{"title":"三菱レイヨンの歴史概略","sections":[{"start_year":1933,"end_year":1952,"main_title":"新興人絹から、企業再建整備の分割を経て三菱レイヨンへ","subsections":[{"title":"毛織会社の試験工場から生まれたスフ会社","text":"起こりは会社ではなく、一つの試験工場だった。1932年、新興毛織の今津工場内に置かれた試験設備で、同社社長の河崎助太郎を中心にステープルファイバー、当時の呼び名でスフの研究が始まる。人造繊維が世界的に伸びていた時期で、綿花を輸入に頼る日本にとって繊維原料の国産化は国策に近い課題でもあった。研究は翌1933年に成案を得たが、まったく新規の事業で成否が読めない。そこで新興毛織は事業を本体から切り離し、専門に経営する会社を別に立てた。1933年8月、資本金1,000万円、うち払込250万円で新興人絹株式会社が設立された。\n\n\n設備の増設は4年で4度に及んだ。1934年1月、日産15トンの能力を持つ大竹工場の建設に着手し、翌年6月に完成して製造を開始する。同じ1935年12月には紡機3万錘の岐阜紡績工場を建て、スフ綿は「新光」、スフ糸は「新光レヨネット」の名で市場に出た。1937年10月には日産40トンの大竹第二工場が完成し、翌年3月には岐阜工場へ3万錘を増設する。スフ市況は1936年ごろから活況を呈し、人繊工業の確立を掲げる政府方針にも助けられて、社業は1938年におおよその頂点に達した。未払込資本金の払込も同年までに完了している。\n","references":[{"title":"『３０年史』（三菱レイヨン株式会社社史編纂委員会編、三菱レイヨン株式会社、1964年）目次","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社銀行八十年史』（1955年）「三菱レイヨン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「三菱レイヨン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期（2006年3月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年10月10日号「新社長登場 永井彌太郎氏（三菱レイヨン）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"二度の合併で消えた法人、大竹に残った有機ガラス","text":"1937年、三菱が傘下に化繊会社を加える方針を決め、新興人絹に提携を申し入れる。同社はこれを将来の発展に望ましいと判断して受け入れ、三菱系の日本化成工業を通じて資本関係を結んだ。日本化成工業は以後の親会社となる。1939年以降は戦時経済統制が強まり、民需用スフの生産割当は減り続け、輸出も細った。1941年11月には大豆蛋白繊維の設備資金として資本金を1,500万円へ増やしたが、統制はゆるまなかった。1942年10月、新興人絹は親会社の日本化成工業に合併される。設立から9年で、法人としての新興人絹はいったん消えた。\n\n\n合併の直後、のちに主力となる製品の製造が大竹で始まった。1943年11月、航空機用の風防ガラスを作るため、大竹工場にメタアクリル樹脂すなわち有機ガラスの製造設備が建てられ操業に入った。戦前の航空機の風防ガラスはすべてこの樹脂ガラスだったというのが、後年の三菱レイヨン自身の説明である。同じ年、大竹のスフ綿設備と岐阜の紡績設備の一部は軍需へ供出され、繊維の生産能力は削られた。1944年5月には日本化成工業が旭硝子と合併して三菱化成工業となる。1945年7月、岐阜工場は空襲で焼失した。繊維設備を失う一方で、樹脂の技術だけが残った。\n","references":[{"title":"『３０年史』（三菱レイヨン株式会社社史編纂委員会編、三菱レイヨン株式会社、1964年）目次","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社銀行八十年史』（1955年）「三菱レイヨン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「三菱レイヨン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期（2006年3月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年10月10日号「新社長登場 永井彌太郎氏（三菱レイヨン）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"企業再建整備が生んだ第二会社の60年","text":"戦後、三菱化成工業は特別経理会社および集中排除の指定会社となった。会社側は成り立ちに沿って、旧新興人絹・旧日本化成・旧旭硝子の三部門へ分ける案を立て、部門別の責任経営に移る。集排法の指定はのちに取り消されたが、三社分離の方針は変わらなかった。1950年1月に新光レイヨン、日本化成工業、旭硝子の3社が設立され、親会社の三菱化成は解散する。