第2章 年〜年

中電工:中電工への改称と中国電力依存からの一般工事の拡大

1980年〜商号から電気工事の三文字が落ちるまでに変わった受注の構成

1990年10月、中国電気工事は商号を中電工へ変更した。中国5県の電気工事12社を統合して発足した会社の名は、中国電力の系列で電気工事を請け負う立場をそのまま表していたが、そのころの受注の構成はすでに名前から離れていた。1993年初めの時点で、中国電力への金額的な依存度は3割を少し切り、残る7割強を一般工事が占めた。一般工事のうち官公庁関係は約10%で、残りは民間の工事である。中国電力からは35%の出資を受けており、資本の関係は濃いまま、仕事の出どころだけが電力の外へ移っていた。

  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [1]1990年10月、商号を株式会社中電工に変更
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [2]中国電力への金額的な依存度は3割を少し切っている。残りの7割強は一般工事で、その中で官公庁関係が約10%程度である
    • [3]中国電力への金額的な依存度は3割を少し切っている。残りの7割強は一般工事で、その中で官公庁関係が約10%程度である
    • [4]わが社には中国電力から35%の出資金がある

電力会社が一つの区域を独占して商売をするのに対し、電気工事会社の商売は全国で重なった。東は関東から西は沖縄まで各同業者が入り乱れ、宮崎敏夫社長が厳しい競争と呼ぶ状態にあった。それでも中電工の受注は地域別に中国5県内が9割強を占め、東京・大阪・名古屋・九州・沖縄は1割弱にとどまった。中国電力への依存が3割を切る水準は、九電工やきんでんとほぼ同じ割合である。1996年に本店社屋の移転披露が開かれた際には、きんでんの荒巻恭二会長、トーエネックの石田英夫社長、ユアテックの中沢博司社長、九電工の白石司社長が広島へ集まった。各電力会社の管内に置かれた工事会社どうしは、区域の外で競い合う一方、区域の内では隣り合わなかった。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [5]東は関東から西は沖縄まで入り乱れて各同業者が厳しい競争をしながらやっている
    • [6]地域別に見た場合、中国5県内が大体9割強、中国以外の東京、大阪、名古屋、九州、沖縄が1割弱の割合である
    • [7]中国電力への依存度は九電工および「きんでん」の場合と大体似かよった割合である
  • 「中電工が新社屋の披露パーティー開催」『経営コンサルタント』1996年
    • [8]パーティーには300人近くが出席し、きんでん荒巻恭二会長、トーエネックの石田英夫社長、ユアテックの中沢博司社長、九電工の白石司社長らが出席した

