三菱レイヨンの公開買付けによる子会社化

総額約2100億円

小林喜光社長は「世界シェア1位」を掲げ、脱・総合化学のなかでなぜ約2100億円の買収に踏み切ったか

更新:

時期 2009年11月
意思決定者 小林喜光 三菱ケミカルホールディングス 社長
論点 高機能材料の強化と川上・川下の垂直統合
概要
2009年11月19日、三菱ケミカルホールディングスと三菱レイヨンが経営統合の基本合意を公表し、三菱ケミカルが公開買付け(TOB)で三菱レイヨンを子会社化する方針を発表した経営判断。TOB価格は1株380円、翌2010年3月30日に議決権ベース約78%を取得して連結子会社化し、同年10月に株式交換で完全子会社とした。取得総額は約2100億円に上った。
背景
三菱ケミカルは2009年3月期に連結で当期純損失671億円を計上し、汎用石化からの撤退方針を打ち出すなど「脱・総合化学」の構造改革を進めていた。小林喜光社長は「世界シェア1位の製品がなければ勝ち残れない」との危機感から、高機能材料を軸に2500億円規模のM&A予算を用意していた。
内容
三菱レイヨンは同年5月に世界最大手のアクリル樹脂原料メーカー英ルーサイトを買収したばかりで、炭素繊維・アクリル樹脂・MMA(メタクリル酸メチル)を持つ。川上の石油化学を担う三菱ケミカルが川下の樹脂・繊維を取り込むことで、原料からの一貫生産と欧州・中近東への足掛かりを狙った。
含意
リーマンショック直後の業績悪化期に約2100億円を投じる攻めの再編であり、MMAで世界首位級の地位を得た。一方で取り込んだMMAは以後アジア市況の振れに翻弄され、2020年代の構造改革の主要論点にまで持ち越された。
筆者の見解

危機下の拡大という選択

この買収の芯にあるのは、収益が最も悪化したなかで、あえて次の柱を先取りしようとした点である。汎用石化の赤字が過去最大に膨らみ、自らも純損失を計上したさなかに、約2100億円を投じて機能材料の世界首位級を取りにいった——財務の順風ではなく、逆風のなかで攻めに転じた点に、この判断の性格がうかがえる。世界シェア1位でなければ勝ち残れないという小林社長の言葉は、規模で中東勢に対抗する道を避け、高付加価値で局地戦を制するという路線の宣言でもあったとみることができる。

ただし、取り込んだ事業がそのまま安定した果実になったわけではない。MMAは市況に揺れ、垂直統合で束ねた石化・機能材料の一体像は、その後も繰り返し組み替えの対象となった。ひとつの大型買収が完結して終わるのではなく、拡大と整理のリズムのなかで意味づけを問い直され続けている点に、総合化学最大手が抱える構造の重さがにじむ。危機下に打った攻めの一手が、10年単位でどう評価されるのかは、なお開かれた問いであるとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

脱・総合化学と「世界シェア1位」への危機感

買収の前提には、三菱ケミカルホールディングスが進めていた構造改革があった。国内石油化学大手6社の石化事業の赤字幅は前期に約2000億円へ膨らみ、汎用の石化製品では収益を確保しにくくなっていた。三菱ケミカルは2009年5月に汎用石化製品からの撤退方針を発表し、6月には旭化成と基礎原料エチレンの設備再編の検討を始めるなど、矢継ぎ早に改革を打ち出していた。総合化学の看板を維持したまま汎用領域を縮小し、収益源を組み替える途上にあった[1]

その先に小林喜光社長が見据えていたのは、高付加価値な機能材料への集中であった。汎用領域で規模と価格を競うのではなく、白色LEDやリチウムイオン電池向けの材料など、世界で首位を取れる製品に経営資源を寄せる構えである。小林社長は「世界シェア1位の製品がなければ勝ち残れない」との危機感を語り、高機能材料を中心に2010年度までに総額2500億円規模をM&Aへ準備していた。三菱レイヨンの取り込みは、この予算の最大級の使い道にあたった[2]

ルーサイトを抱えた三菱レイヨンという相手

買収の相手である三菱レイヨンは、繊維出自の会社でありながら、この時期に非繊維の機能材料で世界を狙う攻めに転じていた。同社は2009年5月に世界最大手のアクリル樹脂原料メーカーである英ルーサイトを買収し、アクリル樹脂原料で規模・収益ともに世界1位を掲げていた。8月にはサウジアラビアの化学大手とアクリル樹脂原料の合弁工場建設も決めており、海外展開で先行していた。三菱ケミカルにとっては、2009年3月期の海外売上高が約2割にとどまるなか、欧州・中近東市場への足掛かりを一挙に得られる相手であった[3]

