{"title":"新日本石油の歴史概略","sections":[{"start_year":1888,"end_year":1945,"main_title":"新潟の油田に機械掘りを持ち込み、戦時統制下で国内精製の8割を占めるまで","subsections":[{"title":"尼瀬の海底油田に持ち込んだ綱索式鑿井機械","text":"1888年5月、内藤久寛氏と山口権三郎氏らが新潟県刈羽郡石地に有限責任日本石油会社を創立した。当時の新潟では手掘りによる採油が個人経営で広がっていたが、同社は米国から綱索式鑿井機械を輸入し、三島郡尼瀬の海底油田で掘鑿を試みる。1891年に多量の出油に成功したこの一件は、手掘りに頼っていた同業者を機械掘りへ転換させ、日本の石油業が近代的な企業組織へ移る契機となった。1893年には米国人技師を招いて機械鑿井そのものにも成功した。翌1894年1月には有限責任会社から日本石油株式会社へ商号を改めている。1895年には新潟鉄工所を開設して鑿井機械を自給し、1899年には柏崎に製油所を建設して本社を移した。\n\n油田の開発が進むと、市場には四つの勢力が並んだ。日本石油、宝田石油、米スタンダード系のインターナショナル石油、それに販売で先行していた英系ライジング・サン石油である。宝田石油は1893年の創立から1907年までに124の会社・組合を合併し、日本石油も1907年にインターナショナル石油の新潟県事業財産を買収した。両社はともに資本金1000万円となり、業界はいわゆる日宝対立の時代に入る。一方、外油2社は互いにダンピングで対抗したため石油の値下がりが激しく、国内2社の被った打撃は大きかった。1910年に四社協定を結んだものの、ほどなく破られて激しい販売競争が繰り返された。\n\n1914年に始まった欧州大戦で外油2社が退潮すると、内燃機関の普及が需要の中身を変えた。灯油に代わって重油・揮発油・潤滑油が伸び、同社は同年に本社を東京丸の内へ移し、西山油田と秋田製油所に揮発油の生産装置を新設する。大戦が終わって外油2社が再び攻勢に出ると、1921年10月、日本石油は宝田石油との合併に踏み切った。資本金8000万円のこの合同で、同社は国産原油の産地に散っていた製油設備を廃合し、輸入原油を国内で精製する体制へ移る。1922年に秋田製油所を拡張し、1923年に鶴見、1930年に下松、1937年に関西の各製油所を設けたのは、その方針を設備の側から裏づけた投資だった。","references":[{"title":"新日本石油 有価証券報告書【沿革】（第195期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本石油」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「石油 概説」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「興亜石油」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－めざましい再建」（NDL pid 13095819）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"採掘を手放し、精製専業として統制下に置かれるまで","text":"昭和に入ってもスタンダード系とライジング・サン系のダンピング競争は収まらず、金解禁による不況も重なって石油業界は苦しんだ。1932年に価格と販路に関する六社協定が成立し、1933年に松方日ソ石油がソ連原油を持ち込んで市場が再び乱れると、1934年には松方を加えた七社協定でようやく落ち着く。同じ年に石油業法が制定され、国内業者は販売割当と公定価格によって外国資本の輸入攻勢から守られた。業界はこの保護のもとでカルテル結成へ動き、国産揮発油連合会と鉱油精製連合会を経て、1936年には石油連合株式会社を設立して販売部門の自治統制に入る。\n\n戦時体制が強まると、自治統制は国家統制へ置き換えられた。1939年に石油共販株式会社が設立されて販売業務が移り、1941年には国産原油の集中開発を担う帝国石油が発足する。日本石油は1942年4月、政府の勧奨に従って鉱業部門を帝国石油へ譲渡した。創業以来の採掘と精製の兼営がここで断たれ、同社は精製を専業とする会社になる。並行して企業整備も進み、1941年6月に小倉石油を合併して東京・横浜の両製油所を取得、1942年6月には愛国石油を合併して資本金1億5500万円となった。この合同により同社は国内精製能力の約8割、石油割当の約7割を占め、残る精製会社の統合も促されて全17社が8社に集約された。\n\n戦争末期、米軍の爆撃は製油所だけを正確に狙った。太平洋岸の設備は次々に損害を受け、無傷で残ったのは昭和石油の南海と日本石油の新潟・柏崎など、日本海側の油田地帯に隣接するローカル製油所だけだった。終戦時に稼働できた製油所は全国で8工場・年産122万キロリットルにとどまり、戦時中の最高水準である年産356万キロリットルの3分の1でしかない。常圧蒸溜設備に限ればさらにその半分の60万キロリットルで、当時の日本の精製能力は日量1万バレル程度まで落ちていた。