アツギ:厚木編織の設立とシームレスストッキングへの着手
1947年〜片倉工業との協同経営から始まった絹ロープ受託加工
堀祿助氏は1908年に神奈川県で生まれ、1937年に東京工業大学を卒業して片倉工業に入り、研究生活を送ったのち企画・考査・調査の仕事に長く携わった。1943年10月、堀氏は海老名工場の所有施設を提供し、片倉工業との協同経営の形態で、絹の新規用途と人造テグスに関する試作研究と事業化に乗り出した。戦時下に始まったこの共同事業が、そのまま戦後の独立会社の土台になった。1947年12月24日、資本金19万5000円で厚木編織株式会社が発足して堀氏が社長に就任し、手がけたのは片倉工業からの絹ロープの受託加工で、あわせて撚糸、漁網、メリヤス靴下を併行生産した。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [1]社長堀祿助は明治41年神奈川生まれ、昭和12年東京工大、片倉工業出身
- [3]昭和18年10月、現社長堀祿助が海老名工場において所有施設を提供し、片倉工業と協同経営形態で、絹に関する新規用途および人造テグスに関する試作研究と事業化を行なう
- [4]厚木編織は堀祿助が所有施設を提供した海老名工場を拠点に設立され、片倉工業からの絹ロープの受託加工を事業として始めた
- [6]昭和22年12月、片倉工業からの絹ロープの受託加工を始めるとともに、撚糸、漁網、メリヤス靴下の併行生産を開始
- 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
- [2]堀祿助は片倉工業で長い研究生活を送り、その後ほとんど企画の仕事を行ない、25年前に片倉工業で取り上げた企画・考査・調査に長く携わったと記した
- アツギ 有価証券報告書【沿革】
- [5]1947年12月、堀禄助が神奈川県海老名町に厚木編織を設立(設立昭和22年12月24日、資本金19万5000円、堀祿助は昭22社長)
捕鯨ロープの調達を請け負ったのは、戦前にこれを手がけた経験を持つ片倉工業だった。発端は、食糧難を解くために連合国軍総司令部が南洋へ捕鯨船団を出すことを認めた点にあり、戦後の最初の大口はここから生まれた。ところが片倉工業は技術者が散って人手が足りず、糸を渡すから下請として作ってほしいと堀氏に持ちかけた。11月上旬の船団出航までに、細い絹糸から太いロープを撚り上げる時間は2カ月しかなかった。戦時中の絹の産地では軍の命令で落下傘用のロープが作られていたので、堀氏は爪楊枝ほどまで撚り上げた半製品がまだ手元に残されているとみて、それを集めて撚り直す方法を採った。代金は現金でなく糸で受け取る約束で、はじめはロープと生糸を同じ量で取り替えた。産地から集まる量がふえると交換の比率は下がり、ロープ30貫に対して生糸10貫となった。
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [7]捕鯨ロープの調達を、戦前に経験のある片倉が受けた
- [8]終戦直後、連合軍総司令部が日本の食糧難を解決するために南洋捕鯨船団の出漁を許可した
- [9]片倉に技術者が散っておらず、片倉から糸を支給するから捕鯨ロープを下請製造してくれないかという話が堀禄助へ持ち込まれた
- [10]船団の出航は11月上旬で2カ月しかなく、細い絹糸を撚って太いロープに仕上げるには納期が短かった
- [11]戦時中に絹の産地では、落下傘のロープを軍の命令で作っていたところが多かった
- [12]堀禄助は爪楊枝ぐらいの太さまで撚った半製品が産地に残っているとみて、それを集めて撚る方法を採った
- [13]最初はロープと生糸を等量交換した
- [14]方々からロープが出てくるので、しまいにはロープ30貫に生糸10貫ぐらいで集めることが出来た
堀氏が二次製品に賭けた理由は、原料をつくる側の商売の仕方への不満にあった。生糸は作れば市場が引き取る商品であり、輸出も糸のまま出せば足りるとされており、糸を売る側は最終商品の姿を考えずに済むため、競争が激しくなるほど体質の欠陥が表に出た。堀社長は戦後に伸びる衣料の相手を女性と子供に見定め、なかでも女性向けの二次製品へ的を絞った。絞り込みは工場の形にも及び、1951年には綿糸の統制撤廃に合わせて漁網を廃止し、撚糸と染色の設備を更新・拡充して、糸から製品までの一貫作業工程を確立した。
- 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
- [15]堀祿助は、原料産業と二次産業の間の断絶が最も典型的に表れたのが繊維産業だと見て、二次産業に打ち込んだと記した
- [16]堀祿助は、生糸はとにかく生産すれば市場で売れる、外国への輸出も糸で出せばよいという考えが経営者に染みついていたと記した
- [17]堀祿助は、繊維産業の競争が激しくなるにつれ、二次産業を欠いた体質の欠陥が表れたと記した
