artience の歴史

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沿革

1896〜2026年 1896年に小林鎌太郎氏が東京・日本橋で始めた印刷インキの賃練屋が起源。1907年に印刷インキ会社として最初の株式会社となり、1937年にはフタロシアニンブルーの自製化に成功して輸入顔料を国産に置き換えた。印刷インキからパッケージや塗加工へ事業を拡大し、売上の55%を海外が占める。

沿革

1896年に小林鎌太郎氏が東京・日本橋で始めた印刷インキの賃練屋が起源。

1907年に印刷インキ会社として最初の株式会社となり、1937年にはフタロシアニンブルーの自製化に成功して輸入顔料を国産に置き換えた。印刷インキからパッケージや塗加工へ事業を拡大し、売上の55%を海外が占める。

1896年〜創業期小林鎌太郎の小林インキ店創業と東洋インキ製造への改組

  1. 小林鎌太郎が東京・日本橋に個人経営の小林インキ店を創業
  2. 合資会社に組織変更
  3. 株式会社に改組し東洋インキ製造株式会社に商号変更
  4. 塩化バリウムの自製化に成功
  5. アゾ顔料の自製化に成功
artience売上高

1930年〜成長期フタロシアニンブルーの量産と米インターケミカル社との技術提携

  1. フタロシアニンブルーの自製化に成功し青戸工場で量産開始
  2. 米インターケミカル社と技術提携契約を締結
  3. 川越工場を建設
  4. 顔料・着色剤のオリエンタル化成を設立
artience売上高

1961年〜安定成長期東証上場と韓国・タイ・米国・中国への海外進出

  1. 東京証券取引所市場第二部に上場
  2. 富士工場を建設
  3. 東京証券取引所市場第一部に指定
  4. 韓国に三永インキペイント製造を設立
  5. タイに Toyo Ink (Thailand) Co., Ltd. を設立
  6. 米国に Toyo Ink America Inc. を設立
  7. 埼玉工場を建設
  8. 中国に天津東洋油墨有限公司を設立
  9. サカタインクスと生産・物流・デジタル関連事業・国際事業で業務提携
artience売上高1985年3月期1,634億円

2001年〜転換期持株会社制への移行とartienceへの商号変更

  1. 液晶カラーフィルター用材料の製造・販売を目的に台湾東洋彩光股份有限公司を設立
  2. 中国華東地区に上海東洋油墨制造有限公司を設立
  3. インドに Toyo Ink India Pvt. Ltd. を設立
  4. 持株会社制に移行し東洋インキSCホールディングスに商号変更
  5. トルコの DYO Printing Inks 社の発行済株式の75%を取得
  6. 決算期を3月31日から12月31日に変更
  7. 監査役会設置会社から監査等委員会設置会社に移行
  8. 東京証券取引所プライム市場に移行
  9. artienceに商号変更
  10. 北川克己氏が代表取締役会長を退任
  11. 投資有価証券の一部売却を決議
artience売上高2025年12月期3,500億円
長期業績の推移 1961〜2025年

業績

artience:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年3月期〜2025年12月期

第1章 1896年〜 小林鎌太郎の小林インキ店創業と東洋インキ製造への改組

1896年〜日本橋の賃練屋から出た小林鎌太郎氏の小林商店と、富久町の628坪の工場

小林鎌太郎氏は1896年春、数え年22歳で主家を辞し、日本橋のペンキ屋の2階を借りてインキの賃練屋を開業した。元手は横浜の伯母から借りた50円で、荷車と小型の練肉機を用意し、注文を受けると印刷所まで機械を運んでインキを練った。開業時の得意先には小柴石版所や大江石版所があった。日清戦争後は新聞と雑誌の付録競争が激しくなり、口絵やポスターに石版の多色刷が広がっていた。輸入商の山本栄次郎商店が1895年から賃練屋に顔料とワニスを貸して印刷所を回らせており、小林鎌太郎氏はこの商いを見て独立を決めた。1958年に東洋インキ製造社長の山田三郎太氏は、日本橋本銀町で始めたこの個人経営の販売業を東洋インキの発祥と記した。

