{"title":"DICの歴史概略","sections":[{"start_year":1908,"end_year":1951,"main_title":"インキ職人の町工場が顔料を自給し、色材の化学会社へ変わるまで","subsections":[{"title":"インキロール三台の創業と、輸入顔料からの自立","text":"1908年2月、川村喜十郎氏が東京・本所にインキロール三台を据え、印刷インキの製造販売を始めた。屋号は川村インキ製造所、1912年に川村喜十郎商店と改めている。当初の仕事は、輸入した顔料と樹脂を練り合わせて印刷所に納める加工業だった。大正期に入ると顔料と染料の自給計画を立て、高級顔料の製造に手を伸ばし、オフセット・コロタイプ・彫刻凹版それぞれのインキも手がけた。1923年の関東大震災で店舗と工場を失ったが、ただちに再建に着手し、翌1924年に新工場を完成させている。創業から16年後の再出発だった。\n\n1925年、国内で有機顔料の自社生産に成功した。インキの色を決めるのは顔料であり、それを外から買っているかぎり、製品の性能も原価も他社の技術に握られる。輸入品に頼れば為替と海外メーカーの供給事情に左右され、色調の再現性も自社では詰められない。自給によって同社は、練り合わせる加工業から、色そのものを合成する化学会社へ移った。DIC自身も後年の統合報告書で、この年を創業に次ぐ節目として挙げている。以後の多角化はすべて、顔料と、顔料を分散させる樹脂という二つの技術から派生していった。","references":[{"title":"DIC 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『証券』1950年 第1巻10号「大日本インキ製造株式会社」（新規上場会社紹介）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「大日本インキ化学工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DICレポート2025（DICグループ統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"二つの会社に分けた製造部門と、戦時統制下の縮小","text":"1937年2月、資本金100万円で個人経営を株式組織に改組した。このとき製造部門を二つに割っている。タール中間物・染料・顔料の部門を日本染料薬品製造株式会社とし、板橋区志村に工場を置いた。印刷インキ部門は大日本インキ製造株式会社として発足した。両社の資本金はそれぞれ100万円で、法人格を分けながら同じ系列として運営した。顔料と染料は互いに原料が重なるため、一体で動かせば原料のタール系中間物まで遡って自給できる。色素化学工業として原料から製品までを揃える構想が、社名の分割にそのまま表れていた。\n\n販路は大陸へ伸びた。1932年5月に上海出張所を開き、1939年に北京、1940年に天津へ出張所を置いた。1941年に満州インキ、1942年に上海合同インキを設立している。拠点は広東・上海・天津・北京・奉天・新京・ハルビンの支店出張所に及び、上海・天津・奉天には工場も置いた。1941年ごろには印刷インキ年産800トンのうち6割を東アジア各地へ輸出していた。ところが太平洋戦争の激化とともに刊行物の統制が強まり、印刷インキの需要は急速に細った。国内で売り先を失った設備は、大陸の販路もろとも行き場を失う。\n\n1944年、日本染料薬品製造の軍需品生産部門と呉羽紡績福島工場の化学部門を合併して呉羽化学工業を設立し、残る部門は大日本インキ製造が吸収合併した。資本金は払込25万円の形式減資を経て310万円となる。二社体制で組み上げた色素化学の構想は、戦時の資源配分のなかで解体された。分離された部門は、のちに呉羽化学工業として別の道を歩む。1945年3月には本所の本社工場が戦災で全焼し、生産を志村の東京工場へ移して本社も同所に移した。終戦の同年8月15日、志村工場を整えてインキと顔料・染料の生産を再開している。","references":[{"title":"DIC 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『証券』1950年 第1巻10号「大日本インキ製造株式会社」（新規上場会社紹介）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「大日本インキ化学工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DICレポート2025（DICグループ統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"上場時点の姿と、すでに決まっていた次の一手","text":"戦後は出版ブームと紙幣の増発により印刷インキの需要が急速に戻った。