- [18]堀祿助は戦後の衣食住を考えるうえで女性と子供に着目し、何かに絞るべきだと考えて女性の商品が最も有望だと判断したと記した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [19]昭和26年、綿糸の統制撤廃とともに漁網を廃止し、撚糸・染色設備の更新拡充を行ない、一貫作業工程の確立を図る
参考文献[1]-[19]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [1]社長堀祿助は明治41年神奈川生まれ、昭和12年東京工大、片倉工業出身
- [3]昭和18年10月、現社長堀祿助が海老名工場において所有施設を提供し、片倉工業と協同経営形態で、絹に関する新規用途および人造テグスに関する試作研究と事業化を行なう
- [4]厚木編織は堀祿助が所有施設を提供した海老名工場を拠点に設立され、片倉工業からの絹ロープの受託加工を事業として始めた
- [6]昭和22年12月、片倉工業からの絹ロープの受託加工を始めるとともに、撚糸、漁網、メリヤス靴下の併行生産を開始
- [19]昭和26年、綿糸の統制撤廃とともに漁網を廃止し、撚糸・染色設備の更新拡充を行ない、一貫作業工程の確立を図る
- 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
- [2]堀祿助は片倉工業で長い研究生活を送り、その後ほとんど企画の仕事を行ない、25年前に片倉工業で取り上げた企画・考査・調査に長く携わったと記した
- [15]堀祿助は、原料産業と二次産業の間の断絶が最も典型的に表れたのが繊維産業だと見て、二次産業に打ち込んだと記した
- [16]堀祿助は、生糸はとにかく生産すれば市場で売れる、外国への輸出も糸で出せばよいという考えが経営者に染みついていたと記した
- [17]堀祿助は、繊維産業の競争が激しくなるにつれ、二次産業を欠いた体質の欠陥が表れたと記した
- [18]堀祿助は戦後の衣食住を考えるうえで女性と子供に着目し、何かに絞るべきだと考えて女性の商品が最も有望だと判断したと記した
- アツギ 有価証券報告書【沿革】
- [5]1947年12月、堀禄助が神奈川県海老名町に厚木編織を設立(設立昭和22年12月24日、資本金19万5000円、堀祿助は昭22社長)
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [7]捕鯨ロープの調達を、戦前に経験のある片倉が受けた
- [8]終戦直後、連合軍総司令部が日本の食糧難を解決するために南洋捕鯨船団の出漁を許可した
- [9]片倉に技術者が散っておらず、片倉から糸を支給するから捕鯨ロープを下請製造してくれないかという話が堀禄助へ持ち込まれた
- [10]船団の出航は11月上旬で2カ月しかなく、細い絹糸を撚って太いロープに仕上げるには納期が短かった
- [11]戦時中に絹の産地では、落下傘のロープを軍の命令で作っていたところが多かった
- [12]堀禄助は爪楊枝ぐらいの太さまで撚った半製品が産地に残っているとみて、それを集めて撚る方法を採った
- [13]最初はロープと生糸を等量交換した
- [14]方々からロープが出てくるので、しまいにはロープ30貫に生糸10貫ぐらいで集めることが出来た
1952年〜シームレスストッキングへの一点集中
堀社長は東洋レーヨンがナイロンの国産化を計る以前からナイロンと生糸の関係を研究し、ナイロンを使う最もめぼしい商品としてストッキングを選んでおり、1952年1月、シームレスストッキングおよびタイツの製造販売に着手した。素材を先に決め、その素材でなければ作れない商品を後から探す順序であり、繊維産業には長い歴史があったが、堀社長の見るところ二次製品にはまだ手が入っていなかった。当時の婦人靴下はフルファッションとトリコットが主流で、絹やトリコットの時代を含めて30年以上その2品目が続いていた。縫い目のないシームレスには、まだ日本の店頭に置き場がなかった。
- 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
- [20]堀祿助は、東洋レーヨンがナイロンの国産化を計る以前からナイロンと生糸の研究を取り上げ、女性の衣料とナイロンを結びつけた最もめぼしい商品としてストッキングを考えたと記した
- [22]堀祿助は、繊維産業には長い歴史があるが二次製品で考えると全く手が入っていないと記した
- [23]他の靴下すなわちフルファッションストッキング、トリコットストッキングは日本に昔からあり、絹・トリコットからナイロンのそれに至るまで30年以上その時代が続いた
- [24]堀祿助は、原料メーカーがシームレスの消費層はフルファッションなどと同じで全体の消費量は変わらず業界内部に混乱が起きるだけだとして、輸出に主体をおくよう勧告したと記した
- アツギ 有価証券報告書【沿革】
- [21]1952年1月、シームレスストッキングおよびタイツの製造販売に着手(昭和27年1月ナイロンストッキングの本格的生産に着手)
