創業100年を機に非繊維事業への多角化を急ピッチで推進

繊維の停滞にどう向き合うか——呉羽紡績出身の宇野収社長が掲げた「85年ビジョン」「90年ビジョン」

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時期 1982年6月
意思決定者 宇野収 東洋紡績社長
論点 非繊維事業への多角化と経営体質の転換
概要
1978年に呉羽紡績出身の宇野収が社長に就任した東洋紡績は、創業100年を迎えた1982年、プラスチック・生化学・分離膜・エレクトロニクスへの経営資源シフトを数値目標つきで打ち出し、非繊維事業への多角化を急ピッチで進める経営判断に踏み切った。
背景
1954年の合繊提携見送りに始まる出遅れと1966年の呉羽紡績合併を経ても本業の収益停滞は解けず、重化学工業との成長スピードの格差が広がるなかで、非繊維事業の拡大が経営の生命線として意識されるようになっていた。
内容
宇野収社長は1982年6月の講演で「85年ビジョン」に続く「90年ビジョン」を掲げて非繊維売上比率を40%へ引き上げる目標を示し、シャープとの提携強化や異業種との合弁を通じてエレクトロニクス・生化学分野へ参入した。
含意
「量より質」への転換は財務体質の改善と新規事業の柱を生んだ一方、1980年代末には本業の繊維が高付加価値化で自信を取り戻し、非繊維一辺倒ではない経営への揺り戻しも同時に起きていた。
筆者の見解

危機意識の刷新と、選別されていく事業群

この経営判断の核心は、財務危機への直接的な対応ではなく、創業100年という節目に自ら危機意識を刷新した点にある。しかも、その旗を振ったのが呉羽紡績出身で社内に疎外感を抱いた経験を持つ宇野収であったことは示唆的である。生え抜きではない経営者であったからこそ、繊維の名門という自己認識に安住せず、プラスチック・生化学・分離膜・エレクトロニクスへの資源シフトを数値目標つきで打ち出せたとみることができる。

もっとも、非繊維拡大は一本道の成功譚ではなかった。1980年代末には本業の繊維が高付加価値化で息を吹き返し、経営陣自身が新規事業の絞り込みを口にする場面もあった。それでも、犬山工場に由来するフィルム技術は後年、液晶向け保護フィルムで高い世界シェアを握る事業に育ち、分離膜事業も水処理分野で世界トップ級の存在感を示すようになった。1982年の急ピッチな多角化は、その場での成否を決めたというより、その後数十年をかけて選別されていく事業群の種をまいた出来事だったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

合繊出遅れと呉羽紡績合併という布石

東洋紡績は1954年、英国インペリアル・ケミカル・インダストリーズから持ちかけられたポリエステル繊維の技術提携を、設備投資の不確実性を理由に見送った。この判断で合繊参入は帝人・東洋レーヨンに約8年遅れ、1961年の業界評では、戦前に業界首位を争った東洋紡が「小結程度の存在」まで地盤沈下したと評された。1966年、東洋紡はナイロン設備を持つ呉羽紡績と合併し、谷口豊三郎社長は合繊をすべて持つ強力な紡績会社の設立を合併の狙いに掲げた[1][2]

合併後も本業の停滞という構造問題は解けなかった。宇野収社長は1982年の講演で東洋紡創業100年の歩みを振り返り、昭和26、27年ごろから収益が停滞し、重化学工業との成長スピードの格差がその後25年から30年の間に大きく開いたと総括した。会社の歴史を「初めの4分の3は炎のように燃え立つ時代、後の4分の1は灰のように沈静化して新たな燃料を探すのに苦労した時代」と表現し、危機感を隠さなかった[3]

