{"title":"三菱石油の歴史概略","sections":[{"start_year":1931,"end_year":1945,"main_title":"米アソシエイテッド石油と五分五分で組んだ設立と、戦時統制下の八社体制","subsections":[{"title":"三菱商事の輸入代理店から、精製設備を持つ会社へ","text":"三菱石油の事業は、1924年の輸入代理店にさかのぼる。この年、三菱商事の燃料部が米アソシエイテッド石油会社（のちのタイドウォーター・アソシエイテッド石油会社）の製品について日本での一手販売権を得て、輸入販売を始めた。輸入代理店として数年を過ごすうちに、三菱商事は製品を買って売るだけでなく、原油を輸入して国内で精製するほうが、石油を国内産業として育てるうえで有利であり、国民経済にも寄与すると考えるようになった。ただし当時の国内の精製技術は幼稚で、原油を調達するだけでは足りず、設備と技術そのものを海外から持ち込む必要があった。\n\nそこで1929年、三菱本社・三菱鉱業・三菱商事の3社は、アソシエイテッド石油会社との間で会社設立の基本契約を結んだ。契約の根本原則に置かれたのは、出資においても経営支配においても完全に平等とすること、すなわち五分五分の関係だった。外資が過半を握るのでも、日本側が主導権を確保するのでもない。技術と原油を持つ側と、市場と販売網を持つ側が対等に並ぶという設計である。この契約に基づき、1931年2月11日、資本金500万円で三菱石油株式会社が設立された。\n\n設備の建設は会社の設立に先行した。1930年11月に京浜運河の埋立地帯で川崎製油所の着工に入り、1931年末に完成させている。戦前の原油処理量は日産9,500バーレルに達し、当時もっとも完備した製油所と称された。一方、製品の販売は創立以来、三菱商事を一手販売店として委託する形をとった。外資が精製の技術と原油を持ち込み、三菱側が国内の販売網を担うという分担が、設立時点で明確に線引きされていた。その後も数次の増資を重ねて製油設備を拡充している。会社が自前で抱えたのは製油所と、そこで働く人員だった。原油をどこから買うかも、製品を誰に売るかも、当初は社外の二者が握っていた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「三菱石油」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「石油（概説）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－めざましい再建」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"石油業法による保護と、戦時統制下の八社への集約","text":"三菱石油が参入した1930年代前半の石油業界は、外資と国内資本がせめぎ合う場だった。明治期に日本石油と宝田石油が二大勢力として並び立ち、1921年10月の合併で日本石油の独占的な発展が続いていた。そこに1900年、米スタンダード石油がインターナショナル石油を設立して以来、外国石油資本の日本市場への進出が勢いを増していた。満州事変後の準戦時体制に入ると石油の戦略的な価値が重く見られるようになり、1934年に石油業法が制定される。販売割当と価格公定によって外国業者の輸入・販売攻勢が抑えられ、関税障壁で国内業者が保護された。\n\n皮肉なことに、外資の技術で建てた製油所は、外資を締め出す法制度のもとで最も伸びた。1937年には民間だけで精製198万キロリットル、供給526万キロリットルと終戦前の最高記録に達している。しかし戦争が拡大すると米英の対日経済封鎖が強まり、1941年には輸入が途絶した。精製部門は統合が進み、日本石油・昭和石油・丸善石油・大協石油・三菱石油・興亜石油・日本鉱業・東亜燃料工業の八社に集約される。石油の集中生産が行われ、消費は厳格な統制のもとに置かれた。\n\n三菱石油自身も、平時の事業の形をほとんど失った。1939年ごろに準戦時体制へ入って以降、石油の配給業務は配給統制機関が担うようになり、三菱商事に委ねていた販売の実務は会社の手を離れた。太平洋戦争の激化とともに川崎製油所の操業率は下がり、1945年7月には徹底的な戦災を被ったまま終戦を迎えている。南方原油の処理を目的に宮崎県富島町（現在の日向市）で着工した敷地約60万坪の大製油所も、建設の途上で計画を放棄せざるをえなかった。