1952年1月に生産へ着手してから、市場へ本格的に売り出す1953年の秋までには1年半以上の間があり、遅れの理由は機械の側にあった。編み目を細かくするには、針の構造が簡単で針数の多い横編のフルファッション機を使うほかない。筒状には編めないため、編み上げてから縫う工程が要った。発想の出どころは、1950年に繊維価格が大きく崩れたさなかに目にした米国の専門の新聞で、丸編みで作る筋なしのストッキングが店頭に出て評判になりつつあると報じていた。ただ、そのための機械は値が張り、当時の資金力では設備に要る金を十分に集められなかった。残された手段は安価な丸編機に手を加えて靴下が編めるようにすることだけで、開発を託された永田精機が5年かけて、針の数を横編機と同じ水準にそろえた丸編機を完成させた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [25]昭和27年1月、ナイロンストッキングの本格的生産に着手
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [26]厚木ナイロンが本格的にシームレス・ストッキングを売り出したのは昭和28年の秋である
- [27]ストッキングは編み目が細かくなければならず、そのためには針の構造が簡単で針数の多い横編のフルファッション機を使わざるを得ない
- [28]フルファッション機では筒状には編めないから、あとで縫わなければならない
- [29]シームレス発売の3年前、繊維の大暴落の中で堀禄助は米国の専門紙で「丸編のスジのないストッキングが売り出され人気を呼び始めている」という記事を読んだ
- [30]フルファッションの機械は高価で、当時の厚木ナイロンの実力では十分な設備資金が調達出来なかった
- [31]安い丸編機を何とか改良してストッキングを編むより仕方がなかった
- [32]堀禄助がシームレス丸編機開発のパートナーに選んだ永田精機は、5年の歳月をかけて針数横編機並みの丸編機を完成した
1954年5月、ストッキングと同じウーリーナイロンを使い、同じ編立と染色の設備で品目を増やす形で、ウーリーナイロン肌着の製造を開始した。婦人肌着は薄さと暖かさを同時に求められる商品で、伸縮するナイロン糸はその両方に応え、ストッキング一本だった柱に女性の肌着が並んだ。増資も続き、資本金は1950年10月の公募で500万円、1953年3月の株主割当で1000万円へ増え、売上高は1954年12月期に2億470万1000円、当期純利益は667万9000円で、設立から7年で年商2億円台に乗せた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [33]ストッキング、タイツとも編立機で編立てし、染色工場で一貫作業を行なう
- [34]昭和29年5月、ウーリーナイロン肌着の製造を開始
- [37]資本異動は昭和25年10月に500万円(1対20公募)、昭和28年3月3日に1000万円(1対1)
- [38]過去の業績、昭和29年12月期の売上高204,701千円、利益6,679千円
- 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
- [35]堀祿助は、女性はなるべく薄いものを好むと同時に暖かいものを好み、ナイロンの伸縮自在の糸を使った薄くて暖かい肌着を好む本能があると記した
- [36]堀祿助は、ウーリーナイロンによる婦人肌着も着々販路を拡げていると記した
参考文献[20]-[38]
- 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
- [20]堀祿助は、東洋レーヨンがナイロンの国産化を計る以前からナイロンと生糸の研究を取り上げ、女性の衣料とナイロンを結びつけた最もめぼしい商品としてストッキングを考えたと記した
- [22]堀祿助は、繊維産業には長い歴史があるが二次製品で考えると全く手が入っていないと記した
- [23]他の靴下すなわちフルファッションストッキング、トリコットストッキングは日本に昔からあり、絹・トリコットからナイロンのそれに至るまで30年以上その時代が続いた
- [24]堀祿助は、原料メーカーがシームレスの消費層はフルファッションなどと同じで全体の消費量は変わらず業界内部に混乱が起きるだけだとして、輸出に主体をおくよう勧告したと記した
- [35]堀祿助は、女性はなるべく薄いものを好むと同時に暖かいものを好み、ナイロンの伸縮自在の糸を使った薄くて暖かい肌着を好む本能があると記した
- [36]堀祿助は、ウーリーナイロンによる婦人肌着も着々販路を拡げていると記した
- アツギ 有価証券報告書【沿革】
- [21]1952年1月、シームレスストッキングおよびタイツの製造販売に着手(昭和27年1月ナイロンストッキングの本格的生産に着手)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [25]昭和27年1月、ナイロンストッキングの本格的生産に着手
