1943年9月、日本化成工業が滋賀県長浜市[1]にあった大塚商店の縮緬工場を買収し、同社の長浜工場として合成ゴムによる航空機用パッキングの製造を始めた。琵琶湖の東岸で絹織物を織っていた建屋が、軍需の化学工場に変わった。ここが後の三菱樹脂の操業の始まりにあたる。同社が旭硝子との合併で三菱化成工業を名乗るのは翌1944年4月のことで、有価証券報告書の沿革はこれを後年の商号で遡って記している。ただし法人としての出自は別にある。同じ1943年の1月15日に資本金115万円の亀戸ゴム工業[2]が設立され、ゴム履物やゴム引布など天然ゴムの加工を営んでいたが、この会社は戦災で工場を焼失したまま復興できずにいた。
1946年2月、この二つが接ぎ木された。戦後は天然ゴムの加工へ転じることになり、原料天然ゴムの配給を確保する必要から、三菱化成工業は全株式を保有していた亀戸ゴム工業を東京から長浜市へ移し[3]、ゴム履物類の製造を始めるとともに三菱化成工業から分離独立させた。社名は長浜ゴム工業とした。焼けて工場を失った法人と、疎開先で残った工場とを、原料配給の枠を得るために組み合わせた形になる。三菱化成工業自身が企業再建整備計画によって新光レイヨン・旭硝子・日本化成工業の三社へ分割[4]されるのはこの4年後の1950年6月であり、長浜ゴム工業の独立はそれとは別の事情による。
ゴム加工の設備と職人を抱えた会社が、次に選んだ素材は塩化ビニルだった。長浜ゴム工業は1948年4月、本邦初の試みとして塩化ビニル樹脂の加工に着手し[5]、軟質塩化ビニル加工製品の生産を始めている。この『本邦初』がどれだけ早かったかは、原料側の年表と並べると見える。塩化ビニル樹脂の専業会社として日本ゼオンが設立されたのは1950年4月であり、米BFグッドリッチの全技術を導入した蒲原工場が月産250トンで完成したのは1952[6]年5月だった。住友化学工業が電解ソーダの副生塩素を使って塩化ビニルの製造を始めたのも1951年7[7]月である。原料を国内で量産する体制ができる前に、加工のほうが先に動いた。
1952年1月、軟質部門を同系のモンサント化成工業へ移し[8]、硬質塩化ビニル加工製品の生産を本格化させた。軟らかいシートやレザーを捨て、硬いパイプと板に絞る選択である。ここで会社の輪郭が決まった。同じ1952年の8月、積水化学工業が工場を買収して硬質塩化ビニル管『エスロンパイプ』の製造を始めている[9]。後年まで続く競争相手が、同じ年に同じ製品へ入った。積水化学工業の1955年3月期の売上高は12億円で[10]、当時はプラスチック成型品と酢酸ビニル重合品を主力とする会社だった。硬質塩ビ管は、どちらにとっても始まったばかりの製品である。原料を持たない加工専業という点でも、両社の立ち位置はよく似ていた。
1958年6月、ゴム部門を完全に閉鎖[11]して合成樹脂製品の製造を専業とし、社名を長浜ゴム工業から長浜樹脂へ改めた。ゴムを名乗って発足した会社が、12年でゴムを捨てた。同年3月には東洋化学産業の株式を取得している。1960年7月に本社を長浜市から東京都千代田区へ移し、1961年6月に東京証券取引所、8月に大阪証券取引所[12]へ株式を上場した。同年10月には神奈川県に平塚工場が竣工している。創業の地の名を社名に残したまま、本社は東京へ、主力の生産拠点は関東へ移った。分離独立から15年のあいだに、この会社は工場の所在地も、扱う素材も、名前も入れ替えた。
1962年6月、社名を長浜樹脂から三菱樹脂へ変更[13]した。上場の翌年である。地名を捨てて企業集団の名を冠したこの改称は、単なる看板の掛け替えではない。三菱樹脂は塩化ビニルのモノマーもポリマーも自ら持たず、原料樹脂は同じ三菱系の企業から買う立場にあった。原料を持たない加工専業というこの立ち位置は、以後この会社が消滅するまで変わらない。最後の有価証券報告書に至っても、原料の一部を三菱化学から購入すると記されている[14]。三菱の名は、原料の調達でも、官公需を含む販路でも効いたであろう。上場から1年で社名を変えたこの会社は、以後55年にわたって三菱の名を掲げ続けた。
1960年代から70年代にかけて、三菱樹脂は関係会社を並べた。1964年6月に羽生プラスチックの株式を取得し、1965年9月に虎姫プラスチック、1966年8月に日本ポリペンコ[15]、1971年4月に菱和産業、1976年4月に菱樹化工を設立している。なかでも日本ポリペンコはエンジニアリングプラスチック製品を扱い、汎用樹脂の加工から一段外に出る足がかりになった。1974年1月には美祢工場が竣工し、同年5月には浅井製造所を開設[16]している。ただし収益の柱は硬質塩ビ管であり、周辺への広がりが主柱を代えることはなかった。