設立から15年に満たない会社が、製油所と販売機能の双方を同時に失った状態で戦後を迎えた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「三菱石油」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「石油（概説）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－めざましい再建」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1946,"end_year":1972,"main_title":"製油所を接収された副業の時代から、外資提携の復活による再建へ","subsections":[{"title":"操業禁止下の受託事業と、ポマードで食いつないだ石油会社","text":"終戦直後の石油会社に残されたものは少なかった。川崎製油所が被災したうえに原油の輸入は途絶し、1946年9月には連合軍が太平洋沿岸製油所の操業禁止を指令する。同年10月、川崎製油所の諸施設は進駐軍に接収された。業界全体を見ても状況は暗く、ポーレー賠償使節は精製施設と貯油施設の大規模な撤去を指令し、これを緩和する目的で来日したストライク使節団でさえ、日本の製油施設は非近代的で賠償の対象にならないからスクラップにすればよいと述べていた。三菱石油を含む7社は集中排除の指定も受けている。\n\n禁じられたのは精製作業だけではなく、製油所の構内で何かをすること自体だった。石油各社は構外での副業に活路を求め、日本石油は医薬品・ポマード・靴ズミを作って仕事をつなぎ、丸善石油と三菱石油もその仲間に加わった。三菱石油の場合、これと並行して数年間、川崎製油所などで進駐軍用石油の受払作業と貯油施設の復旧工事を受託しており、この間の経営は主としてこれらの受託事業で維持されている。石油を精製できない石油会社が、接収した側の設備管理を請け負って命脈を保った。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「三菱石油」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「石油（概説）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－めざましい再建」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"五分五分の原則だけが残った戦後の資本構成","text":"流れが変わったのは1949年である。同年2月に東亜燃料工業とスタンヴァック、3月に日本石油とカルテックス、そして三菱石油とタイドウォーターが相次いで外資提携契約を結び、6月には昭和石油とシェル、7月には興亜石油とカルテックスが続いた。同年7月には総司令部から太平洋岸製油所の操業および原油輸入に関する覚書が発せられ、それまでの操業禁止指令が廃止される。技術の供与と原油・製品の供給を受ける代わりに、日本側は株式の譲渡や工場の現物出資によって共同子会社を設けた。こうして日本の石油産業は、原油を輸入して消費地で精製する体制へ移った。\n\n販売の側も1949年に形が定まった。1947年4月の石油配給公団法によって民生用の供給を担っていた公団が解散し、輸入基地を運営して配給能力を持つ国内企業が元売業者として登録され、販売活動に参加することを認められた。同年4月に元売業者の指定を受けた三菱石油は、財閥解体で解散を命じられた三菱商事から石油販売施設の一切を引き継ぎ、旧三菱商事の石油部門の人員を吸収して販売を開始する。設立時に三菱商事へ委託していた販売機能が、20年を経て自社の内側に戻った。精製設備の急速な拡充に合わせて油槽所と給油所の整備も進めている。\n\n資本の側では、設立時の設計のうち片側だけが崩れた。設立時の株主であり基本契約の当事者でもあった三菱本社・三菱鉱業・三菱商事の3社は財閥解体で持株会社の指定を受け、保有していた三菱石油株は持株会社整理委員会によって公開処分されたため、日本側の株主構成は大きく変わった。ところがタイドウォーター側は国内情勢の変化にもかかわらず平等原則による経営方針を堅持し、戦後に行われた5度の増資すべてで新株の50%を引き受け、1951年9月には日本側と同数の取締役5名を選出して、うち1名が副社長に就いた。日本側の当事者だけが入れ替わり、外資側だけが元のまま残るという非対称が、この時点で生まれた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「三菱石油」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「石油（概説）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－めざましい再建」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"川崎一極の設備拡張と、中位元売としての位置","text":"1949年7月に操業禁止の指令が解除されると、三菱石油はただちに川崎製油所の復旧に着手した。1950年5月に第一次復旧が成り、同年8月に石油精製を再開している。精製再開当時の原油処理能力は1日あたり約4,500バーレルにすぎなかったが、1955年には約29,000バーレルに達した。