「万年3位」からの脱却を掲げた北岡改革と、半導体投資の誤算による引責辞任
「最も変化に縁遠い大企業」をどう変えるか——重電出身でない初の社長が挑んだ選択と集中は、なぜ道半ばで潰えたか
更新:
- 概要
- 1992年に三菱電機で初のハイテク分野出身社長となった北岡隆氏が、GEのジャック・ウェルチ氏流の選択と集中を掲げ、9事業本部への再編・権限委譲、本社人員の毎年削減、社内公募制の導入に踏み込んだ構造改革。しかし自らの出身分野である半導体のDRAM投資が裏目に出て、1998年3月期に連結最終赤字へ転落し、北岡氏は改革の途上で引責辞任した。
- 背景
- 日立製作所・東芝に次ぐ「万年3位」で、三菱グループの固定客に支えられて業績の振幅が小さく、「最も変化に縁遠い大企業の1つ」と評された保守的な社風があった。とりわけ情報通信システム・電子デバイス部門の弱さが構造的な課題となっていた。
- 内容
- 事業本部長が決裁できる投資枠を1億円から5億円へ広げ、6事業本部を9事業本部へ再編して権限を委譲した。本社人員を毎年10%削減し、日立・東芝に先んじて成果主義と社内公募制を導入した。ただし「漢方薬方式」で急進を避け、雇用は守るという立場をとった。
- 含意
- 選択と集中という方向は後年の三菱電機に引き継がれたが、「ウィンドウズ95」需要を見込んだDRAMへの大型投資が米マイクロン社の安値攻勢で裏目に出て、得意の半導体で連結1000億円規模の赤字を招いた。改革者が自らの出身分野でつまずいた点に、この判断の皮肉があった。
得意分野でつまずいた改革者
この判断で際立つのは、方向は正しくとも、それを支える足場が伴わなかったことである。万年3位に安住した社風を選択と集中で変えるという発想は、後年の三菱電機が歩む道をおよそ先取りしていた。ただ、北岡社長は学閥や派閥をつくらない主義から自らの腹心を持たず、改革を自身の指導力だけで押し進めた。改革者が孤立しやすい構図のなかで、最後は自らの出身分野である半導体で足をすくわれた点に、この決断の苦さがうかがえる。
皮肉なのは、雇用を守るという当時の枠が、かえって挫折を早めた面である。北岡社長はのちに、赤字の海外工場の整理を早く進めていればと悔やんだが、雇用への配慮からその決断を先送りしていた。守るべきものを守ろうとする経営が、危機の場面では動きの鈍さにも転じる——三菱電機がこの矛盾に正面から向き合うのは、選択と集中がさらに徹底される後年を待つことになる。北岡改革は、その長い過程の入口に置かれた試みであったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「万年3位」に安住する変化に縁遠い大企業
三菱電機は、日立製作所・東芝に次ぐ総合電機3位の座に長く置かれていた。三菱グループという固定客を抱え、個々の事業が環境変化に直面しても、総合電機特有の緩衝作用で全社の振幅は小さくなる。その結果、業績の推移は極めて平均的になり、「最も変化に縁遠い大企業の1つ」というイメージがつきまとってきた。安定は強みであると同時に、変化への鈍さという弱みでもあった[1]。
弱さは部門別の収益力に表れていた。1994年3月期、情報通信システム・電子デバイス部門は177億円の営業損失を計上している。将来に向けた戦略部門であると同時に、連結売上高の31%を占める最大の部門が、収益力を欠いていた。RISCチップでは進出の決断が遅れて他社との連合を組まざるを得ず、液晶への本格参入も出遅れて「最終が出た後の各駅列車に乗っていた」とまで酷評された[2]。
重電出身でない初の社長の登場
1992年6月、鉄道や昇降機の分野を歩いた後に半導体部門の北伊丹製作所所長を務めた北岡隆氏が、社長に就任した。重電一筋の社長が続いてきた三菱電機で、ハイテク分野から初めて登った社長であった。北岡氏は「万年3位の総合電機メーカーに安住している三菱電機を業界のトップにしよう」と、就任直後からさまざまな改革に着手する。安定した社風そのものを変えることを、改革の中心に据えた[3]。
改革を急がせたのは、経営陣の強い危機感であった。中国や旧ソ連の市場経済化で世界の生産人口が一気に倍増し、コスト構造が動く。技術も情報・通信分野を中心に激しく動いていた。「手をこまぬいていると、三菱電機といえどももたない」——副社長の平田毅氏はそう語り、目先は深刻でなくとも不作為が確実に会社をむしばむ、という認識が経営の前提に置かれた[4]。
決断
GE・ウェルチ流の選択と集中