名古屋出張所の開設、名古屋工場の操業開始、大阪工場の開設と体制を広げ、1950年5月29日に東京証券取引所へ上場する。上場時の資本金は3,000万円、上場株式は60万株だった。1950年3月期の総売上高は2億5,098万円で、うち印刷インキが1億9,855万円を占めた。従業員は営業所を含めて500人である。印刷インキの生産量は全国比およそ14%で第1位を占め、販売先は大日本印刷ほかの印刷会社と、専売公社・印刷庁・鉄道局といった官需だった。\n\n上場の時点で、次の一手はすでに決まっていた。同年8月の臨時株主総会で決議した3,000万円の増資のうち2,000万円を新会社に充てる予定で、米国のライヒホールド・ケミカルズとの合弁を外資委員会に申請中だった。出資比率は大日本インキ55%、ライヒホールド45%、資本金6万ドル。工場は大阪工場の一部に置き、塗料・印刷インキ・合板・紙類・繊維製品に使う合成樹脂と特殊顔料をつくる計画である。上場によって集めた資金の使い道は、インキの増産ではなく、インキのもう一つの原料である樹脂へ向かっていた。","references":[{"title":"DIC 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『証券』1950年 第1巻10号「大日本インキ製造株式会社」（新規上場会社紹介）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「大日本インキ化学工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DICレポート2025（DICグループ統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1952,"end_year":1977,"main_title":"合成樹脂への転進と、印刷インキから離れずに広げた多角化の作法","subsections":[{"title":"ライヒホールドとの合弁がインキ会社を樹脂会社に変えるまで","text":"1952年2月、米国の合成樹脂メーカーであるライヒホールド・ケミカルズとの合弁で日本ライヒホールド化学工業（JRC）を設立した。他社に先んじて各種合成樹脂の生産を始めている。合成樹脂は顔料と並ぶインキのもう一つの主要原料であり、同時に塗料・接着・鋳物・繊維加工へ広がる素材でもあった。原料を自給するための投資が、そのまま新しい市場への入口になる。この構図は1925年の顔料自給と同じで、違いは相手の技術を導入した点にあった。JRCは1960年11月に株式を店頭公開し、1961年11月に東京証券取引所市場第二部へ上場している。\n\n1962年10月、そのJRCを吸収合併し、商号を大日本インキ化学工業株式会社へ改めた。合弁相手から始めた樹脂事業を自社に取り込み、社名にも「化学工業」を加えている。効果は数字に出た。1968年には資本金60億円、従業員5,800人となり、印刷インキでは国内最大・世界第3位のメーカーとなる。年商700億円台が目前に迫り、化学工業界の上位10社に数えられるまでになった。1977年度には樹脂事業部の売上高が約565億円で構成比24%を占め、インキ事業部の478億円・20%を上回っている。社名の筆頭にあるインキは、すでに最大の事業ではなくなっていた。","references":[{"title":"DIC 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1974年12巻11号「大日本インキ化学工業」（川村勝巳社長講演要旨、1974年10月25日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年16巻8号「年商1兆円を10年後に実現」（川村茂邦社長講演要旨、1978年6月30日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「大日本インキ化学工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"ダウンストリームという自己規定と、少量多品種の経済","text":"多角化の作法は、2代目社長の川村勝巳氏が1974年10月の講演で明快に述べている。化学工業だけに限定し、そのなかでも互いに有機的な関連を持つ事業へ広げる。同氏はこれを、縁のない仕事へ分散して弱体化することの反対に置いた。原料の70%を石油化学に仰ぐ二次応用製品を扱うため、装置は比較的軽く、投下資本は少なくて済む。基礎化学品を財閥系の総合化学会社に任せ、そこから来る素材を知恵とサービスで製品化する。この位置取りを同氏はダウンストリームと呼び、最終需要とは水際すれすれの地位にある産業と説明している。\n\nこの位置取りは、製品の作り方まで規定した。同社の製品は約16万品種、得意先は約7万にのぼり、大量生産品はほとんどない。