  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「鎌太郎独立して賃練屋開業」
    • [1]1896年春、小林鎌太郎(数え22歳)が主家を辞し、伯母から借りた50円で日本橋のペンキ屋の2階に賃練屋を開業。荷車と小型練肉機で印刷所に出向いて練肉。得意先は小柴石版所・大江石版所ほか。山本栄次郎商店の賃練屋への顔料・ワニス貸付けを見て独立を決意
    • [2]1896年春、小林鎌太郎(数え22歳)が主家を辞し、伯母から借りた50円で日本橋のペンキ屋の2階に賃練屋を開業。荷車と小型練肉機で印刷所に出向いて練肉。得意先は小柴石版所・大江石版所ほか。山本栄次郎商店の賃練屋への顔料・ワニス貸付けを見て独立を決意
    • [3]1896年春、小林鎌太郎(数え22歳)が主家を辞し、伯母から借りた50円で日本橋のペンキ屋の2階に賃練屋を開業。荷車と小型練肉機で印刷所に出向いて練肉。得意先は小柴石版所・大江石版所ほか。山本栄次郎商店の賃練屋への顔料・ワニス貸付けを見て独立を決意
    • [4]1896年春、小林鎌太郎(数え22歳)が主家を辞し、伯母から借りた50円で日本橋のペンキ屋の2階に賃練屋を開業。荷車と小型練肉機で印刷所に出向いて練肉。得意先は小柴石版所・大江石版所ほか。山本栄次郎商店の賃練屋への顔料・ワニス貸付けを見て独立を決意
    • [5]1896年春、小林鎌太郎(数え22歳)が主家を辞し、伯母から借りた50円で日本橋のペンキ屋の2階に賃練屋を開業。荷車と小型練肉機で印刷所に出向いて練肉。得意先は小柴石版所・大江石版所ほか。山本栄次郎商店の賃練屋への顔料・ワニス貸付けを見て独立を決意
  • 染料と薬品 3(4) 1958年「日本工業発達史(東洋インキ製造株式会社の巻)」山田三郎太
    • [6]1896年、小林鎌太郎が日本橋本銀町で印刷インキ・材料の個人経営の販売業を始めたのが東洋インキの発祥

小林鎌太郎氏は1905年10月1日、牛込区市谷富久町122に628坪の敷地を借りて工場の建設に着手した。同じ年、ドイツのレーマン社に発注した三本ロール1台が届き、小林鎌太郎商店は合資会社に改まった。それまで本材木町で使っていた和製の練肉機3台も富久町へ移し、工場では黄鉛・アルミナ白・レーキ類の顔料も製造した。1899年に私製はがきが解禁されると絵はがきが流行し、色インキの需要を押し上げていた。ただ自製顔料のインキは価格が大幅に安くても、需要者はなお舶来顔料のインキを好んだ。輸入機で練りの品質をそろえ、顔料まで自前で作る工場は、舶来品と価格と品質の両面で競うための備えだったとみられる。

