1908年2月、川村喜十郎氏が東京・本所[1]にインキロール三台を据え[2]、印刷インキの製造販売を始めた。屋号は川村インキ製造所、1912年に川村喜十郎商店と改めている。当初の仕事は、輸入した顔料と樹脂を練り合わせて印刷所に納める加工業だった。大正期に入ると顔料と染料の自給計画を立て、高級顔料の製造に手を伸ばし、オフセット・コロタイプ・彫刻凹版それぞれのインキも手がけた。1923年の関東大震災で店舗と工場を失ったが、ただちに再建に着手し、翌1924年に新工場を完成させている[3]。創業から16年後の再出発だった。
1925年、国内で有機顔料の自社生産に成功[4]した。インキの色を決めるのは顔料であり、それを外から買っているかぎり、製品の性能も原価も他社の技術に握られる。輸入品に頼れば為替と海外メーカーの供給事情に左右され、色調の再現性も自社では詰められない。自給によって同社は、練り合わせる加工業から、色そのものを合成する化学会社へ移った。DIC自身も後年の統合報告書で、この年を創業に次ぐ節目として挙げている。以後の多角化はすべて、顔料と、顔料を分散させる樹脂という二つの技術から派生していった。
1937年2月、資本金100万円で[5]個人経営を株式組織に改組した。このとき製造部門を二つに割っている。タール中間物・染料・顔料の部門を日本染料薬品製造株式会社とし、板橋区志村に工場を置いた[6]。印刷インキ部門は大日本インキ製造株式会社として発足した。両社の資本金はそれぞれ100万円で、法人格を分けながら同じ系列として運営した。顔料と染料は互いに原料が重なるため、一体で動かせば原料のタール系中間物まで遡って自給できる。色素化学工業として原料から製品までを揃える構想が、社名の分割にそのまま表れていた。
販路は大陸へ伸びた。1932年5月に上海出張所を開き[7]、1939年に北京、1940年に天津へ出張所を置いた。1941年に満州インキ、1942年に上海合同インキを設立している。[8]拠点は広東・上海・天津・北京・奉天・新京・ハルビンの支店出張所に及び、上海・天津・奉天には工場も置いた。1941年ごろには印刷インキ年産800トンのうち6割を東アジア各地へ輸出[9]していた。ところが太平洋戦争の激化とともに刊行物の統制が強まり、印刷インキの需要は急速に細った。国内で売り先を失った設備は、大陸の販路もろとも行き場を失う。
1944年、日本染料薬品製造の軍需品生産部門と呉羽紡績福島工場の化学部門を合併して呉羽化学工業を設立し、残る部門は大日本インキ製造が吸収合併した[10]。資本金は払込25万円の形式減資を経て310万円となる。二社体制で組み上げた色素化学の構想は、戦時の資源配分のなかで解体された。分離された部門は、のちに呉羽化学工業として別の道を歩む。1945年3月には本所の本社工場が戦災で全焼し、生産[11]を志村の東京工場へ移して本社も同所に移した。終戦の同年8月15日、志村工場を整えてインキと顔料・染料の生産を再開している。
戦後は出版ブームと紙幣の増発により印刷インキの需要が急速に戻った。名古屋出張所の開設、名古屋工場の操業開始、大阪工場の開設と体制を広げ、1950年5月29日に東京証券取引所へ上場する。[12]上場時の資本金は3,000万円、上場株式は60万株[13]だった。1950年3月期の総売上高は2億5,098万円で、うち印刷インキが1億9,855万円を占めた。従業員は営業所を含めて500人である。印刷インキの生産量は全国比およそ14%で第1位を占め[14]、販売先は大日本印刷ほかの印刷会社と、専売公社・印刷庁・鉄道局といった官需だった。
上場の時点で、次の一手はすでに決まっていた。同年8月の臨時株主総会で決議した3,000万円の増資のうち2,000万円を新会社に充てる予定で[15]、米国のライヒホールド・ケミカルズとの合弁を外資委員会に申請中だった。出資比率は大日本インキ55%、ライヒホールド45%、資本金6万ドル[16]。工場は大阪工場の一部に置き、塗料・印刷インキ・合板・紙類・繊維製品に使う合成樹脂と特殊顔料をつくる計画である。上場によって集めた資金の使い道は、インキの増産ではなく、インキのもう一つの原料である樹脂へ向かっていた。
1952年2月、米国の合成樹脂メーカーであるライヒホールド・ケミカルズとの合弁で日本ライヒホールド化学工業(JRC)を設立した[17]。他社に先んじて各種合成樹脂の生産を始めている。合成樹脂は顔料と並ぶインキのもう一つの主要原料であり、同時に塗料・接着・鋳物・繊維加工へ広がる素材でもあった。原料を自給するための投資が、そのまま新しい市場への入口になる。この構図は1925年の顔料自給と同じで、違いは相手の技術を導入した点にあった。JRCは1960年11月に株式を店頭公開し、1961[18]年11月に東京証券取引所市場第二部へ上場している。