新光レイヨンは同年6月、親会社からの現物出資9,000万円と株式募集3,000万円をあわせた資本金1億2,000万円で発足した。以後2017年まで続く法人は、ここから始まる。\n\n\n分割で生まれた3社のうち、レイヨンは行き先として人気がなかった。1946年に三菱化成工業へ入り、のちに社長となる永井彌太郎氏は、分割にあたって化成に行くつもりだったが、大阪支店長にしつこく誘われて新光レイヨンへ移ったと述べている。3社のうちレイヨンの業績は長く低迷を続けた、というのが当人の振り返りである。もっとも、朝鮮戦争による糸へん景気がこの会社を救った。休止していた大竹第一工場を整備し、1951年2月には早くも戦前最高の生産量を突破する。資本金は1951年3月に3億円、1952年4月に6億円と積み増され、1952年12月、商号は三菱レイヨンとなった。\n","references":[{"title":"『３０年史』（三菱レイヨン株式会社社史編纂委員会編、三菱レイヨン株式会社、1964年）目次","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社銀行八十年史』（1955年）「三菱レイヨン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「三菱レイヨン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期（2006年3月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年10月10日号「新社長登場 永井彌太郎氏（三菱レイヨン）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1953,"end_year":1979,"main_title":"ボンネルと総合化繊メーカーへの拡張、そして構造不況","subsections":[{"title":"技術導入で並んだ総合化繊メーカー","text":"1955年ごろ、三菱レイヨンはスフ綿月産470万封度、スフ糸190万封度でいずれも業界第二位、有機合成樹脂は月産41トンで業界第一位に達していた。1955年3月期の総売上高は40億9,000万円である。日本の繊維産業が戦前水準を回復した1956年前後から、同社は海外技術の導入で品種を増やした。1956年7月に米セラニーズ社と提携して三菱アセテート、1957年12月には米モンサント社と提携して三菱ボンネルを設立し、アセテートとアクリルの両方を手に入れる。1959年には自社開発のポリノジック繊維を企業化し、1961年にはイタリアのモンテカチニ社からポリプロピレン繊維の技術を導入した。\n\n\n広げた品種のなかから、アクリルが主力に育った。1968年時点の年間売上高は約1,300億円で、内訳はアクリル製品56%、アセテート製品17%、レーヨンおよびポリノジック製品11%、ポリプロピレン製品10%、メタアクリル樹脂6%だった。レーヨン専業として出発した会社が、15年でアクリル中心の総合化繊メーカーに変わっている。原料の側も手当てした。1965年11月には日東化学工業の経営に参加し、アクリル繊維の原料であるアクリロニトリルの供給元を押さえた。この持分は1998年10月の合併まで維持された。\n","references":[{"title":"『３０年史』（三菱レイヨン株式会社社史編纂委員会編、三菱レイヨン株式会社、1964年）目次","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「三菱レイヨン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1973年11巻4号「三菱レイヨン 事業の多角・国際化をめざす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1982年20巻4号「三菱レイヨン ハイテクノロジーを基礎に高付加価値事業展開」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 繊維（日本経済新聞社、1994年）「繊維－繊維不況からDCブームへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期（2006年3月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"輸出依存を突かれたニクソン・ショック","text":"1971年、合繊の需給と輸出が同時に崩れた。生産拡大のなかで需給の緩みが出て価格が下がりかけていたところへ、輸入課徴金を含むニクソン・ショックが重なる。好調だった輸出が打撃を受け、国内へのなだれ込みを見越して価格は暴落した。三菱レイヨンは同年9月、企業の原点に立ち返る社内刷新運動を始める。社内ではMR（Management Revolution）運動と呼ばれた。運動の柱の一つが、主力製品ボンネルの輸出依存度を約5割から3割へ引き下げることだった。市況の波をそのまま業績に受ける体質を、この時点で問題に挙げた。\n\n\nもう一つの手が、1972年5月の東洋紡とのトップ会談だった。今後の繊維不況は構造的なものになる、それに対処するには両社の企業力を合わせて新しい有力なグループを作り、業界再編の先駆けを目指す。