広島・山口両県下で進駐軍が発注する電気工事[11]。1947年5月15日には従業員が中国電気工事労働組合を結成し、全日本電気工事労働組合連合会に加盟した[12]

  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [7]昭和20年8月、本社所在地である広島市に原子爆弾が投下されて、本社は壊滅的打撃を受けた
    • [8]いち早く復興に努め、昭和21年4月、中国配電の電気工事部を吸収し、中国配電の配電線、引込線工事はもっぱら同社に発注されることになった
    • [9]さらに同年、製器工場を開設して、電気機器の製作部門に進出した
    • [10]電気機器製作部門では、配電盤、制御盤、ボーリング用ピンセッター等を受注生産している
    • [11]このごろの営業活動はおもに、広島、山口両県下の進駐軍発注の電気工事であった
    • [12]組合結成は昭和22年5月15日であり、上部団体としては全日本電気工事労働組合連合会に加盟している

戦後の復興につれて中国配電からの受注工事は増え、1949年6月に広島証券取引所へ株式を上場した[13]。1950年1月には東京事務所を開き、中国5県の外に営業の足場を置いた[14]。1951年4月には建設部を設け、発変電所工事と送電線工事の部門を厚くした[15]。増資も重ね、資本金は1946年8月に250万円、1949年6月に1,500万円、1951年6月に3,000万円、1953年5月に5,000万円へと積み上がった[16]。こうして発電所の配線から特別高圧の送電線、変電所を経た配電線、一般家庭までの引込線、工場やビルの内線までを一貫して請け負う形になった[17]

  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [13]戦後の復興に伴って中国配電からの受注工事も増加し、昭和24年6月同社株式を広島証券取引所に上場している
    • [15]昭和26年4月には、建設部を設けて発変電所工事、送電線工事部門の充実を図った
    • [16]資本金の変遷は昭21.8.9に2,500千円、昭24.6.20に15,000千円、昭26.6.12に30,000千円、昭28.5.29に50,000千円
    • [17]同社の事業内容は、発電所の配線工事に始まり、特別高圧電気を送る送電線工事、さらに変電所を経て普通高圧電気、低圧電気を送る配電線工事に至る電力会社からの受注工事と、一般家庭までの引込線工事、一般内線工事となる
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [14]1950年1月、東京事務所(現 東京本部)を開設
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [1]昭和17年ごろから配電統制令によって配電会社の再編成が行なわれ、それに伴い電気工事業者も統合しようという気運が起こった。昭和19年8月、近畿電気工事が6工事業者を統合して設立されたのを始めとして、次々と電気工事業者の統合が進められた
    • [2]昭和17年ごろから配電統制令によって配電会社の再編成が行なわれ、それに伴い電気工事業者も統合しようという気運が起こった。昭和19年8月、近畿電気工事が6工事業者を統合して設立されたのを始めとして、次々と電気工事業者の統合が進められた
    • [5]当時の中国配電の指導のもとに、昭和19年9月29日、12工事業者を統合して広島市に設立された。設立時の資本金は1,500千円
    • [6]次いで昭和20年3月、29工事業者を追加統合して営業網を拡大した
    • [7]昭和20年8月、本社所在地である広島市に原子爆弾が投下されて、本社は壊滅的打撃を受けた
    • [8]いち早く復興に努め、昭和21年4月、中国配電の電気工事部を吸収し、中国配電の配電線、引込線工事はもっぱら同社に発注されることになった
    • [9]さらに同年、製器工場を開設して、電気機器の製作部門に進出した
    • [10]電気機器製作部門では、配電盤、制御盤、ボーリング用ピンセッター等を受注生産している
    • [11]このごろの営業活動はおもに、広島、山口両県下の進駐軍発注の電気工事であった
    • [12]組合結成は昭和22年5月15日であり、上部団体としては全日本電気工事労働組合連合会に加盟している
    • [13]戦後の復興に伴って中国配電からの受注工事も増加し、昭和24年6月同社株式を広島証券取引所に上場している
    • [15]昭和26年4月には、建設部を設けて発変電所工事、送電線工事部門の充実を図った
    • [16]資本金の変遷は昭21.8.9に2,500千円、昭24.6.20に15,000千円、昭26.6.12に30,000千円、昭28.5.29に50,000千円
    • [17]同社の事業内容は、発電所の配線工事に始まり、特別高圧電気を送る送電線工事、さらに変電所を経て普通高圧電気、低圧電気を送る配電線工事に至る電力会社からの受注工事と、一般家庭までの引込線工事、一般内線工事となる
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年
    • [3]電気工事業界は9配電会社のブロック毎、すなわち全国に9つの電気工事会社に統合され、そのうちの1つ、中国5県下の業者を集めて出来たのが中国電気工事である
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [4]1944年9月、軍需省の要請で中国5県下の電気工事12社が統合した中国電気工事を広島市に設立
    • [14]1950年1月、東京事務所(現 東京本部)を開設
設立ストーリー(2)