1962年10月、そのJRCを吸収合併し、商号を大日本インキ[19]化学工業株式会社へ改めた。合弁相手から始めた樹脂事業を自社に取り込み、社名にも『化学工業』を加えている。効果は数字に出た。1968年には資本金60億円、従業員5,800人となり[20]、印刷インキでは国内最大・世界第3位のメーカーとなる。年商700億円台が目前に迫り、化学工業界の上位10社に数えられるまでになった。1977年度には樹脂事業部の売上高が約565億円で構成比24%を占め、インキ事業部の478億円・20%を上回[21]っている。社名の筆頭にあるインキは、すでに最大の事業ではなくなっていた。
多角化の作法は、2代目社長の川村勝巳氏が1974年10月の講演で明快に述べている[22]。化学工業だけに限定し、そのなかでも互いに有機的な関連を持つ事業へ広げる。同氏はこれを、縁のない仕事へ分散して弱体化することの反対に置いた。原料の70%を石油化学に仰ぐ二次応用製品を扱うため[23]、装置は比較的軽く、投下資本は少なくて済む。基礎化学品を財閥系の総合化学会社に任せ、そこから来る素材を知恵とサービスで製品化する。この位置取りを同氏はダウンストリームと呼び、最終需要とは水際すれすれの地位にある産業と説明している。
この位置取りは、製品の作り方まで規定した。同社の製品は約16万品種、得意先は約7万にのぼり[24]、大量生産品はほとんどない。印刷インキ一つを取っても、印刷機の速度・紙の平滑度・版式・色の組み合わせが掛け算になる。細かな注文に応じるにはディーラーを介せず直販するほかなく[25]、1970年代後半のセールスマンは約1,100人、それを支える技術サービス要員が約1,000人いた。人手のかかる商売であり、相応の粗利がなければ成り立たない。裏返せば、大量生産の効率で値を下げる相手とは、競争の場そのものが違っていた。
樹脂と顔料という二つの技術は、次々と別の製品を生んだ。1968年10月、新技術開発事業団からの委託研究『B-B留分を出発原料とするエポキシ樹脂の開発』[引用元][26]が成功と認定され、独占実施権を得て1971年に事業化した。エポキシ樹脂は世界的にシェルが圧倒的なシェアを持ち、日本[27]でも同社が5割を占めていたが、特殊タイプを武器に約2割まで食い込んでいる。1973年5月には、使用温度範囲・コントラスト・寿命で従来水準を上回るネマティック型液晶を開発し、電卓での採用[28]を得た。液晶材料は顔料の分子設計から派生した領域である。
派生には失敗もあった。石油から微生物でたんぱく質をつくる石油たんぱくは、国内で製造の許可が下りず、ルーマニアとの合弁で年産6万トンの工場を建設[29]する道を選んだ。1979年春に完成したものの、現地の原料生産が間に合わず稼働は遅れている。代わりに手がけたのが、高たんぱくのらせん藻スピルリナだった。1974年7月に企業化を始め[30]、タイのバンコク郊外に工場を建てて保健食品と食用色素の用途を開拓した。国内で認められなかった技術を国外で実らせようとし、そこでも躓き、隣の技術で市場を見つけた経緯である。
拡大の速度は数字が示している。1957年に49億円だった売上高は、1977[31]年に約2,400億円へ増えた。20年でおよそ49倍にあたる。この間の名目国民総生産は16倍にとどまり、市場の成長を上回る速さだった。1978年5月末の資本金は180億6,200万円、従業員5,335人、総資産2,257億円[32]。ただし自己資本は381億円で比率は16.9%にとどまり、先行投資と土地保有の重さが金利負担として残った。同じインキ業界で本業に絞った東洋インキ製造とは、金利だけで年間60億円近[33]い差があった。
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|---|---|---|---|---|
| 1908〜1951年インキ職人の町工場が顔料を自給し、色材の化学会社へ変わるまで | 東京・本所に川村インキ製造所創業(1912年に商号を川村喜十郎商店に変更) | ★ | ||
| 国内で有機顔料の自社生産に成功 | ★ | |||
| 上海出張所を開設 | ★ | |||
| 法人組織化し大日本インキ製造を設立 | ★ | |||
| 本店(本社工場)を本所より板橋に移転 | ★ | |||
| 株式を東京証券取引所に上場(1961年より市場区分として第一部) | ★ | |||