この共通認識のもとで両社は全面提携に踏み切った。1973年3月期の売上高は773億円の見通しで、内訳はボンネル384億円、ポリエステル長繊維ソルーナ179億円、樹脂131億円、パイレン39億円、化繊40億円で、輸出は154億円と約20%を占めた。当時のMMA樹脂の生産量では米ロームアンドハースの23万6,000トンに次ぐ11万1,000トンで、デュポンを抑えて世界2位に立っていた。\n","references":[{"title":"『３０年史』（三菱レイヨン株式会社社史編纂委員会編、三菱レイヨン株式会社、1964年）目次","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「三菱レイヨン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1973年11巻4号「三菱レイヨン 事業の多角・国際化をめざす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1982年20巻4号「三菱レイヨン ハイテクノロジーを基礎に高付加価値事業展開」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 繊維（日本経済新聞社、1994年）「繊維－繊維不況からDCブームへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期（2006年3月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"無配転落と、従業員を半分にした5年","text":"1973年の第1次石油危機を境に、合繊事業は世界的な構造不況に入った。設備過剰と過剰人員が同時に露呈し、三菱レイヨンは1976年3月期に無配となる。自己資本比率は9%まで落ちた。業界全体でも1977年10月から通産省の勧告操短が始まり、1978年4月からは不況カルテル、同年5月に成立した構造不況法のもとで1979年1月から設備凍結に入った。繊維産業の従事者は1974年末の87万人から1978年末には72万人へ減った。5年前に結んだ東洋紡との提携は1977年11月、アクリル繊維の共同販売会社ダイヤファイバーズの営業開始として具体化する。旭化成と鐘紡も翌1978年6月に日本合成繊維を発足させており、業界は二つのグループに分かれた。\n\n\n減らしたのは、まず人だった。三菱レイヨングループの従業員数はピーク時の11,000人から5,500人へ半減し、単体では9,300人が3,600人へと3分の1になっている。それでいて業容は縮まなかった。不採算事業の撤収、人員削減、コスト削減を重ねた結果、1979年3月期に浮上し、1980年3月期には累積赤字を一掃して経常利益55億円を計上、5年越しで6%の復配にこぎ着けた。レーヨン事業そのものは、この構造改善のなかで全面撤収された。社名に残った「レイヨン」は、事業としてはこの時期に消えた。\n","references":[{"title":"『３０年史』（三菱レイヨン株式会社社史編纂委員会編、三菱レイヨン株式会社、1964年）目次","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「三菱レイヨン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1973年11巻4号「三菱レイヨン 事業の多角・国際化をめざす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1982年20巻4号「三菱レイヨン ハイテクノロジーを基礎に高付加価値事業展開」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 繊維（日本経済新聞社、1994年）「繊維－繊維不況からDCブームへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期（2006年3月期）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1980,"end_year":1999,"main_title":"収益第一主義とMMA・炭素繊維への傾斜","subsections":[{"title":"原料を握るためのイソブチレン直酸法","text":"構造不況を抜けた三菱レイヨンが掲げたのは「収益第一主義」で、具体的な指標は1株当たり税引後利益20円、すなわち毎年資本金と同額程度の経常利益を出すことだった。市況の波を受けにくい体質に変えるため、繊維と樹脂の高付加価値化、非繊維事業の拡充、コストダウン、原料対策、財務体質の改善という5つを挙げた。大竹工場のボイラーを重油専焼から石炭混焼へ18億円かけて転換し、豊橋工場は重油をLNGに替えた。年間1,000億円近い原燃料を使うため、1%安く買えれば10億円の利益になるという算段だった。\n\n\n原料対策のうち、最も後に効いたのがMMAモノマーの製法転換である。従来のACH法はアクリロニトリル製造の副産物である青酸を原料に使うため、増産しようにも原料の確保に限界があった。