  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「年譜」
    • [7]1905年10月1日、牛込区市谷富久町122に工場敷地628坪を借り工場建設に着手。独レーマン社に発注の三本ロール1台到着。同年、小林鎌太郎商店が合資会社となる
    • [8]1905年10月1日、牛込区市谷富久町122に工場敷地628坪を借り工場建設に着手。独レーマン社に発注の三本ロール1台到着。同年、小林鎌太郎商店が合資会社となる
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「富久町に工場新設組織を株式として操業開始」
    • [9]富久町工場は1905年10月に建設許可。本材木町の和製練肉機3台を移し、顔料部で黄鉛・アルミナ白・レーキ類を製造
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「多色石版印刷発達に寄与した絵ハガキ」
    • [10]1899年3月の郵便法改正で私製はがきが許され、絵はがきの流行が色インキの需要を高めた
  • 染料と薬品 3(4) 1958年「日本工業発達史(東洋インキ製造株式会社の巻)」山田三郎太
    • [11]自製顔料を使う印刷インキは価格が非常に低廉だったが、需要者は国産品を信用せず舶来顔料のインキを好んだ
参考文献[1]-[11]
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「鎌太郎独立して賃練屋開業」
    • [1]1896年春、小林鎌太郎(数え22歳)が主家を辞し、伯母から借りた50円で日本橋のペンキ屋の2階に賃練屋を開業。荷車と小型練肉機で印刷所に出向いて練肉。得意先は小柴石版所・大江石版所ほか。山本栄次郎商店の賃練屋への顔料・ワニス貸付けを見て独立を決意
    • [2]1896年春、小林鎌太郎(数え22歳)が主家を辞し、伯母から借りた50円で日本橋のペンキ屋の2階に賃練屋を開業。荷車と小型練肉機で印刷所に出向いて練肉。得意先は小柴石版所・大江石版所ほか。山本栄次郎商店の賃練屋への顔料・ワニス貸付けを見て独立を決意
    • [3]1896年春、小林鎌太郎(数え22歳)が主家を辞し、伯母から借りた50円で日本橋のペンキ屋の2階に賃練屋を開業。荷車と小型練肉機で印刷所に出向いて練肉。得意先は小柴石版所・大江石版所ほか。山本栄次郎商店の賃練屋への顔料・ワニス貸付けを見て独立を決意
    • [4]1896年春、小林鎌太郎(数え22歳)が主家を辞し、伯母から借りた50円で日本橋のペンキ屋の2階に賃練屋を開業。荷車と小型練肉機で印刷所に出向いて練肉。得意先は小柴石版所・大江石版所ほか。山本栄次郎商店の賃練屋への顔料・ワニス貸付けを見て独立を決意
    • [5]1896年春、小林鎌太郎(数え22歳)が主家を辞し、伯母から借りた50円で日本橋のペンキ屋の2階に賃練屋を開業。荷車と小型練肉機で印刷所に出向いて練肉。得意先は小柴石版所・大江石版所ほか。山本栄次郎商店の賃練屋への顔料・ワニス貸付けを見て独立を決意
  • 染料と薬品 3(4) 1958年「日本工業発達史(東洋インキ製造株式会社の巻)」山田三郎太
    • [6]1896年、小林鎌太郎が日本橋本銀町で印刷インキ・材料の個人経営の販売業を始めたのが東洋インキの発祥
    • [11]自製顔料を使う印刷インキは価格が非常に低廉だったが、需要者は国産品を信用せず舶来顔料のインキを好んだ
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「年譜」
    • [7]1905年10月1日、牛込区市谷富久町122に工場敷地628坪を借り工場建設に着手。独レーマン社に発注の三本ロール1台到着。同年、小林鎌太郎商店が合資会社となる
    • [8]1905年10月1日、牛込区市谷富久町122に工場敷地628坪を借り工場建設に着手。独レーマン社に発注の三本ロール1台到着。同年、小林鎌太郎商店が合資会社となる
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「富久町に工場新設組織を株式として操業開始」
    • [9]富久町工場は1905年10月に建設許可。本材木町の和製練肉機3台を移し、顔料部で黄鉛・アルミナ白・レーキ類を製造
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「多色石版印刷発達に寄与した絵ハガキ」
    • [10]1899年3月の郵便法改正で私製はがきが許され、絵はがきの流行が色インキの需要を高めた

1907年〜印刷インキ初の株式会社となった東洋インキ製造と、専売局の数千連の注文

東洋インキ製造は1907年1月15日、公称資本金30万円・株式総数6,000株・株主33名で成立し、1月25日に登記を終えた。印刷インキ会社として最初の株式会社だった。社長の山田三郎太氏は1958年、資本金の規模も当時の同業で最高だったと記した。創立事務所は1906年12月1日に目論見書を出し、第1回払込金7万5,000円の使途を示した。内訳は合資会社小林商店の買収に2万5,000円、工場拡張に1万6,795円、運転資本に3万3,205円だった。小林鎌太郎氏は妻の母の持ち株と合わせて最大の株主だったが、第1期は役員に就かず営業部長にとどまった。株式の公募は、個人商店の資産を引き継ぎつつ富久町工場の拡張資金を外から調達するための選択だったのだろう。

  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「東洋インキ製造株式会社の創立」
    • [12]1907年1月15日、公称資本金30万円・払込7万5000円・6,000株・株主33名で成立、1月25日登記。印刷インキ会社の株式会社の最初。1906年12月1日の目論見書で第1回払込金の内訳は小林商店買収費2万5000円・工場拡張費1万6795円・運転資本3万3205円
    • [13]1907年1月15日、公称資本金30万円・払込7万5000円・6,000株・株主33名で成立、1月25日登記。印刷インキ会社の株式会社の最初。1906年12月1日の目論見書で第1回払込金の内訳は小林商店買収費2万5000円・工場拡張費1万6795円・運転資本3万3205円
    • [15]1907年1月15日、公称資本金30万円・払込7万5000円・6,000株・株主33名で成立、1月25日登記。印刷インキ会社の株式会社の最初。1906年12月1日の目論見書で第1回払込金の内訳は小林商店買収費2万5000円・工場拡張費1万6795円・運転資本3万3205円
    • [16]1907年1月15日、公称資本金30万円・払込7万5000円・6,000株・株主33名で成立、1月25日登記。印刷インキ会社の株式会社の最初。1906年12月1日の目論見書で第1回払込金の内訳は小林商店買収費2万5000円・工場拡張費1万6795円・運転資本3万3205円
  • 染料と薬品 3(4) 1958年「日本工業発達史(東洋インキ製造株式会社の巻)」山田三郎太
    • [14]1907年に資本金30万円の株式組織とし東洋インキ製造に改称。印刷インキ工業の株式組織の最初で資本金も当時最高
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「富久町に工場新設組織を株式として操業開始」
    • [17]小林鎌太郎は妻と代の母松本いねの持株を合わせ最大株主だったが、第1期は役員に就かず営業部長のみ。第2期から取締役

