関西ペイント の歴史

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創業 1918年
創業者 玉水弘
創業地 兵庫県尼崎市
創業
1917年、玉水弘氏が兵庫県西宮市で関西ペイント工業所を起こした。翌1918年5月、岩井勝次郎の岩井商店から出資を受け、資本金50万円の関西ペイント株式会社として兵庫県尼崎市に設立し、塗料と顔料の製造を始める。岩井商店常務の安野譲氏が社長を兼ね、玉水氏は専務兼技師長として技術を受け持つ二頭体制をとった。1933年6月に東京工場を新設し、1949年5月に大阪・東京の両証券取引所へ上場する。1960年代には平塚・名古屋・鹿沼と国内の生産拠点を並べた。
決断
工場を建てるのではなく、国ごとに現地の塗料会社を取得して並べてきた。1968年11月にタイへ合弁で出たあと、1986年9月にはインドのKansai Nerolacを子会社化する。自動車用塗料でシェア約6割を握る現地の上場企業を、そのまま連結子会社にする形だった。1996年にマレーシア、2007年にトルコ、2011年に南アフリカのプラスコンと続け、2017年3月には約700億円でKansai Helios Groupを取得して欧州へ本格参入した。塗料は輸送費がかさみ現地での調色も要るため、売る国の工場と販売網ごと会社を取得するほうが、建てるより速く採算を確保できた。
現況
利益の7割は、日本とインドの2地域から出ている。2026年3月期の連結売上高は5,898億円、営業利益は497億円だった。欧州は売上1,627億円と地域別で最大ながらセグメント利益は25億円にとどまり、日本1,599億円・利益207億円、インド1,384億円・利益136億円が採算を支える。6期連続の経常赤字を理由に2022年6月にアクゾ・ノーベルへの譲渡を発表したアフリカは、南アフリカ競争当局の不承認で契約が解除されたのち利益率11.9%まで戻り、日本に次ぐ水準にある。欧州では工場の閉鎖と不採算事業の切り離しを進めている。
競合
国内2強は、海外で買う側に立つか買われる側に回るかで分かれた。日本ペイントホールディングスはシンガポールのウットラム・グループに議決権の過半を渡し、2021年にはウットラムの連結子会社となった。大株主の資金と決定権のもとでアジアの合弁を取り込み、規模で先へ出ている。関西ペイントは買い手であり続け、2024年5月には自己株式取得と累進的な還元へ切り替え、政策保有株式の持ち合いを解いた。安定株主が退場した資本構成にはシルチェスターが現れており、取得した事業を売却せず立て直す側へ資金を向けたことが、規模で先行する相手との差を固定している。
関西ペイント:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

創業ストーリー 岩井商店の後ろ盾を得た尼崎創業と国内総合塗料化 (1918年〜)

玉水弘氏の独立と岩井商店の出資による創業

関西ペイントの源流は、1917年に東京帝国大学応用化学科卒の技術者・玉水弘氏が、日本ペイントや東亜ペイントで取締役兼技師長を歴任した後に独立して兵庫県尼崎市神崎で創業した『関西ペイント工業所』にある[1]。玉水氏は1917年に西宮市で同工業所を起こし、従業員約20人で光明丹・弁柄・堅練ジンクペイントの製造を始めた。[2]第一次大戦下の産業ブームのなかで塗料は輸入国から輸出国へ転じていたが、小規模経営の同工業所は営業が伸び悩んでいた。このとき岩井商店社長の岩井勝次郎氏が、玉水氏の親友で東京帝国大学助教授の田中芳雄氏の仲介で事業譲渡を受け、岩井の企業力と玉水氏の技術力とが結ばれて、1918年5月17日、関西ペイントは尼崎市に誕生した。[3]資本金50万円、初代社長は岩井商店常務の安野譲氏、専務取締役技師長は玉水氏、従業員約150名での出発で、技術者単独ではなく総合商社の資本と組み合わせた創業形態をとった。[4]製造品目は亜鉛華・鉛丹など顔料類が多く、塗料類はまだ少量で、販売[5]は岩井商店を総代理店として全面的に依存していた。明治後期から大正期にかけて、塗料の国産化は日本ペイント・東亜ペイント・関西ペイントの3社が主要部分を占めており、関西ペイントは岩井商店ルートで西日本・アジア市場への流通網を最初から持っていた点が、創業時の競争優位だった。