三菱レイヨンは世界に先がけてイソブチレンの直接酸化法を開発し、約100億円を投じて年産4万トンの工場を大竹に建設、1982年夏に完成させる。必要なら同業他社にも融通する、というのが当時の説明だった。この設備を常務時代に決めたのが永井彌太郎氏で、1988年に社長へ就いた時点では、それが収益力の柱になっていたと日経ビジネスは書いている。\n","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1982年20巻4号「三菱レイヨン ハイテクノロジーを基礎に高付加価値事業展開」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年7月8日号「三菱レイヨン 炭素繊維2位に躍進 川下作戦で東レを追う」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年10月10日号「新社長登場 永井彌太郎氏（三菱レイヨン）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 繊維（日本経済新聞社、1994年）「繊維－繊維不況からDCブームへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年6月7日号「［話題の新商品・新技術］三菱レイヨン／膜排水処理システム 中空糸膜技術で既存の産業排水処理分野を切り崩す」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"能力4分の1で東レに次いだ炭素繊維","text":"1991年3月期、三菱レイヨンの炭素繊維部門の売上高は前年度比23%増の138億円となり、東邦レーヨンを抜いて東レに次ぐ2位に入った。競合から驚きの声が上がったのは、生産能力の差があまりに大きかったからである。同社の年産能力は500トンで、東邦レーヨンの2,020トン、東レの2,250トンに対して4分の1程度しかない。しかも市況は悪かった。米国防予算の削減で軍需が1989年比3分の1に減り、余った炭素繊維が一般産業用途になだれ込んで、1990年から市況は悪化の一途をたどっていた。\n\n\n差を生んだのは売り方だった。東レと東邦レーヨンは原糸が売上の半分以上を占め輸出比率も高かったのに対し、三菱レイヨンは成形品で売上の9割近くを稼ぎ、輸出はほとんど手がけていない。原糸やプリプレグより付加価値の高い成形品を中心に置いたので、市況悪化の影響を受けずに済んだ。技術の裏づけもあった。名古屋の商品開発研究所、原糸を生産する豊橋事業所、本社の炭素繊維複合材料事業部の技術スタッフを製品ごとに組み替える開発チームを作り、素材の選定から加工、評価までを一手に引き受けている。プリプレグを製品に加工する設備を持たない顧客からの注文を、この体制で次々と取った。\n\n\n国内で通用した戦略を、そのまま最大市場の米国へ持ち込む。1990年5月にプリプレグを製造販売する米ニューポート・コンポジット社を50億円強で買収し、社内公募で選んだ若手研究者を1人送り込んで成形技術を教えた。翌1991年6月には原糸を作る米コートルズ・グラフィル社を約20億円で買収し、設備能力を900トンへ増やした。単独で進出すればほぼ同額の投資が要るところ、米国市場の低迷で現地メーカーの収益が軒並み悪化していたため、半分以下の投資で済んだ。ただしコートルズ社は1990年度に赤字転落しており、黒字化の見通しは立っていなかった。\n","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1982年20巻4号「三菱レイヨン ハイテクノロジーを基礎に高付加価値事業展開」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年7月8日号「三菱レイヨン 炭素繊維2位に躍進 川下作戦で東レを追う」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年10月10日号「新社長登場 永井彌太郎氏（三菱レイヨン）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 繊維（日本経済新聞社、1994年）「繊維－繊維不況からDCブームへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年6月7日号「［話題の新商品・新技術］三菱レイヨン／膜排水処理システム 中空糸膜技術で既存の産業排水処理分野を切り崩す」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"非繊維50%と、膜という第三の柱","text":"非繊維化の比率は1975年の20%から1980年度に40%へ上がり、合繊9社の平均が1977年度27%から1983年度37%へ動くなかで、三菱レイヨンは50%に達している。旭化成の70%には及ばないが、鐘紡の41%は上回った。繊維から離れる先として同社が選んだのは、樹脂のほかに膜だった。多孔質の中空糸や膜を作る技術は、1982年の時点で人工肺やプラズマ・セパレーターなど医療用途の素材として説明されており、当時はガンやリューマチの治療向けに1,500億円規模の市場を見込んでいた。