美浜2号機の細管破断事故と自主保安体制の立て直し
国内初のECCS作動事故を「人災」と総括し、経営陣は安全監査の仕組みをどう組み替えたか
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- 概要
- 1991年2月9日、関西電力の美浜発電所2号機で蒸気発生器の伝熱管が破断し、非常用炉心冷却装置(ECCS)が作動した。国内の商用原発で初めてECCSが働いた大規模事故であった。事故原因の調査を陣頭指揮した森井清二社長は、これを技術への過信が招いた「人災」と総括し、原因究明に区切りをつけた同年11月に社長を退いた。
- 背景
- 事故は、放射性物質を含む1次冷却水が流れる伝熱管の振動を抑える振れ止め金具が、正しい位置に入っていなかったために起きた。美浜2号機は最初の国産原発で、製造から20年以上が経ち、なぜ設計図通りに施工されていなかったのかを調べる記録も残っていなかった。組み上げたあとは外から金具の状態が見えず、定期検査でも見過ごされていた。
- 内容
- 森井社長は自主保安体制を強化するため、社長が原子力本部長を兼ねる制度に改め、2万5000人の全社員に原発の安全維持を最重点目標と意識させた。社長室品質監査部に原子力監査プロジェクトチームを置き、事故の人的要因を研究する原子力安全システム研究所を社外に設けた。住民への通報の遅れも反省し、ファクスやポケベルによる緊急通報の仕組みを整えた。
- 含意
- 「原発はほかの機械と違い、安全のために妥協は一切許されない」との認識に立ち、経営トップ自らが安全の責任を引き受ける体制へと組み替えた判断であった。後任の秋山喜久社長も原子力本部長を兼任し、信頼回復を陣頭指揮した。もっとも、13年後の2004年に美浜3号機で検査漏れによる死亡事故が起き、自主保安の徹底という課題は繰り返し問い直されていった。
過信を戒めた総括の射程
この判断が際立つのは、事故の原因を機器の不具合や下請けの施工不良だけに求めず、「絶対にあるはずがない」と思い込む技術への過信という、組織の心のありようにまで踏み込んで総括した点にある。社長が原子力本部長を兼ねる制度、社外に置いた安全研究所、全社員に安全を最重点と意識させる仕掛け——いずれも、安全の責任を現場任せにせず経営の中枢に引き寄せようとする試みであったとみることができる。トップ自身が誌上で「人災」と認めた率直さには、事故を組織として引き受けようとする構えがうかがえる。
それでも、過信を戒める言葉が組織の隅々に根づいたかどうかは、13年後の2004年に美浜3号機で起きた検査漏れの死亡事故が改めて問い直した。1991年に掲げた自主保安の徹底が、コスト効率を追う時代の圧力のなかで再びほころびを見せたとすれば、この総括はどこまで実を結んだのかという問いが残る。安全を経営の中枢に置く仕組みを作ることと、その仕組みが年月を経ても働き続けることとの間には、なお隔たりがあったとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
想定外だった伝熱管の破断
1991年2月9日、土曜日の午後、福井県美浜町の美浜発電所2号機で異常が発生した。蒸気発生器の中にある伝熱管が破断した。伝熱管の破断は、当時の関西電力にとって「はっきり言って想定外」の事態であった。原子炉が安全に停止し、中の放射性物質が外部に出ないことが設計の基本とされるなか、美浜2号機では非常用炉心冷却装置(ECCS)が作動した。国内の商用原発でECCSが働いた最初の事故であり、その一報を受けた森井清二社長は、事態の重さを即座に悟ったという[1]。