  • 尼崎市立教育委員会資料「尼崎の歴史」
    • [1]関西ペイントの源流は1917年に玉水弘氏が兵庫県尼崎市神崎で創業した「関西ペイント工業所」にある
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]玉水弘氏は1917年に西宮市で関西ペイント工業所を起こし、従業員約20人で光明丹・弁柄・堅練ジンクペイントの製造を始めた
    • [3]岩井勝次郎氏が玉水弘氏の親友で東京帝国大学助教授の田中芳雄氏の仲介で工業所の事業譲渡を受けた
    • [5]設立時の製造品目は亜鉛華・鉛丹など顔料類が多く塗料類は少量で、販売は岩井商店を総代理店として全面依存していた
  • 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】/双日歴史館
    • [4]1918年(大正七年)5月17日に岩井商店の出資を得て資本金50万円の関西ペイントが尼崎市に設立された

第一次大戦後は企業乱立で販売競争が激化し、関西ペイントも繰越損に苦しみ、1920年(大正九年)の恐慌で早くも崩壊の危機に瀕した。この窮境を打開したのが常務の織田秋之助氏で、相場変動の激しい顔料[6]から安定的な塗料へ品種の重点を移し、岩井商店依存の販売を自主販売体制へ切り替えて全国に出張所と特約販売店網を築いた。技術面では1926年(大正15年)に硝化綿を用いたラッカーの国産化に成功し、国産ラッカー第一号〈セルバ〉が速乾性と強靱な塗膜を実現して、後年の業界首位を支える企業基盤となった。[7]1930年(昭和五年)には、大恐慌下で各社が無配に追い込まれるなか五分配当を実現して積年の繰越損を解消し[8]、危機を積極経営で乗り越える社風を形づくった。続いて1937年(昭和12年)に岩城塗料製造を合併して総合塗料メーカーへ脱皮し、翌1938年(昭和13年)には奉天に満州関西ペイントを設立して国際的な規模に達した。[9]戦時下では1943年(昭和18年)にオリエンタルペイント・沢村亜鉛を吸収して急膨張したが、1945年(昭和20年)の大空襲で尼崎工場などが被爆し海外事業もすべて失った。[10]戦後は原料欠乏と過度経済力集中排除法の指定による会社分割の危機に直面しながら再建を進め、1948年(昭和23年)に室蘭工場を開設して最初の北海道進出を果たした。[11]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]第一次大戦後の販売競争と1920年(大正九年)恐慌の危機を、常務の織田秋之助氏が顔料から塗料への重点移行と自主販売体制への転換で打開した
    • [7]1926年(大正15年)に硝化綿を用いたラッカーの国産化に成功し、国産ラッカー第一号〈セルバ〉が速乾性と強い塗膜を実現して業界首位の企業基盤となった
    • [8]1930年(昭和五年)に大恐慌下で各社が無配となるなか五分配当を実現し積年の繰越損を解消した
    • [9]1937年(昭和12年)に岩城塗料製造を合併、翌1938年(昭和13年)に奉天に満州関西ペイントを設立した
    • [10]1943年(昭和18年)にオリエンタルペイント・沢村亜鉛を吸収し、1945年(昭和20年)の大空襲で尼崎工場などが被爆し海外事業もすべて喪失した
    • [11]戦後は集排法指定による会社分割の危機に直面しながら、1948年(昭和23年)に室蘭工場を開設して最初の北海道進出を果たした

1933年6月に東京工場(現・東京事業所、大田区)を新設[12]して関東進出を果たし、戦後の1949年5月、大阪・東京の両証券取引所に上場した[13]。1950年4月に大阪市東区(現・中央区)に本社事務所を新設[14]。戦後復興期から高度経済成長期にかけて、平塚工場(1960年)、名古屋工場(1961年)、中央研究所(1965年)、鹿沼工場(1971年)[15]と相次いで国内拠点を整備し、自動車・建築・船舶・工業の4分野で総合塗料メーカーとしての地位を固めた。1968年に株式会社KAT、1971年に株式会社カンペハピオ、1994年に久保孝ペイント[16]を連結子会社化するなど、国内グループ各社の集約も行った。