印刷インキ一つを取っても、印刷機の速度・紙の平滑度・版式・色の組み合わせが掛け算になる。細かな注文に応じるにはディーラーを介せず直販するほかなく、1970年代後半のセールスマンは約1,100人、それを支える技術サービス要員が約1,000人いた。人手のかかる商売であり、相応の粗利がなければ成り立たない。裏返せば、大量生産の効率で値を下げる相手とは、競争の場そのものが違っていた。","references":[{"title":"DIC 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1974年12巻11号「大日本インキ化学工業」（川村勝巳社長講演要旨、1974年10月25日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年16巻8号「年商1兆円を10年後に実現」（川村茂邦社長講演要旨、1978年6月30日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「大日本インキ化学工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"川村勝巳","role":"大日本インキ化学工業 社長","date":"1974","text":"経営の多角化とはいっても、当社の事業に全く縁のない仕事にまで分散するとかえって弱体化するので、化学工業だけに限定し、その中でも互いに有機的関連を持つ事業の多角化をはかっていこうというのが私のねらいである。\n化学工業はもともと金を食う仕事なので、ベーシックケミカルは財閥会社にまかせ、われわれはそこからくるものを知恵とサービスと足で製品化し、そこに当社の特色を生み出しているわけである。","source":"証券アナリストジャーナル 1974年12巻11号（日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨、1974年10月25日）","paragraph":1}]},{"title":"インキから派生した技術群 ── エポキシ・液晶・スピルリナ","text":"樹脂と顔料という二つの技術は、次々と別の製品を生んだ。1968年10月、新技術開発事業団からの委託研究「B-B留分を出発原料とするエポキシ樹脂の開発」が成功と認定され、独占実施権を得て1971年に事業化した。エポキシ樹脂は世界的にシェルが圧倒的なシェアを持ち、日本でも同社が5割を占めていたが、特殊タイプを武器に約2割まで食い込んでいる。1973年5月には、使用温度範囲・コントラスト・寿命で従来水準を上回るネマティック型液晶を開発し、電卓での採用を得た。液晶材料は顔料の分子設計から派生した領域である。\n\n派生には失敗もあった。石油から微生物でたんぱく質をつくる石油たんぱくは、国内で製造の許可が下りず、ルーマニアとの合弁で年産6万トンの工場を建設する道を選んだ。1979年春に完成したものの、現地の原料生産が間に合わず稼働は遅れている。代わりに手がけたのが、高たんぱくのらせん藻スピルリナだった。1974年7月に企業化を始め、タイのバンコク郊外に工場を建てて保健食品と食用色素の用途を開拓した。国内で認められなかった技術を国外で実らせようとし、そこでも躓き、隣の技術で市場を見つけた経緯である。\n\n拡大の速度は数字が示している。1957年に49億円だった売上高は、1977年に約2,400億円へ増えた。20年でおよそ49倍にあたる。この間の名目国民総生産は16倍にとどまり、市場の成長を上回る速さだった。1978年5月末の資本金は180億6,200万円、従業員5,335人、総資産2,257億円。ただし自己資本は381億円で比率は16.9%にとどまり、先行投資と土地保有の重さが金利負担として残った。同じインキ業界で本業に絞った東洋インキ製造とは、金利だけで年間60億円近い差があった。","references":[{"title":"DIC 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1974年12巻11号「大日本インキ化学工業」（川村勝巳社長講演要旨、1974年10月25日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年16巻8号「年商1兆円を10年後に実現」（川村茂邦社長講演要旨、1978年6月30日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「大日本インキ化学工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1978,"end_year":1998,"main_title":"一兆円計画と、時間を買う買収で世界一のインキメーカーになるまで","subsections":[{"title":"下から積み上げた長期計画としての一兆円","text":"1978年6月、川村茂邦氏が3代目社長に就いた。