採掘を手放し、精製設備の大半を焼かれた会社に残されたのは、原油の調達先を外に求める道だけだった。","references":[{"title":"新日本石油 有価証券報告書【沿革】（第195期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本石油」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「石油 概説」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「興亜石油」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－めざましい再建」（NDL pid 13095819）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1946,"end_year":1985,"main_title":"靴墨で食いつないだ戦後から、喜入基地と日石丸による大量輸送体制まで","subsections":[{"title":"カルテックスとの折半出資が決めた戦後の会社の形","text":"終戦から1949年まで、原油輸入は禁じられ、太平洋岸の製油所は閉鎖されたままだった。わずかな国産原油を北日本の工場で細々と精製できた日本石油・昭和石油・日本鉱業を除けば、各社はストック原油を使い切ったあと副業で命をつないでいる。日本石油も製油所の構内で作業することを禁じられ、構外で医薬品・ポマード・靴墨を作った。賠償の議論はさらに厳しく、ポーレー使節団は精製施設の撤去を指令し、ストライク使節団は「日本の製油施設は非近代的で賠償の対象にならないから、スクラップにしたらよかろう」とまで述べている。方向を変えたのはドレーパー調査団に随行したヘンリー・W・ノーエル氏の報告で、日本の製油施設は小規模だが技術水準は相応であり、復活させれば年間1000万ドルの節約になるとした。\n\n1949年、日本の石油会社は相次いで外資と提携した。2月に東亜燃料工業とスタンヴァック、3月に日本石油とカルテックス、三菱石油とタイドウォーターが契約を結び、以後も昭和とシェル、興亜とカルテックスが続く。同年7月には「太平洋岸製油所の操業および原油輸入に関する覚え書き」が総司令部から発せられ、日本も消費地精製主義の道に入った。日本石油はこの流れのなかで、本体に直接外資を入れない形を選んでいる。1951年10月、精製の主力だった横浜・下松の両製油所を現物出資し、カルテックスとの折半出資で日本石油精製株式会社を設立した。本体は販売を中心に据え、自社と日本石油精製の製品にカルテックス系列の興亜石油の製品を合わせて一元的に売る形になる。\n\nこの形は短期間で成果を出した。1955年3月期の売上高は252億円に達し、同社は全国石油供給量の約25%を占めている。日本石油精製は1952年以降83億円を投じて高オクタン価揮発油と高級潤滑油の設備を近代化し、1954年12月に完成させた。その精製過程で出る副生ガスが有機化学工業の原料になることから、同社は1955年8月に日本石油化学を設立して石油化学に進出する。前年の日本オイル・ブラック、同年2月の日本石油瓦斯と合わせ、精製から出る副産物を新しい事業に振り向ける考え方が、この時期に形になった。副産物に売り先を作る発想は、この時期に社内の型になった。","references":[{"title":"新日本石油 有価証券報告書【沿革】（第195期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本石油」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「石油 概説」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－めざましい再建」（NDL pid 13095819）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」（NDL pid 13095823）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－第二次石油ショックと業界再編」（NDL pid 13095823）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1972年3月号「日本石油グループの現状と将来」鈴木淳三郎（NDL pid 2730612）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"株式会社年鑑 昭和37年版／会社年鑑 1976年版・1986年版（長期業績・製品別売上）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"喜入基地と日石丸が引き受けた原油調達コスト","text":"高度成長期の需要増に、同社は製油所の新設で応じた。1956年12月に室蘭、1964年4月に根岸が完成し、根岸はのちに日量31万バレルとグループ最大の製油所になる。ただし増設は自由ではなかった。1962年施行の石油業法のもとで、政府が5年間の需要見通しから供給計画を立て、その枠内で各社に設備の新増設を許可する仕組みが敷かれていたからである。許可が下りればフル稼働が事実上約束される反面、需要予測が外れれば過剰設備が一斉に生まれる。この制度のもとで業界の精製能力は、1962年の日量114万8000バレルから1971年末に410万バレルへ、石油ショック直前の1973年末には541万バレルまで膨らんだ。\n\n設備の量では差がつかない制度のもとで、同社は原油を運ぶ側で差をつけようとした。1967年3月に日本石油基地株式会社を設立し、1969年10月、鹿児島県喜入町に貯蔵能力360万キロリットルの原油中継輸送基地を完成させる。国内で最初の大規模原油基地だった。1971年9月には37万重量トン級のタンカー「日石丸」が就航し、1973年2月には英国船主から借りる47万トン級が続く予定だった。ねらいは運賃にある。