{"title":"森ビルの歴史概略","sections":[{"start_year":1959,"end_year":1969,"main_title":"焼け跡から始めた貸ビル業と虎ノ門への集中（1959〜1969）","subsections":[{"title":"経済学者が父の残した土地からビルを建てるまで","text":"森ビルの創業者である森泰吉郎氏は、東京・虎ノ門で米屋を営む家に生まれた。東京商科大学を卒業したのち京都高等蚕糸学校で教鞭をとり、戦後は横浜市立大学へ移った。泰吉郎氏は家業の米屋になじめず、研究生活を志した。父が持っていた貸家は100戸近くを数えたが、戦災でほとんどを失う。焼け跡の整理のために帰京した泰吉郎氏は、新橋駅頭に降り立って一面の焼野原を眺め、「自分の生まれた故郷を自分の手で復興しよう」（日経ビジネス 1971/5/3）と心に誓ったという。父が残した不動産を生かして第1森ビルを建てたのは1956年で、ここから大学教授とビル経営者の二足のわらじが始まった。\n\n戦後のインフレを見越した泰吉郎氏は、父の資金を使って銀座や新橋で銀行の抵当流れの土地を安く買いあさり、当時まだ大衆化していなかった株にも積極的に投資した。1956年、買い集めた土地が予想どおり値上がりすると、時価で手放さずに斡旋業者へ相場の5割増で仲介するよう持ちかけた。驚く業者に泰吉郎氏は「東京には、これから必ず人口が集中する」（日経ビジネス 1971/5/3）と説き、地価は幾何級数的に上昇するので、5割増で買っても決して損はしないと理路整然とたたみかけた。業者はその話を保険会社に取りついだ。泰吉郎氏は3000万円を手にし、同時に第一信託銀行から同額の3000万円を借り入れて、ビル建設に取りかかった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1971年5月3日号「赤坂に再開発のオノふるう民間デベロッパー 森ビル」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"森ビル 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"虎ノ門から出なかった理由と最初の不況","text":"横浜市立大学の商学部長という社会的地位を投げうって、泰吉郎氏がビル業に専念する決意を固めたのは1959年である。それまで4つのビルを管理していた個人経営の森事務所は、同年6月に森ビル株式会社として法人組織になった。株式会社化は、泰吉郎氏が4人の子にそれぞれ筆頭株主を割り当てて設立させた森磯・森喜代・泰成・森泰の4社と、泰吉郎氏自身の出資によるもので、以後は不動産を森ビルが保有する形へ改めた。「研究生活をすてるのはさびしかった」（日経ビジネス 1971/5/3）と泰吉郎氏はふり返り、面倒だと思っていた対人関係にも興味がわいてきたと述べた。\n\n森ビルが建てたビルは虎ノ門の狭い地域に集中した。親から受け継いだ土地はおよそ6600平方メートルにすぎず、ビル用地に適さない小さな土地は処分して、まとまった土地を買収していく。泰吉郎氏は集中の理由を自分の臆病さに帰していた。「学者はとかく慎重派が多いが、自分も臆病なほど慎重」（日経ビジネス 1971/5/3）で、よその土地へ投資するのがこわかった、虎ノ門なら自分の庭のようなもので採算がとれるかどうかを前もって正確に計算できるという。もっとも、集中には計算も働いていた。同一地域に次々とビルを建てれば新しいビルが古いビルの価値を高め、街が整然とした形をなすにつれて地域全体の評価が高まり、一流のテナントが集まる。地価が上がれば銀行に対する担保力を増し、資金調達を容易にして次の開発をやりやすくした。\n\n1964年から1965年にかけての不況は、貸ビル業を直撃した。日本ビルヂング協会の調べでは、この不況時の空室率は7%以上に達した。1965年から建物の容積制限が実施される機運にあり、その前に建ててしまおうという駆け込み着工がビルの供給過剰に拍車をかけた。森ビルもこの不況のさなかに第10・第11ビルを相次いで竣工させ、テナント探しに四苦八苦した。青山に持っていた土地を売り払って資金をつくり、家賃を引き下げてかろうじて切り抜けた。最も苦しかったのは創業時代だったと泰吉郎氏も認めた。不動産のことは何も分からない素人商法で、ビルを建てる段になっても建築会社との打ち合わせでトンチンカンなことを言ってばかにされ、テナントから保証金をもらうにもどんな契約をすればよいのか分からず、三菱地所や三井不動産の貸室契約書を借りてきて間に合わせたという。","references":[{"title":"日経ビジネス 1971年5月3日号「赤坂に再開発のオノふるう民間デベロッパー 森ビル」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"森ビル 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1970,"end_year":1986,"main_title":"点のビルから面の再開発へ、アークヒルズまでの20年（1970〜1986）","subsections":[{"title":"民間デベロッパー活用の第1号となった赤坂再開発","text":"1971年2月11日付の日本経済新聞に、東京都が職住近接のモデルとして赤坂地区の再開発に乗り出すという記事が載った。