同氏は1928年に中国・大連で生まれ、旧姓を栗山という。東京大学法学部を卒えて日本長期信用銀行に入り、フルブライト留学生としてニューヨーク大学経営大学院に学んだのち、1957年に川村家の養子となって1959年に大日本インキへ入社した経歴を持つ。就任にあたって同氏は自らの役割をこう定めている。初代社長がインキ会社としての基礎を築き、2代社長が総合化学会社に育てた。3代目の仕事は、それを世界的化学会社にすることである。以後の買収は、この銀行と留学の経歴を持つ社長のもとで進んでいく。\n\nそこで掲げたのが、創業80周年にあたる1987年度に売上高1兆円という長期計画である。発端は1978年の創業70周年記念事業推進委員会で、年率15%の成長を続ければ5年で倍、10年で4倍になるという提案が出た。川村社長は各事業部に可能性を試算させ、集計した結果として達成可能と判断している。同氏はこの手順自体に意味を置いた。上から押しつけた数字ではなく、下から積み上げた数字であることが、目標を全社の活力に変えると考えたためである。当時、年商1兆円の化学会社は国内に存在しなかった。\n\n計画には自覚された欠落があった。過去5年の成長率は8%程度で、年率15%との間に数%の差が残る。これを埋める手段として、川村社長は新製品開発と海外戦略の二つを挙げた。研究開発費は当時で売上高の約3%にあたる80億円、翌年に100億円、10年後には売上高の6%を投じる計画である。従業員総数の5分の1にあたる1,000名余の技術研究員を抱えており、開発への投入量は人員の側にも表れていた。もっとも、差を埋める二本の柱のうち、実際に速度を出したのは開発ではなく買収である。研究が実を結ぶ時間を待たずに済ませる方法を、同氏は米国の企業買収に見ていた。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年16巻8号「年商1兆円を10年後に実現」（川村茂邦社長講演要旨、1978年6月30日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1979年17巻10号「62年度に年商1兆円を計画」（川村茂邦社長講演要旨、1979年9月14日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1987年2月2日号「編集長インタビュー 川村茂邦氏（大日本インキ化学工業社長）日本型M&A作戦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年9月14日号「新社長登場 奥村晃三氏（大日本インキ化学工業）体質改善で再編渦巻く世界競争に挑む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DIC 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"開発を待たずに買った技術と、人が残らなかった買収","text":"1979年3月、米国の印刷材料メーカーであるポリクローム社を株式の公開買付により買収した。川村社長は買収の理由を、開発の時間とリスクの節約として説明している。同社はレーザーなどの映像受信に必要な感光材料に優れた技術を持っていた。同じものを自力で開発すれば多大な時間と資金を要し、しかも成功する保証がない。買収なら技術はその場で手に入り、収益にもすぐ効く。加えて同社が持つ市場そのものを貴重と評価した、とも述べている。開発に要る年月ごと、技術と顧客を金で買う考え方である。米欧の子会社には情報の収集源という役割も与えている。日本より先を行く市場の動きから、3年後・5年後の国内需要を読む狙いだった。\n\n1986年12月、米国サン・ケミカル社のグラフィックアーツ部門を買収し、新生サン・ケミカルとして発足させた。買収額は5億5,000万ドル、当時の為替でおよそ850億円である。同社の自己資本は約1,000億円だったから、自己資本に匹敵する規模の投資にあたる。これによって世界最大の印刷インキメーカーとなった。翌1987年9月には、合弁の相手だった米国ライヒホールド・ケミカルズを公開買付により買収している。1952年に技術を教わった相手を、35年後に傘下へ収めた形になる。世界一のインキメーカーの地位は、この二つの買収で確定した。\n\n川村社長は買収の成否を人の問題として語っている。サン・ケミカルでは、7年間の社長在任中に同社を全米一のインキ会社にしながら会長と意見が合わず退いていた前社長のレッド・パーカー氏と連絡を取り続け、買収に成功したら経営を引き受けるかを事前に打診していた。承諾を得てから具体的な交渉に入っている。逆の例もある。10年ほど前、米国で6番目に大きいインキ会社コール・アンド・マーデンを、純資産900万ドルに対して600万ドルで買った。安い買物に見えたが、創業者が亡くなって売りに出たワンマン会社で、人材も技術もほとんど残っていなかった。