自前の工法開発と電力以外への受注の広がり

施工技術では同業他社に先んじて新しい工法を採り入れた[18]。1956年11月に導入したビニール外装ケーブル工法は、屋内配線で天井裏に電線を張る際に使っていた碍子を不要にするもので、無碍子配線工法として全国へ急速に広まり、屋内配線工事の生産性を押し上げた[19]。開発にあたったのは、中国電力の営業部長だった村田可朗氏と、中国電気工事の技術者だった古賀七郎氏である[20]。日本で最初にこの工法を導入・開発したことは、電気工事業界に大きな変化をもたらした[21]。1960年4月には技能者養成所を開き、技能オリンピックの電工部門では金メダルを取った[22]

  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
    • [18]同社の施工技術面では、昭和31年11月に「ビニール外装ケーブル工法」を導入。以前は天井裏に線を張るのに碍子を使っていたのを碍子なしにやる工法で、無碍子配線工法として全国に急速に普及し、屋内配線工事の生産性向上に大きく役立っている
    • [19]同社の施工技術面では、昭和31年11月に「ビニール外装ケーブル工法」を導入。以前は天井裏に線を張るのに碍子を使っていたのを碍子なしにやる工法で、無碍子配線工法として全国に急速に普及し、屋内配線工事の生産性向上に大きく役立っている
  • 野田豊「技術・サービスコストダウンを追求――中国電気工事社長 村田可朗氏」『野田経済』1970年
    • [20]村田可朗が中国電力の営業部長のころ、中国電気工事の技術者である古賀七郎とタイアップして平型ビニル外装ケーブルの工法を発明した
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [21]「ビニール外装ケーブル工法」をわが国で初めて導入開発し、電気工事業界に大きな変革をもたらしたのは同社である
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
    • [22]1960年4月に技能者養成所(現 研修所)を開設。技能部門では電工部門に金メダルを獲得した

アルミ線の採用でも先んじた。戦争中に銅が不足したことからアルミ線を使う道を探り、接続が難しくスパークですぐ切れるという欠点を技術で解いた[23]中国電力と協力して一部のアルミ電線の正式認可を取得し、東京晴海のジャパン・ファニチァ・センターでは関東地方で初めての本格的なアルミ配線工事を施工した[24]。1966年6月にはアルミ屋内配線工法を開発[25]。細物のアルミ線工事の施工について通商産業大臣の特別認可を受けたのは同社だけで、工場やマンション、ホテルの屋内工事にアルミ線を使えば工事費は1割ほど安くなった[26]

  • 「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
    • [23]戦争中で銅が少なかったのでアルミ線を使おうということになり、アルミは接続がむずかしい、スパークですぐ切れるといった欠点があったのを技術的に解決した
  • 野田豊「技術・サービスコストダウンを追求――中国電気工事社長 村田可朗氏」『野田経済』1970年
    • [24]中国電力と協力して一部のアルミ電線の正式認可をとり、その後、東京晴海のジャパン・ファニチァ・センターに関東地方ではじめての本格的なアルミ配線工事を施工した
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [25]昭和41年6月「アルミ屋内配線工法」を開発し、同業他社に先がけて採用している
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
    • [26]細もののアルミ線工事の施工について通産大臣の特別認可を受けているのは同社だけである。工場やマンション、ホテルでアルミ線を使うと工事費が1割ぐらい安くつく

電気工事の外にも稼ぎ口を広げ、1957年9月に中国電材を設立し、1967年4月には三親電材の株式を取得した[27]。1963年からは冷暖房・給排水・衛生設備を扱う管工事の研究開発に入り、電気設備と関連が深く受注先もほぼ重なる仕事を取り込んだ[28]。管工事の完成工事高は3年間で約3.4倍に伸び、1970年3月期には電気機器製作部門が2.0%、圧縮ペンチなどの販売部門が1.1%を占めた[29]。同じ期の完成工事高のうち中国電力からの工事は18.3%にとどまり、関東電気工事の約57%、近畿電気工事の約33%と比べて低い[30]