都市再開発法による民間デベロッパー活用の第1号であり、新宿副都心計画以来の大規模な事業だった。計画では、米国大使館付近の8万平方メートル余りに超高層のオフィスビル、ホテル、マンションが建ち並ぶことになる。当時の森ビルは資本金10億円・従業員250名で、10余年のあいだに虎ノ門界わいへ40棟を建てていた。1961年度に2億8800万円だった売上高は1971年度に33億円へ届く勢いで、5年間に3倍近い伸びを示す。帳簿上の総資産は250億円、従業員1人当たりの資産額は1億円に達した。\n\n再開発の実務は土地の買収に尽きた。ビル業の業務は土地の買収、建設、入居者の募集、家賃の徴収、建物の保安や管理から成り、資金と時間の大半は用地確保に向けられる。1971年に竣工した第20森ビルも、10年越しの買収交渉を続けた末のものだった。泰吉郎氏は買収を急がない。「不動産は、他の商品とちがって、場所に対する独占」（日経ビジネス 1971/5/3）であり、値段で押そうとすると失敗するので、相手の利害関係をよく考え、ビルの建設によって生まれる付加価値を公平に分け合うのだと説明した。赤坂・六本木地区でも同じ手順が繰り返される。土地をまとめるのに16年、1986年3月のアークヒルズ竣工までに計20年の歳月を要した。","references":[{"title":"日経ビジネス 1971年5月3日号「赤坂に再開発のオノふるう民間デベロッパー 森ビル」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年8月7日・14日号「森ビル・グループ フロー重視を徹底」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"森ビル 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"相続を見据えて分けた会社と、賃貸ビルの外へ出た事業","text":"森ビル・グループが同じような名前の不動産会社をいくつも抱える複雑な資本関係を持つに至った理由は、創業者の泰吉郎氏が子どもたちに均等に財産を残そうと考えたことにある。4人の子がそれぞれ筆頭株主となる森磯・森喜代・泰成・森泰という会社をつくり、この4社が不動産を保有して、事務局である任意団体の森事務所が一括して管理した。1970年には、長期的な開発を担う森ビルに対し、短期間の事業を担当する森ビル開発を設立した。森ビルの資産が膨らむとあらためて相続対策が必要になり、資産の一部を分割する形で森ビル興産と森ビル産業をつくって4社体制とした。\n\n賃貸ビルの外へ出る動きも、この時期に始まった。1978年10月に開業したラフォーレ原宿は、虎ノ門のオフィス街とは客層も立地も異なる商業施設である。1990年4月には本社をアーク森ビルへ移し、赤坂で完成させた街区へ自らの拠点を置いた。組織の面では、営業やビル管理といった共通部門を機能別に分社し、森ビル商事や森ビル管理などを設けた。その結果、森ビルや森ビル開発は事実上の資産管理会社となり、従業員が数人にとどまる会社も生まれた。分社は相続と事業のどちらにも効いたが、グループの姿を外から分かりにくいものにもした。","references":[{"title":"日経ビジネス 1971年5月3日号「赤坂に再開発のオノふるう民間デベロッパー 森ビル」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年8月7日・14日号「森ビル・グループ フロー重視を徹底」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"森ビル 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1987,"end_year":1999,"main_title":"バブル崩壊で消えた1兆円の含みと、創業者の死（1987〜1999）","subsections":[{"title":"担保を外し、収益力で借りる仕組みへ","text":"森ビルは1975年ごろ、資金調達をストック型からフロー型へ転換した。借り入れのために取引銀行へ差し入れていた土地・建物の担保をはずした。所有する資産の一つひとつに担保を設定するのではなく、グループの収益力を担保に融資を依頼した。既存ビルの収支データを手に銀行との交渉を繰り返し、グループ全体を1つのプロジェクトと考えて融資してほしいと説得するのに2年ほどかかったが、条件をのませることに成功する。1995年の時点でも、日本開発銀行の融資を除いて借入金は無担保だった。借り入れには独自の基準も設け、借入金の総額から現預金を差し引いたネットの借り入れを、収益の5倍以内に抑えた。\n\nそれでも地価の下落は財務を直撃した。