1954年には高級潤滑油のための溶剤脱蝋装置と溶剤精製装置、高級揮発油のためのプラットフォーミング装置を導入している。いずれも米テキサコ・デヴェロップメント社とユニヴァーサル・オイル・プロダクツ社が発明した当時最新式の装置で、川崎製油所は完全製油所としての体裁を整えた。\n\n販売の規模も戦後10年で様変わりした。1949年の販売開始当時は月平均7,000キロリットルにすぎなかった販売量が、1955年には約9万キロリットルへと増えている。全国に営業所6カ所・出張所6カ所を置き、特約店は約140店、油槽所33カ所、給油所133カ所を数えた。高オクタン価揮発油の販売、舶用重油の供給、それに戦前から評価の高かったタイドウォーター製の高級潤滑油タイコールとヴィードルの輸入販売が、この時期の営業を特徴づけた。資本金は1950年6月にいったん200万円へ減額されたのち、同年10月に2,500万円へ増資し、さらに4回の増資を経て1954年10月に24億円となり、1955年3月期の売上高は92億7,000万円に達している。\n\n高度成長期の石油業界を規定したのは1962年7月に施行された石油業法である。同年10月の原油輸入自由化に備えて需給調整と安定供給をねらった法だが、精製各社への生産枠の割り振りは各社の販売シェアと絡んで調整が難航した。結果として、大手は販売力に対して生産量が不足し、中小ではその逆になるという、いびつな業界構造が生まれる。これが業者間転売物の発生につながり、需給が締まっているときでも製品市況が下落する現象を引き起こした。業者間転売という商流は、このあと石油業界に定着した。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「三菱石油」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「石油（概説）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－めざましい再建」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1973,"end_year":1993,"main_title":"二度の石油ショックと過剰精製能力、情報化で薄利多売を支えた経営","subsections":[{"title":"石油ショック後の過剰能力と、外資に握られたままの株式","text":"1973年10月の第四次中東戦争を機に、原油価格は2カ月あまりで3.8倍に急騰した。当時のわが国は一次エネルギーの75%を石油に頼り、その中東依存度は80%に達していた。エクソン・モービル・シェルなどが11月から12月にかけて10%から30%の供給削減を通告し、業界は世間の集中攻撃を浴びる。1973年11月には公正取引委員会が石油連盟と元売12社に立ち入り調査に入り、翌年2月に東京高等検察庁へ告発した。石油ヤミカルテル事件である。精製能力は石油業法施行時の日量114万8,000バーレルから1973年末には541万バーレルへ膨らんでおり、需要が反転したあとには、返しようのない過剰能力だけが残った。\n\n業界の苦境は各社に共通していたが、三菱石油には固有の制約があった。設立時にタイドウォーターが持っていた50%の持ち分は、のちに米ゲッティ石油の手に渡っている。1984年まで株式の半分を握っていたゲッティは、エッソ石油やモービル石油に比べて日本市場への関心が薄かった。のちに社長となる泉谷良彦氏が語ったところによれば、給油所投資の資金は他社に比べて少なかった。設立時に結んだ五分五分の原則は、戦後の資本自由化を経てなお生き続け、外資側の投資意欲がそのまま国内の販売網の厚みを決めていた。三菱石油の販売シェアが長く8%前後にとどまった理由の一端はここにある。\n\n1984年、米テキサコがゲッティ石油を買収すると、三菱グループは同年5月、時価を上回る3億3,500万ドルでゲッティ保有の株式を一括して買い戻すことで合意した。設立以来の外資折半はここで終わる。そのうえで三菱石油は財務の立て直しに動いた。1986年以降に設立した欧州の金融子会社などを通じて、1992年3月期末までに新株発行をともなう資金調達で1,700億円近くを集め、借入金の返済を進めている。円高と原油安も追い風となり、1985年3月期末にほぼゼロだったキャッシュフローは、1992年3月期には255億円まで厚みを増した。多少のリスクには耐えられる体質が、この数年で整う。