北岡社長がよりどころにしたのは、GEのジャック・ウェルチ会長が進めた選択と集中であった。事業を全部一流にするのではなく、一流になれないものは切り捨てる。事業本部ごとにトップシェアを取り得るものへ着目して伸ばし、そうでないものはやめるか子会社へ移す。組織の面では、事業本部長が決裁できる投資枠を1億円から5億円へ広げ、6事業本部を9事業本部へ再編して、変化の速い事業ほど本部長が独自に舵を切れる体制へ移した[5][6]。
人員も過剰と見ていた。北岡社長は「今は人が多過ぎるんです。売上高2兆5000億円に対して5万人はちょっとぜいたく過ぎます」と語り、本社スタッフを毎年10%ずつ減らす方針を明言する。かつては重電が本流で、家電やコンピューターを手がけると出世できないという迷信すらあった社内で、日の当たらない事業を別会社にして稼げる体質へ変える。効率と成長の両面から、抱え込んだ事業と人を絞り込もうとした[7][8]。
社内公募と社員対話、ただし雇用は守る
意識改革の手も次々に打った。三菱電機は日立や東芝に先んじて年功序列的な人事・報酬制度を改め、業績連動の処遇と社内公募制を他社より早く採り入れた。北岡社長自身は「社長フォーラム」と名づけた社員との対話集会をシナリオなしで重ね、その回数は在任を通じて70回ほどに及んだ。危機感の薄い社員に直接語りかけ、変化を自分ごととして受け止めさせようとする狙いであった[9]。
もっとも、北岡社長の改革には自制も組み込まれていた。急な変化は揺り戻しを招くとして、性急さを避ける「漢方薬方式」をよしとし、米国流の激しい手法はとらないと明言した。とりわけ雇用については、「三菱電機会社として雇用は必ず守る。解雇するようなことは少なくとも今世紀中は絶対やらない」と述べていた。事業と人員の絞り込みを進めながら、雇用の一線は守るという枠を、自ら課していた[10][11]。
結果
DRAM投資の誤算と1000億円の赤字
つまずきは、北岡社長が最もよく知るはずの半導体で起きた。1994年から1996年にかけ、半導体事業へ連結で3000億円近い投資を許可する。「ウィンドウズ95」の発売で膨らむパソコン需要が、DRAMの需要も押し上げると読んでの判断であった。読み自体は当たり、DRAM需要は伸びた。だが1997年に米マイクロン・テクノロジー社が安価なDRAMを投入し始めると、市況は急激に低迷していった[12]。
大規模投資の直後で重い償却負担を抱えていた三菱電機に、市況の悪化はまともに響いた。1998年3月期の決算は、連結の最終損益が1059億円の赤字へ転落し、単独も赤字で、上場以来初の無配に沈んだ。北岡社長はのちに「半導体事業で私が社長として犯したミスは、脱DRAMを推し進められなかったことです」と、汎用品の消耗戦から抜け出せなかった判断の甘さを認めている[13][14]。
金曜会のリークと引責辞任、谷口体制へ
前年末の総会屋への利益供与事件も重なり、社内では早期退陣論が一気に浮上した。北岡社長は当面は代表権のない会長にとどまり、自ら旗を振った改革の行方を見届けようとする。だが「それでは経営責任をとったことにはならない」と三菱グループの長老に諭され、1998年6月に取締役相談役へ退いた。三菱グループ各社でつくる金曜会の有力メンバーが人事を事前にマスコミへ漏らしたため、発表は前倒しになった[15]。
改革の中身そのものへの評価は、必ずしも低くなかった。北岡社長と親しかった三菱商事の槙原稔会長は、北岡改革にはうなずけることが多かったとしつつ、出身分野の半導体で大幅な赤字を出したことが社内の不満を噴き出させた、これが別の部門であれば退任しなくてもよかったかもしれない、と語った。後任には谷口一郎専務が指名され、退任会見で北岡社長は悔し涙を見せた[16][17]。
- 日経ビジネス 1994年3月21日号「編集長インタビュー 北岡隆氏[三菱電機社長] トップが動かねば変革できぬ 成長の芽は関係会社にある」
- 日経ビジネス 1994年7月11日号「三菱電機、即効追わぬ改革。社内公募制、事業本部再編…『変化に縁遠い大企業』の風土が変わり始めた」
- 日経ビジネス 1998年4月6日号「退任する北岡三菱電機社長に2つの誤算 金曜会の身内がリーク、会長にもなれず引責が明確に」
- 日経ビジネス 1998年8月17日号「敗軍の将、兵を語る 北岡隆氏[三菱電機前社長、現取締役常任相談役] 投資判断誤り1000億円赤字 改革途上で無念の辞任」
- 三菱電機 会社年鑑(連結業績)