同社の新潟製油所は信濃川の河口にあって3万5000トン級しか入れないが、喜入には50万重量トン級を着けられる。アラビアから小型船で新潟へ直行するより、巨大船で鹿児島まで運んで中小型船に積み替えるほうが安く上がるという計算だった。\n\n1972年2月、日本証券アナリスト協会の企業分析部会で講演した鈴木淳三郎常務は、この体制の規模を数字で示した。日石グループの原油処理能力は日本石油精製43万2000バレル、本体の新潟2万6000バレル、提携先の興亜石油22万9000バレルを合わせて日量68万7000バレル。1974年度末には92万7000バレルまで増える予定で、業界全体の予測605万2000バレルに対する設備シェアは15.3%になるという見通しだった。喜入基地は当時すでに10万トンタンク18基を備え、1972年12月までに30基、1980年ごろには15万トンタンク24本を加えて貯油能力660万トン、投下資本は約500億円と見込まれていた。中東原油の輸入量のうち基地を通過した割合は1971年度で約51%、1972年度には70%へ高まる計画である。","references":[{"title":"新日本石油 有価証券報告書【沿革】（第195期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本石油」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「石油 概説」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－めざましい再建」（NDL pid 13095819）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」（NDL pid 13095823）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－第二次石油ショックと業界再編」（NDL pid 13095823）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1972年3月号「日本石油グループの現状と将来」鈴木淳三郎（NDL pid 2730612）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"株式会社年鑑 昭和37年版／会社年鑑 1976年版・1986年版（長期業績・製品別売上）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"鈴木淳三郎","role":"日本石油常務取締役（1972年2月22日・日本証券アナリスト協会企業分析部会での講演）","date":"1972-02-22","text":"例えば日石の新潟製油所は、信濃川の河口にあって3.5万トン級タンカーしかはいれない。この新潟にアラビアから3.5万トンクラスのタンカーでノコノコ運んでくるよりは、37万トン、47万トンの巨大タンカーで鹿児島まで運び、そこから3.5万トンタンカーで新潟へもって来たほうが得策である。\n費用は固定しているから、基地建設のメリットは尨大である。これは当社だけのユニークな原油基地であり、自慢できるものである。","source":"証券アナリストジャーナル 1972年3月号「日本石油グループの現状と将来」（NDL pid 2730612）","paragraph":3}]},{"title":"重油から白油へ、二度の石油危機が入れ替えた製品構成","text":"大量輸送の体制が整ったところへ、原油価格の上昇が来た。鈴木常務は同じ講演で、OPECの攻勢によって輸入原油のFOB価格が1キロリットル当たり1550円上昇し、308円換算による為替差益700円を差し引いても実質850円の負担増になると説明している。1972年3月期の利益は前年並みの35億〜36億円にとどまる見通しで、原油の値上がりに加えて市況の悪化、船腹過剰による売船損、製油所の操業度低下が重なっていた。長期の業績を見ると、1971年3月期に4623億円だった売上高は1975年3月期に1兆5224億円へ3倍以上に膨らむ一方、経常利益は107億円から39億円へ落ちている。売上が伸びても利益が伴わない構造が、この時期にはっきりする。\n\n製品の中身も入れ替わった。1961年3月期の半期の売上構成は揮発油37.2%、重油34.2%、灯軽油15.6%、機械油6.9%で、揮発油と重油がほぼ拮抗している。半期でみた1975年3月期には重油36%が揮発油33%を上回り、産業用燃料の比重が最も高い時期を迎えた。ところが1985年3月期になると揮発油35%、重油29%、灯軽油20%となり、重油が後退して白油が前に出る。第一次石油危機を境に産業界が石炭やガスへ燃料を転換し、電力が石油火力から離れたためで、業界全体でも1973年度に燃料油の41.9%を占めたC重油は1978年度に37.9%へ下がった。同社の製品構成の変化は、この需要構造の転換をそのまま映している。\n\n二度の危機は業績を大きく振らせた。第二次石油危機のさなかにあたる1981年3月期の経常利益は1037億円と、それまでの水準を一桁引き離す。しかし翌1982年3月期には173億円へ落ち、1985年3月期も売上高3兆834億円に対して経常利益146億円にとどまった。売上高3兆円に対する経常利益146億円は、率にして0.5%に届かない。欧米では製油所の閉鎖が相次いだのに対し、日本では設備能力が許可制であるために既得権の維持が優先され、思い切った合理化は起きなかった。