この技術は結果として、家庭用浄水器「クリンスイ」の形で先に大衆化した。\n\n\n産業用途で伸びたのは1990年代である。食品・畜産工場の排水やビル・ホテルの中水道を対象に、20社以上の装置メーカーと組んで中空糸膜を曝気槽へ直接浸ける方式を売り込み、900億円といわれた既存の活性汚泥処理の市場を切り崩しにかかった。1994年ごろから出荷は毎年倍増以上のペースで伸び、1997年に投入した「ステラポアーL」は充填密度を2倍にして運転コストを下げ、初期費用を含めた総額でも従来方式と並んだ。中空糸膜で産業排水処理まで展開できるのは同社一社だけ、というのが当時の評価である。\n","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1982年20巻4号「三菱レイヨン ハイテクノロジーを基礎に高付加価値事業展開」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年7月8日号「三菱レイヨン 炭素繊維2位に躍進 川下作戦で東レを追う」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年10月10日号「新社長登場 永井彌太郎氏（三菱レイヨン）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 繊維（日本経済新聞社、1994年）「繊維－繊維不況からDCブームへ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年6月7日号「［話題の新商品・新技術］三菱レイヨン／膜排水処理システム 中空糸膜技術で既存の産業排水処理分野を切り崩す」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":2000,"end_year":2017,"main_title":"MMAで世界首位に立ち、統合で幕を閉じるまで","subsections":[{"title":"アクリルへの集中と初の非繊維出身社長","text":"2000年6月に社長へ就いた皇芳之氏は、アクリル樹脂事業部門長を経てのトップである。アクリル事業に経営資源を集中する一方、不採算の繊維部門の構造改革を進めた。事業の組み替えも続いた。2001年7月に三菱化学とダイヤフロックとの会社分割でダイヤニトリックスを設立し、2002年4月には宇部サイコン、宇部興産、ゼネラル・エレクトリックとの合弁でユーエムジー・エービーエスを作ってABS樹脂を切り出す。中国では2001年9月の南通麗陽化学から2004年3月の恵州恵菱化成まで拠点を重ね、2006年8月には韓国湖南石油化学と大山MMAを設立した。\n\n\n2006年6月に社長となった鎌原正直氏は、同社で初めての非繊維出身のトップだった。1965年の入社時、花形だった繊維事業での海外駐在を思い描いていたが、配属先は当時まだ新規事業だった樹脂課で、以後は樹脂・化成品一筋である。中国のMMAプロジェクトで担当者が初年度から黒字という計画を持ってきたとき、数年かけて準備した事業がなぜ最初の月に赤字なのかと問い返し、初月度からの黒字を求めたという逸話が残る。目標として掲げたのは、MMA系事業でのアジア首位から世界首位への成長と、非MMA系分野での新たな基幹事業の育成だった。\n","references":[{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期〜第88期（2006年3月期〜2013年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年9月2日号「［トップの履歴書］三菱レイヨン社長 鎌原正直 スピード経営目指す初の非繊維出身社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第85期（2010年3月期）【企業結合等関係】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"赤字のさなかに完了したルーサイト買収","text":"2009年3月期、三菱レイヨンの売上高は前期の4,185億円から3,450億円へ落ち、営業損失76億円、当期純損失290億円を計上した。世界的な金融危機の直撃である。その最中の2009年5月28日、同社は世界最大手のMMAメーカーである英ルーサイト・インターナショナルの買収手続きを完了した。目的は、MMAの米欧生産拠点の獲得と製造技術の拡幅にある。1943年に大竹で航空機の風防ガラスを作り始めた事業が、66年を経て世界首位に立った。買収を完了した2010年3月期も、当期純損失50億円で赤字が続いた。\n\n\nこの買収の金額は、二通りの見え方をする。有報に載る取得原価は18億9,500万円で、うち株式そのものの対価は1,000万円にすぎない。一方で企業結合日に受け入れた資産は2,020億円、引き受けた負債は1,978億円だった。実質は負債の肩代わりである。連結総資産は4,089億円から5,674億円へ1,585億円増え、固定負債は1,515億円増加した。のれん324億円が立ち、20年の均等償却が始まる。