輸入に依存していた部分を、一つずつ自前へ置き換えてきた会社である。1905年に富久町の工場で黄鉛やレーキ類の顔料を作り始め、1907年には株式を公募して工場の拡張資金を外部から調達した。東京の大手印刷所が舶来インキを使い続けたため、1909年に関西へ出てたばこ外箱の印刷所を開拓し、1911年に専売局7製造所への納入契約を得た。第一次大戦で輸入顔料が途絶えると、クローム黄などを原料から自製し、東京の同業の首位に数えられた。1923年の関東大震災で京橋本社を失った際も、再建は社内の蓄積でまかなった。