一般工事の比重が上がったことは、受注が地域の製造業の景気に連動することを意味した。1993年初めには、広島のマツダが不況に陥り、自動車産業のすそ野の広さから不況感が強まっていた。福山や西条にあるシャープ、日本電気の家電製品の生産も大きく落ち、福山の日本鋼管、水島の川崎製鉄、呉の日新製鋼も操業がかなり低下していた。それでも瀬戸内側はバブル経済の崩壊の影響を大きくは受けず、中国地区の工事量は保たれた。1990年4月には保険代理やリースを扱う中工開発を設立し、工事の周辺へ業容を伸ばした。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [9]広島にはマツダという自動車会社があるが、これが不況で、自動車産業は非常にすそ野が広く、そういう意味では不況感は強まっている
    • [10]福山、西条あたりにあるシャープ、日本電気などの家電製品も生産はグンと落ちている。直接的ではないが、福山の日本鋼管、水島の川崎製鉄、呉の日新製鋼も操業がかなり落ちている
    • [11]中国地区はバブル経済崩壊の影響度合が他に比べて比較的小さいという見通しが一つはあった。瀬戸内側がそれほど大きなバブル経済の崩壊の影響を受けなかった
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [12]1990年4月、中工開発株式会社を設立。中工開発㈱は保険代理、リース等の事業を営んでいる
参考文献[1]-[12]
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [1]1990年10月、商号を株式会社中電工に変更
    • [12]1990年4月、中工開発株式会社を設立。中工開発㈱は保険代理、リース等の事業を営んでいる
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [2]中国電力への金額的な依存度は3割を少し切っている。残りの7割強は一般工事で、その中で官公庁関係が約10%程度である
    • [3]中国電力への金額的な依存度は3割を少し切っている。残りの7割強は一般工事で、その中で官公庁関係が約10%程度である
    • [4]わが社には中国電力から35%の出資金がある
    • [5]東は関東から西は沖縄まで入り乱れて各同業者が厳しい競争をしながらやっている
    • [6]地域別に見た場合、中国5県内が大体9割強、中国以外の東京、大阪、名古屋、九州、沖縄が1割弱の割合である
    • [7]中国電力への依存度は九電工および「きんでん」の場合と大体似かよった割合である
    • [9]広島にはマツダという自動車会社があるが、これが不況で、自動車産業は非常にすそ野が広く、そういう意味では不況感は強まっている
    • [10]福山、西条あたりにあるシャープ、日本電気などの家電製品も生産はグンと落ちている。直接的ではないが、福山の日本鋼管、水島の川崎製鉄、呉の日新製鋼も操業がかなり落ちている
    • [11]中国地区はバブル経済崩壊の影響度合が他に比べて比較的小さいという見通しが一つはあった。瀬戸内側がそれほど大きなバブル経済の崩壊の影響を受けなかった
  • 「中電工が新社屋の披露パーティー開催」『経営コンサルタント』1996年
    • [8]パーティーには300人近くが出席し、きんでん荒巻恭二会長、トーエネックの石田英夫社長、ユアテックの中沢博司社長、九電工の白石司社長らが出席した

1989年〜発注する側から受注する側へ回った社長

1989年、中国電力の副社長だった宮崎敏夫氏が中国電気工事の社長に就任した。1922年に広島県で生まれ、1944年に京都大学経済学部を卒業し、1947年に中国配電へ入社、1951年の中国電力への継承を経て、1979年に取締役、1981年に常務、1987年に副社長を務めた経歴である。中国電力では燃料や資材を扱う仕事が長く、こちらから出ていって頼むことはほとんどなく、取引先のほうから依頼してきた。社長に就任してその関係は180度変わり、競争の厳しさに最初の1年はとまどったという。営業が受注へ向けて積み上げた最後の段階では社長自身が出向いて頼むことになり、外へ出回る機会が増えた。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫略歴
    • [13]1989年(平成元年)中国電気工事(現、株式会社中電工)社長に就任
    • [14]昭和19年京都大学経済学部卒業、22年中国配電入社、26年中国電力継承、54年取締役、56年常務、62年副社長。大正11年生まれ、広島県出身
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [15]燃料や資材といった立場での仕事が長かったために、こちらから出ていってお願いすることはほとんどなくて、むこうから依頼してきた。それが180度変わり、しかも競争が非常に厳しいなかで、最初の一年は本当にとまどった
    • [16]燃料や資材といった立場での仕事が長かったために、こちらから出ていってお願いすることはほとんどなくて、むこうから依頼してきた。それが180度変わり、しかも競争が非常に厳しいなかで、最初の一年は本当にとまどった
    • [17]皆が営業活動して受注に結び付けるべく積み上げてくれた最後の段階は、社長として私が行ってお願いもしなければいけないということで、昔に比べて非常に出回る機会が多くなってきた