1994年12月期のグループ16社の土地は、借地権を含めて簿価が約6180億円、公示価格から類推した評価額が約1兆87億円で、4000億円ほどの含みがある計算になる。ところが地価税算定の基礎となる数字で見ると約7600億円にしかならず、含み益はほとんど消し飛んだ。「土地の含み益はピークの1兆5000億円から1000億円台まで目減りした」（日経ビジネス 1995/8/7）と、森ビル開発の森章社長は打ち明けた。同期の有利子負債総額は営業収益の7倍以上の7700億円に達した。営業収益は1992年12月期の1202億円から1994年12月期の1016億円へ減り、当期利益も57億円から45億円へ落ちた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1995年8月7日・14日号「森ビル・グループ フロー重視を徹底」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"森ビル 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"創業者の死去と、兄弟で分かれた処方","text":"1993年2月、森泰吉郎氏が死去した。米経済誌フォーブスに世界一の富豪と報じられたこともある創業者だったが、資産の大半は不動産をほとんど持たない事実上の持ち株会社の株式だったため、課税遺産は約39億円、相続税は14億円足らずにとどまり、周囲を驚かせた。早い時期から資産を子どもたちの名義にしておいた分社化の効果である。跡を継いだのは二男の森稔氏と三男の森章氏で、長男の敬氏と長女の愛子氏は両氏に経営を委託した。森ビルと森ビル興産を中心とする稔氏の側と、森ビル開発と森ビル産業を中心とする章氏の側に、グループは事実上二分された。\n\n兄弟の経営観は対照的で、稔氏は拡大志向が強く、銀行出身の章氏は慎重さを併せ持つ。性格も考え方も違うので一つの会社にはなれないと両氏はともに述べ、さりとて2社へ明確に統合するにも株式の売買に多大な税金がかかると章氏は説明した。同じ苦境に対する処方も分かれる。稔氏は低迷する賃料収入を中国での事業で補おうと考え、大連と上海の3プロジェクトに乗り出した。ただし投資額は3件合わせて200億円足らずで、総事業費の2割しか負担せず、機関投資家や商社との共同出資でリスクを抑えた。章氏は土地の稼働率向上を掲げ、当時5割以下だった面積ベースの稼働率を3年以内に7割へ高める計画を立てた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1995年8月7日・14日号「森ビル・グループ フロー重視を徹底」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"森ビル 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":2000,"end_year":2026,"main_title":"六本木ヒルズから麻布台ヒルズへ、街区単位の再開発（2000〜2026）","subsections":[{"title":"17年をかけた六本木ヒルズと、開業翌年の事故","text":"六本木六丁目の再開発は、1995年の時点では2001年の完成を目標としていた。飲食店と住宅が密集する敷地面積11万平方メートルの一角に、地上58階建てのオフィスビルやホテル、住宅の入った複合施設を建てる計画である。実際に六本木ヒルズが竣工したのは2003年4月で、森ビルは同時に本社を六本木ヒルズ森タワーへ移した。用地の確保では、自ら取得するのを避けてより多くの地権者が参画するよう方針を切り替えた。アークヒルズでは最終的に敷地の4分の3を森ビルが取得したが、六本木では3分の1に抑えたいと稔氏は述べた。完成後のオフィス床も、これまでのように自社で購入して賃貸するのではなく、投資家へ売却して運営料を取る形へ改めようとした。\n\n開業からまもなく、六本木ヒルズは深刻な事故を起こした。2004年3月、森タワーの自動回転ドアに児童が頭などを挟まれて死亡する。警視庁捜査1課は、ビルを管理する森ビルと回転ドアを製造した三和シヤッター工業に業務上過失致死容疑で家宅捜索に入った。回転ドアの上部に取りつけられたセンサーの死角の範囲、センサーが感知してから止まるまでの時間、これまでの事故件数などで両社の見解は食い違い、安全管理をめぐる批判は日に日に強まった。森ビルが自動回転ドアを採用した理由は空調の効率にある。オフィスビルではスライド式の自動ドアを二重に並べて外気を遮断するが、人の出入りが多い場合には二重の扉が開け放しになり、外気がビル内に流れ込んでしまう。\n\n事故の背景には、最新の設備を街に盛り込もうとする森稔社長の志向もあった。通常のエレベーターを重ねて一度に複数階分の移動を可能にした独特のエレベーター、大地震が来ても停電しないよう地下に設置した自家発電設備、そして一度に多くの人が通れる自動回転ドアは、いずれも手塩にかけた再開発を飾るにふさわしい最新設備として映ったと記事は指摘する。