日本石油と三菱石油の合併「日石三菱」

1999年成立

民族系最大手と三菱グループの元売りは、なぜ規制緩和の荒波のなかで一つになったのか?

更新:

時期 1998年11月
概要
1999年4月、石油元売り大手の日本石油が三菱石油を吸収合併し、日石三菱が発足した案件。石油製品全体で約25%のシェアを握る国内最大の元売りが生まれた。
背景
1996年の特定石油製品輸入暫定措置法(特石法)廃止による輸入自由化で価格競争が激化し、原油安と需要の頭打ちが重なって元売り各社は構造的なコスト圧力にさらされていた。
内容
1984年からの業務提携を土台に、両社は合併で精製・物流・販売の重複を整理し、効率化を狙った。三菱グループの枠を越えた、民族系最大手による越境再編であった。
含意
日石三菱はその後コスモ石油などとの提携を重ね、新日本石油を経てJX・ENEOSへとつながる。1990年代後半に始まる石油元売り再編の連鎖の起点となった統合とみられる。
筆者の見解

規制緩和が促した再編の論理

日石三菱の合併は、規制緩和が産業の構造そのものを動かした事例として読むことができる。特石法廃止による輸入自由化は、保護されてきた元売り各社を直接の価格競争にさらし、自前の効率化だけでは追いつかない圧力を生んだ。単独で生き残れるとみられた民族系最大手ですら合併へ舵を切った事実は、競争環境の変化が個別企業の合理化努力を超えて再編を要請する局面があることを示しているとみられる。

同時にこの案件は、系列を越えた統合がありうることを示した点でも意味を持つ。三菱グループの一員であった三菱石油が民族系最大手と一体になった背景には、15年に及ぶ業務提携の蓄積があった。提携を通じて互いの事業や文化を理解する時間が、グループの垣根を越える決断の土台になったと読める。合併そのものは曲折を経たと当事者が振り返っており、規模の論理だけで一気に決まったわけではない。提携の積み重ねと外部環境の変化が重なったとき、系列という前提すら相対化されうる——その後の石油元売り再編の連鎖は、その延長線上にあったとみることもできるだろう。

Yutaka Sugiura

統合の背景

マクロ環境——特石法廃止と元売り再編の幕開け

1990年代後半の石油元売り業界は、規制緩和の地殻変動のただ中にあった。1995年に石油関連整備法が公布され、1996年3月末をもって特定石油製品輸入暫定措置法(特石法)が廃止される[1]。これにより、それまで元売会社にほぼ限られていたガソリンなどの石油製品の輸入が自由化され[2]、商社や大口需要家の一部が輸入を始めた。輸入という新たな競争要因が加わったことで、国内の販売分野では価格競争が一段と激しくなっていく。元売り各社は薄利のなかでコスト削減を迫られ、単独での生き残りに限界を意識し始めていた。石油は装置産業であり、過剰となった精製能力をどう整理するかが業界共通の重しとなっていた。

コスト削減の伸びしろも細りつつあった。日本石油の大澤秀次郎社長は合併発表前後のインタビューで、自社が3年間で700億円の削減を実現した一方、さらに同規模の削減を単独で続けるのは難しく[3]、三菱石油も同様の課題を抱えていたと語ったとされる。単独で生き残れる数少ない民族系と目された最大手ですら、自前の効率化だけでは競争を勝ち抜けないとの危機感を強めていたとみられる。規制緩和が完了した1998年以降、精製・元売り各社の合併やグループ化の動きは加速していく[4]

二社の関係——15年にわたる業務提携の蓄積

合併は突然のものではなく、長い助走を経ていた。両社は1984年11月に業務提携基本契約を締結し、仕入・精製・物流・販売の各分野で協力を重ねてきた[5]。この提携は石油業界における他社の提携・再編の引き金にもなったとされ[6]、日本石油と三菱石油の協力関係は業界再編の先駆けと位置づけられる。一方は民族系最大手、もう一方は三菱グループの一員という、系列の異なる二社が15年にわたって関係を深めてきたことが、合併という最終形へ進む素地になったとみられる。

相手側の事情——泉井事件と三菱石油の「負の遺産」

合併で消滅会社となる三菱石油は、合併に先立つ数年、深い痛手を負っていた。三菱石油は石油卸商「泉井石油商会」への巨額の不明朗な資金提供——のちに政界・通産省を巻き込む泉井事件——の中心企業として浮上し、1997年3月末、拡大路線を主導した山田菊男会長が引責辞任に追い込まれる。日経ビジネスは当時、1989年の社長就任以降に攻めの経営を進めた山田を「腕を振るった山田会長走りすぎ、残った負の遺産」と評した。三菱石油はもともと米ゲッティ石油の経営支配が長く、三菱グループのなかでは異色の存在で、石油大手6社のなかでも常に5社の後塵を拝してきた。ガソリン販売シェアの引き上げやベトナム沖などの石油開発に賭けた拡大路線が、結果として事件という影を落とした[7][8]

再編相手として最初に取り沙汰されたのは、日本石油ではなかった。山田の主導で、三菱石油は1997年初めに昭和シェル石油との精製部門統合(事実上の合併)を打ち出していた。背後には、出資先に再編を促す英蘭系メジャー、ロイヤル・ダッチ・シェルの意向があったとされる。だがこの構想は結実せず、引責辞任した山田自身も「敗軍の将」として誌上インタビューで「志半ば」と語った。単独では精製の合理化に限界があると認めつつ、三菱石油はパートナーを得られないまま規制緩和の荒波に取り残されていく。その三菱石油が最終的に身を委ねた先が、15年来の提携相手であり民族系最大手の日本石油だった[9][10]