引き継いだのは、借入を持たない財務だった。無借金経営を続け、自己資本比率や売上高利益率といった経営力を示す指標は業界の首位にあった。1975年に中野重美社長が工事資材の在庫を1カ月分へ減らして借入金をゼロにしてから、その状態が十数年続いたことになる。中野氏の経営方針と努力が実り、矢田貝会長がその方針を継承して伸ばした結果であり、無駄の排除が一つ一つ積み重なっていた。なかでも工程管理には最も力を入れていた。トーエネックやユアテックの首脳が来社しては、なぜそれだけ利益が上がるのかと尋ねた。売上高5,000億円以上の関電工に対し、中電工の株価はその倍の水準にあった。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」酒井節雄発言・宮崎敏夫応答
    • [18]今でも無借金経営で、自己資本率、売上高率など経営力を示す指標が業界トップで、超優良企業である
    • [23]株価の動向をみると、売上高が5,000億円以上の関電工の株価に対し、中電工はその倍である
  • 野田皓一「八、〇〇〇人の従業員と共に生きる――中国電気工事社長 中野重美氏」『野田経済』1976年
    • [19]今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [20]先輩の中野さんの経営方針と努力が実ったもの。今の矢田貝会長がその方針を継承されてうまく伸ばしていった。とにかく無駄排除が一つ一つ積み重なっている。特に工程管理は一番力を入れている分野である
    • [21]先輩の中野さんの経営方針と努力が実ったもの。今の矢田貝会長がその方針を継承されてうまく伸ばしていった。とにかく無駄排除が一つ一つ積み重なっている。特に工程管理は一番力を入れている分野である
    • [22]よくトーエネックやユアテックの方が私の会社へいらして、「なぜそれだけ利益が上がるのか教えてくれ」とおっしゃる

1991年度の売上高は約1,900億円だった。1992年度は売上高が2,000億円を突破し、受注も2,100億円を確保できるとの見通しを宮崎社長は示した。これを支えたのは3つの工事量である。一昨年から持ち越した工事額が約820億円あり、1991年の台風で電力設備が大きな塩害の被害を受けたため1992年度から塩害対策の工事が増え、広島を中心としたアジア競技大会の施設整備が直接にも間接にも続いていた。1968年10月からの1年間の完成工事高は206億100万円で業界4位だったから、20年あまりで売上は9倍を超えたことになる。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」酒井節雄発言・宮崎敏夫応答
    • [24]1991年度(平成3年度)の売上高は1,900億円ぐらいであった
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [25]売上も2,000億円を突破すると思っている。受注も2,100億円は出るのではないか
    • [26]一昨年から今年に持ち越した工事額が約820億円ぐらいあった
    • [27]昨年10号台風で電力が非常に大きな塩害の被害を受けた。これではいかんというので、今年から塩害対策を特別に進める電力の工事量が昨年に比べてかなり増えてくる
    • [28]広島を中心にしてアジア大会の施設の整備が直接、間接に現在もまだ続いている
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [29]業界順位(43.10〜44.9 完成工事高)は4位同社20,601百万円、占有率5.2%
参考文献[13]-[29]
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫略歴
    • [13]1989年(平成元年)中国電気工事(現、株式会社中電工)社長に就任
    • [14]昭和19年京都大学経済学部卒業、22年中国配電入社、26年中国電力継承、54年取締役、56年常務、62年副社長。大正11年生まれ、広島県出身
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [15]燃料や資材といった立場での仕事が長かったために、こちらから出ていってお願いすることはほとんどなくて、むこうから依頼してきた。それが180度変わり、しかも競争が非常に厳しいなかで、最初の一年は本当にとまどった
    • [16]燃料や資材といった立場での仕事が長かったために、こちらから出ていってお願いすることはほとんどなくて、むこうから依頼してきた。それが180度変わり、しかも競争が非常に厳しいなかで、最初の一年は本当にとまどった
    • [17]皆が営業活動して受注に結び付けるべく積み上げてくれた最後の段階は、社長として私が行ってお願いもしなければいけないということで、昔に比べて非常に出回る機会が多くなってきた
    • [20]先輩の中野さんの経営方針と努力が実ったもの。今の矢田貝会長がその方針を継承されてうまく伸ばしていった。とにかく無駄排除が一つ一つ積み重なっている。特に工程管理は一番力を入れている分野である
    • [21]先輩の中野さんの経営方針と努力が実ったもの。今の矢田貝会長がその方針を継承されてうまく伸ばしていった。とにかく無駄排除が一つ一つ積み重なっている。特に工程管理は一番力を入れている分野である
    • [22]よくトーエネックやユアテックの方が私の会社へいらして、「なぜそれだけ利益が上がるのか教えてくれ」とおっしゃる
    • [25]売上も2,000億円を突破すると思っている。受注も2,100億円は出るのではないか
    • [26]一昨年から今年に持ち越した工事額が約820億円ぐらいあった
    • [27]昨年10号台風で電力が非常に大きな塩害の被害を受けた。これではいかんというので、今年から塩害対策を特別に進める電力の工事量が昨年に比べてかなり増えてくる
    • [28]広島を中心にしてアジア大会の施設の整備が直接、間接に現在もまだ続いている
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」酒井節雄発言・宮崎敏夫応答
    • [18]今でも無借金経営で、自己資本率、売上高率など経営力を示す指標が業界トップで、超優良企業である
    • [23]株価の動向をみると、売上高が5,000億円以上の関電工の株価に対し、中電工はその倍である
    • [24]1991年度(平成3年度)の売上高は1,900億円ぐらいであった
  • 野田皓一「八、〇〇〇人の従業員と共に生きる――中国電気工事社長 中野重美氏」『野田経済』1976年
    • [19]今まで2カ月以上あった工事資材の在庫を1カ月にしたことで、これで借金をゼロにした。借金は30〜40億円あった。着手はおよそ4カ月後の昭和50年10月頃
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
    • [29]業界順位(43.10〜44.9 完成工事高)は4位同社20,601百万円、占有率5.2%