1981年度の製油所稼働率は59.5%まで下がり、通産省は1983年9月末までに約100万バレルの設備削減を決めている。","references":[{"title":"新日本石油 有価証券報告書【沿革】（第195期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本石油」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「石油 概説」（NDL pid 3043712）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－めざましい再建」（NDL pid 13095819）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－高度成長の光と影、石油ショック」（NDL pid 13095823）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－第二次石油ショックと業界再編」（NDL pid 13095823）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1972年3月号「日本石油グループの現状と将来」鈴木淳三郎（NDL pid 2730612）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"株式会社年鑑 昭和37年版／会社年鑑 1976年版・1986年版（長期業績・製品別売上）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1986,"end_year":2001,"main_title":"特石法の廃止で価格の秩序が崩れ、民族系最大手が合併に踏み切るまで","subsections":[{"title":"特石法という時限立法が与えた10年の猶予","text":"1984年12月、神奈川県で給油所を営む無印業者のライオンズ石油がシンガポールからのガソリン輸入を表明し、通産省が事実上禁じてきた石油製品の輸入に穴が開きかけた。輸入計画は勧告で取り下げられたものの、国内市場の閉鎖性が内外に知られることになる。欧州共同体と米国からの市場開放要求もあって、1986年1月、ガソリン・灯油・軽油の輸入を認める特定石油製品輸入暫定措置法が期間10年の時限立法として施行された。輸入業者には代替生産能力・品質調整能力・備蓄能力が求められ、資格は事実上精製会社に限られる。同法は開放の入口でありながら、既存の元売りに10年の猶予を与える仕組みでもあった。\n\n猶予のあいだに同社が試したのは、原油を買う側から掘る側へ回ることだった。1991年6月に日石アジア石油開発株式会社を設立し、上流部門の自主開発に乗り出す。同じ年、湾岸戦争の終結から3か月後に、日本石油はアラビア石油・日本鉱業とともに米カルテックスを交え、サウジアラビア国営石油会社アラムコと日本・サウジ両国での製油所建設に基本合意した。日本側は原油の長期安定調達先を、サウジ側は安定した販売先を求めての合意で、国内の合弁候補には日本石油精製の新下松と室蘭が挙がる。しかし企業化調査の結果、採算確保に時間がかかるとして1993年11月に断念した。産油国と精製で組む最初の試みは、形にならないまま終わった。\n\n1996年4月に特石法が期限切れを迎えると、ガソリンの価格秩序は急速に崩れた。首都圏の店頭価格は1リットル80円台が並び、そのうち53円80銭は税金である。民族系各社が置いていた元売りマージン33円で計算すると給油所への仕切り価格は87円になり、80円台で売れば給油所が赤字になる。過剰な精製設備を抱えた各社が稼働率を上げるために増産し、業者間転売品の価格が下がって市況安に拍車をかけた。最大手の日本石油も1995年度から営業赤字に転じている。同じ1996年4月、同社はカルテックスが保有していた日本石油精製の全株式を取得して完全子会社化した。1951年から45年続いた外資との折半出資が、市況の崩れと同じ年に解かれた。","references":[{"title":"新日本石油 有価証券報告書【沿革】（第195期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－規制緩和の進展と湾岸危機」（NDL pid 13095822）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年3月1日号「昭和シェル、三菱 石油精製統合は本当か」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「2000年に勝つ会社、負ける会社 石油 体力で日石本命、外資系が追撃へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年8月8日・15日合併号「2001年に勝つ会社 負ける会社 石油 外資攻勢、民族系は再編も」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年5月20日号「日石三菱・大澤社長予想外の退任でどうなる石連会長人事」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年5月27日号「日石三菱 断トツ独り勝ち後の野望のシナリオ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年8月5日号「トップの履歴書 日石三菱社長 渡 文明」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年1月20日号「日石三菱が水島地区にLNG基地建設を検討」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑（長期業績）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"三菱石油を吸収して生まれた日石三菱","text":"三菱石油との関係は合併の15年前から続いていた。