中井武夫氏による石油化学からの完全撤退と農薬・機能性材料への転換

主力の石油化学を丸ごと手放すか、後発のまま規模で耐え続けるか——中井武夫氏が貫いた「身も心もある決断」

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時期 1988年6月
意思決定者 中井武夫 社長
論点 主力事業(石油化学)からの完全撤退と事業構造の転換
概要
1988年、日産化学工業の社長に就任した中井武夫氏が、後発で参入していた石油化学の高級アルコール・ポリエチレン・塩化ビニールの全3事業から完全に撤退し、農薬を核としたファインケミカル路線へ経営資源を集中させた経営判断。
背景
日産財閥の解体で財務的な後ろ盾を持たない後発企業として1965年に石油化学へ参入した日産化学工業は、1973年のオイルショック後の構造不況に直面し、1982年3月期・83年3月期に二期連続の最終赤字を計上、84年3月期には累積損失が57億円に達していた。
内容
高級アルコール事業を協和醗酵工業へ、ポリエチレンと塩化ビニール事業を丸善石油化学へ、工場だけでなく販売・開発の組織とスタッフごと譲渡した。1980年からの合弁方式による段階的な移管を経て、1988年6月に事業譲渡を完了した。
含意
中井氏は撤退を単なる縮小ではなく転換と位置づけ、社員との対話と撤退後シナリオの明示によって社内の合意を保った。撤退後は農薬・医薬品・機能性材料の三本柱が育ち、日産化学は規模でなく利益率を追う高収益な化学メーカーへと変貌した。
筆者の見解

規模で対抗せず、事業を丸ごと手放すという選択

この決断の核心は、財務危機への対応としてではなく、後発ゆえに規模の経済で対抗できないという構造的な限界への自覚から、主力事業そのものを手放す選択に踏み込んだ点にある。日産財閥という後ろ盾を失って以来、日産化学工業は財閥系化学メーカーと規模で戦う道を選ばなかった。石油化学という汎用樹脂の世界で投資を続けるのではなく、8年をかけて段階的に撤退の環境を整え、市況の好転期を待って売却を完了させたところに、この経営判断の緻密さがうかがえる。

もっとも、この撤退が「身も心もある決断」として語られる理由は、譲渡先の選定や従業員の移籍条件にまで目を配った手順にある。数字だけを追えば、主力3事業と売上高500億円分の事業を手放す決断は、単純な縮小と映りかねない。しかし、農薬・医薬品・機能性材料という撤退後のシナリオを先に示し、組織全体の納得を取ったうえで実行に移した進め方は、事業の再構築が財務だけでなく人と組織の合意形成にかかっていることを示している。今日のニッチ市場・高収益路線に見る日産化学の姿は、この1988年の決断が定めた方向性の延長線上にあるとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

財閥の後ろ盾を持たない後発参入

日産化学工業は、1887年に設立された日本最初の化学肥料会社を源流とし、1937年に日産コンツェルンへ参画して社名を改めた。日産財閥は戦後の過度経済力集中排除法で解体され、同社は1949年に油脂部門を分離したのちに独立した企業として再出発した。財閥という後ろ盾を持たない状態で、1965年、日産化学工業は千葉石油化学連合への参加を経て日産石油化学を設立し、高級アルコール・ポリエチレン・塩化ビニールという技術難易度の高い品目に絞り込んで石油化学へ参入した[1][2]

二期連続赤字と累積損失57億円

しかし1973年のオイルショックを境に、石油化学は設備拡張競争と原料コスト急騰にさらされる構造不況業種となった。日産化学工業の業績も1970年代から80年代にかけて悪化し、1982年3月期の経常利益はマイナス43億円、83年3月期はマイナス37億円と二期連続の赤字に転落した。中井武夫氏は当時を振り返り、「84年3月期には累損が57億円に達し、大幅な事業再構築を迫られていました」と述べている[3][4]

決断

主力3事業を丸ごと手放す

1988年に社長へ就任した中井武夫氏は、副社長時代から手掛けてきた石油化学全部門の撤退を完了させた。高級アルコール事業は協和醗酵工業へ、ポリエチレンと塩化ビニール事業は丸善石油化学へ、それぞれ工場だけでなく販売・開発の組織とスタッフごと譲渡した。1980年から合弁方式による試験的な事業移管がすでに始まっており、8年をかけた準備の末、1988年6月に事業譲渡を完了して撤退を終えた[5][6][7]

撤退した3事業のピーク時の売上高は500億円に達し、従業員およそ300人がそっくり引き受け先の企業へ移籍した。日産化学工業は各工場で移籍する社員のための激励会を開き、引き受け先が待遇の良い企業であったこともあって、送り出される社員に涙はなかった。むしろ見送る側の幹部があいさつで涙もろくなり、中井氏が当時のあいさつをまとめた速記録には「絶句」の文字が2カ所残ったという[8]

「身も心も失わない撤退」という作法

中井氏は、撤退が円滑に進んだ最大の理由を、経営者として身も心も失わない撤退を心掛け、企業のアイデンティティーを保ったまま方向転換できたことに求めている。具体的には、事業撤退の必然性を組織内部に周知徹底し、OBも含めた全員の納得を得たうえで、社外のコンサルタントを加えた特別チームを編成して既存事業を洗い直した。撤退が単なる縮小ではなく転換であることを理解してもらうため、農薬事業を核としたファイン化路線という撤退後のシナリオを明示して再スタートを切った[9][10]

中井氏は、日本企業が事業撤退を苦手とする背景として、投入してきたヒトとカネ、経験を思い切って捨てられない「情」を挙げ、結論を先に置くドライな欧米流をそのまま持ち込んでも失敗するだろうと述べている。身も心も失うような撤退は企業精神の荒廃を招くという認識が、日産化学工業の8年にわたる段階的な撤退運びを支えたとみることができる[11]

結果

農薬を核とした三本柱の確立

撤退翌年の1989年、日産化学工業は中期5カ年計画を策定し、農薬・医薬品・機能性材料の三分野へ経営資源を集中させる方針を打ち出した。農薬部門では89年に水稲用除草剤「シリウス」、91年に果樹用殺ダニ剤「サンマイト」と、自社開発の大型農薬を相次いで発売した。中井氏は撤退後の事業展開について、「農薬事業で優れた新製品を4つ開発・販売できました」「医薬部門で自社開発第1号の血圧降下剤を4月から発売しています」と振り返っている[12][13]

連結決算でみると、当期純利益は1992年3月期の23億円から1997年3月期には32億円まで回復し、石油化学という規模の大きな主力を失いながらも収益体質の悪化は防がれた。今日の日産化学は、2022年3月期に営業利益率24.5%を達成し、純利益の過去最高益を10年連続で更新するなど、化学業界で屈指の高収益企業として知られている[14][15]

出典・参考