両社はもともと、アクリル繊維や炭素繊維の原料を合弁会社で生産する関係にあった。川上で石油化学を担う三菱ケミカルと、その川下で樹脂・繊維を手掛ける三菱レイヨンが一体となれば、原料から製品までの一貫生産が視野に入る。単なる規模の追加ではなく、垂直統合による原料の内製と川下展開が、この組み合わせの主眼であった。三菱グループの中核化学2社という近さも、統合の現実味を高めていた[4]

決断

検討の表面化から経営統合の合意へ

買収の動きが最初に表に出たのは2009年8月であった。三菱ケミカルホールディングスが三菱レイヨンの買収を検討していることが報じられ、当時は両社とも「開示すべき事項はない」としつつ、三菱ケミカル首脳は「選択肢の一つではある」と含みを残した。実現すれば1997年の三井化学誕生以来の化学業界の大型再編になるとみられ、脱石化を進める最大手の買収戦略として注目を集めた。検討はその後およそ3か月をかけて具体化していった[5]

検討は正式な合意に結実した。2009年11月19日、三菱ケミカルホールディングスと三菱レイヨンは経営統合に関する基本合意を公表し、三菱ケミカルが公開買付け(TOB)で三菱レイヨン株を取得したうえで、残る株式を株式交換で取得して完全子会社化する方針を示した。同日には統合の狙いを説明する場も設けられ、炭素繊維やMMAといった機能材料を軸に、川上・川下を束ねる構想が正式な経営判断として提示された[6]

TOB価格をめぐる攻防と完全子会社化

統合の合意に至るまでには、TOB価格をめぐる駆け引きがあった。交渉は一時難航し、当時の三菱レイヨン社長・鎌原正直氏が「もうやめときましょう」と漏らしたこともあったと伝えられる。最終的にTOB価格は1株380円で決着し、直前株価に4割程度のプレミアムを乗せる譲歩を小林社長側が行った。全株取得を前提とした取得総額は約2100億円に達し、リーマンショック直後の業績悪化期としては大型の投資であった[7]

公開買付けは2010年2月17日から3月19日まで実施され、成立した。三菱ケミカルは3月30日付で三菱レイヨンの議決権ベース約78%(発行済み株式の約74.6%)を取得して連結子会社とし、公開買付けによる取得額は約1700億円であった。応募しきれなかった残りの株式については、同年10月1日をめどに株式交換を実施し、三菱レイヨンを100%子会社とする段取りが組まれた。二段階の手続きを経て、三菱レイヨンは10月に三菱ケミカルの完全子会社となった[8]

結果

世界MMA首位級のポジションを得る

買収により、三菱ケミカルは炭素繊維・アクリル樹脂・MMAを一挙に取り込んだ。とりわけMMAでは世界首位級の地位を得て、川上の石油化学から川下の機能材料までを束ねる体制が整った。三菱レイヨンが先んじて買収していた英ルーサイトやサウジの合弁を通じ、欧州・中近東を含む海外の生産・販売網も手中に収めた。汎用石化を縮小しながら機能材料で世界の上位を狙うという構造改革の方向は、この取り込みで具体的な事業の裏付けを得た[9]

もっとも、この決断は業績が底を打つなかでの前がかりな投資であった。三菱ケミカルは2009年3月期に連結で当期純損失671億円を計上し、翌2010年3月期も当期純利益128億円と回復途上にあった。そのなかで約2100億円を投じた判断であり、財務の余裕から出た拡大というより、危機のさなかに次の収益源を先取りする性格の強い買収であったとみられる。取り込んだ機能材料をどう伸ばすかが、その後の課題として残された[10]

取り込んだ事業のその後

三菱レイヨンで得た事業は、その後のグループ再編の中心に置かれ続けた。2017年4月には三菱化学・三菱樹脂・三菱レイヨンの3社が統合されて三菱ケミカルが発足し、旧三菱レイヨンの炭素繊維・機能材料は新会社の主力領域に組み込まれた。一方でMMAはアジアの市況変動に左右されやすく、好不況の振れが業績を揺らす事業となった。取り込みから10年を経た2020年代には、MMAを含む石化・機能材料の扱いが構造改革の主要論点として繰り返し取り上げられている[11]

出典・参考

免責事項およびポリシー