ホテル事業「ダイワロイヤルホテルズ」の急拡大と定まらぬブランド

会員制と一般客営業の「二鳥作戦」——石橋殾一社長は多角化の副作用とどう向き合ったか

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時期 1990年7月
意思決定者 石橋殾一 大和ハウス工業 社長
論点 観光・ホテル事業の急拡大とブランド戦略の迷走
概要
1990年7月、日経ビジネスが大和ハウス工業のホテルチェーン「ダイワロイヤルホテルズ」の急拡大とブランドの定まらなさを報じた。1978年に会長・石橋信夫氏の掛け声で始まったホテル事業は、1985年からの5年間で15カ所を開業して客室数5000室規模に達したが、高級リゾートか大衆観光ホテルか、会員制か一般客中心かという性格づけが最後まで定まらなかった。
背景
住宅製造業から総合生活産業への転換を志向した石橋信夫会長の多角化方針のもと、1982年からの転換社債の断続的な発行を通じてリゾート開発資金を調達した。バブル期の地価上昇や好調な資金調達環境とあいまって、低利の借金でホテルを量産できる体制が整った。
内容
石橋殾一社長は海外リゾートの調査を踏まえ、欧米型リゾートと日本の観光を共存させる独自路線を語ったが、同業他社の役員からは高級リゾートか大衆観光ホテルか性格が不明という評価が相次いだ。会員制を掲げながら会員の宿泊比率は2割程度にとどまり、実態は法人・団体客の宴会・コンベンション営業に力を入れていた。
含意
拡大を支えた低利の借金は1990年代に有利子負債の膨張を招き、ブランドの一貫性を欠いた状態は約30年続いた。2018年にようやく名称を統一したが、2022年には施設老朽化とコロナ禍の稼働率低迷を理由に、大和ハウスはリゾートホテル事業そのものを売却し撤退した。
筆者の見解

拡大の速度と、像を結ばなかったブランド

この判断の核心は、資金と土地さえあれば拡大できたという点と、その拡大が何を目指すのかという像を最後まで結ばなかった点との落差にある。石橋殾一社長は海外リゾートの調査に基づく独自の哲学を語ったが、高級路線を志向する会員制度と、収益を実際に支えていた法人・団体中心の大衆営業とは、ねじれたまま同居していた。低利の転換社債という追い風がある間は、この矛盾は業績の拡大に隠れて表面化しなかったとみることができる。

むしろ矛盾が表面化したのは、拡大が止まった後であった。バブル崩壊後に負債圧縮という財務規律が優先される時代になると、性格の定まらないブランドはかえって重荷として意識されるようになったとみられる。2018年のブランド統一は迷走への一つの答えであったが、老朽化した施設群と縮小した需要という現実の前では最終的な解決策にはならなかった。2022年の売却は、多角化が生んだ副作用を、拡大から半世紀近くを経て清算した帰結といえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「会長の道楽」から始まったホテル事業

1978年、大和ハウス工業は石橋信夫会長の掛け声のもと、石川県志賀町に能登ロイヤルホテルを開業してホテル事業に参入した。住宅製造業から総合生活産業への転換を目指す多角化の一環であったが、当初は社内でも会長個人の道楽と受け止められていた。石川県・能登半島の1カ所を運営するだけの小規模な事業にとどまっていた[1]

拡大の原資は、リゾート開発のために発行した転換社債であった。大和ハウスは1982年からリゾート開発を主目的とする観光事業向けに転換社債を断続的に発行しており、投資した1200億円の大半は、この5年間に転換社債やワラント債で調達した低利の資金でまかなわれていた。バブル期の資金調達環境が、ホテルの量産を財務面から支えた[2][3]

リゾートブームに乗った客室数の急拡大

1985年から90年にかけての5年間で、大和ハウスは全国15カ所にホテルを相次いで開業した。10年前にはわずか120室だった総客室数は、この間に4772室へと膨らんだ。1990年秋には大分県別府市で17番目となる300室のホテルを開業する計画も進んでおり、開業後には客室数5000室の大台に乗る見込みであった。ホテルチェーンの規模別ランキング(89年9月、日経産業新聞調べ)では西武グループ「プリンスホテル」、東急グループに次ぐ規模で、観光リゾート型ホテルに限れば業界10位であった[4][5]