設立の直後に1907年の恐慌が起こり、東洋インキ製造は目論見書で年2割と約した配当を第1期と第2期に見送った。東京の大手印刷業者は舶来インキを使い続け、見本帳3,000冊を1,505円余で配った第3期も無配だった。一方で関西の印刷業者は、品質が良ければ国産か舶来かを問わなかった。関西で民間の商業印刷が1万枚を超えることはまれだった。一方で専売局向けのたばこ外箱を刷る印刷所があり、その注文は紙数で数千連に達した。小林鎌太郎氏は1909年8月に大阪のアルモ印刷と日本精版を訪ね、精版などから注文を得た。1909年下期の営業報告書は、販売高が東西で相半ばするに至ったと株主に報告した。

  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「富久町に工場新設組織を株式として操業開始」
    • [18]1907年の恐慌で印刷業が打撃を受け、年2割配当を約しながら第1期・第2期は無配。大印刷業者の舶来インキ使用を切り替えさせるため見本帳3,000冊(1,505円余)を配布、第3期も無配
    • [19]1907年の恐慌で印刷業が打撃を受け、年2割配当を約しながら第1期・第2期は無配。大印刷業者の舶来インキ使用を切り替えさせるため見本帳3,000冊(1,505円余)を配布、第3期も無配
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「多色石版印刷発達に寄与した絵ハガキ」
    • [20]東京の印刷業者は石版印刷物に和製インキを使わなかったが、関西では輸入品が入手しにくく、品質が良ければ国産・舶来を問わなかった
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「「東洋インキ」関西市場開拓に乗出す」
    • [21]アルモ印刷・日本精版は専売局・東亜煙草のたばこ外函を印刷。民間商業印刷は1万枚以上がまれだが専売局の注文は数千連。1909年8月、小林鎌太郎が関西に赴き精版その他から注文を獲得。第6回(1909年下期)営業報告書で販売高は東西相半ば
    • [22]アルモ印刷・日本精版は専売局・東亜煙草のたばこ外函を印刷。民間商業印刷は1万枚以上がまれだが専売局の注文は数千連。1909年8月、小林鎌太郎が関西に赴き精版その他から注文を獲得。第6回(1909年下期)営業報告書で販売高は東西相半ば
    • [23]アルモ印刷・日本精版は専売局・東亜煙草のたばこ外函を印刷。民間商業印刷は1万枚以上がまれだが専売局の注文は数千連。1909年8月、小林鎌太郎が関西に赴き精版その他から注文を獲得。第6回(1909年下期)営業報告書で販売高は東西相半ば
    • [24]アルモ印刷・日本精版は専売局・東亜煙草のたばこ外函を印刷。民間商業印刷は1万枚以上がまれだが専売局の注文は数千連。1909年8月、小林鎌太郎が関西に赴き精版その他から注文を獲得。第6回(1909年下期)営業報告書で販売高は東西相半ば

小林鎌太郎氏は関西へ出るたびに専売局伏見工場を訪ね、係官にさえ面会できなかった。そこで幹部は協議のうえ、帝国商業銀行の取締役を退いて東京にいた橋本正彰氏を社長に迎えると決めた。高知の旧士族の橋本正彰氏は、専売局長の浜口雄幸氏と同藩で親交もあった。インキの知識を持たない橋本正彰氏は資金繰りと渉外だけを受け持ち、経営は小林鎌太郎氏ら現幹部が担う約束で就任した。小林鎌太郎氏自身は文字を読めず、長く社長の席に就かなかった。1910年10月5日、小林鎌太郎氏は橋本正彰氏の紹介で浜口雄幸氏に会った。翌1911年3月31日には、専売局の7製造所へインキを納める契約が成立した。