| 1952〜1977年合成樹脂への転進と、印刷インキから離れずに広げた多角化の作法 | 米ライヒホールド・ケミカルズとの合弁による日本ライヒホールド化学工業の設立と、合成樹脂への参入 1952年2月、大日本インキ製造が米国の合成樹脂メーカー Reichhold Chemicals, Inc. と55対45の出資で日本ライヒホールド化学工業(JRC)を設立し、印刷インキ専業から合成樹脂の製造販売へ参入した経営判断。1950年5月の上場直後に川村勝巳専務が単身で渡米して交渉をまとめ、1962年10月のJRC吸収合併と商号変更まで続いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 合弁でタイ・ワタナ・インダストリーを設立 | ★ | |||
| JRCを吸収合併 | ★★ | |||
| 大日本インキ化学工業に商号変更 | ★ | |||
| Hercules Inc.との合弁でディック・ハーキュレスを設立 | ★ | |||
| エポキシ樹脂の委託研究が成功認定され独占実施権を獲得 | ★ | |||
| ネマティック型液晶を開発し電卓での採用を獲得 | ★★ | |||
| 合弁でSiam Chemical Industry Co., Ltd.を設立 | ★ | |||
| 高たん白らせん藻「スピルリナ」の企業化を開始(健康食品事業へ参入) | ★ | |||
| 1978〜1998年1兆円計画と、時間を買う買収で世界一のインキメーカーになるまで | 公開買付により米国のPolychrome Corp.を買収 | ★★ | ||
| Phillips Petroleumからの技術導入によりPPSコンパウンドの技術を導入 | ★ | |||
| 米サン・ケミカル社グラフィックアーツ部門の取得と、印刷インキ世界首位への到達 1986年12月、大日本インキ化学工業が米サン・ケミカル社のグラフィックアーツ部門を5億5,000万ドル(当時およそ850億円)で取得し、新生サン・ケミカルとして発足させた買収。自己資本およそ1,000億円に対する投資であり、これによって世界最大の印刷インキメーカーとなった。川村茂邦社長の判断による。 詳細を読む | ★★★ | |||
| Reichhold Chemicals Inc.を株式の公開買付により買収 | ★★ | |||
| 日本PMC(その後星光PMCに商号変更)が株式を東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| Eastman Kodakとの合弁でKodak Polychrome Graphicsを設立 | ★ | |||
| 1999〜2025年印刷インキの成熟を受けた顔料への集中と、資産圧縮を迫られた25年 | Totalfina S.A.他より印刷インキ事業(Coatesグループ)を買収 | ★★ | ||
| 中国における地域統括会社として迪愛生投資有限公司を設立 | ★ | |||
| 小江紘司 | KPGから出資分の資本償還を受けたことにより、Eastman KodakがKPGを100%子会社化 | ★ | ||
| 小江紘司 | ReichholdグループをMBO方式により売却 | ★★ | ||
| 小江紘司 | 創業100周年を機に、商号をDICに変更 | ★ | ||
| 杉江和男 | ザ・インクテックと国内印刷インキ事業を統合しDICグラフィックスを設立 | ★ | ||
| 杉江和男 | カラーフィルタ用グリーン顔料「G58シリーズ」を開発 | ★ | ||
| 杉江和男 | 星光PMCが株式を東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 中西義之 | Benda-Lutzグループを買収しエフェクト顔料事業に参入 | ★ | ||
| 中西義之 | Kingfisher Coloursを買収し化粧品用顔料事業に参入 | ★ | ||
| 中西義之 | 太陽HDと資本業務提携 | ★ | ||
| 猪野薫 | BASF社から顔料事業(Colors & Effects事業)を買収 | ★★ | ||
| 池田尚志 | 池田尚志氏が社長執行役員に就任 | ★ | ||
| 池田尚志 | 液晶材料事業からの撤退と、星光PMC株式・美術品の売却による資産圧縮 2024年2月に長期経営計画『DIC Vision 2030』の見直しとキャッシュ・アロケーション方針を公表したDICが、2024年から2025年にかけて液晶材料事業から撤退し、星光PMC株式・政策保有株式・美術品を売却して投下資本を圧縮した経営判断。池田尚志社長のもとで進んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 池田尚志 | OASIS INVESTMENTS II MASTER FUND LTD.他による株主提案 | ★★ |
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事実根拠:出所(DIC)