  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [27]1957年9月に中国電材を設立、1967年4月に三親電材の株式を取得
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [28]管工事は同社が古く昭和38年からこの方面での研究開発を行なってきた。内容は冷暖房、給排水、衛生設備等であり、これらは電気設備との関連性が深く、受注先もほぼ同じで、1件当りの施工金額も電気工事より大きいものもある
    • [29]部門別に完成工事高の伸びを見ると、いちばん大きな伸びを示しているのは管工部門でこの3年間に約3.4倍。昭45.3期の販売実績で電気機器製作部門2.0%、販売部門(圧縮ペンチ等)1.1%
    • [30]前期は全完成工事高の19.6%が中国電力からの受注工事であったが、昭45.3期には全体の18.3%となった。電力会社からの受注では、多いところで関東電気工事が約57%、少ないところで近畿電気工事が約33%となっている
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
    • [18]同社の施工技術面では、昭和31年11月に「ビニール外装ケーブル工法」を導入。以前は天井裏に線を張るのに碍子を使っていたのを碍子なしにやる工法で、無碍子配線工法として全国に急速に普及し、屋内配線工事の生産性向上に大きく役立っている
    • [19]同社の施工技術面では、昭和31年11月に「ビニール外装ケーブル工法」を導入。以前は天井裏に線を張るのに碍子を使っていたのを碍子なしにやる工法で、無碍子配線工法として全国に急速に普及し、屋内配線工事の生産性向上に大きく役立っている
  • 野田豊「技術・サービスコストダウンを追求――中国電気工事社長 村田可朗氏」『野田経済』1970年
    • [20]村田可朗が中国電力の営業部長のころ、中国電気工事の技術者である古賀七郎とタイアップして平型ビニル外装ケーブルの工法を発明した
    • [24]中国電力と協力して一部のアルミ電線の正式認可をとり、その後、東京晴海のジャパン・ファニチァ・センターに関東地方ではじめての本格的なアルミ配線工事を施工した
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [21]「ビニール外装ケーブル工法」をわが国で初めて導入開発し、電気工事業界に大きな変革をもたらしたのは同社である
    • [25]昭和41年6月「アルミ屋内配線工法」を開発し、同業他社に先がけて採用している
    • [28]管工事は同社が古く昭和38年からこの方面での研究開発を行なってきた。内容は冷暖房、給排水、衛生設備等であり、これらは電気設備との関連性が深く、受注先もほぼ同じで、1件当りの施工金額も電気工事より大きいものもある
    • [29]部門別に完成工事高の伸びを見ると、いちばん大きな伸びを示しているのは管工部門でこの3年間に約3.4倍。昭45.3期の販売実績で電気機器製作部門2.0%、販売部門(圧縮ペンチ等)1.1%
    • [30]前期は全完成工事高の19.6%が中国電力からの受注工事であったが、昭45.3期には全体の18.3%となった。電力会社からの受注では、多いところで関東電気工事が約57%、少ないところで近畿電気工事が約33%となっている
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
    • [22]1960年4月に技能者養成所(現 研修所)を開設。技能部門では電工部門に金メダルを獲得した
  • 「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
    • [23]戦争中で銅が少なかったのでアルミ線を使おうということになり、アルミは接続がむずかしい、スパークですぐ切れるといった欠点があったのを技術的に解決した
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
    • [26]細もののアルミ線工事の施工について通産大臣の特別認可を受けているのは同社だけである。工場やマンション、ホテルでアルミ線を使うと工事費が1割ぐらい安くつく
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [27]1957年9月に中国電材を設立、1967年4月に三親電材の株式を取得
設立ストーリー(3)

株式公開の積み重ねと借入金ゼロへの転換

1967年、大同電力から日本発送電、中国電力へと電力畑を40年余り歩き、中国電力の副社長を務めた村田可朗氏が社長に就いた[31][32]。就任した1967年度の完成工事高は160億円を超え、下期だけで87億5,000万円と前年同期を14.5%上回った[33]。伸びる工事量を賄うため、1968年10月に倍額増資を行った[34]。新株660万株のうち528万株を株主へ1対0.8の割合で割り当て、132万株を公募して資本金を6億6,000万円とし、大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した[35]。集めた資金は工事車両や機械器具、職員の厚生施設、営業所と工事所の拡大に充てられた[36]