  • 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [12]1933年6月 東京工場(現・東京事業所、大田区)を新設して関東進出
    • [14]1950年4月 大阪市東区(現・中央区)に本社事務所を新設
    • [15]平塚工場1960年・名古屋工場1961年・中央研究所1965年・鹿沼工場1971年に整備
    • [16]1968年 株式会社KAT・1971年 株式会社カンペハピオ・1994年 久保孝ペイントを連結子会社化
  • 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】/双日歴史館
    • [13]1949年5月 大阪・東京の両証券取引所に上場
  • 尼崎市立教育委員会資料「尼崎の歴史」
    • [1]関西ペイントの源流は1917年に玉水弘氏が兵庫県尼崎市神崎で創業した「関西ペイント工業所」にある
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]玉水弘氏は1917年に西宮市で関西ペイント工業所を起こし、従業員約20人で光明丹・弁柄・堅練ジンクペイントの製造を始めた
    • [3]岩井勝次郎氏が玉水弘氏の親友で東京帝国大学助教授の田中芳雄氏の仲介で工業所の事業譲渡を受けた
    • [5]設立時の製造品目は亜鉛華・鉛丹など顔料類が多く塗料類は少量で、販売は岩井商店を総代理店として全面依存していた
    • [6]第一次大戦後の販売競争と1920年(大正九年)恐慌の危機を、常務の織田秋之助氏が顔料から塗料への重点移行と自主販売体制への転換で打開した
    • [7]1926年(大正15年)に硝化綿を用いたラッカーの国産化に成功し、国産ラッカー第一号〈セルバ〉が速乾性と強い塗膜を実現して業界首位の企業基盤となった
    • [8]1930年(昭和五年)に大恐慌下で各社が無配となるなか五分配当を実現し積年の繰越損を解消した
    • [9]1937年(昭和12年)に岩城塗料製造を合併、翌1938年(昭和13年)に奉天に満州関西ペイントを設立した
    • [10]1943年(昭和18年)にオリエンタルペイント・沢村亜鉛を吸収し、1945年(昭和20年)の大空襲で尼崎工場などが被爆し海外事業もすべて喪失した
    • [11]戦後は集排法指定による会社分割の危機に直面しながら、1948年(昭和23年)に室蘭工場を開設して最初の北海道進出を果たした
  • 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】/双日歴史館
    • [4]1918年(大正七年)5月17日に岩井商店の出資を得て資本金50万円の関西ペイントが尼崎市に設立された
    • [13]1949年5月 大阪・東京の両証券取引所に上場
  • 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [12]1933年6月 東京工場(現・東京事業所、大田区)を新設して関東進出
    • [14]1950年4月 大阪市東区(現・中央区)に本社事務所を新設
    • [15]平塚工場1960年・名古屋工場1961年・中央研究所1965年・鹿沼工場1971年に整備
    • [16]1968年 株式会社KAT・1971年 株式会社カンペハピオ・1994年 久保孝ペイントを連結子会社化

岩井系オーナー社長から生え抜き社長への世代交代

設立から戦中までの社長は、出資元の岩井商店から送り込まれる構図が続いた。初代の安野譲氏(在任1918〜1922年)は岩井商店常務との兼務で経営を統括し、米田靏吉氏、織田秋之助氏を経て、1934年には岩井商店の総帥である岩井勝次郎氏が、翌1935年からは岩井雄二郎氏が社長に就いた。技術を担う専務取締役兼技師長の玉水弘氏と、資本・経営を握る岩井系社長という二頭体制が、創業から四半世紀の関西ペイントの統治形態だった。総合商社の信用と流通網を借りて立ち上げた塗料メーカーが、資本の出し手をそのまま経営トップに据えるのは、当時の商社系製造業に共通する形である。