1984年11月、両社は仕入・精製・物流・販売の各分野で業務提携を始めている。1990年代末の体力差は大きい。1997年9月中間期の粗利益率は日本石油10.7%に対し三菱石油9.6%、株式の含み益は日本石油が1525億円で業界最大だったのに対し、三菱石油は32億円の含み損を抱えていた。三菱石油は1996年度に95億円の経常赤字へ転落する見通しとなり、その後二期連続の赤字を出した。1998年6月の株主総会では筆頭株主の三菱商事から2人の役員派遣を受け入れた。同じ石油元売りでありながら、\n\n1999年4月、日本石油は三菱石油を合併し、日石三菱株式会社に商号を変えた。吸収した側が得たものは規模だけではない。旧三菱石油の水島製油所は水島コンビナート内の一製油所として設計され、石油精製と石油化学を一体で運営できる同社で唯一の製油所だった。ベトナム沖の油ガス田と虎ノ門のビルも加わる。合併の年の9月には興亜石油株式の公開買付けで同社を子会社化し、10月にはコスモ石油と仕入・精製・物流・潤滑油で業務提携を結んだ。一方で失ったものもある。合併の影響でシェアは落ち込み、2000年3月期のガソリン販売量ではエクソンモービル・グループに首位を明け渡した。\n\n2000年6月、四期八年を務めた大澤秀次郎社長が代表権のない相談役に退き、渡文明副社長が社長に就いた。同社の社長は代々人事畑から出ており、副社長からの昇格も1978年に一度あるだけで、販売出身の起用は社内外を驚かせている。大澤社長が最後の年に口にしていたのは総合エネルギー企業という構想である。同年2月には新潟沖に国内随一の天然ガス田を持つ帝国石油へ125億円を投じて15%を出資し、筆頭株主になる。ねらいは帝石が新潟から東京まで持つ総延長332キロメートルのパイプラインで、マレーシアで進めていた年産680万トンの液化天然ガス計画のうち340万トンを自社で販売する計画と組み合わせれば、ガスと電力へ進む道が開ける。渡新社長はこの路線を引き継ぎ、2001年には中国電力との合弁で水島製油所に液化天然ガス基地を建設する検討に入った。","references":[{"title":"新日本石油 有価証券報告書【沿革】（第195期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻 エネルギー・資源（日本経済新聞社）「石油－規制緩和の進展と湾岸危機」（NDL pid 13095822）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年3月1日号「昭和シェル、三菱 石油精製統合は本当か」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「2000年に勝つ会社、負ける会社 石油 体力で日石本命、外資系が追撃へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年8月8日・15日合併号「2001年に勝つ会社 負ける会社 石油 外資攻勢、民族系は再編も」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年5月20日号「日石三菱・大澤社長予想外の退任でどうなる石連会長人事」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年5月27日号「日石三菱 断トツ独り勝ち後の野望のシナリオ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年8月5日号「トップの履歴書 日石三菱社長 渡 文明」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年1月20日号「日石三菱が水島地区にLNG基地建設を検討」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑（長期業績）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":2002,"end_year":2010,"main_title":"ガソリンの外側へ利益の源を移そうとした、新日本石油としての8年","subsections":[{"title":"減損の前倒しと過去最高益が3年のうちに同居する","text":"2002年4月、日石三菱精製が興亜石油と東北石油を合併して新日本石油精製となり、6月には本体も新日本石油株式会社へ商号を変えた。合併後の最初の3年は我慢の時期にあたる。ブランドの統合、人材の融合、システムの統合という3つの難題を順に片づけ、合併後6年間で2200億円のコストを削った。日本石油と三菱石油はいずれも汎用機は同じ米国製だったがソフト環境が異なり、システムは説得を重ねて日本石油の方式に寄せている。2004年3月期には減損会計の適用を前倒しして1715億円の減損損失を計上し、特別損失は2261億円、当期純損益は1335億円の赤字になった。前倒しを発案したのは当時経理部門を率いていた西尾進路副社長で、渡文明社長がこれを容れた。\n\n翌2005年3月期は一転して過去最高の決算になる。売上高4兆9242億円、経常利益2124億円、当期純利益1315億円。原油価格の高騰と中国向け石油化学製品の市況高が同時に効いた期だった。