統合の発端

提携から合併へ——三菱グループを越えた決断

両社の関係は、提携の深化から合併へと進んだ。1998年11月30日、日本石油は三菱石油との間で業務提携契約を締結し[11]、合併に向けた連携を一段と強めている。同年秋の時点で、日本石油の経営トップは自前の効率化の限界と再編の必要性を公に語っており、提携の延長線上に合併という選択肢が現実味を帯びていた。系列の枠を重んじる文化が根強い石油業界にあって、三菱グループの一員である三菱石油が民族系最大手の日本石油と一体になる構想は、グループの垣根を越える越境再編であった。

公的審査——公正取引委員会の合併審査

大型合併には独占禁止法上の審査が伴った。公正取引委員会は1999年2月に両社の合併届出を受理し、審査に入る[12]。両社はいずれも石油の精製を行い、石油製品を特約店などの流通業者に販売する元売会社で、ガソリン・灯油・軽油・ジェット燃料油・重油・潤滑油・ナフサ・アスファルトといった主要製品で事業が重なっていた。合併後の販売シェアは石油製品全体で約25%に達し[13]、ガソリン・灯油・軽油でも全国で約25%、いずれも第1位という規模になると見込まれた。

高いシェアにもかかわらず、公正取引委員会は競争を実質的に制限することとはならないと判断した[14]。理由として挙げられたのは、有力な競争業者が複数存在すること、小売段階で活発な競争が行われていること、そして特石法の廃止により今後も輸入が拡大しうることであった。規制緩和が、結果として大型合併を独占禁止法の観点から許容しやすくする条件にもなっていた点は、この時期の再編を読み解くうえで見落とせないとみられる。

統合の経過

日石三菱の発足と統合後の体制

1999年4月1日、日本石油を存続会社として三菱石油を吸収合併し、商号を日石三菱に改めて新会社が発足した[15]。石油製品全体で約25%のシェアを握る国内最大の元売りが誕生したことになる。発足にあたっては、日本石油の販売畑を歩んだ渡文明氏が副社長に就いたとされる。渡氏は後年の回想で、合併が曲折を経て実現したものであったと振り返っており[16]、提携の延長として描かれた構想が一筋縄では進まなかったことをうかがわせる。渡氏は2000年に社長へ昇格し、合併後の統合を主導する立場に立つこととなる。

合併の狙いは、精製・物流・販売にわたる重複の整理と効率化にあった[17]。石油元売りという装置産業では、製油所の統廃合や物流網の合理化、間接部門の集約が固定費の削減に直結する。単独では700億円規模のさらなる削減が難しいとされた状況にあって、規模の拡大は重複コストを削る前提条件であった。系列の異なる二社の統合は、企業文化や系列取引の調整という難しさも抱えていたとみられるが、規制緩和下の競争に耐える体力づくりという目的が、その障壁を上回ったと読める。

統合の帰結

再編の連鎖と「日石三菱」の行方

日石三菱の発足は、石油元売り再編の連鎖の起点となった。発足から半年後の1999年10月、日石三菱はコスモ石油との間で仕入・精製・物流・潤滑油の生産配送の各分野で業務提携契約を締結し[18]、合併を軸とするグループ形成へと動いていく。20社近くが割拠していた元売り業界は、石油ショックと1990年代後半の規制緩和を経て大手数社へと集約が進み、日石三菱の誕生はその大型化の流れを象徴する出来事であったとみられる。

三菱の名は長くは残らなかった。日石三菱は2002年6月に新日本石油へ商号を変更し、社名から三菱の名が消える[19]。新日本石油はその後、給油所ブランドのENEOSを前面に押し出し、2010年には新日鉱ホールディングスとの経営統合によってJXホールディングスを発足させる[20]。JXはのちにJXTGを経てENEOSへと連なっていく。日本石油と三菱石油の合併は、現在のENEOSへとつながる再編史の源流の一つに位置づけられるとみられる。

発足直後の拡張と「とりあえず」の提携——同時代の視点

日石三菱の動きは速かった。発足から4か月後の1999年7月末、日石三菱は精製専業の興亜石油に対する株式公開買い付け(TOB)を表明する。米メジャー系のカルテックスが保有する興亜株50%を1株360円・総額約261億円で買い取り、子会社化する内容であった。興亜は石油製品の9割弱を長期契約で日石三菱に供給する事実上の系列会社で、日経ビジネスは一連の動きを「石油再編劇は最終章へ」と報じている。同年秋には米エクソンとモービルの合併認可も見込まれ、業界は民族系2強・メジャー系という構図へと急速に塗り替わっていった[21][22]

もっとも、再編の連鎖が即座に体力強化へ結びついたわけではない。1999年10月に発表された日石三菱とコスモ石油の包括提携は、原油の共同購入やガソリンの相互融通にとどまり、肝心の精製統合や販売協力は対象から外れていた。両社合計の燃料油販売シェアは約3割に達したが、日経ビジネスは経常損益の改善効果は小さいとして「合理化効果に疑問」と評し、日石三菱の役員でさえ「これで万々歳、業界全体の体質も良くなる、とは言い難い」と漏らしたと伝えている。先に興亜石油を子会社化した日石三菱にコスモの製油所を加えれば西日本の精製設備はむしろ過剰となり、大澤秀次郎社長も精製能力の整理を「今後の課題」と認めていた。規模の拡大が過剰設備の解消に直結しないという石油再編の難しさは、発足直後から表れていたとみられる[23][24]

出典・参考

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