戦後は出資者派遣型の経営から、塗料事業を内側から知る生え抜き社長への移行が進んだ。山中鹿太郎氏、沢田豊氏を経て、佐々木善七氏は1955年から1966年まで11年の長期にわたり社長を務め、1949年の上場後に続いた平塚・名古屋・鹿沼の工場新設と、自動車・建築・船舶・工業の4分野体制の整備を主導した。以降は児玉正雄氏、小谷憲孝氏、坂東依彦氏、桑田俊晴氏と数年単位で交代する体制に入り、創業期の商社支配から、塗料の製造・営業をたたき上げた経営陣が事業を運営する会社へと、社長の出自が入れ替わった。商社の資本で生まれた塗料メーカーが、事業の現場を担う人材を経営トップへ登用する組織へと自立していく過程にあたる。

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関西ペイントの沿革1918〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1918〜1980年岩井商店の後ろ盾を得た尼崎創業と国内総合塗料化関西ペイントを設立、塗料・顔料の製造を開始
東京工場を新設
大阪、東京の2証券取引所に上場
本社事務所を開設
平塚工場を新設
中央研究所を新設
日本化工塗料の株式取得
KATの株式取得
Thai Kansai Paint Co.,Ltd.を出資設立★★
カンペハピオの株式取得
鹿沼工場を新設
カンペ商事の株式取得
1981〜2010年アジア・新興国軸への海外展開と総合塗料事業の深化台湾関西塗料股份有限公司を出資設立
インドKansai Nerolac子会社化と新興国軸への転換

1986年9月、関西ペイントが、1968年8月からボンベイ証券取引所に上場していたインドの塗料メーカー『Kansai Nerolac Paints Ltd.』の株式を取得し、連結子会社化した経営判断。1968年のタイ進出に続く、新興国市場への本格参入を印す転機となった。

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★★★
小野工場を新設
久保孝ペイントの株式取得
Kansai Resin (Thailand) Co.,Ltd.を出資設立
Sime Kansai Paints Sdn.Bhd.の株式取得
P.T.Kansai Paint Indonesiaを出資設立
関西ペイントマリンを出資設立
国内の地域別販売会社を統合
関西ペイント販売を設立
小林正受Kansai Paint Asia Pacific Sdn.Bhd.の株式取得
小林正受Kansai Altan Boya Sanayi Ve Ticaret A.S.の株式取得★★
2011〜2021年M&Aとアフリカ・欧州展開河盛裕三Kansai Plascon Africa Ltd.の株式取得★★
河盛裕三PT.Kansai Prakarsa Coatingsの株式取得
石野博U.S. Paint Corporationの株式取得
石野博Kansai Plascon East Africa (Pty) Ltd.を出資設立
石野博Kansai Helios Group買収による欧州本格参入

2016年12月、関西ペイントが、欧州・東欧の塗料メーカー『ヘリオスグループ』の全株式を約700億円で取得すると発表し、2017年3月末までに取得を完了して連結子会社『Kansai Helios Group』とした経営判断。アジア・アフリカ・米国と広げてきた海外展開の中で、欧州市場への本格参入を意味した。

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★★★
2022〜2026年アフター・コロナの構造改革と監査等委員会移行(2022〜現在)毛利訓士アフリカ事業のアクゾ・ノーベルへの譲渡発表と撤回

2022年6月1日、関西ペイントは南アフリカとモーリシャスの2子会社(Kansai Plascon Africa、Kansai Plascon East Africa)を、オランダの同業大手アクゾ・ノーベルへ4億5,000万ドル(約585億円)で譲渡すると発表した経営判断。だが2023年11月29日、南アフリカの競争当局が株式譲渡を認めず、関西ペイントはアクゾとの契約を解除してアフリカ事業を継続する結果になった。毛利訓士社長のもとでの決定である。

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★★★
毛利訓士政策保有株の持ち合い解消と、シルチェスター登場下での株主還元シフト

2023年2月にトヨタ自動車など創業来の政策保有株主5社が関西ペイント株の8%を売り出し、同社はこれに合わせて自社株買いを始めた。以後2024年から2025年にかけて還元を段階的に強めるなか、2026年に英シルチェスター・インターナショナル・インベスターズが5%超を保有し、資本政策や事業構造への提案を掲げて登場した。安定株主の退場と物言う株主の登場が続いた資本政策の転換にあたる。

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★★★
毛利訓士自社株買いを開始
毛利訓士新本社事務所を移転
出典・参考
  • 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】/双日歴史館
  • 関西ペイント 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 尼崎市立教育委員会資料「尼崎の歴史」

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