同じころ、1986年からの原油安で打撃を受けたメジャーも、収益性の低い精製・販売部門の再編を世界規模で進め始めていた。","references":[{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－第二次石油ショックと業界再編」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年11月30日号「三菱石油 需要変動に機敏に対応 薄利多売でも収益改善」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年11月14日号「三菱石油ベトナム沖試掘に成功 和製メジャーへ一歩」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年2月24日号「泉井事件が影落とす三菱石油「合併」劇」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号「“独り負け”三菱石油は浮上できるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"1リットル1円の利益を積み上げる情報システム投資","text":"1987年6月、通商産業省の諮問機関である石油審議会が生産・販売の規制緩和の方針を打ち出した。その3カ月後、三菱石油は全社的な情報システムの導入を決め、社員10人でプロジェクトチームを編成する。8カ月の作業を経て1988年5月にまとまったのが、経営計画の作成から物流の効率化まで22項目のシステム開発に100億円を投じる5カ年計画「Σプロジェクト」だった。5カ年としたのは、規制緩和の眼目とされた原油処理枠の撤廃を審議会がおおむね5年以内に実施すると発表していたからである。枠が外れれば激しいシェア争いと収益低下が来ると読み、来るとわかっている競争に5年かけて備えた。\n\n読みは当たった。1992年4月に原油処理枠が撤廃され、それを追いかけるように同年秋、主力の水島製油所でプロジェクトの要となる生産最適化システムが完成する。投資金額の4割を注いだ最重要システムだった。岡山県倉敷市の水島製油所は1日あたりの原油処理能力22万5,000バーレル、全社員の約3分の1にあたる700人が働く工場で、53の装置と330のタンクを抱える。以前は電卓で組んでいた生産計画が画面上で試行できるようになり、本社からの計画変更指令にも対応できるようになった。変更指示は処理枠の撤廃後に2倍ほどへ増えている。\n\nここまでの手間をかけた理由は、収益の薄さにある。石油連盟によると1991年度の石油会社30社の売上高経常利益率は平均2.2%で、三菱石油もほぼ同じ2.3%にとどまっていた。松枝正門副社長は「製品の差異化が難しく、1リットル当たり1円くらいの利益しか出ない。きめ細かくコストを削減し、その積み上げで勝負しなければ生き残れない」と語っている。販売シェアは8%程度で、10%を超える大手5社に入れず6位。規模の経済を追う道がない以上、地道なコスト削減以外に選べる手はなかった。効果は数字に表れ、1991年度は売上高が前期比4.4%減となりながら営業利益は209億円と2%増え、1992年3月期の経常利益は234億円を確保した。","references":[{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社、1994年）「石油－第二次石油ショックと業界再編」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年11月30日号「三菱石油 需要変動に機敏に対応 薄利多売でも収益改善」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年11月14日号「三菱石油ベトナム沖試掘に成功 和製メジャーへ一歩」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年2月24日号「泉井事件が影落とす三菱石油「合併」劇」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号「“独り負け”三菱石油は浮上できるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1994,"end_year":1999,"main_title":"和製メジャーを目指した拡大路線と、2期連続赤字の末の吸収合併","subsections":[{"title":"ベトナム沖の試掘成功と、上流進出への賭け","text":"1994年の成功は、その5年前の組織づくりから始まっている。1989年に社長へ就いた山田菊男氏は、就任と同時に海外プロジェクト部を発足させた。潤滑油の取引を通じてメジャーの収益構造を間近に見てきた山田氏には、利益の過半を原油開発で上げるメジャーと、自主開発原油をほとんど持たない日本企業との差が見えていた。パプアニューギニアで1990年から、カナダで1992年から参加した案件はいずれもメジャーがオペレーターを務めるもので、狙いは技術とノウハウを学ぶことに置かれた。次は自ら操業する側に回りたいと考えていたところに、ベトナム沖の鉱区が浮上した。\n\n1991年4月、山田氏は三菱グループの訪越ミッションを率いてベトナムへ渡った。