  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年
    • [31]昭和42年12月、中国電力(持株率21.6%の筆頭株主)から村田可朗副社長を新社長として迎え入れた
    • [32]村田社長(大正14年東大電気卒)は大同電力―日発―中国電力と電気事業に従事すること40余年間の大ベテランである
    • [33]昭和42年度の完工高は160億円を突破した。前期(昭和42年度下期)の完工高は87億5,000万円と前年同期比で14.5%の増加を示している
    • [36]増資による資金は工事車両、機械器具、職員厚生施設の充実、営業所、工事所の拡大などに当てられる
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年/堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [34]増資の内容は、新株式660万株のうち528万株を7月31日現在の株主に1対0.8の割合で割り当て、残り132万株を一般公募とし、払い込み期日は9月30日で新資本金は6億6千万円。増資を機会に大阪取引所二部に上場することも決定した(昭43.10.1 資本金660,000千円)
    • [35]増資の内容は、新株式660万株のうち528万株を7月31日現在の株主に1対0.8の割合で割り当て、残り132万株を一般公募とし、払い込み期日は9月30日で新資本金は6億6千万円。増資を機会に大阪取引所二部に上場することも決定した(昭43.10.1 資本金660,000千円)

1970年11月には108万株を公開価格300円で公募し、資本金を7億8,000万円へ増やして東京証券取引所市場第二部に上場した[37]。1972年2月には東京・大阪の両取引所で市場第一部に指定された[38]。その背景には受注の厚みがあり、1968年10月からの1年間の完成工事高は206億100万円で、近畿電気工事関東電気工事、東海電気工事に次ぐ業界4位、占有率は5.2%だった[39]。1件20万円未満の住宅向け工事が全施工高の2割近くを占め、完成工事件数は年約30万件に達し、約400社の外注先のうち240社を専属として抱えた[40]

  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [37]昭45.11.1 資本金780,000千円、公募108万株。公開株数1,080,000株、公開価格300円。1970年11月、東京証券取引所市場第二部に上場
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [38]1972年2月、東京証券取引所市場第一部・大阪証券取引所市場第一部に指定
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [39]業界順位(43.10〜44.9 完成工事高)は1位近畿電気工事41,639百万円、2位関東電気工事39,463百万円、3位東海電気工事21,495百万円、4位同社20,601百万円、占有率5.2%
    • [40]1件20万円未満の住宅向け工事が全施工高の2割近くを占めており、昭45.3期の完成工事件数は約30万件。外注先は昭45.3期現在で約400社、このうち同社専属の外注先は約240社

1975年6月、中国電力の副社長だった中野重美氏が社長に就いた[41]。就任から4カ月ほどの1975年10月ごろ、2カ月分以上あった工事資材の在庫を1カ月分へ減らし、30億円から40億円あった借入金をゼロにした[42]。残る借入は厚生年金などの基金から借りた1億円から2億円の長期資金にとどまった[43]。1976年3月末割当の増資では約10億円を公募して資本金を14億4,000万円から20億円へ引き上げ、全額を設備資金に充てて35カ所の事業場を整えた[44]。従業員8,000人と約3,000台の車両を抱えるなか、中野重美社長は電気工事業に徹すると常務会や支店長会議で説き、土地や不動産には手を出さなかった[45]