  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「「東洋インキ」関西市場開拓に乗出す」
    • [25]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約
    • [26]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約
    • [27]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約
    • [28]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約
    • [30]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約
    • [31]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「富久町に工場新設組織を株式として操業開始」
    • [29]小林鎌太郎は事実上の事業主だったが文字を知らず、長く社長の椅子に就かなかった
参考文献[12]-[31]
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「東洋インキ製造株式会社の創立」
    • [12]1907年1月15日、公称資本金30万円・払込7万5000円・6,000株・株主33名で成立、1月25日登記。印刷インキ会社の株式会社の最初。1906年12月1日の目論見書で第1回払込金の内訳は小林商店買収費2万5000円・工場拡張費1万6795円・運転資本3万3205円
    • [13]1907年1月15日、公称資本金30万円・払込7万5000円・6,000株・株主33名で成立、1月25日登記。印刷インキ会社の株式会社の最初。1906年12月1日の目論見書で第1回払込金の内訳は小林商店買収費2万5000円・工場拡張費1万6795円・運転資本3万3205円
    • [15]1907年1月15日、公称資本金30万円・払込7万5000円・6,000株・株主33名で成立、1月25日登記。印刷インキ会社の株式会社の最初。1906年12月1日の目論見書で第1回払込金の内訳は小林商店買収費2万5000円・工場拡張費1万6795円・運転資本3万3205円
    • [16]1907年1月15日、公称資本金30万円・払込7万5000円・6,000株・株主33名で成立、1月25日登記。印刷インキ会社の株式会社の最初。1906年12月1日の目論見書で第1回払込金の内訳は小林商店買収費2万5000円・工場拡張費1万6795円・運転資本3万3205円
  • 染料と薬品 3(4) 1958年「日本工業発達史(東洋インキ製造株式会社の巻)」山田三郎太
    • [14]1907年に資本金30万円の株式組織とし東洋インキ製造に改称。印刷インキ工業の株式組織の最初で資本金も当時最高
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「富久町に工場新設組織を株式として操業開始」
    • [17]小林鎌太郎は妻と代の母松本いねの持株を合わせ最大株主だったが、第1期は役員に就かず営業部長のみ。第2期から取締役
    • [18]1907年の恐慌で印刷業が打撃を受け、年2割配当を約しながら第1期・第2期は無配。大印刷業者の舶来インキ使用を切り替えさせるため見本帳3,000冊(1,505円余)を配布、第3期も無配
    • [19]1907年の恐慌で印刷業が打撃を受け、年2割配当を約しながら第1期・第2期は無配。大印刷業者の舶来インキ使用を切り替えさせるため見本帳3,000冊(1,505円余)を配布、第3期も無配
    • [29]小林鎌太郎は事実上の事業主だったが文字を知らず、長く社長の椅子に就かなかった
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「多色石版印刷発達に寄与した絵ハガキ」
    • [20]東京の印刷業者は石版印刷物に和製インキを使わなかったが、関西では輸入品が入手しにくく、品質が良ければ国産・舶来を問わなかった
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「「東洋インキ」関西市場開拓に乗出す」
    • [21]アルモ印刷・日本精版は専売局・東亜煙草のたばこ外函を印刷。民間商業印刷は1万枚以上がまれだが専売局の注文は数千連。1909年8月、小林鎌太郎が関西に赴き精版その他から注文を獲得。第6回(1909年下期)営業報告書で販売高は東西相半ば
    • [22]アルモ印刷・日本精版は専売局・東亜煙草のたばこ外函を印刷。民間商業印刷は1万枚以上がまれだが専売局の注文は数千連。1909年8月、小林鎌太郎が関西に赴き精版その他から注文を獲得。第6回(1909年下期)営業報告書で販売高は東西相半ば
    • [23]アルモ印刷・日本精版は専売局・東亜煙草のたばこ外函を印刷。民間商業印刷は1万枚以上がまれだが専売局の注文は数千連。1909年8月、小林鎌太郎が関西に赴き精版その他から注文を獲得。第6回(1909年下期)営業報告書で販売高は東西相半ば
    • [24]アルモ印刷・日本精版は専売局・東亜煙草のたばこ外函を印刷。民間商業印刷は1万枚以上がまれだが専売局の注文は数千連。1909年8月、小林鎌太郎が関西に赴き精版その他から注文を獲得。第6回(1909年下期)営業報告書で販売高は東西相半ば
    • [25]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約
    • [26]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約
    • [27]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約
    • [28]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約
    • [30]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約
    • [31]小林鎌太郎は伏見工場の係官にも面会できず。幹部協議で元帝国商業銀行取締役の橋本正彰(高知県士族、専売局長浜口雄幸と同藩で親交)を第4代社長に招く。橋本は資金繰り・渉外のみ担当。1910年10月5日浜口局長と会見、1911年1-3月分の伏見工場納入契約(官庁納入の最初)、1911年3月31日専売局7製造所への納入契約