- [33]ストッキング、タイツとも編立機で編立てし、染色工場で一貫作業を行なう
- [34]昭和29年5月、ウーリーナイロン肌着の製造を開始
- [37]資本異動は昭和25年10月に500万円(1対20公募)、昭和28年3月3日に1000万円(1対1)
- [38]過去の業績、昭和29年12月期の売上高204,701千円、利益6,679千円
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [26]厚木ナイロンが本格的にシームレス・ストッキングを売り出したのは昭和28年の秋である
- [27]ストッキングは編み目が細かくなければならず、そのためには針の構造が簡単で針数の多い横編のフルファッション機を使わざるを得ない
- [28]フルファッション機では筒状には編めないから、あとで縫わなければならない
- [29]シームレス発売の3年前、繊維の大暴落の中で堀禄助は米国の専門紙で「丸編のスジのないストッキングが売り出され人気を呼び始めている」という記事を読んだ
- [30]フルファッションの機械は高価で、当時の厚木ナイロンの実力では十分な設備資金が調達出来なかった
- [31]安い丸編機を何とか改良してストッキングを編むより仕方がなかった
- [32]堀禄助がシームレス丸編機開発のパートナーに選んだ永田精機は、5年の歳月をかけて針数横編機並みの丸編機を完成した
1955年〜東洋レーヨンの系列工場指定と売上高11億円
1955年8月に東洋レーヨンのウーリーナイロン加工糸系列工場へ指定されたのを皮切りに、1957年6月にウーリーナイロン糸染色系列工場、1958年3月にはテトロン糸染色系列工場となった。主要原材料のナイロン原糸は東洋レーヨンから供給を受け、編立機で編み立てて染色工場で仕上げるまでを一貫作業でつないだ。原料を持つ会社から供給を受けて加工する立場は、片倉工業から絹ロープを受託した創業期と変わらず、変わったのは、加工した先が委託元の製品ではなく、自社で企画した婦人向け商品になった点にある。資本金は1956年9月に2000万円、1957年8月に3000万円、1958年6月に6000万円へ引き上げられた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [39]昭和30年8月、東洋レーヨンのウーリーナイロン加工糸系列工場に指定
- [40]昭和32年6月に東洋レーヨンのウーリーナイロン糸染色系列工場に指定、昭和33年3月に東洋レーヨンのテトロン糸染色系列工場となる
- [41]主要原材料はナイロン原糸で東洋レーヨンから供給を受け、ストッキング、タイツとも編立機で編立てし、染色工場で一貫作業を行なう
- [42]創業時は片倉工業からの絹ロープの受託加工を行ない、昭和30年8月以降は東洋レーヨンの系列工場としてナイロン原糸の供給を受けた
- [43]製品はすべて「アツギ」の商標で販売される
- [44]資本異動は昭和31年9月6日に2000万円、昭和32年8月1日に3000万円、昭和33年6月18日に6000万円
売り出した当初、シームレスは問屋から相手にされなかった。堀氏の自宅ですら、家族がシームレスを履くなら小遣いをよこせと言い出す有様だった。在庫の山ができて金融に行き詰まり、懇意な重役のいる商社へ在庫金融を頼むと、応対した課長は筋のない靴下では担保にならないと断った。局面を変えたのは、1955年に南アフリカから飛び込んだ一片の電報だった。海外では縫い目のない靴下の流行が静かに始まっており、作る会社が少ないために極端な品薄になっていた。やがて欧米各国から注文が続き、輸出が成長期をもたらした。この勢いは1961年まで続き、1960年代の初めに至ってもシームレスストッキングの3割は米国、西独、スイスなどへ出ていた。
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [45]シームレスを売り出したものの、問屋からまるで相手にされなかった
- [46]堀禄助の家ですら、妻や娘がシームレスをはけというなら小遣いをよこせと言い出す始末だった
- [47]シームレスの在庫の山が出来て金融に行きづまり、懇意な重役のいる商社へ在庫金融を頼むと、若い課長がスジのない靴下は担保にならないと答えた
- [48]苦況を救ったのは、昭和30年に南アから飛び込んだ一片の電報である
- [49]海外では静かにシームレスの流行が始まっており、メーカーが少ないことから極端な品薄になっていた
- [50]欧米諸国から続々と注文が来て、厚木ナイロンは大成長期を迎えた
- 商工ジャーナル 1980年5月号
- [51]この輸出ブームは昭和36年まで続いた。シームレスストッキングの3割は米国、西独、スイスなどへ輸出している