経営者から経理・技術者までを送り込み、立て直しに7年かかっている。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年16巻8号「年商1兆円を10年後に実現」（川村茂邦社長講演要旨、1978年6月30日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1979年17巻10号「62年度に年商1兆円を計画」（川村茂邦社長講演要旨、1979年9月14日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1987年2月2日号「編集長インタビュー 川村茂邦氏（大日本インキ化学工業社長）日本型M&A作戦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年9月14日号「新社長登場 奥村晃三氏（大日本インキ化学工業）体質改善で再編渦巻く世界競争に挑む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DIC 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"川村茂邦","role":"大日本インキ化学工業 社長","date":"1987-02-02","text":"会社を買うというのは、同じ投資といっても、債券とか不動産を買うのと違って、実態がないんですね。特にアメリカの場合、土地・建物というのは余り価値がありませんから、人間と仕事そのものしかないわけですよ。いい経営者が辞めちゃった、いい技術者・セールスマンが辞めちゃった、となると何も残らない。\nサン・ケミにしたって「1足す1が2」じゃ、それだけの冒険をする値打ちはありません。3になり5にできるという自信があるからこそ買っているんで、その会社を必ずよくできるという成算がなきゃ企業買収も意味ないですからね。","source":"日経ビジネス 1987年2月2日号「編集長インタビュー 日本型M&A作戦」","paragraph":3}]},{"title":"達成の遅れと、非同族社長が迫られた事業の再構築","text":"1兆円は、計画が掲げた1987年度には届かなかった。連結売上高が1兆217億円に達したのは1998年3月期であり、10年遅れている。しかもその内訳は、当初の想定と姿を変えていた。売上高の55.3%を海外が占め、国内の伸びで積み上げる計画は、買収した米欧の子会社によって達成された形である。世界最大のインキメーカーという地位と、買収で膨らんだ有利子負債とが、同時に手元に残った。1979年の講演で川村社長は、創業100年時には年商2兆円を達成できると述べていた。見通しの前提だった年率15%成長は、日本の低成長と円高のもとで戻らなかった。10年の遅れは、その未達が積み上がった分である。\n\n1998年6月、奥村晃三氏が社長に就任した。創業者一族の川村家が発行済み株式の約16%を握って影響力を残すなかで、先代の高橋武光社長に続く2人目の創業家以外からの社長である。1961年に入社して経理畑を歩み、1968年から1971年にかけて手計算だった原価・利益の算出を大型コンピューターで電算化した経験を持つ。就任時、1998年3月期の単独決算は3期ぶりの減収となっていた。同氏は製品ごとに社内での位置づけを洗い直し、強化するものと撤退・縮小するものを見極める方針を掲げ、2000年までに体制を整えなければ世界では生き残れないと述べている。欧米の巨大化学会社が合従連衡を進めるなかでの判断だった。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年16巻8号「年商1兆円を10年後に実現」（川村茂邦社長講演要旨、1978年6月30日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1979年17巻10号「62年度に年商1兆円を計画」（川村茂邦社長講演要旨、1979年9月14日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1987年2月2日号「編集長インタビュー 川村茂邦氏（大日本インキ化学工業社長）日本型M&A作戦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年9月14日号「新社長登場 奥村晃三氏（大日本インキ化学工業）体質改善で再編渦巻く世界競争に挑む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DIC 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1999,"end_year":2025,"main_title":"印刷インキの成熟を受けた顔料への集中と、資産圧縮を迫られた二十五年","subsections":[{"title":"買った事業を手放す判断と、国内印刷インキの統合","text":"1999年12月、フランスのトタルフィナ社ほかから印刷インキ事業のコーツグループを買収した。