急拡大は業績にも表れた。ホテルを中心とする観光事業収入は1989年3月期の200億円から1990年3月期には340億円へ伸び、黒字化にこぎ着けた。石橋殾一社長は今期430億円を見込んだうえで「ゆくゆくは全売り上げの10%の規模に持っていきたい」と語り、全社で3年後に1兆円企業を目指すなかで観光事業の売上高1000億円を目標に据えていた[6]

決断

高級感と大衆化の「二鳥作戦」

同業大手ホテルチェーンの役員からは、「ダイワロイヤルホテルズ」の急拡大ぶりについて一様に戸惑いの声が上がっていた。リゾートホテルとして高級感を売るのか、観光ホテルの大衆性を武器にしようとしているのか分からないという指摘である。石橋殾一(しゅんいち)社長は業界の評価など気にかける様子もなく、海外のリゾートを徹底調査したうえで、欧米風のリゾートと日本の観光を共存させた形態こそが日本のリゾートであると語り、独自路線を貫いた[7][8]

立地戦略にもしたたかな計算が働いていた。ホテルの多くは、過疎に悩み地域振興を願う市町村の誘致に応えて進出しており、土地は自治体から誘致条件として安く仕入れることができた。そこにホテルを建てて周辺の土地の価値を高め、別荘やゴルフ会員権の分譲でも収益を得る仕組みである。ホテル運営と並行して別荘地やゴルフ場を開発し、値上がり益をねらう土地のキャピタルゲイン戦略が、建設計画を支えていた[9]

会員制の建前と一般客営業の実態

会員制「ダイワロイヤルメンバーズクラブ」は1984年9月に会員募集を開始し、約9000口を集めていた。会員権価格は個人1000万円、法人1500万円で、会員になれば1人1泊2000円で宿泊できる仕組みである。しかし客室数5000室に対し会員数約9000口という比率は、他社の会員制ホテルが1部屋あたり15口を集めるのと比べて極端に少なく、会員の宿泊は全体の2割程度にとどまっていた[10]

社内では会員制を「一種のファンクラブ」と位置づける声もあった。小畑幸生観光事業部長は、会員制はあくまでホテル経営における固定客確保の一手段に過ぎず、実際には一般客を主体にしていると説明した。宿泊客の6割が法人、4割が一般客という構成で、遠方からの旅行客よりも地元の企業や公共団体、結婚式利用など地元客をターゲットとする点は、ロイヤルホテルのほとんどに共通していた[11]

結果

膨らんだ借金という代償

低利の転換社債・ワラント債に頼ったホテルの量産は、1990年代に入ってからも続いた。経理畑出身の小川哲司専務は後年、1980年代後半から90年代前半のバブル期にはワラント債を大量に発行しており、当時はオーナーの石橋信夫氏にも借り入れによる積極投資で事業を拡大する考えがあったと振り返っている。この結果、大和ハウスの有利子負債は1994年3月期にピークの3877億円へと膨らんだ[12][13]

ホテル事業の収益は、資産の減価償却による利益圧縮効果にも支えられていた。大和ハウス全体の1990年3月期の売上高は6642億円、経常利益は632億円だったが、このうちホテルの減価償却費として71億円を定率償却で計上しており、節税効果につなげていた。石橋殾一社長は「今年3月期末の現預金は約3500億円、このうち1500億円は観光事業に投資する」と述べ、拡大路線をなお続ける構えを示していた[14][15]

ブランド統一、そして撤退

「看板」が定まらないまま拡大したホテル事業は、その後も長く「ダイワロイヤルホテルズ」の名を引き継いだ。大和リゾートは2018年4月1日、全国27ホテルの名称とロゴを「DAIWA ROYAL HOTEL」へ統一し、地域・ターゲット別に4つのコンセプトへ再編した。1990年時点で同業他社の役員が指摘した高級感と大衆性の性格の不明瞭さに、約28年を経てようやく区分を明確にする形で応えたことになる[16]

だが、ブランド統一は事業存続の答えにはならなかった。大和ハウスは2022年12月8日、大和リゾートが運営する全国のホテルの株式・債権・固定資産を、ホテル資産運用会社ジャパン・ホテル・リート・アドバイザーズが管理する合同会社恵比寿リゾートへ約556億円で譲渡すると発表した。施設の老朽化と新型コロナウイルスの感染拡大による稼働率低迷が理由であり、1978年に「会長の道楽」として始まったリゾートホテル事業は、44年を経て大和ハウスの手を離れた[17]

出典・参考