1992年〜5ヵ年計画が定めた有資格者の頭数と休日

中電工の工事は大半が施工の管理であり、社員が直営で作業に当たる場面は多くない。1992年、同社は5ヵ年の中期経営計画を立てた。社会や個々の顧客から求められる水準がより高く多様になっていくと見て、第一の柱には、技術を売る会社にふさわしい高い水準の技術集団になることを据えた。通商産業省所管の電気主任技術者の一種・二種の資格者や、内線・空調管の分野で技術士と呼ばれる有資格者を、社内で数多く育てる方針である。施工管理の力を高める狙いから、一級施工管理技士は最終年度の1995年度に500人ほどまで増やす目標とした。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [30]工事をするにあたっては、我々は施工を管理する仕事が大半で、直営でやることはあまりない
    • [31]昨年から中期経営計画を5ヵ年計画として作った
    • [32]これから社会的な要請にしても、お客さん個々人の要請にしても、我々に対する要請は非常に高度化し多様化してくる。それに即応できるためには、技術を売り物にしている我々の会社としては、ハイレベルの技術集団にしていかなくてはならない。これが経営計画の第一点である
    • [33]通産省が主管している電気の主任技術者など1種、2種の資格者を社内にたくさん養成する。内線、空調管ではそれに匹敵するものを技術士といっている。一級施工管理技士の養成も5ヵ年計画の最後の段階の1995年(平成7年)には500人ぐらいにもっていく

成長率と労働時間も数字で置いた。計画の数字は、最終年度の1995年度に受注2,500億円、売上2,300億円である。前提には、日本の実質経済成長率を2.5%から3%とみて、名目でおよそ5%の伸びは確保しなければならないという判断があった。労働時間は21世紀に向けて短くなっていくとの見通しから、景気がよくなると人手を集めにくくなる3Kの職場を改めることに重点を置いた。機械で代われる作業はできる限り機械に任せる方針で、配電線の工事では電柱に登ることがほぼなくなり、高所作業車のブームの先のバケットに2人で乗る形になっていた。夏の間、冷房が効く装置を取り付ける実験も行っていた。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [34]日本のGNPの実質伸び率は2.5〜3%だと考えている。名目的には5%程度の伸びで考えないといかん。最終年度の1995年度(平成7年度)は受注は2,500億円、売上は2,300億円という数字をおいている
    • [35]21世紀を展望した場合に、当然これから労働時間が短縮されていくと考えざるをえない。合わせて、我々の事業は3Kという言葉でいつも呼ばれ、好況になると人材確保が難しい。労働時間の短縮と3Kの改善に力を注がなくてはならない
    • [36]人力を機械に置き換えられるものは最大限機械化していく。今は配電線の工事は電柱へ昇ってやることはほとんどなく、全部高所作業車で、ブームの先のバケットの中に2人入ってやっている
    • [37]夏季は冷房が出る装置をつけて作業ができるようなことも考えていろいろと実験中である