米国の対ベトナム政策への配慮から日本企業が進出しづらい時期で、通商産業省は社長の訪越が米国を刺激することを懸念して常務クラスの派遣を水面下で打診していた。それでも山田氏は元売りの社長として唯一ベトナムへ出向き、ファン・バン・カイ第一副首相らと会見している。1992年1月の入札では狙った鉱区を韓国勢に取られ、同年6月の入札で手に入れたのが「15-2」鉱区だった。1970年代にドイツの石油会社が試掘井を3本掘って不発に終わった売れ残りで、他社は関心を示さなかった。\n\n1994年6月14日、その鉱区の1号井で原油の埋蔵が確認された。三菱石油の出資比率は43.3%で、米系メジャーからの参加申し出を断って自らオペレーターとなっている。開発技術者は同業中で飛び抜けて少ない15人だったが、小さな現場組織がトップと直結して機動力を発揮した。効果はまず財務に表れた。試掘成功のニュースで株価が急騰し、転換社債の転換とワラント債の権利行使が9月末までに約800億円進んだため、前期末に19.6%だった自己資本比率は30%を超える見通しとなった。ベトナムに投じた資金が30億円程度であることを考えれば、金利負担の改善だけで試掘費用を賄える計算になる。","references":[{"title":"日経ビジネス 1994年11月14日号「三菱石油ベトナム沖試掘に成功 和製メジャーへ一歩」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年2月24日号「泉井事件が影落とす三菱石油「合併」劇」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年4月14日号「山田菊男氏［三菱石油前会長］、兵を語る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年3月22日号「三菱石油 卸値事後調整で96年度は経常赤字に転落」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号「“独り負け”三菱石油は浮上できるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年4月24日号「主力工場が消える 合併テコに悲願の製油所閉鎖」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年5月29日号「ザ・三菱 最後の日本型システム」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"シェア10%を掲げた給油所増設と、1996年度の経常赤字転落","text":"1994年、山田氏は会長に退き、泉谷良彦氏が社長に就いた。泉谷社長も山田氏と同じ販売畑の育ちで、シェア拡大への熱意は引き継がれる。山田氏の社長時代に6年かけて追った9%の目標は達成できなかったが、1995年3月期からの3年間は「ビッグバード21」計画のもとで目標が10%へ引き上げられた。3年間の設備投資額は1,314億円。同時期の日本石油が1,518億円だったことを思えば、民族系では5位の企業としては大きい。1994年3月期から1996年3月期にかけて給油所を239カ所増やしており、同時期に首位の日本石油が増やした139カ所を上回った。他社が不採算の給油所を閉じていた同じ時期に、三菱石油は増設を続けた。\n\nこの積極策を支えたのは石油化学部門だった。ポリエステル原料のパラキシレンがアジア向けに急伸し、1995年3月期には石油化学部門だけで営業利益の7割近い180億円を稼いでいる。他の民族系大手が1995年3月期から慌ててコスト圧縮に乗り出したのに対し、三菱石油は石油部門の収益が悪化しても全社的な圧縮に手をつけなかった。1996年3月期の経常利益207億円は、業界首位の日本石油の109億円や昭和シェル石油の191億円を上回る。1996年3月期の時点では、拡大路線は損益で裏づけられていた。\n\n反転は速かった。1996年4月に特石法が廃止されると、国内の石油製品価格はシンガポールからの輸入価格に引き寄せられて下がり始める。パラキシレンの市況も1996年から急落し、1997年3月期の経常利益への貢献は20億円程度と見込まれた。積極的な投資で損益分岐点が上がっていた系列給油所では赤字が一気に表面化する。1996年11月の中間決算の段階では1997年3月期を経常利益80億円へ下方修正していたが、最終的には経常赤字へ転落し、10円配当を6円配に減らした。最大の要因は、系列特約店を支えるために卸値を100億円分引き下げたことにある。