  • 野田皓一「八、〇〇〇人の従業員と共に生きる――中国電気工事社長 中野重美氏」『野田経済』1976年
    • [41]中野重美氏は、昭和50年6月に中国電力の副社長から中国電気工事の社長に就任した
    • [42]就任以来、借金というものを一切やめた。その最たるものは今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃。借金は厚生年金とか何とかの基金から借りている長期的なものが1〜2億円あるだけ
    • [43]就任以来、借金というものを一切やめた。その最たるものは今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃。借金は厚生年金とか何とかの基金から借りている長期的なものが1〜2億円あるだけ
    • [44]3月末割当で3分の1の増資中、新資本金は20億円になる。現在の資本金は14億4,000万円。全額、設備資金で、公募を付けるから約10億円近く入り、残り10億円は内部資金から出せる見込み。事業場の整備は35カ所
    • [45]従業員は8,000人、自動車が約3,000台ある。「電気工事業は、あくまで電気工事業に徹すべきだ」電気工事業であって資金があるからといって、土地や不動産を買ったり、電気工事以外の素人の仕事をしてはいけないということだけはチャンと頭に入れていると常務会や支店長会議で述べた
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年
    • [31]昭和42年12月、中国電力(持株率21.6%の筆頭株主)から村田可朗副社長を新社長として迎え入れた
    • [32]村田社長(大正14年東大電気卒)は大同電力―日発―中国電力と電気事業に従事すること40余年間の大ベテランである
    • [33]昭和42年度の完工高は160億円を突破した。前期(昭和42年度下期)の完工高は87億5,000万円と前年同期比で14.5%の増加を示している
    • [36]増資による資金は工事車両、機械器具、職員厚生施設の充実、営業所、工事所の拡大などに当てられる
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年/堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [34]増資の内容は、新株式660万株のうち528万株を7月31日現在の株主に1対0.8の割合で割り当て、残り132万株を一般公募とし、払い込み期日は9月30日で新資本金は6億6千万円。増資を機会に大阪取引所二部に上場することも決定した(昭43.10.1 資本金660,000千円)
    • [35]増資の内容は、新株式660万株のうち528万株を7月31日現在の株主に1対0.8の割合で割り当て、残り132万株を一般公募とし、払い込み期日は9月30日で新資本金は6億6千万円。増資を機会に大阪取引所二部に上場することも決定した(昭43.10.1 資本金660,000千円)
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [37]昭45.11.1 資本金780,000千円、公募108万株。公開株数1,080,000株、公開価格300円。1970年11月、東京証券取引所市場第二部に上場
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
    • [38]1972年2月、東京証券取引所市場第一部・大阪証券取引所市場第一部に指定
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [39]業界順位(43.10〜44.9 完成工事高)は1位近畿電気工事41,639百万円、2位関東電気工事39,463百万円、3位東海電気工事21,495百万円、4位同社20,601百万円、占有率5.2%
    • [40]1件20万円未満の住宅向け工事が全施工高の2割近くを占めており、昭45.3期の完成工事件数は約30万件。外注先は昭45.3期現在で約400社、このうち同社専属の外注先は約240社
  • 野田皓一「八、〇〇〇人の従業員と共に生きる――中国電気工事社長 中野重美氏」『野田経済』1976年
    • [41]中野重美氏は、昭和50年6月に中国電力の副社長から中国電気工事の社長に就任した
    • [42]就任以来、借金というものを一切やめた。その最たるものは今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃。借金は厚生年金とか何とかの基金から借りている長期的なものが1〜2億円あるだけ
    • [43]就任以来、借金というものを一切やめた。その最たるものは今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃。借金は厚生年金とか何とかの基金から借りている長期的なものが1〜2億円あるだけ
    • [44]3月末割当で3分の1の増資中、新資本金は20億円になる。現在の資本金は14億4,000万円。全額、設備資金で、公募を付けるから約10億円近く入り、残り10億円は内部資金から出せる見込み。事業場の整備は35カ所
    • [45]従業員は8,000人、自動車が約3,000台ある。「電気工事業は、あくまで電気工事業に徹すべきだ」電気工事業であって資金があるからといって、土地や不動産を買ったり、電気工事以外の素人の仕事をしてはいけないということだけはチャンと頭に入れていると常務会や支店長会議で述べた
設立ストーリー(4)

中国電力副社長からの社長就任と電力向け3割を切った受注

1989年、中国電力の副社長だった宮崎敏夫氏が中国電気工事の社長に就任した[46]。宮崎敏夫社長は1947年に中国配電へ入り、1951年に中国電力が事業を継承したのちは燃料と資材の仕事を長く担い、1979年に取締役、1981年に常務、1987年に副社長を務めた[47]。電力会社は一つの区域を独占して商売をし、燃料や資材の部署には取引先のほうから話が持ち込まれたが、工事会社ではその関係が逆になった[48][49]。東は関東から西は沖縄まで同業者が入り乱れて競争し、営業が積み上げた案件の最後は社長が出向いて受注を頼む場面が増えた[50]。宮崎敏夫社長は就任からの1年を戸惑いの連続だったと1993年の対談で振り返った[51]

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫略歴
    • [46]宮崎敏夫は1989年(平成元年)に中国電力副社長から中国電気工事(現・中電工)社長に就任した。
    • [47]宮崎敏夫は1944年京都大学経済学部卒業、1947年中国配電入社、1951年中国電力継承、1979年取締役、1981年常務、1987年副社長。
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [48]電力会社は一区域を独占して商売をしており、燃料や資材といった立場ではこちらから出ていって頼むことはほとんどなく、むこうから依頼してきた。
    • [49]中電工の社長に就いてその関係が180度変わったと宮崎社長が述べている。
    • [50]東は関東から西は沖縄まで各同業者が厳しい競争をしており、営業活動で積み上げた最後の段階は社長が出向いて頼み、出回る機会が多くなった。
    • [51]宮崎社長は競争の厳しさに最初の一年は本当にとまどったと述べている。

1990年10月、中国電気工事は商号を中電工に改めた[52]中国電力は中電工に35%を出資していたが、中国電力向けの金額的な依存度は3割を少し切り、九電工やきんでんとほぼ同じ割合だった[53]。残る7割強は一般工事で、うち官公庁関係が約10%を占めた[54]。地域別では中国5県内が9割強、東京・大阪・名古屋・九州・沖縄を合わせても1割弱にとどまった[55]。広島を中心としたアジア大会の施設整備は1993年になっても直接、間接に続き、前々年度から持ち越した工事額は約820億円あった[56]。中国地区が受けたバブル経済崩壊の影響は他地域に比べて小さいと宮崎敏夫社長はみていた[57]