買収による拡大は続いたが、同じ時期に手放す判断も始まっている。1997年12月に米国イーストマン・コダックとの合弁で設立した印刷材料メーカーKPGは、2005年4月に出資分の資本償還を受けてコダックの100%子会社となった。2005年9月には、1987年に買収したライヒホールドグループをMBO方式で売却している。1952年に合弁の相手として技術を仰ぎ、1987年に傘下へ収めた会社を、18年後に手放した。半世紀にわたる関係が、この売却で終わっている。\n\n2008年4月、創業100周年を機に商号をDIC株式会社へ改めた。DICは Dainippon Ink and Chemicals の頭文字で、1960年代から社章として使われてきた略称である。社名から「インキ」の三文字が消えたのは、1962年に「化学工業」を加えたときと対をなす変更にあたる。翌2009年10月には、大日本印刷の子会社であるザ・インクテックと国内印刷インキ事業を統合し、DICグラフィックスを設立した。国内の印刷需要が縮むなかで、競合と事業を持ち寄る形を選んでいる。海外は買収で広げ、国内は統合で守る。同じインキ事業でも、市場が伸びるか縮むかで打つ手が分かれた。","references":[{"title":"DIC 有価証券報告書（第128期・2025年12月期）【沿革】【経理の状況】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DICレポート2021・DICレポート2025・DICレポート2026（DICグループ統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DIC ニュースリリース（2025年・株主提案および議決権行使に関する会社見解）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DIC 有価証券報告書（連結損益計算書・従業員の状況）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"顔料への集中と、BASF事業買収という最大の投資","text":"印刷インキの市場が成熟するなかで、比重を移した先は顔料だった。2012年7月にベンダ・ルッツグループを買収してエフェクト顔料へ、2015年7月に英国キングフィッシャー・カラーズを買収して化粧品用顔料へ、それぞれ本格的に参入している。技術の側でも成果が出ていた。2010年に開発した液晶パネルのカラーフィルタ用グリーン顔料G58シリーズは、輝度の高さによってグリーン顔料の市場で主要な位置を占めた。1925年に自給を始めた顔料が、100年近くを経て事業の中心に戻ってきた形になる。インキの原料として持った技術が、化粧品と液晶パネルで独立した商品になった。\n\n2021年6月、ドイツBASFの顔料事業であるColors & Effects事業を買収した。有機顔料で世界首位の地位を固める投資であり、同社にとって過去最大規模の買収となる。2023年にはカナダの半導体フォトレジスト用ポリマーメーカーであるPCAS Canadaを買収し、北米に樹脂の製造拠点を確保した。買収で事業を組み替える手法は、1979年のポリクロームから40年を超えて続いている。ただし川村茂邦社長が語った「1足す1が2」では割に合わないという基準は、売上高1兆円の企業では一件ごとに測りにくい。買った資産の重さは、次の三年で株主から問われた。","references":[{"title":"DIC 有価証券報告書（第128期・2025年12月期）【沿革】【経理の状況】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DICレポート2021・DICレポート2025・DICレポート2026（DICグループ統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DIC ニュースリリース（2025年・株主提案および議決権行使に関する会社見解）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DIC 有価証券報告書（連結損益計算書・従業員の状況）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"減損と事業の整理 ── 抱えた資産を絞り直した三年","text":"2023年12月期、特別損失405億円を計上して当期純損失398億円となった。売上高は1兆387億円で前期並みだったが、営業利益は前期の396億円から179億円へ落ちている。2024年12月期は売上高1兆711億円・営業利益445億円、2025年12月期は売上高1兆521億円・営業利益521億円・当期純利益323億円と回復した。