2010年3月期の海外売上高比率は56.1%となり、日本の繊維会社としての姿は数字の上でも消えた。\n","references":[{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期〜第88期（2006年3月期〜2013年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年9月2日号「［トップの履歴書］三菱レイヨン社長 鎌原正直 スピード経営目指す初の非繊維出身社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第85期（2010年3月期）【企業結合等関係】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"上場廃止から法人が消えるまでの7年","text":"世界首位に立った翌年、三菱レイヨン自身が買われる側になった。2010年3月末に三菱ケミカルホールディングスによる公開買付が成立して連結子会社となり、同年10月の株式交換で完全子会社となって上場を廃止する。1950年の発足から60年で、上場会社としての歴史はここで閉じた。経営統合が先にあって買収が続いたわけではない。ルーサイト買収による負債の膨張と、2009年3月期・2010年3月期の連続赤字が先にあり、その財務を支える資本がグループの側から入ってきた、という順である。買収そのものは既に完了していた。\n\n\n上場を降りたあとも法人は7年続く。2011年3月期の売上高はルーサイトの通年寄与で前期比31%増の4,784億円となり、報告セグメントは化成品・樹脂、AN及び誘導品、炭素繊維・複合材料、繊維の4区分へ組み替えられた。掲げた「New Design MRC」は、MMA系で世界首位を不動にし、炭素繊維・複合材料と水環境を次のコア事業に育てて、2018年近傍に売上高1兆円・営業利益1,000億円に届かせるという構想だった。ただしその達成を、三菱レイヨンという法人が単独で見ることはなかった。\n\n\n2017年4月1日、三菱化学・三菱樹脂と統合して三菱ケミカル株式会社が発足し、法人としての三菱レイヨンは消滅した。1950年の企業再建整備で分かれた3社のうち、旧日本化成工業を継ぐ三菱化学とは67年を経て一つに戻ったが、旭硝子は統合の外に立ったままである。MMA、炭素繊維、アクア（水処理）の各事業と大竹・豊橋の生産拠点、そしてアクリライトやルーサイトといった製品ブランドは統合会社へ引き継がれた。消えたのは社名である。証券コード3404は、その7年前の上場廃止で既に失われていた。会社の出発点であったレーヨンは事業として1970年代に終わっており、社名だけが40年遅れて後を追った。\n","references":[{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期〜第88期（2006年3月期〜2013年3月期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年9月2日号「［トップの履歴書］三菱レイヨン社長 鎌原正直 スピード経営目指す初の非繊維出身社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱レイヨン 有価証券報告書 第85期（2010年3月期）【企業結合等関係】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"レーヨン専業として1933年に生まれた会社が、なぜ2009年にMMAで世界首位に立てたのか","a":"主力になった事業は、繊維の副産物ではなく戦時の軍需に始まる。1943年11月、大竹工場に航空機の風防ガラス用としてメタアクリル樹脂の設備が建った。戦後この設備は民需に転換され、1955年には有機合成樹脂で業界首位に立つ。1973年にはMMA樹脂の生産量で世界2位につけ、1982年には原料の制約を外すためイソブチレン直接酸化法を世界に先がけて開発して大竹に年産4万トンの工場を建てた。繊維で稼いだ40年のあいだ、樹脂は一貫して伸びていた。"},{"q":"生産能力が競合の4分の1しかない炭素繊維で、1991年になぜ売上2位に立てたのか","a":"売る段階を変えたからである。三菱レイヨンの年産能力は500トンで、東邦レーヨンの2,020トン、東レの2,250トンに遠く及ばない。それでも1991年3月期の炭素繊維売上高は138億円となり、東邦レーヨンを抜いて2位に入った。両社が原糸で売上の半分以上を稼ぎ輸出比率も高かったのに対し、同社は成形品で9割近くを稼いだ。軍需の急減で原糸市況が崩れた年に、加工品の側にいたことが順位を分けた。"},{"q":"290億円の純損失を出した2009年に、なぜ英ルーサイトの買収を完了できたのか","a":"買収の重さは、株式の代金ではなく負債の引き受けにあった。有報に載る取得原価は18億9,500万円で、株式そのものへの支払いは1,000万円にすぎない。一方で受け入れた資産は2,020億円、引き受けた負債は1,978億円にのぼった。報道された16億ドルはこの負債込みの企業価値にあたる。結果として固定負債は1,515億円増え、翌年3月末には三菱ケミカルホールディングスの公開買付を受け入れた。"}]}}