ただし渡文明社長は、2004年度の経常利益には原油の在庫評価益607億円が含まれており、実力は1500億円だと説明している。過去6年で削った2200億円のコストのうち約半分は、原油の値上がりを製品価格へ全面転嫁できなかった分で相殺されていた。同年6月、渡社長は会長に退き、西尾進路副社長が社長に就く。経理部門出身の社長は同社で初めてで、営業の仕事を一度も経験していない社長でもあった。\n\n好決算の裏で、上流部門の構想には狂いが生じていた。2005年3月に公表した中期経営計画は5000億円の戦略投資を掲げ、うち2000億円を原油・ガス開発に充てて、日量11万バレルの生産量を2007年度に18万バレルへ引き上げるとしていた。渡会長は日量40万〜50万バレルの準メジャーを後輩に託す目標として語っている。ところが同年11月、5年前から出資してきた帝国石油が国際石油開発との経営統合を発表した。筆頭株主に知らされたのは10日ほど前である。新日本石油は帝石株を追加取得して持株比率を20%超に引き上げ、株式移転比率の算定根拠を質した。上流の戦略パートナーを失う前提で、次の相手を探す必要が生じた。","references":[{"title":"新日本石油 有価証券報告書【沿革】（第195期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"新日本石油 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】（第191期〜第195期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年8月21日号「Key Person 新日本石油社長 渡 文明」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年6月4日号「トップの履歴書 初の経理部門出身社長 西尾進路」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年6月18日号「Key person 新日本石油社長 渡 文明」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年12月10日号「新日本石油・渡文明会長が本誌に激白 帝国石油の統合案に『待った』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年2月4日号「もうガソリンでは儲からない！？ 新日本石油の大改造 石油化学製品へ急旋回」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年9月16日号「業界再編 製油所提携で浮き彫り 新日石『大連合』の野心」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年2月3日号「石油 韓国最大手と提携合意 新日石『アジア』の野心」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"ガソリンを主産物から副産物へ組み替える製油所改造","text":"2006年、同社は製油所の作り替えに着手した。目標は2つで、製油所を電力とガスを含む拠点にすること、そしてガソリンではなく石油化学の基礎製品を最大限に取り出す設備へ変えることである。国内8か所の製油所のうち7か所が原油を処理し、1日当たりの原油処理能力は約122万バレルと国内の4分の1を占めていた。投資は10年間で2000億円以上を見込む。踏み切った理由は収益の内訳にある。2005年度の石油精製・販売部門の予想営業利益880億円には原油の在庫評価益900億円が含まれ、それを除けばトントンか赤字だった。2003年度の同部門の営業利益は18億円にとどまり、一方で石油化学部門は2004年度に602億円を稼いでいる。\n\n改造の見本になったのが、三菱石油から引き継いだ水島製油所である。原油処理能力は日量25万バレルと根岸の34万バレルより小さいが、三菱化学水島事業所とパイプラインで結ばれ、精製と石油化学を一体で動かせるため利益貢献は根岸を上回った。合成繊維や樹脂の原料になるパラキシレンの生産能力は、2004年度の100万トンを2007年度に140万トン、2010年度に200万トンまで引き上げる計画が置かれる。ガソリンとパラキシレンは成分が基本的に同じで、一方を多く取れば他方が減る関係にある。国内のガソリン需要が減る前提に立てば、同じ原油から取り出す製品の組み合わせを変えるほうが設備の価値は上がった。\n\n設備の組み替えと並行して、外との組み方も変わった。2006年6月、同社はジャパンエナジーと上流・精製・物流・燃料電池の各分野で業務提携を結ぶ。目玉は同じ水島コンビナートにある両社の製油所を仮想的に一つとみなす一体運営で、両社を合わせた水島の精製能力は日量45万バレルになった。新日本石油が石油化学に特化し、不足する石油製品をジャパンエナジーが補う分担である。両社合計の国内燃料油シェアは35%に達した。2007年1月には韓国で石油製品シェア3割を持つSKと株式持ち合いを含む提携で合意し、中国とインドへの共同輸出を検討する。