元売各社が廃止を公式に表明してきた事後調整を三菱石油が事実上認めた形になり、他の元売にも衝撃を与えた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1994年11月14日号「三菱石油ベトナム沖試掘に成功 和製メジャーへ一歩」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年2月24日号「泉井事件が影落とす三菱石油「合併」劇」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年4月14日号「山田菊男氏［三菱石油前会長］、兵を語る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年3月22日号「三菱石油 卸値事後調整で96年度は経常赤字に転落」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号「“独り負け”三菱石油は浮上できるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年4月24日号「主力工場が消える 合併テコに悲願の製油所閉鎖」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年5月29日号「ザ・三菱 最後の日本型システム」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"泉井事件による経営陣の刷新と、日本石油への吸収合併","text":"1996年7月、三井鉱山が三菱石油に23億8,000万円の債務保証の履行を求めて提訴した。これを機に、両社が業者間転売取引の形で大阪の石油卸商・泉井石油商会の泉井純一被告へ巨額の資金を提供していたことが明るみに出る。流入資金は1992年からの3年間だけで41億円に上った。三菱石油は精製能力が販売力を上回る状態にあり、余剰の製品をさばく業者間転売が問題の背景にあったとみられている。本社は家宅捜索を受け、泉谷社長自身も事情聴取などで200時間の拘束を受けている。1997年3月末、山田会長が辞任して相談役に退いた。山田氏はこの人事を自ら決めたと述べ、二人のトップのうち会社の顔である社長を温存すべきだと判断したためだと説明している。\n\n刷新のあとにも、拡大路線が積み上げた費用は残った。1997年12月、2001年3月期までに1996年3月期比525億円の経費削減を掲げるコスト圧縮計画「MOVE21」を策定し、早期退職者募集を1997年と1998年に実施して57人と129人が応じた。それでも1998年3月期は赤字となり、上場元売6社のうち2期連続の赤字は三菱石油だけだった。構造の問題は精販ギャップにある。1992年に通商産業省の仲介で富士興産へ資本参加した結果、海南精油所の日量5万バーレルを含めて精製能力は47万5,000バーレルとなり、全国の精製シェア9%に対して販売シェアは8%台にとどまっていた。\n\n精販ギャップを埋める相手として昭和シェル石油は理想的だったが、川崎地区の用地が3社で14カ所に分散し、採算が見合わないことがはっきりして、1997年2月に表面化した統合構想は翌年春に消えた。山田氏が候補から外していた相手が、最終的な合併先になる。単独で立て直す条件は、販売部門の合理化も昭和シェル石油との統合も、どちらも残っていなかった。1999年4月、三菱石油は日本石油と合併して日石三菱株式会社が発足した。川崎製油所については、合併の1週間後に9月末をめどとした事実上の閉鎖が発表されている。2002年には日石三菱が新日本石油へ商号を変え、統合後の社名からも三菱の二文字が消えた。借りた技術を自前の製油所に、借りた販売網を自前の給油所網に置き換えるまでに、この会社は68年を使っている。","references":[{"title":"日経ビジネス 1994年11月14日号「三菱石油ベトナム沖試掘に成功 和製メジャーへ一歩」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年2月24日号「泉井事件が影落とす三菱石油「合併」劇」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年4月14日号「山田菊男氏［三菱石油前会長］、兵を語る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年3月22日号「三菱石油 卸値事後調整で96年度は経常赤字に転落」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月11日号「“独り負け”三菱石油は浮上できるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年4月24日号「主力工場が消える 合併テコに悲願の製油所閉鎖」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年5月29日号「ザ・三菱 最後の日本型システム」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":""}}