一方で連結従業員数は2022年12月期の22,743人から2025年12月期の20,884人へ、三年で1,859人減っている。売上の規模を保ちながら、抱える資産と人員を絞る三年だった。\n\n2024年1月、池田尚志氏が社長執行役員に就き、同年3月に代表取締役社長執行役員となった。2018年から社長を務めた猪野薫氏は取締役会長へ移っている。事業の整理はここから加速した。同年12月、1973年の開発以来続けてきた液晶材料事業から撤退し、生産を終えている。長期経営計画「DIC Vision 2030」でTFT液晶を構造改革事業と位置づけたうえでの判断であり、2025年9月には中国の生産子会社2社の出資持分も譲渡した。同じ2024年1月には、1968年に合弁で始めた製紙用薬品事業の流れを汲む星光PMCの保有株式を、同社の自己株式取得により全て譲渡した。2025年6月には、2017年から資本業務提携を結んできた太陽ホールディングスの定時株主総会で同社社長の取締役選任議案に反対の議決権を行使し、議案は否決されている。\n\n見直しは事業の外にも及んだ。2024年4月に社外取締役を中心とする価値共創委員会を設け、第1号のテーマとしてDIC川村記念美術館を審議している。12月には規模縮小と都内移転を決め、保有する美術品384点を約100点へ絞って残りを売却する方針を固めた。美術館は2025年3月に休館し、主要作品は同年11月にニューヨークの国際オークションへ出品されている。1990年の開館以来、創業家の名を冠してきた施設だった。2025年3月の第127期定時株主総会では、OASIS INVESTMENTS II MASTER FUND ほかによる株主提案に直面した。取締役会は2月12日に反対意見を表明した。議決権行使助言会社のISSは取締役会長である猪野薫氏の選任に反対を推奨したが、同氏は再任され、この総会で創業家の川村喜久氏が取締役を退任した。創業家の名を冠した施設と創業家の取締役が、同じ年に離れている。","references":[{"title":"DIC 有価証券報告書（第128期・2025年12月期）【沿革】【経理の状況】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DICレポート2021・DICレポート2025・DICレポート2026（DICグループ統合報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DIC ニュースリリース（2025年・株主提案および議決権行使に関する会社見解）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"DIC 有価証券報告書（連結損益計算書・従業員の状況）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1908年に始まった印刷インキの町工場が、色そのものをつくる化学会社になったのか","a":"インキの発色と原価を決めるのは顔料であり、それを輸入に頼るかぎり、製品の性能も価格も他社の技術に握られる。自給できれば色を自分で設計できる。1908年2月、川村喜十郎氏が東京・本所にインキロール三台を据えて川村インキ製造所を創業し、1925年に国内で有機顔料の自社生産に成功した。以後の多角化は、顔料と、顔料を分散させる樹脂という二つの技術から派生している。社名からインキの三文字が消えてDICとなったのは、創業100周年の2008年である。"},{"q":"なぜ1986年に、自己資本に匹敵する850億円を投じて米サン・ケミカルを買収したのか","a":"1978年に掲げた創業80周年での売上高1兆円は、年率15%の成長を続けて初めて届く目標だった。ところが直前5年の実績は8%にとどまり、新製品の開発だけでは差が埋まらない。川村茂邦社長は1979年、先に買収した米ポリクローム社を例に、自力開発は時間と資金を要し成功の保証もないが、会社を買えばリスクなしに技術と相手の市場を同時に得られると説明し、以後もこの戦略を採ると述べた。買収額5億5,000万ドルは約850億円、当時の自己資本およそ1,000億円に迫り、同社は世界最大の印刷インキメーカーとなった。"},{"q":"なぜ2024年に、1973年の開発以来続けてきた液晶材料事業から撤退したのか","a":"買収で広げた事業の重さが、資本コストの側から問い直されたためである。2023年12月期に特別損失405億円を計上して当期純損失398億円を出し、翌年から資産の絞り込みが加速した。同社は液晶材料を長期経営計画「DIC Vision 2030」の構造改革事業と定め、2024年12月に生産を終えている。同じ年に星光PMCの保有株式を全て手放し、DIC川村記念美術館の美術品384点を約100点へ絞る方針も決めた。2025年3月の定時株主総会ではOASIS系ファンドの株主提案に直面した。"}]}}