1912年〜輸入の途絶で自製したクローム黄と、関東大震災から立て直した京橋本社

1914年に第一次大戦が始まると、輸入の顔料と染料を練って加工していた印刷インキ業界は、原材料の入手の見通しを失った。レーキ顔料の元になるアニリンやアリザリンの染料はドイツとオーストリアが産地で、各インキ工場は供給難に直面した。富久町工場では製造部長の横田源太郎氏のもとで、クローム黄3種とクローム赤を原料から自製し、ほかの色も外国染料から顔料を起こした。業界誌「印刷工芸」の1917年4月号は、ミロリブルーとブロンズブルーの完成を伝えた。当時の記事は東洋インキ製造を東京の印刷インキ業者の首位に挙げた。1906年から黄鉛を作ってきた経験が、輸入の途絶に耐える下地になったと推察される。

  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「第一次大戦と色素工業」
    • [32]大戦勃発で印刷インキ原材料の入手が絶望的に。高級品は全部輸入、国産品も顔料・染料はほとんど輸入品の加工
  • 染料と薬品 3(4) 1958年「日本工業発達史(東洋インキ製造株式会社の巻)」山田三郎太
    • [33]レーキ顔料の原料のアニリン・アリザリン等の染料はドイツ・オーストリアが産出国で各インキ工場は供給難。小林商店は1906年に横田技師長の指導で黄鉛製造を開始
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「好況で西欧文化漸次庶民に浸透する」
    • [34]「印刷工芸」1917年4月号:富久町工場でクローム黄3種・クローム赤を染色原料から自製、他は外国染料で顔料自製、ミロリブルー・ブロンズブルー完成(製造部長横田源太郎)。記事は同社を東京印刷インキ業者の第一位に挙げる
    • [35]「印刷工芸」1917年4月号:富久町工場でクローム黄3種・クローム赤を染色原料から自製、他は外国染料で顔料自製、ミロリブルー・ブロンズブルー完成(製造部長横田源太郎)。記事は同社を東京印刷インキ業者の第一位に挙げる
    • [36]「印刷工芸」1917年4月号:富久町工場でクローム黄3種・クローム赤を染色原料から自製、他は外国染料で顔料自製、ミロリブルー・ブロンズブルー完成(製造部長横田源太郎)。記事は同社を東京印刷インキ業者の第一位に挙げる

1920年3月、米国から導入したHB製版機の1号機が大阪の市田オフセットに据えられ、1921年12月には凸版印刷の東京工場に2号機が入った。多色の原画を機械で版に分解する方式で、製版の能率を数十倍に高めるとされた。東洋インキ製造は1918年、富久町工場の建物と電気機関の増設について許可を相次いで受け、ガス機関から電動機への切り替えを進めた。製品売上高は1921年上期の321,359円から1923年上期の440,958円に増えた。1922年には印刷局出身の稲垣喜一氏が入社し、レーキレッドDを中心に日本で最初の本格的なレーキ顔料の製造を始めた。色刷りの増加に合わせて設備と顔料の技術を同時に厚くしたことが、後の有機顔料の量産の起点になったと思われる。

  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「多色製版の機械化と当社設備の充実」
    • [37]HB製版機1号機は1920年3月大阪の市田オフセット、2号機は1921年12月凸版印刷に設備。製版能率を数十倍に。1918年に富久町工場の建物増設・電気機関増設等の許可を受け電動機化。製品売上高は29期(1921上期)321,359円→33期(1923上期)440,958円
    • [38]HB製版機1号機は1920年3月大阪の市田オフセット、2号機は1921年12月凸版印刷に設備。製版能率を数十倍に。1918年に富久町工場の建物増設・電気機関増設等の許可を受け電動機化。製品売上高は29期(1921上期)321,359円→33期(1923上期)440,958円
    • [39]HB製版機1号機は1920年3月大阪の市田オフセット、2号機は1921年12月凸版印刷に設備。製版能率を数十倍に。1918年に富久町工場の建物増設・電気機関増設等の許可を受け電動機化。製品売上高は29期(1921上期)321,359円→33期(1923上期)440,958円
    • [40]HB製版機1号機は1920年3月大阪の市田オフセット、2号機は1921年12月凸版印刷に設備。製版能率を数十倍に。1918年に富久町工場の建物増設・電気機関増設等の許可を受け電動機化。製品売上高は29期(1921上期)321,359円→33期(1923上期)440,958円
  • 染料と薬品 3(4) 1958年「日本工業発達史(東洋インキ製造株式会社の巻)」山田三郎太
    • [41]1922年入社の印刷局出身の稲垣喜一が日本で最初の本格的なレーキの製造を開始(レーキレッドDほか)