1960年代後半から、原料側の風景が変わった。エチレンプラントの大型化に伴って石油化学コンビナートの総合利用が進み、塩化ビニル樹脂の原料である塩化ビニルモノマーは、カーバイド方式から石油化学方式への転換と設備の大型化が同時に進んだ。その結果、1970年には塩化ビニル樹脂がポリエチレンをしのいで最大のシェア[17]を占めるプラスチックになった。信越化学工業・旭硝子・鐘淵化学工業・旭電化工業が共同出資した鹿島塩ビモノマー、住友化学工業・電気化学工業・旭硝子・日産化学工業・チッソが設立した千葉塩ビモノマーといった塩ビセンターが[18]、そのほとんどを1970年から71年にかけて完成させている。加工側から見れば、原料が安く大量に手に入る環境が整った。
しかし原料が潤沢になることは、そのまま加工側の利益にはならなかった。塩化ビニル樹脂は相次ぐ増設で1971年春までに年産200[19]万トンに達した一方、需要は1970年秋から停滞して在庫が急増する。業界は1971年初めから大幅な自主減産に入り、同年12月には不況カルテルの結成を公正取引委員会へ申請して1972年1月から実施した。中低圧ポリエチレンとポリプロピレンも1972年に不況カルテルを結んでいる。エチレンメーカー12社の申請と認可も1972年のことで[20]、高度成長を続けてきた石油化学工業が成熟期に入ったことが、この一連のカルテルで裏書きされた。川上の過剰は、最終製品の価格競争として川下へ降りてくる。
この時期に三菱樹脂が塩ビ管で得た位置は、その後20年以上動かなかった。硬質塩化ビニル管と継手の分野で、同社は積水化学工業とクボタに次ぐ第3位に定着する[21]。1989年の報道は『塩ビパイプでは業界第3位の三菱樹脂』[引用元]と書き、1994年の証券アナリストジャーナルに載ったシーアイ化成の記事も、市場シェア約10%の同社を『積水化学工業、クボタ、三菱樹脂に次いで第4位』[引用元]と位置づけている。[22]5年を隔てた二つの資料が同じ順位を伝えており、上位3社の顔ぶれは固定していた。首位ではないが、3位を守り続けることが、この会社の収益基盤だった。
1982年、石油危機による落ち込みからようやく回復し始めた年に、三菱樹脂は三菱総合研究所などの外部スタッフも交えた新商品探索プロジェクトチームを組み、1[23]年かけて進出すべき事業分野を検討した。精密射出成型など自社の基盤技術が生き、しかも今後の成長が見込める分野として絞り込まれたのが電子関連事業であり、なかでも二桁成長を見せるメモリーメディアだった。ICカード、光磁気ディスク[24]、フロッピーディスクのケースが具体案として挙がっている。塩ビ加工で3位を守るだけでは足りないという判断が、ここで初めて組織的な形をとった。
1984年からは、既存の成型技術を生かしてフロッピーディスクのケースやカセットのOEM供給も始めた[25]。8インチと5インチのジャケット生産に入れたのは、その素材が得意とする塩化ビニルだったからである。市場の中心が3.5インチへ移ると、今度はTDK向けに生産していたVTRカセットの設備が転用できた。TDKがVTR用の生産を海外へ移して設備が遊休化していたところ、3.5インチのフロッピーカセットはVTR[26]カセットと同じABS樹脂を使うため、成型機の口金を交換するだけで済んだ。小さなチャンスを事業に結びつけた手際ではあるが、その場でできるものを拾っていく域を出ていないという見方も、同時代の報道は併記している。
電子分野で最初に形になったのは、意外にもゲームソフトだった。三菱樹脂は1985年7月、世界に先駆けてICカード事業へ進出し[27]、家庭用パソコンMSXに標準を合わせたICカード利用型のゲームソフトを発売する。販売ルートもソフトを作る力も持たないため、三菱商事とハドソンと組んだ。この最初の挑戦は失敗した。パソコンの性能に限界があるうえICカードの記憶容量が小さく、スピード感のあるゲームを作れなかったためで、発売から1年で撤退した。同年5月には三菱商事・ハドソン・日本電素工業・加賀電子と『ビー・カード標準化委員会』を発足させており[28]、規格を統一して普及させる算段も並行して立てていた。最初のつまずきは商品の失敗であって、事業そのものからの撤退ではなかった。