2008年4月には新日本石油精製が新日本石油化学を合併し、10月には本体が九州石油を合併した。","references":[{"title":"新日本石油 有価証券報告書【沿革】（第195期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"新日本石油 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】（第191期〜第195期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年8月21日号「Key Person 新日本石油社長 渡 文明」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年6月4日号「トップの履歴書 初の経理部門出身社長 西尾進路」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年6月18日号「Key person 新日本石油社長 渡 文明」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年12月10日号「新日本石油・渡文明会長が本誌に激白 帝国石油の統合案に『待った』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年2月4日号「もうガソリンでは儲からない！？ 新日本石油の大改造 石油化学製品へ急旋回」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年9月16日号「業界再編 製油所提携で浮き彫り 新日石『大連合』の野心」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年2月3日号「石油 韓国最大手と提携合意 新日石『アジア』の野心」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"2009年3月期の赤字が押し出した統合という選択","text":"統合を決めた時期の同社は、数字の振れ幅が最も大きい状態にあった。2006年3月期の売上高6兆1180億円・経常利益3091億円から、2008年3月期は売上高7兆5240億円・経常利益2757億円へ伸びる。ところが2009年3月期は、売上高7兆3892億円に対して経常損益が2754億円の赤字、当期純損益は2516億円の赤字に落ちた。原油価格が1バレル140ドル台から40ドル台へ急落し、在庫の評価が損益を直撃したためである。同じ期の連結従業員数は1万4144人。原油の値動きが利益を決める体質は、喜入基地と日石丸で調達コストを削っていた1970年代から変わっていなかった。統合契約を結んだ2009年10月の時点で最新だった決算はこの赤字にあたり、最終期の2010年3月期に売上高5兆7743億円・経常利益1133億円・当期純利益433億円と黒字へ戻したのは、統合を決めたあとになる。\n\n相手方の新日鉱ホールディングスから見れば、新日本石油は2006年から水島で製油所を共同運営してきた相手にあたる。両社を合わせた国内燃料油シェアは35%で、渡文明会長は提携の時点で「緩やかなプラットフォームができれば、石油製品の安定供給や過当競争の是正にもつながる」と述べていた。統合はこの延長線上にある。2008年12月に経営統合の基本覚書を締結し、2009年10月には株式移転による経営統合契約を結ぶ。国内需要の減少という同じ制約に直面する2社が、精製設備の重複を整理する枠組みとして、持株会社を選んだ。\n\n2010年3月、東京・大阪・名古屋・福岡・札幌の各証券取引所で株式の上場が廃止された。1949年5月の上場から60年余りで、新潟の油田から出た会社は市場から姿を消す。翌4月、新日鉱ホールディングスとの共同株式移転によりJXホールディングス株式会社が設立され、同社はその完全子会社になった。消えたのは上場と、単独で意思を決める立場である。根岸から水島まで並ぶ製油所と全国の給油所網、そして1万4144人の従業員は、持株会社の傘下へそのまま移った。石油化学へ製品構成を組み替える構想も、上流部門を厚くする計画も、いずれも同社が単独で完成させることはなかった。","references":[{"title":"新日本石油 有価証券報告書【沿革】（第195期・2010年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"新日本石油 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】（第191期〜第195期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年8月21日号「Key Person 新日本石油社長 渡 文明」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年6月4日号「トップの履歴書 初の経理部門出身社長 西尾進路」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年6月18日号「Key person 新日本石油社長 渡 文明」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年12月10日号「新日本石油・渡文明会長が本誌に激白 帝国石油の統合案に『待った』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年2月4日号「もうガソリンでは儲からない！？ 新日本石油の大改造 石油化学製品へ急旋回」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年9月16日号「業界再編 製油所提携で浮き彫り 新日石『大連合』の野心」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年2月3日号「石油 韓国最大手と提携合意 新日石『アジア』の野心」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":""}}