1923年9月1日の関東大震災で、京橋区南鍛治町の本社は本屋3棟・付属建物7棟・土蔵1棟を収蔵品ごと焼失した。富久町工場と柏木分工場は焼失を免れ、東洋インキ製造は9月10日に富久町工場へ仮営業所の看板を掲げた。当期は23万円余の純損失を計上して無配とし、保険金も倉庫の収蔵品にかけた1万3,000円の1割にとどまった。本社は倉庫から再建に着手し、1923年12月末に事務所の一部を、1924年2月末に事務所2棟60坪を完成させた。焼け残った印刷所の需要が平常の3倍に増え地方からの注文も殺到したため、工場と本社の間の運搬を荷車からトラック2台に切り替えた。本社の再建は社内の蓄積だけでまかなった。京橋は1907年に、石版印刷会社の多い地区として本社を構えた場所だった。

  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「関東大震火災」
    • [42]1923年9月1日の関東大震災で南鍛治町本社の本屋3棟・付属建物7棟・土蔵1棟が収蔵品とともに焼失
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「震災復興景気起る」
    • [43]9月10日、富久町工場に「東洋インキ製造株式会社仮営業所」の看板を掲げる
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「年譜」
    • [44]1923年、関東大震火災で本社焼失、富久町工場・柏木分工場は無事、当期純損金23万円余・無配
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「京橋本社復興」
    • [45]保険は倉庫内所蔵品1万3000円のみでその1割1,300円が支払われる。9月10日ごろから倉庫を建て、12月末に事務所の一部、翌2月末に事務所2棟60坪完成。印刷所の需要が平常の3倍、トラック2台を導入。本社復興は社内蓄積で賄う
    • [46]保険は倉庫内所蔵品1万3000円のみでその1割1,300円が支払われる。9月10日ごろから倉庫を建て、12月末に事務所の一部、翌2月末に事務所2棟60坪完成。印刷所の需要が平常の3倍、トラック2台を導入。本社復興は社内蓄積で賄う
    • [47]保険は倉庫内所蔵品1万3000円のみでその1割1,300円が支払われる。9月10日ごろから倉庫を建て、12月末に事務所の一部、翌2月末に事務所2棟60坪完成。印刷所の需要が平常の3倍、トラック2台を導入。本社復興は社内蓄積で賄う
    • [48]保険は倉庫内所蔵品1万3000円のみでその1割1,300円が支払われる。9月10日ごろから倉庫を建て、12月末に事務所の一部、翌2月末に事務所2棟60坪完成。印刷所の需要が平常の3倍、トラック2台を導入。本社復興は社内蓄積で賄う
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「富久町に工場新設組織を株式として操業開始」
    • [49]1907年、印刷所が銀座周辺に密集し石版印刷会社が京橋区に多いため、京橋区南鍛治町に本社を移す
参考文献[32]-[49]
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「第一次大戦と色素工業」
    • [32]大戦勃発で印刷インキ原材料の入手が絶望的に。高級品は全部輸入、国産品も顔料・染料はほとんど輸入品の加工
  • 染料と薬品 3(4) 1958年「日本工業発達史(東洋インキ製造株式会社の巻)」山田三郎太
    • [33]レーキ顔料の原料のアニリン・アリザリン等の染料はドイツ・オーストリアが産出国で各インキ工場は供給難。小林商店は1906年に横田技師長の指導で黄鉛製造を開始
    • [41]1922年入社の印刷局出身の稲垣喜一が日本で最初の本格的なレーキの製造を開始(レーキレッドDほか)
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「好況で西欧文化漸次庶民に浸透する」
    • [34]「印刷工芸」1917年4月号:富久町工場でクローム黄3種・クローム赤を染色原料から自製、他は外国染料で顔料自製、ミロリブルー・ブロンズブルー完成(製造部長横田源太郎)。記事は同社を東京印刷インキ業者の第一位に挙げる
    • [35]「印刷工芸」1917年4月号:富久町工場でクローム黄3種・クローム赤を染色原料から自製、他は外国染料で顔料自製、ミロリブルー・ブロンズブルー完成(製造部長横田源太郎)。記事は同社を東京印刷インキ業者の第一位に挙げる
    • [36]「印刷工芸」1917年4月号:富久町工場でクローム黄3種・クローム赤を染色原料から自製、他は外国染料で顔料自製、ミロリブルー・ブロンズブルー完成(製造部長横田源太郎)。記事は同社を東京印刷インキ業者の第一位に挙げる
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「多色製版の機械化と当社設備の充実」
    • [37]HB製版機1号機は1920年3月大阪の市田オフセット、2号機は1921年12月凸版印刷に設備。製版能率を数十倍に。1918年に富久町工場の建物増設・電気機関増設等の許可を受け電動機化。製品売上高は29期(1921上期)321,359円→33期(1923上期)440,958円