  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [52]1990年10月、商号を中国電気工事から中電工に変更した。
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [53]中国電力から35%の出資があるが、中国電力への金額的な依存度は3割を少し切っており、九電工およびきんでんと大体似かよった割合である。
    • [54]残りの7割強は一般工事で、その中で官公庁関係が約10%程度である。
    • [55]地域別では中国5県内が大体9割強、中国以外の東京、大阪、名古屋、九州、沖縄が1割弱の割合である。
    • [56]広島を中心にしたアジア大会の施設整備が直接、間接に現在もまだ続いており、一昨年から今年に持ち越した工事額が約820億円あった。
    • [57]中国地区はバブル経済崩壊の影響度合が他に比べて比較的小さいという見通しを宮崎社長が示した。
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫略歴
    • [46]宮崎敏夫は1989年(平成元年)に中国電力副社長から中国電気工事(現・中電工)社長に就任した。
    • [47]宮崎敏夫は1944年京都大学経済学部卒業、1947年中国配電入社、1951年中国電力継承、1979年取締役、1981年常務、1987年副社長。
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [48]電力会社は一区域を独占して商売をしており、燃料や資材といった立場ではこちらから出ていって頼むことはほとんどなく、むこうから依頼してきた。
    • [49]中電工の社長に就いてその関係が180度変わったと宮崎社長が述べている。
    • [50]東は関東から西は沖縄まで各同業者が厳しい競争をしており、営業活動で積み上げた最後の段階は社長が出向いて頼み、出回る機会が多くなった。
    • [51]宮崎社長は競争の厳しさに最初の一年は本当にとまどったと述べている。
    • [53]中国電力から35%の出資があるが、中国電力への金額的な依存度は3割を少し切っており、九電工およびきんでんと大体似かよった割合である。
    • [54]残りの7割強は一般工事で、その中で官公庁関係が約10%程度である。
    • [55]地域別では中国5県内が大体9割強、中国以外の東京、大阪、名古屋、九州、沖縄が1割弱の割合である。
    • [56]広島を中心にしたアジア大会の施設整備が直接、間接に現在もまだ続いており、一昨年から今年に持ち越した工事額が約820億円あった。
    • [57]中国地区はバブル経済崩壊の影響度合が他に比べて比較的小さいという見通しを宮崎社長が示した。
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [52]1990年10月、商号を中国電気工事から中電工に変更した。
設立ストーリー(5)

完全週休二日制の導入と平和通り電気ビルへの本店移転

1991年度の売上高は約1,900億円で、宮崎敏夫社長は1992年度に売上高が2,000億円を超え、受注は2,100億円、経常利益は300億円に達すると見通した[58][59]。前年の台風10号で中国電力の設備が大きな塩害を受け、1993年から塩害対策の工事量が増えたことも受注を押し上げた[60]。中電工は無借金経営を続け、自己資本比率や売上高利益率といった経営指標は業界の首位にあった[61]。宮崎敏夫社長はその理由を、中野重美元社長が敷いた経営方針を矢田貝会長が継承し、無駄の排除を細かく積み上げた結果だと説明し、なかでも工程管理を最も重んじていると述べた[62]

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」酒井節雄発言・宮崎敏夫応答
    • [58]1991年度(平成3年度)の売上高は約1,900億円だった。
    • [61]中電工は無借金経営で、自己資本率、売上高率など経営力を示す指標が業界トップである。
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [59]1992年度(平成4年度)は売上高が2,000億円を突破し、受注は2,100億円、経常利益は300億円は十分出るとの見通しを宮崎社長が示した。
    • [60]昨年10号台風で電力が非常に大きな塩害の被害を受け、今年から塩害対策を特別に進める電力の工事量が昨年に比べてかなり増えてくる。
    • [62]先輩の中野の経営方針と努力が実り、矢田貝会長がその方針を継承して伸ばした。無駄排除が一つ一つ積み重なった結果であり、特に工程管理は一番力を入れている分野である。