1987年10月の再挑戦が当たった。日本電気ホームエレクトロニクスがゲーム機『PCエンジン』の記憶媒体に三菱樹脂製ICカードを標準装備[29]すると決め、ハドソン、ナムコ、ビクター音楽産業などソフト各社が相次いでカードの購入契約を結んだ。かつて任天堂にファミコンへのICカード採用を持ちかけて商談が不成立に終わり、代わりにMSX用を手掛けた経緯があり、ファミコンへの対抗心がゲーム用ICカード事業復活の引き金になったと報じられている。ゲーム用ICカードの売上高は1989年3月期に約100億円[30]を記録した。1988年に国内メーカーが生産したICメモリーカード約1000万枚のうち、500万枚が三菱樹脂のPCエンジン向けだったという。
それでも村松寿久社長はこの好調を手放しでは喜ばなかった[31]。カード原価の約6割を占めるICは半導体メーカーから買わねばならず、ゲームソフトは外部のソフト会社に全面的に依存する。付加価値の低い商品にすぎないという自己認識があった。ビー・カード標準化委員会は結局、代理店グループとして機能し、生協の受発注システム、タクシーの運行管理、日本電信電話の留守番電話用、シンセサイザーの音源といったゲーム以外の用途はここを通じて開拓された。非ゲーム用ICメモリーカード市場約500万枚のうち[32]、シャープの電子手帳向け100万枚を除けば三菱樹脂が首位を守ったが、代理店の注文に応じてカードを納入するだけの立場では利幅が限られた。収益を確保するには自ら川下へ出るほかない、というのがこの時期の結論だった。
利幅の薄さを解く答えとして選ばれたのが、光学式ビデオディスクだった。三菱樹脂は1989年、減価償却費の2倍近い100億円の設備投資を計画し、そのうち24億円をこの事業[33]へ投じると決める。三桁の設備投資は創業以来初めてである。1987年4月から業務用カラオケのビデオディスクを日立製作所へOEM供給[34]しており、月間10万枚の生産能力を30万枚まで広げる。総額30億円のうち24億円を三菱樹脂が負担し、残りを三菱商事が出資して、1990年2月をめどに生産・販売会社を設立する計画だった。三菱商事がコンパクトディスクで築いた販売網も使う。ICカードで得た『代理店に納めるだけでは利幅が薄い』[引用元]という教訓が、自前の販売会社という形に表れている。
この投資に踏み切れた背景には財務の改善がある。慢性的に赤字だった金融収支が1989年3月期に初めて黒字へ転じた。5年間にわたって低コストの転換社債やワラント債を発行し、邦貨額にして510億円を調達[35]して割高な銀行借入金を減らした結果である。転換権の行使が急ピッチで進んで株式数は1989年3月期に2億株を超え、自己資本比率は初めて20%を上回った。手元流動性も平均月商の3.8倍にあたる450億円弱があった。東野元貞経理部長は『100億円規模の設備投資なら今後2、3年は資金調達に慌てる必要はない』[引用元]と説明している。新規事業の1989年3月期売上高合計は132億6000万円で全売上高[36]の約1割を占めたが、収支はトントンにとどまっていた。
1990年6月、浜辺正剛氏が社長に就任した。1950年に東京大学法学部を出て三菱化成工業へ入り、石炭化学の営業を歩んだ。[37]取締役・副社長として、石炭ピッチから作るコークスや炭素繊維の事業化を指揮している。『脱石油』にこだわった経歴が、成熟した塩ビの外を探す会社の社長に選ばれた理由だろう。就任後は製品別の7事業部を需要分野別の4事業本部へ改め、1994年度に売上高2000億円、営業利益100億円[38]、新商品比率15%以上を掲げた。1989年にも1995年3月期に2000億円という計画が示されており、同じ水準が二度置かれた。手元の資料で追える2002年3月期の売上高は1631億円で、期限から7年を経てもなお370億円足りない。1982年に電子分野を選んだ判断そのものは、塩ビの成長率が年2%という前提では合理的だった。誤算は、選んだ先の商品がいずれも短命だったことにある。
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|---|---|---|---|---|
| 1943〜1961年航空機用パッキングから本邦初の塩化ビニル加工へ、長浜の一工場が独立するまで | 三菱化成工業が大塚商店縮緬工場を買収 | ★ | ||
| 長浜工場を新設 | ★ | |||
| 航空機用パッキングの製造を開始 | ★ | |||
| 三菱化成工業から分離独立 | ★★ | |||
| 長浜ゴム工業として発足 | ★ | |||
| ゴム履物類の製造を開始 | ★ | |||
| 塩化ビニル樹脂の加工に着手 | ★★ | |||