ただし、観光客など不特定多数の人物が集まる場所に回転ドアはそぐわないという同業者の声もあった。オフィスのように利用者が限られる場合ならばともかく、年間に数千万人が訪れる観光名所には適していなかったのではないか、という疑問である。事故の直後、稔社長は「回転扉はもう使わない」（日経ビジネス 2004/4/5）と語り、通夜への参列を希望したが葬儀場の受付で門前払いを受けた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1995年8月7日・14日号「森ビル・グループ フロー重視を徹底」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2004年4月5日号「『回転扉はもう使わない』裏目に出た森ビル社長、街作りへの執念」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"森ビル 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"森ビル 有価証券報告書（財務諸表・大株主の状況・従業員の状況）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"虎ノ門・麻布台へ広げた開発と、同族が持つ資本","text":"六本木以降も開発は続いた。2006年1月に同潤会青山アパートの跡地へ表参道ヒルズを竣工させ、2008年8月には中国上海で上海環球金融中心を完成させた。2012年8月のアークヒルズ仙石山森タワーを経て、2014年5月の虎ノ門ヒルズ森タワーからは虎ノ門で連続した開発に入った。2020年1月のビジネスタワー、2022年1月のレジデンシャルタワー、2023年7月のステーションタワーがそれにあたる。2023年6月には麻布台ヒルズ森JPタワーとガーデンプラザが竣工し、同年9月にレジデンスAが、2025年10月にレジデンスBが加わった。\n\n連結の営業収益は2016年3月期の2592億円から2026年3月期の4111億円へ伸び、経常利益は574億円から912億円へ増えた。2026年3月期のセグメント別の売上高は賃貸が2518億円と最も大きく、分譲795億円、施設営業517億円、海外279億円が続く。利益で見ると分譲が561億円と賃貸の485億円を上回り、開発した床を売る事業が全体の利益を支えた。連結従業員数は2013年3月期の3108人から4407人へ増えた。株式は森喜代が70.33%、森磯が25.65%を保有し、2社で95%を超える。創業者が相続のために組んだ持ち株会社が、上場を選ばなかった森ビルの資本をなお押さえている。","references":[{"title":"日経ビジネス 1995年8月7日・14日号「森ビル・グループ フロー重視を徹底」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2004年4月5日号「『回転扉はもう使わない』裏目に出た森ビル社長、街作りへの執念」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"森ビル 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"森ビル 有価証券報告書（財務諸表・大株主の状況・従業員の状況）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1959年に森泰吉郎氏は大学教授の職を辞して森ビルを設立したのか","a":"父が残した土地と、戦後のインフレを見越して買い集めた土地が、副業の域を超える資産になったためである。1956年、値上がりした土地を斡旋業者へ相場の5割増で仲介させて3000万円を得ると、第一信託銀行から同額を借り入れて第1森ビルを建てた。この時点で4棟のビルを個人経営の森事務所が管理しており、1959年6月にこれを森ビル株式会社として法人化した。泰吉郎氏は横浜市立大学の商学部長という社会的地位を投げうっている。"},{"q":"なぜ1971年までに森ビルは虎ノ門界わいへ40棟を集中させたのか","a":"同一地域に次々とビルを建てれば、新しいビルが古いビルの価値を高め、街が整然とするにつれて地域の評価が上がって一流のテナントが集まるためである。地価が上がれば銀行に対する担保力を増し、次の開発の資金調達を容易にした。森泰吉郎氏自身は集中の理由を自分の臆病さで説明しており、よその土地への投資はこわく、虎ノ門なら自分の庭のようなもので採算を前もって正確に計算できると語っている。"},{"q":"なぜ森ビルは1995年の時点でも株式を公開しなかったのか","a":"短期間の損益にこだわる株主にとって長期先行投資型の再開発事業は理解しにくい、というのが森稔社長の理由である。アークヒルズは土地をまとめるのに16年、竣工までに計20年を要した事業であった。1975年ごろに取引銀行へ差し入れていた担保を外し、グループの収益力を裏づけに借りる方式へ替えていたことも、株式公開に頼らず資金を得る道を確保していた。"}]},"auditVersion":2}