1992年に始めた5ヵ年の中期経営計画は、最終年度の1995年度に受注2,500億円、売上高2,300億円を置いた[63]。技術者では電気主任技術者の一種・二種の有資格者と技術士を社内で養成し、一級施工管理技士を1995年に約500人まで増やす目標を掲げた[64]。1992年に完全週休二日制を導入し、一般工事では半年余りで定着した[65]。電力の塩害対策工事と配電設備の工事は停電が難しく深夜作業が多いため、外線関係では代休を取り切れずにいた[66]。人力の機械への置き換えも進み、配電線工事で電柱に昇ることはほとんどなくなり、高所作業車のバケットに2人が入る方式に替わっていた[67]。1991年と1992年には短大・高校卒の女性を約150人採用し、OA機器とCADの操作を任せて男性を工事へ回した[68]。従業員は6,000人強を数えた[69]

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [63]1992年から5ヵ年計画として中期経営計画を作り、最終年度の1995年度(平成7年度)は受注2,500億円、売上2,300億円という数字を置いた。
    • [64]電気主任技術者の一種・二種の資格者や技術士を社内に多く養成し、一級施工管理技士の養成も1995年(平成7年)には500人ぐらいにもっていく目標を掲げた。
    • [65]完全週休二日制を今年から採用し、半年あまりの実績では電力関係の仕事以外はわりにスムーズに定着しつつある。
    • [66]電力では塩害対策工事、配電設備の強化工事で停電することが難しく深夜作業のケースが多いため、外線関係者だけ週休二日制の定着が難しく代休を取りかねている。
    • [67]人力を機械に置き換えられるものは最大限機械化しており、配電線の工事は電柱へ昇ってやることはほとんどなく、全部高所作業車でブームの先のバケットの中に二人入って行っている。
    • [68]男性が操作していたOA関係の機器、設計・施工のためのCADの操作を女性に置き換えるため、昨年と今年だけで短大・高卒の女性を約150名採用し、男の手を浮かせて工事能力増強へつないでいる。
    • [69]現在は6,000人強の人員数である。

本社が手狭になったため、中電工は中国電力と共同で20階建てのビルを建てる計画を中期経営計画に入れた[70]。用地は平和公園の西寄りを走る100m道路沿いで、中国電力と中電工の土地が地続きに千坪余りあり、中国電力も地下変電所を必要としていた[71]。1996年、中電工は竣工した平和通り電気ビルへ本店を移した[72]。移転披露のパーティーには300人近くが出席し、平岡敬広島市長、中国電力の多田公照会長、きんでんの荒巻恭二会長、トーエネックの石田英夫社長、ユアテックの中沢博司社長、九電工の白石司社長、マツダの和田淑弘社長が顔をそろえた[73]。多田会長は50余年の歴史のなかで何度か社屋を移してきた中電工に、この移転を機とした発展を期待すると述べた[74]