| 軟質塩化ビニル加工製品の生産を開始 | ★ | |||
| 軟質部門を三菱モンサント化成へ移譲 | ★ | |||
| 硬質塩化ビニル加工製品の生産を本格化 | ★ | |||
| 東洋化学産業の株式を取得 | ★ | |||
| ゴム部門を完全に閉鎖して合成樹脂製品の専業となり、社名を長浜樹脂に変更 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 平塚工場が竣工 | ★ | |||
| 1962〜1979年社名に三菱を冠した加工専業メーカーが塩ビ管で業界3位に定着するまで | 社名を三菱樹脂に変更 | ★ | ||
| 羽生プラスチックの株式を取得 | ★ | |||
| エンジニアリングプラスチック分野に参入 | ★★ | |||
| 菱和産業を設立 | ★ | |||
| 美祢工場が竣工 | ★ | |||
| 浅井製造所を開設 | ★ | |||
| 菱樹化工を設立 | ★ | |||
| 1980〜1999年成熟した塩ビの外に大黒柱を探した20年 ── ICカードとビデオディスク | 外部人材も交えた新商品探索プロジェクトチームを設置 | ★ | ||
| フロッピーディスクのジャケットとカセットのOEM供給を開始 | ★ | |||
| ICメモリーカード事業に参入 | ★ | |||
| ゲーム用カード事業を再開 | ★ | |||
| 光学式ビデオディスク事業への24億円投資と、三菱商事との共同出資会社の設立 主力の塩ビパイプが年率2%の成長にとどまるなか、三菱樹脂が1989年度の設備投資100億円のうち24億円を光学式ビデオディスク(LD)事業へ振り向け、三菱商事との共同出資で1990年2月をめどに生産・販売会社を設立すると決めた投資。三桁の設備投資は創業以来初であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 浜辺正剛氏が社長に就任 | ★ | |||
| 製品別の7事業部を需要分野別の4事業本部へ再編 | ★ | |||
| 両工場の研究部を本社直轄の研究所に格上げ | ★ | |||
| 郡山工場が竣工 | ★ | |||
| 羽生プラスチックと虎姫プラスチックを子会社化 | ★ | |||
| 2000〜2017年親子上場の終わりと、親会社の機能材料事業を受け入れた最後の9年 | 三菱樹脂の株式交換による完全子会社化と機能商品の持株会社直下への集約 2007年3月の公開買付け、9月の株式の現物配当、10月の株式交換という3段の手続きで、三菱ケミカルホールディングスは三菱化学の子会社であった上場企業・三菱樹脂を完全子会社とした。三菱樹脂は上場を退き、持株会社の直下に並ぶ事業会社となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 三菱化学グループ3社との合併と、三菱化学の機能材料事業の承継 2008年4月1日、三菱樹脂は三菱化学ポリエステルフィルム・三菱化学産資・三菱化学エムケーブイの3社を吸収合併し、同日付で三菱化学の機能材料事業を会社分割により承継した。100%株主の三菱ケミカルホールディングスが決めたグループ内の集約で、連結売上高は1,901億円から3,462億円へ、従業員は4,242人から6,713人へ増えた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 三菱化学の機能材料事業を会社分割により承継 | ★★ | |||
| アルポリックの金属樹脂積層板事業を会社分割により承継 | ★ | |||
| Quadrant AGの創業者と合弁で持株会社Aquamit B.V.を設立 | ★ | |||
| 創業以来の主力だった管材事業を積水化学工業へ譲渡 | ★★ | |||
| Quadrant AGを間接子会社化 | ★ | |||
| 三菱化学・三菱樹脂・三菱レイヨンの統合・三菱ケミカル発足(2017年成立) 2017年4月1日、三菱ケミカルホールディングス傘下の化学系3社(三菱化学・三菱樹脂・三菱レイヨン)が合併し、事業会社『三菱ケミカル』が発足した。売上高3兆円近くの、単一企業として国内断トツの総合化学メーカーが誕生した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 法人としての三菱樹脂が消滅 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三菱樹脂)