系列指定を受けた1955年を境に売上高と利益の段が上がり、1955年12月期の売上高は3億3647万9000円、当期純利益は260万1000円で、配当はなかった。翌1956年12月期は売上高6億8126万4000円、純利益4124万円へ伸び、年4分の配当に踏み切った。1958年12月期は売上高7億1064万5000円、純利益3216万8000円で、配当は年2分にとどまった。1959年12月期には売上高11億803万3000円、純利益1億36万8000円へ達し、資本金は同年8月に9000万円となって設立時の19万5000円から461倍に積み上がった。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [52]過去の業績、昭和30年12月期の売上高336,479千円、利益2,601千円、配当なし
- [53]過去の業績、昭和31年12月期の売上高681,264千円、利益41,240千円、配当年4分
- [54]過去の業績、昭和33年12月期の売上高710,645千円、利益32,168千円、配当年2分
- [55]過去の業績、昭和34年12月期の売上高1,108,033千円、利益100,368千円
- [56]資本異動は昭和34年8月8日に9000万円、設立時(昭和22年12月24日)の資本金は195千円
参考文献[39]-[56]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [39]昭和30年8月、東洋レーヨンのウーリーナイロン加工糸系列工場に指定
- [40]昭和32年6月に東洋レーヨンのウーリーナイロン糸染色系列工場に指定、昭和33年3月に東洋レーヨンのテトロン糸染色系列工場となる
- [41]主要原材料はナイロン原糸で東洋レーヨンから供給を受け、ストッキング、タイツとも編立機で編立てし、染色工場で一貫作業を行なう
- [42]創業時は片倉工業からの絹ロープの受託加工を行ない、昭和30年8月以降は東洋レーヨンの系列工場としてナイロン原糸の供給を受けた
- [43]製品はすべて「アツギ」の商標で販売される
- [44]資本異動は昭和31年9月6日に2000万円、昭和32年8月1日に3000万円、昭和33年6月18日に6000万円
- [52]過去の業績、昭和30年12月期の売上高336,479千円、利益2,601千円、配当なし
- [53]過去の業績、昭和31年12月期の売上高681,264千円、利益41,240千円、配当年4分
- [54]過去の業績、昭和33年12月期の売上高710,645千円、利益32,168千円、配当年2分
- [55]過去の業績、昭和34年12月期の売上高1,108,033千円、利益100,368千円
- [56]資本異動は昭和34年8月8日に9000万円、設立時(昭和22年12月24日)の資本金は195千円
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [45]シームレスを売り出したものの、問屋からまるで相手にされなかった
- [46]堀禄助の家ですら、妻や娘がシームレスをはけというなら小遣いをよこせと言い出す始末だった
- [47]シームレスの在庫の山が出来て金融に行きづまり、懇意な重役のいる商社へ在庫金融を頼むと、若い課長がスジのない靴下は担保にならないと答えた
- [48]苦況を救ったのは、昭和30年に南アから飛び込んだ一片の電報である
- [49]海外では静かにシームレスの流行が始まっており、メーカーが少ないことから極端な品薄になっていた
- [50]欧米諸国から続々と注文が来て、厚木ナイロンは大成長期を迎えた
- 商工ジャーナル 1980年5月号
- [51]この輸出ブームは昭和36年まで続いた。シームレスストッキングの3割は米国、西独、スイスなどへ輸出している
1947年〜1959年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年09月期 | 単体 | 2 | n/a | 0 | 0.0% | n/a |
| 1954年12月期 | 単体 | 2 | 0.0% | 0 | 0.0% | n/a |
| 1955年12月期 | 単体 | 3 | +50.0% | 0 | 0.0% | n/a |
| 1956年12月期 | 単体 | 7 | +133.3% | 0 | 0.0% | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年12月期 | 単体 | 7 | n/a | 0 | 0.0% | n/a |
| 1959年12月期 | 単体 | 11 | +57.1% | 1 | 9.1% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 変則9ヶ月決算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
出典・参考
5件
- アツギ 有価証券報告書【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- 商工ジャーナル 1980年5月号