呉羽紡績出身の宇野収、社長就任までの道のり

多角化を主導した宇野収は、生え抜きの東洋紡社員ではなかった。最初に入社したのは呉羽紡績で、そこでの勤務は21年間に及んだ。呉羽紡績が東洋紡に吸収合併された1966年、業界は不況のただ中にあった。移籍半年後に商品開発部長心得を命じられたが、加工綿布のエキスパートを自認していた宇野は「名前は立派だが、実際は社内のあぶれ者の寄せ集め」という部内の評判に疎外感を抱き、辞意を漏らすことも一再ではなかった[4][5]

それでも会社に残る決心をしたのは、江戸期の儒学者・佐藤一斎の教えに支えられたためであり、1971年に取締役となって以降は道が急速に開けていった。1978年、宇野は社長に就任した。合併前の3代前の社長・谷口豊三郎から「世の中には生々流転の流れ、勢いというものがある。無理に逆らうものではない」と背中を押されたことが、社長を引き受ける決心の後押しになったという[6]

決断

創業100年の講演で示した「85年ビジョン」「90年ビジョン」

1982年6月3日、日本証券アナリスト協会企業分析部会で講演した宇野社長は、創業100年を迎えた東洋紡の経営戦略として、1980年に設定した「85年ビジョン」に続き、新たに1990年を最終目標とする「90年ビジョン」を策定したと明かした。85年ビジョンは売上高4500億円、非繊維部門比率13%、経常利益200億円を掲げ、90年ビジョンではそれぞれ9000億円、40%、400億円へ引き上げる数値目標を示した[7]

宇野社長はこの場で、非繊維事業をプラスチック・分離膜・生化学・エレクトロニクス関連の四つのグループに整理して説明した。プラスチック・フィルムは1968年発足の化成品事業部から育ち、すでに国内トップメーカーの地位を築いており、その先にある分離膜や生化学は繊維の技術を転用した新領域だった。一方で、自己資本比率や利益率など経営計数面での見劣りを自ら認め、財務体質の改善を緊急課題に挙げた[8][9]

テクノミックス戦略――シャープ提携と異業種合弁によるエレクトロニクス参入

「会社の規模拡大のためには繊維以外の事業展開を考えざるを得ない。それも早くやるとなると、どうしても異業種との結合が必要になるんです」。1983年6月、日経ビジネスの取材に応じた宇野社長は、穏やかな表情の裏に危機意識をにじませてこう語った。当時の東洋紡の非繊維化率は約11%と、繊維大手の中では最低の部類にとどまっていた[10][11]

東洋紡はシャープへ材料を納めることから始まった技術提携をここ2、3年で急速に拡大し、1983年5月には永瀬スクリーン印刷研究所との合弁会社を設立してエレクトロニクス分野へ参入した。同じころ、繊維不況下のライフサイエンス事業でも医療機器商社ニッショーと提携し、独自の中空糸膜技術を人工腎臓向けに転用する共同開発を進めていた。宇野社長は「1990年までに非繊維部門の売り上げを全体の40%、エレクトロニクス関係の売り上げを10%にしたい」と語り、次なる提携の準備を進めていた[12][13][14]

結果

非繊維拡大の成果と、本業回帰への揺り戻し

多角化は数字にも表れた。1988年3月期の非繊維部門売上比率は20%強に達し、東洋紡は1986年に策定したビジョンに沿って1990年までにこれを35%へ引き上げる長期戦略を掲げ続けていた。宇野の後任として経営を率いた瀧澤三郎社長も、樹脂フィルムやバイオなど非繊維分野の拡大方針を継承し、長期戦略の軸がぶれていないことを内外に強調した[15]

もっとも、1988年時点の東洋紡が実際に誇っていたのは、皮肉にも本業である繊維の復調だった。差別化商品比率が高まり生産現場に自信が戻るなかで、瀧澤社長は「そろそろ新規事業の見直しを始める」と述べ、「本業周辺の分野はいいが、それ以外は今一つ」と手厳しく評した。非繊維一辺倒ではなく、本業と多角化の双方を見直す動きが同時に進んでいた[16]

出典・参考