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [70]本社も手狭になり、1996年度(平成8年度)までに中国電力と両社共同の20階建てのビルを作り、中国電力広島支店と共用して本社を移す計画を中期経営計画に置いた。現在地から南へ400mほど移る。
    • [71]中国電力の土地と中電工の土地が地続きで千坪余りあり、平和公園から少し西へ寄った100m道路沿いにある。中国電力も地下変電所が必要としていた。
  • 経営コンサルタント 1996年「中電工が新社屋の披露パーティー開催」
    • [72]中電工はこのほど竣工したばかりの平和通り電気ビルにおいて本店社屋移転披露パーティーを開催した。
    • [73]パーティーには300人近くが出席し、きんでん荒巻恭二会長、トーエネックの石田英夫社長、ユアテックの中沢博司社長、九電工の白石司社長、広島市長の平岡敬、マツダの和田淑弘社長、中国電力の多田公照会長らが出席した。
    • [74]中国電力の多田公照会長は、中電工は50余年の歴史の中で社業の発展に合わせて何回か社屋移転してきたが、今回の移転を契機にますますの発展を期待していると挨拶した。
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」酒井節雄発言・宮崎敏夫応答
    • [58]1991年度(平成3年度)の売上高は約1,900億円だった。
    • [61]中電工は無借金経営で、自己資本率、売上高率など経営力を示す指標が業界トップである。
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [59]1992年度(平成4年度)は売上高が2,000億円を突破し、受注は2,100億円、経常利益は300億円は十分出るとの見通しを宮崎社長が示した。
    • [60]昨年10号台風で電力が非常に大きな塩害の被害を受け、今年から塩害対策を特別に進める電力の工事量が昨年に比べてかなり増えてくる。
    • [62]先輩の中野の経営方針と努力が実り、矢田貝会長がその方針を継承して伸ばした。無駄排除が一つ一つ積み重なった結果であり、特に工程管理は一番力を入れている分野である。
    • [63]1992年から5ヵ年計画として中期経営計画を作り、最終年度の1995年度(平成7年度)は受注2,500億円、売上2,300億円という数字を置いた。
    • [64]電気主任技術者の一種・二種の資格者や技術士を社内に多く養成し、一級施工管理技士の養成も1995年(平成7年)には500人ぐらいにもっていく目標を掲げた。
    • [65]完全週休二日制を今年から採用し、半年あまりの実績では電力関係の仕事以外はわりにスムーズに定着しつつある。
    • [66]電力では塩害対策工事、配電設備の強化工事で停電することが難しく深夜作業のケースが多いため、外線関係者だけ週休二日制の定着が難しく代休を取りかねている。
    • [67]人力を機械に置き換えられるものは最大限機械化しており、配電線の工事は電柱へ昇ってやることはほとんどなく、全部高所作業車でブームの先のバケットの中に二人入って行っている。
    • [68]男性が操作していたOA関係の機器、設計・施工のためのCADの操作を女性に置き換えるため、昨年と今年だけで短大・高卒の女性を約150名採用し、男の手を浮かせて工事能力増強へつないでいる。
    • [69]現在は6,000人強の人員数である。
    • [70]本社も手狭になり、1996年度(平成8年度)までに中国電力と両社共同の20階建てのビルを作り、中国電力広島支店と共用して本社を移す計画を中期経営計画に置いた。現在地から南へ400mほど移る。
    • [71]中国電力の土地と中電工の土地が地続きで千坪余りあり、平和公園から少し西へ寄った100m道路沿いにある。中国電力も地下変電所が必要としていた。
  • 経営コンサルタント 1996年「中電工が新社屋の披露パーティー開催」
    • [72]中電工はこのほど竣工したばかりの平和通り電気ビルにおいて本店社屋移転披露パーティーを開催した。
    • [73]パーティーには300人近くが出席し、きんでん荒巻恭二会長、トーエネックの石田英夫社長、ユアテックの中沢博司社長、九電工の白石司社長、広島市長の平岡敬、マツダの和田淑弘社長、中国電力の多田公照会長らが出席した。
    • [74]中国電力の多田公照会長は、中電工は50余年の歴史の中で社業の発展に合わせて何回か社屋移転してきたが、今回の移転を契機にますますの発展を期待していると挨拶した。

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沿革年表 1944〜2023年

中電工の沿革1944〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1944〜1979年12社統合で発足した会社が電力以外に稼ぎ口を広げるまで軍需省の要請で中国5県下の電気工事12社が統合した中国電気工事を広島市に設立★★★
広島証券取引所市場に上場
東京事務所(現 東京本部)を開設
送電線・発変電所工事を担う建設部(現 電力建設所)を開設★★
ビニール外装ケーブル工法を開発★★
中国電材を設立
技能者養成所(現 研修所)を開設★★
三親電材の株式を取得
大阪証券取引所市場第二部に上場
東京証券取引所市場第二部に上場
東京証券取引所市場第一部・大阪証券取引所市場第一部に指定
1980〜1999年中国電気工事から中電工へ、受注の7割強を占めた一般工事商号を中電工に変更★★★
2000〜2025年電力向け工事の外へ、買収と出資で稼ぎ口を広げる加藤義明大阪証券取引所への上場を廃止
細田順弘CHUDENKO(MALAYSIA)SDN. BHD.を設立
小畑博文農業に参入する中電工ワールドファームを設立★★
小畑博文杉山管工設備の株式を取得し管工事に領域を拡大★★★
小畑博文早水電機工業の株式を取得★★
小畑博文RYB ENGINEERING PTE LTDの株式を取得
迫谷章昭和コーポレーションの株式を取得★★
迫谷章東京証券取引所の市場区分の見直しによりプライム市場に移行
重藤隆文監査役会設置会社から監査等委員会設置会社に移行
出典・参考 16件
出典・参考
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/中国電気工事 有価証券報告書 沿革
  • 中国電気工事 有価証券報告書 沿革
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年/堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/野田豊「技術・サービスコストダウンを追求」『野田経済』1970年
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号/「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫略歴
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」酒井節雄発言・宮崎敏夫応答
  • 「地域開発の一翼になう=中国電気工事」『政経人』1968年
  • 「飛躍的な発展期迎えた中国電気工事」『政経人』1969年
  • 野田豊「技術・サービスコストダウンを追求――中国電気工事社長 村田可朗氏」『野田経済』1970年
  • 野田皓一「八、〇〇〇人の従業員と共に生きる――中国電気工事社長 中野重美氏」『野田経済』1976年
  • 経営コンサルタント 1996年「中電工が新社屋の披露パーティー開催」

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