事故の直接の原因は、放射性物質を含む1次冷却水が流れる伝熱管の振動を抑える振れ止め金具が、正しい位置に入っていなかった点にあった。美浜2号機は最初の国産原発で、製造から20年以上が経ち、なぜ設計図通りに施工されていなかったのかを調べる記録も残っていなかった。いったん組み上げてしまえば金具の状態は外から見えず、運転の合間に行う定期検査でも見つけにくい部分であった。そのまま、定期検査でも見過ごされてきた[2]。
決断
「人災」という総括
森井清二社長は、事故を技術への過信が招いた「人災」と総括した。原発はほかの機械と違い、安全のために妥協は一切許されない——その原則を掲げつつ、自分たちにも油断があったと認めた。ずさんな工事があるはずがないと信じていたために、受け入れ試験にそうした項目を含めていなかった。絶対にあるはずがないと思えば、だれも注意をそこに向けなくなる。技術に対する過信が事故を招いた最大の原因であったと、経営トップ自らが誌上で自己批判的に振り返った[3]。
総括は、自主保安体制の組み替えという具体策に落とし込まれた。まず社長が原子力本部長を兼務する制度に改め、2万5000人の全社員に原発の安全を維持することが最重点目標だと意識させた。原子力部門を外から冷静に見る仕組みとして、社長室品質監査部に原子力監査プロジェクトチームを設け、品質保証の社内基準を明確にした。さらに事故の人的要因を研究する原子力安全システム研究所を社外に置き、第三者的な立場から安全システムに自由に発言・勧告できる権限を持たせた。関西電力は資金は出すが口は出さない建て付けとした[4]。
住民への通報と社長交代
事故対応では、住民への通報が若干遅れた点も反省の対象となった。連絡システムは一応整えていたが、全員に連絡するまでにどの程度時間がかかるのか、不在の場合にどう対応するのかといった、血の通った仕組みにはなっていなかった。原子炉を安全に停止させる運転操作を優先したことも、住民への連絡が遅れた一因であった。関西電力は住民の自宅にファクシミリを取り付けて情報を一斉に伝え、不在に備えてポケベルや携帯電話を導入するなど、緊急通報の仕組みをハード面から整え直した[5]。
森井社長は、事故原因の調査が進んで区切りがついた1991年11月に社長を退いた。事故後は原子力本部長に就いて原因解明を陣頭指揮し、対策を講じたことで責任を果たしたとの受け止めであった。後任の秋山喜久社長も原子力本部長と立地環境本部長を兼任し、発電所を回って現場トップと品質管理の対話を重ねながら、原発への信頼回復と2000年前後に予想される電力不足への対策を陣頭指揮する立場に立った。安全の責任を経営トップが直接引き受ける体制は、社長交代をまたいで引き継がれた[6]。
結果
信頼回復への地道な努力
事故は原発への不信を増幅させたが、関西電力は立地地域との関係を軸に信頼回復を図った。原発が多く立地する若狭地区の住民の多くは事故後も関西電力の対応を理解したとされ、美浜でも最初の通報の遅れへの不満はあったものの、その後の対応への不満は聞かれなかったという。今後はこれまで以上に情報公開に努めるだけでなく、地元の気持ちになって納得してもらえるよう説明する——森井社長はそう述べ、次の原発立地が認められる日を信頼回復の日と理解すると語った[7]。
一方で、関西電力は原発を主力電源とする方針そのものは変えなかった。二酸化炭素による地球温暖化や化石燃料の資源制約を踏まえれば、近い将来に代替となるエネルギー源は見当たらないとの判断であった。1990年と1991年の2年でピーク需要が予想の3倍のペースで増えており、将来の需給バランスが崩れる懸念も背景にあった。事故を契機にエネルギー構成の見直しは進めつつ、原子力を主力に据える構えは維持されたとみられる[8]。
- 日経ビジネス 1992年1月20日号「森井清二氏[関西電力副会長]敗軍の将、兵を語る 技術を過信、ミス見逃す。美浜原発事故は"人災"」
- 日経ビジネス 1992年5月25日号「秋山喜久氏[関西電力]登場 『より安全に』、原発の信頼回復へ全力」