1896年に小林鎌太郎氏が東京・日本橋で始めた印刷インキの賃練屋が起源。
1907年に印刷インキ会社として最初の株式会社となり、1937年にはフタロシアニンブルーの自製化に成功して輸入顔料を国産に置き換えた。印刷インキからパッケージや塗加工へ事業を拡大し、売上の55%を海外が占める。
小林鎌太郎氏は1896年春、数え年22歳で主家を辞し、日本橋のペンキ屋の2階を借りてインキの賃練屋を開業した。元手は横浜の伯母から借りた50円で、荷車と小型の練肉機を用意し、注文を受けると印刷所まで機械を運んでインキを練った。開業時の得意先には小柴石版所や大江石版所があった。日清戦争後は新聞と雑誌の付録競争が激しくなり、口絵やポスターに石版の多色刷が広がっていた。輸入商の山本栄次郎商店が1895年から賃練屋に顔料とワニスを貸して印刷所を回らせており、小林鎌太郎氏はこの商いを見て独立を決めた。1958年に東洋インキ製造社長の山田三郎太氏は、日本橋本銀町で始めたこの個人経営の販売業を東洋インキの発祥と記した。
小林鎌太郎氏は1905年10月1日、牛込区市谷富久町122に628坪の敷地を借りて工場の建設に着手した。同じ年、ドイツのレーマン社に発注した三本ロール1台が届き、小林鎌太郎商店は合資会社に改まった。それまで本材木町で使っていた和製の練肉機3台も富久町へ移し、工場では黄鉛・アルミナ白・レーキ類の顔料も製造した。1899年に私製はがきが解禁されると絵はがきが流行し、色インキの需要を押し上げていた。ただ自製顔料のインキは価格が大幅に安くても、需要者はなお舶来顔料のインキを好んだ。輸入機で練りの品質をそろえ、顔料まで自前で作る工場は、舶来品と価格と品質の両面で競うための備えだったとみられる。
東洋インキ製造は1907年1月15日、公称資本金30万円・株式総数6,000株・株主33名で成立し、1月25日に登記を終えた。印刷インキ会社として最初の株式会社だった。社長の山田三郎太氏は1958年、資本金の規模も当時の同業で最高だったと記した。創立事務所は1906年12月1日に目論見書を出し、第1回払込金7万5,000円の使途を示した。内訳は合資会社小林商店の買収に2万5,000円、工場拡張に1万6,795円、運転資本に3万3,205円だった。小林鎌太郎氏は妻の母の持ち株と合わせて最大の株主だったが、第1期は役員に就かず営業部長にとどまった。株式の公募は、個人商店の資産を引き継ぎつつ富久町工場の拡張資金を外から調達するための選択だったのだろう。
設立の直後に1907年の恐慌が起こり、東洋インキ製造は目論見書で年2割と約した配当を第1期と第2期に見送った。東京の大手印刷業者は舶来インキを使い続け、見本帳3,000冊を1,505円余で配った第3期も無配だった。一方で関西の印刷業者は、品質が良ければ国産か舶来かを問わなかった。関西で民間の商業印刷が1万枚を超えることはまれだった。一方で専売局向けのたばこ外箱を刷る印刷所があり、その注文は紙数で数千連に達した。小林鎌太郎氏は1909年8月に大阪のアルモ印刷と日本精版を訪ね、精版などから注文を得た。1909年下期の営業報告書は、販売高が東西で相半ばするに至ったと株主に報告した。
小林鎌太郎氏は関西へ出るたびに専売局伏見工場を訪ね、係官にさえ面会できなかった。そこで幹部は協議のうえ、帝国商業銀行の取締役を退いて東京にいた橋本正彰氏を社長に迎えると決めた。高知の旧士族の橋本正彰氏は、専売局長の浜口雄幸氏と同藩で親交もあった。インキの知識を持たない橋本正彰氏は資金繰りと渉外だけを受け持ち、経営は小林鎌太郎氏ら現幹部が担う約束で就任した。小林鎌太郎氏自身は文字を読めず、長く社長の席に就かなかった。1910年10月5日、小林鎌太郎氏は橋本正彰氏の紹介で浜口雄幸氏に会った。翌1911年3月31日には、専売局の7製造所へインキを納める契約が成立した。
1914年に第一次大戦が始まると、輸入の顔料と染料を練って加工していた印刷インキ業界は、原材料の入手の見通しを失った。レーキ顔料の元になるアニリンやアリザリンの染料はドイツとオーストリアが産地で、各インキ工場は供給難に直面した。富久町工場では製造部長の横田源太郎氏のもとで、クローム黄3種とクローム赤を原料から自製し、ほかの色も外国染料から顔料を起こした。業界誌「印刷工芸」の1917年4月号は、ミロリブルーとブロンズブルーの完成を伝えた。当時の記事は東洋インキ製造を東京の印刷インキ業者の首位に挙げた。1906年から黄鉛を作ってきた経験が、輸入の途絶に耐える下地になったと推察される。
1920年3月、米国から導入したHB製版機の1号機が大阪の市田オフセットに据えられ、1921年12月には凸版印刷の東京工場に2号機が入った。多色の原画を機械で版に分解する方式で、製版の能率を数十倍に高めるとされた。東洋インキ製造は1918年、富久町工場の建物と電気機関の増設について許可を相次いで受け、ガス機関から電動機への切り替えを進めた。製品売上高は1921年上期の321,359円から1923年上期の440,958円に増えた。1922年には印刷局出身の稲垣喜一氏が入社し、レーキレッドDを中心に日本で最初の本格的なレーキ顔料の製造を始めた。色刷りの増加に合わせて設備と顔料の技術を同時に厚くしたことが、後の有機顔料の量産の起点になったと思われる。
1923年9月1日の関東大震災で、京橋区南鍛治町の本社は本屋3棟・付属建物7棟・土蔵1棟を収蔵品ごと焼失した。富久町工場と柏木分工場は焼失を免れ、東洋インキ製造は9月10日に富久町工場へ仮営業所の看板を掲げた。当期は23万円余の純損失を計上して無配とし、保険金も倉庫の収蔵品にかけた1万3,000円の1割にとどまった。本社は倉庫から再建に着手し、1923年12月末に事務所の一部を、1924年2月末に事務所2棟60坪を完成させた。焼け残った印刷所の需要が平常の3倍に増え地方からの注文も殺到したため、工場と本社の間の運搬を荷車からトラック2台に切り替えた。本社の再建は社内の蓄積だけでまかなった。京橋は1907年に、石版印刷会社の多い地区として本社を構えた場所だった。
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