完全週休二日制は1992年から実施し、電力関係以外の仕事はわりにスムーズに定着したが、塩害対策工事と配電設備の強化工事は停電させることが難しく深夜作業が多いため、外線に携わる者だけは代休を取りきれなかった。人員は6,000人強である。男性が操作していたOA機器と設計・施工のCADの操作を女性へ置き換えるべく、2年で短大卒・高卒の女性を約150名採用し、浮いた男性の手を工事能力へ充当した。定年は60歳としたうえで職種を限って再雇用の制度も設け、Uターン組の中途採用も年に5人から8人ほど続けた。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [38]完全週休二日制を今年から採用して、この半年あまりの実績を見ると、電力関係の仕事以外はわりにスムーズに定着しつつある。電力では塩害対策工事、配電設備の強化工事が今年から5ヵ年計画で打ち出され、停電することが非常に難しいものだから深夜作業のケースが多くて、外線関係者だけ週休二日制の定着が今のところ難しい
    • [39]現在は6,000人強の人員数である
    • [40]今まで男性が操作していたOA関係の機器、設計・施工のためのCADの操作を全部女性に置き換えようということで、昨年と今年だけで短大・高卒の女性を約150名ばかり採用した。それで男の手を浮かせて工事能力増強へつないでいる
    • [41]わが社は定年60歳だが、職種は限定してあるが再雇用制度も作って活用している。定期採用の他に中途採用もやっており、Uターン組に対して中途採用をやっている。年間で大体5〜8名ぐらいいる

1994年に迎える創業50周年の記念事業として、本社の移転を計画へ組み込んだ。中国電力の土地と中電工の土地は地続きで千坪余りあり、平和公園から少し西へ寄った100メートル道路沿いに位置した。中国電力も地下変電所を必要としていたことから、両社共同で20階建てのビルを建て、中国電力広島支店と共用して1996年度までに本社を移すこととした。この計画は前倒しで実り、1996年3月に本店は広島市中区小網町6番12号へ移った。竣工した平和通り電気ビルでは本店社屋の移転披露が開かれ、300人近くが出席した。50余年の歴史のなかで社業の発展に合わせた社屋の移転は、これが何回目かにあたる。