    • [38]HB製版機1号機は1920年3月大阪の市田オフセット、2号機は1921年12月凸版印刷に設備。製版能率を数十倍に。1918年に富久町工場の建物増設・電気機関増設等の許可を受け電動機化。製品売上高は29期(1921上期)321,359円→33期(1923上期)440,958円
    • [39]HB製版機1号機は1920年3月大阪の市田オフセット、2号機は1921年12月凸版印刷に設備。製版能率を数十倍に。1918年に富久町工場の建物増設・電気機関増設等の許可を受け電動機化。製品売上高は29期(1921上期)321,359円→33期(1923上期)440,958円
    • [40]HB製版機1号機は1920年3月大阪の市田オフセット、2号機は1921年12月凸版印刷に設備。製版能率を数十倍に。1918年に富久町工場の建物増設・電気機関増設等の許可を受け電動機化。製品売上高は29期(1921上期)321,359円→33期(1923上期)440,958円
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「関東大震火災」
    • [42]1923年9月1日の関東大震災で南鍛治町本社の本屋3棟・付属建物7棟・土蔵1棟が収蔵品とともに焼失
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「震災復興景気起る」
    • [43]9月10日、富久町工場に「東洋インキ製造株式会社仮営業所」の看板を掲げる
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「年譜」
    • [44]1923年、関東大震火災で本社焼失、富久町工場・柏木分工場は無事、当期純損金23万円余・無配
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「京橋本社復興」
    • [45]保険は倉庫内所蔵品1万3000円のみでその1割1,300円が支払われる。9月10日ごろから倉庫を建て、12月末に事務所の一部、翌2月末に事務所2棟60坪完成。印刷所の需要が平常の3倍、トラック2台を導入。本社復興は社内蓄積で賄う
    • [46]保険は倉庫内所蔵品1万3000円のみでその1割1,300円が支払われる。9月10日ごろから倉庫を建て、12月末に事務所の一部、翌2月末に事務所2棟60坪完成。印刷所の需要が平常の3倍、トラック2台を導入。本社復興は社内蓄積で賄う
    • [47]保険は倉庫内所蔵品1万3000円のみでその1割1,300円が支払われる。9月10日ごろから倉庫を建て、12月末に事務所の一部、翌2月末に事務所2棟60坪完成。印刷所の需要が平常の3倍、トラック2台を導入。本社復興は社内蓄積で賄う
    • [48]保険は倉庫内所蔵品1万3000円のみでその1割1,300円が支払われる。9月10日ごろから倉庫を建て、12月末に事務所の一部、翌2月末に事務所2棟60坪完成。印刷所の需要が平常の3倍、トラック2台を導入。本社復興は社内蓄積で賄う
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「富久町に工場新設組織を株式として操業開始」
    • [49]1907年、印刷所が銀座周辺に密集し石版印刷会社が京橋区に多いため、京橋区南鍛治町に本社を移す

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出典・参考 13件
出典・参考
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「鎌太郎独立して賃練屋開業」
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「年譜」
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「富久町に工場新設組織を株式として操業開始」
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「多色石版印刷発達に寄与した絵ハガキ」
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「東洋インキ製造株式会社の創立」
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「「東洋インキ」関西市場開拓に乗出す」
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「第一次大戦と色素工業」
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「好況で西欧文化漸次庶民に浸透する」
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「多色製版の機械化と当社設備の充実」
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「関東大震火災」
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「震災復興景気起る」
  • 印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史(1967)「京橋本社復興」
  • 染料と薬品 3(4) 1958年「日本工業発達史(東洋インキ製造株式会社の巻)」山田三郎太

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