  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [42]ちょうどアジアオリンピックの年の1994年(平成6年)が、わが社にとっては50周年になる。本社移転は記念事業の一つと考えている
    • [43]中国電力の土地とわが社の土地が地続きで1,000坪余りだが、平和公園から少し西へ寄った100m道路沿いにある
    • [44]中電も地下変電所が必要だということで、1996年度(平成8年度)までに両社共同の20階建てのビルを作り(中国電力広島支店と共用)、それに本社を移行しようと考えている。現在の位置から南へ400mぐらい移る
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [45]1996年3月、本店を広島市中区小網町6番12号(現在地)に移転
  • 「中電工が新社屋の披露パーティー開催」『経営コンサルタント』1996年
    • [46]中電工は、このほど竣工したばかりの平和通り電気ビルにおいて本店社屋移転披露パーティーを開催した。パーティーには300人近くの人々が出席した
    • [47]中国電力の多田公熙会長は「中電工は五〇余年の歴史の中で社業の発展に合わせて、何回か社屋移転してきたが、今回の移転を契機にして、ますますの発展を期待している」と挨拶した
参考文献[30]-[47]
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
    • [30]工事をするにあたっては、我々は施工を管理する仕事が大半で、直営でやることはあまりない
    • [31]昨年から中期経営計画を5ヵ年計画として作った
    • [32]これから社会的な要請にしても、お客さん個々人の要請にしても、我々に対する要請は非常に高度化し多様化してくる。それに即応できるためには、技術を売り物にしている我々の会社としては、ハイレベルの技術集団にしていかなくてはならない。これが経営計画の第一点である
    • [33]通産省が主管している電気の主任技術者など1種、2種の資格者を社内にたくさん養成する。内線、空調管ではそれに匹敵するものを技術士といっている。一級施工管理技士の養成も5ヵ年計画の最後の段階の1995年(平成7年)には500人ぐらいにもっていく
    • [34]日本のGNPの実質伸び率は2.5〜3%だと考えている。名目的には5%程度の伸びで考えないといかん。最終年度の1995年度(平成7年度)は受注は2,500億円、売上は2,300億円という数字をおいている
    • [35]21世紀を展望した場合に、当然これから労働時間が短縮されていくと考えざるをえない。合わせて、我々の事業は3Kという言葉でいつも呼ばれ、好況になると人材確保が難しい。労働時間の短縮と3Kの改善に力を注がなくてはならない
    • [36]人力を機械に置き換えられるものは最大限機械化していく。今は配電線の工事は電柱へ昇ってやることはほとんどなく、全部高所作業車で、ブームの先のバケットの中に2人入ってやっている
    • [37]夏季は冷房が出る装置をつけて作業ができるようなことも考えていろいろと実験中である
    • [38]完全週休二日制を今年から採用して、この半年あまりの実績を見ると、電力関係の仕事以外はわりにスムーズに定着しつつある。電力では塩害対策工事、配電設備の強化工事が今年から5ヵ年計画で打ち出され、停電することが非常に難しいものだから深夜作業のケースが多くて、外線関係者だけ週休二日制の定着が今のところ難しい
    • [39]現在は6,000人強の人員数である
    • [40]今まで男性が操作していたOA関係の機器、設計・施工のためのCADの操作を全部女性に置き換えようということで、昨年と今年だけで短大・高卒の女性を約150名ばかり採用した。それで男の手を浮かせて工事能力増強へつないでいる
    • [41]わが社は定年60歳だが、職種は限定してあるが再雇用制度も作って活用している。定期採用の他に中途採用もやっており、Uターン組に対して中途採用をやっている。年間で大体5〜8名ぐらいいる
    • [42]ちょうどアジアオリンピックの年の1994年(平成6年)が、わが社にとっては50周年になる。本社移転は記念事業の一つと考えている
    • [43]中国電力の土地とわが社の土地が地続きで1,000坪余りだが、平和公園から少し西へ寄った100m道路沿いにある
    • [44]中電も地下変電所が必要だということで、1996年度(平成8年度)までに両社共同の20階建てのビルを作り(中国電力広島支店と共用)、それに本社を移行しようと考えている。現在の位置から南へ400mぐらい移る
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
    • [45]1996年3月、本店を広島市中区小網町6番12号(現在地)に移転
  • 「中電工が新社屋の披露パーティー開催」『経営コンサルタント』1996年
    • [46]中電工は、このほど竣工したばかりの平和通り電気ビルにおいて本店社屋移転披露パーティーを開催した。パーティーには300人近くの人々が出席した
    • [47]中国電力の多田公熙会長は「中電工は五〇余年の歴史の中で社業の発展に合わせて、何回か社屋移転してきたが、今回の移転を契機にして、ますますの発展を期待している」と挨拶した

出典・参考

7件
出典・参考
  • 中電工 有価証券報告書(沿革)
  • 堀内「中国電気工事株式会社」『証券』1970年11月号
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫発言
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」宮崎敏夫略歴
  • エネルギーフォーラム 1993年1月号「対談 次代を展望するハイレベルの技術集団『中電工』」酒井節雄発言・宮崎敏夫応答
  • 野田皓一「八、〇〇〇人の従業員と共に生きる――中国電気工事社長 中野重美氏」『野田経済』1976年
  • 「中電工が新社屋の披露パーティー開催」『経営コンサルタント』1996年

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