1885年に新田長次郎氏が大阪府西成郡難波村で始めた製革業が起源。
1888年に日本で最初の動力伝動用革ベルトを製造し、1983年に米ロデールとの合弁で半導体ウエハーの研磨パッドへ入った。ホース・チューブとベルトを主力とし、合弁2社からの持分法投資利益が営業利益を上回る。
前身は1885年に新田長次郎氏が創業した製革業。
1969年に新田産業を吸収合併し、1982年にニッタへ商号変更した。2009年にはニッタ・ムアーを吸収合併。海外企業との合弁を相次いで設け、アライアンス経営で事業を広げた。
愛媛県松山市出身の新田長次郎氏は、少年期に大阪へ出て米屋で働いた。それ以前に福沢諭吉の「学問のすすめ」に感銘を受け、外国に学んで国益に寄与する仕事を志していた。転機は、近くの製革工場に近代化のため招かれていたドイツ人技師との出会いだった。技師から『製革業は文明社会に必要であり、かつ発展する事業である』と聞かされ、新田長次郎氏はその製革所に職を移した。その後、藤田組製革所と大倉組製革所で修業を重ね、製革の技術を身につけた。大倉組の皮革工場は和歌山で操業しており、新田長次郎氏はそこでも皮革産業の将来性をドイツ人技師から教えられた。少年期の志と技師の見立てが重なり、輸入技術で成り立つ新しい産業として製革を選んだとみられる。
新田長次郎氏は製革の技術を習得した後、1885年に独立した。1885年3月、大阪府西成郡難波村久保吉(現・大阪市浪速区)で製革業を開始した。独立後に最初に手がけた製品は、軍靴用の皮革だった。修業先の藤田組製革所と大倉組製革所で得た技術が、独立の元手となった。ニッタは現在も、この1885年3月を会社の起点として沿革に記している。社長の新田精一氏は1990年の説明会で、創業から105年になると紹介した。明治の軍備拡張で軍靴の需要は国が買い手となって安定しており、独立したばかりの製革所が最初の販路に選んだのだろう。
1888年5月、新田長次郎氏の製革所は日本で最初の動力伝動用革ベルトを製造した。依頼主は、当時国内で最も近代的とされた大阪紡績(現・東洋紡)だった。大阪の財界人は綿糸布の需要が増えると見込み、国内に紡績業を興す必要を論じていた。大阪紡績はその先駆けとして、最新鋭の紡績機械を英国から導入した。ところが国内には機械の動力用ベルトを作れる所が無く、壊れると輸入品で補うしかなかった。そこで創業3年目の新田長次郎氏に、国産ベルトの開発が持ち込まれた。輸入の待ち時間は機械の停止に直結するため、大阪紡績は近くで修理と補充ができる製造元を必要としたと推察される。
大阪紡績に革ベルトを納めた1888年以降、大阪を中心に紡績と機械の産業が発達し、革ベルトの需要は増え続けた。この需要の増加によって、新田長次郎氏の事業の経営基盤が固まった。事業は工業化の進展とともに、動力伝動用ベルトと工業用革製品の専門メーカーとして進んだ。国産の革ベルトは、それまで輸入品に依存していた動力伝動用ベルトを国内で置き換えた。事業の成長は日本の工業化と歩調をそろえ、新田長次郎氏は一代で財産を築いた。当時の工場は1本の軸から多数の機械へ動力を分ける集団伝動が主流で、紡績工場が増えるほど長い革ベルトの注文も増えたと考えられる。
新田長次郎氏は、革ベルトを輸入品に代わる国産品として位置づけ、国益に資する事業とみなした。創業者の基本理念は、『在来から日本にある仕事で過当競争をするのは愚の骨頂』とするものだった。そのうえで、国外の先進技術を導入して国の利益に寄与する分野を選ぶ方針を掲げた。輸入に依存していた動力伝動用ベルトの国産化は、この方針に合う最初の製品となった。少年期に「学問のすすめ」から得た、外国に学んで国益に寄与するという志が方針の根にあった。社長の新田精一氏は1993年、自社の歩みを日本の工業が近代化していく過程に重ね、その役割を誇った。
革ベルトの生産が増えると、革をなめすのに欠かせないタンニン剤の確保が課題になった。新田長次郎氏はタンニン剤を自給するため、北海道へ進出した。原料は柏の樹皮で、北海道に製造工場を設けてタンニンを採った。用地には北海道の広い原野を購入した。工場の跡地では植林と、開拓民向けの農耕用牛馬や乳牛を飼う牧場の事業を始めた。同地では木材資源を使った合板の製造や開墾にも事業を広げた。なめし剤を外部から調達し続ければ革ベルトの原価と供給を他社に左右されるため、原料から自前で持つ判断に至ったと推測される。
新田長次郎氏は1909年6月、合資会社新田帯革製造所を設立した。背景には、『事業は一つのみでは極めて不安定である』という創業者の理念があった。幾つかの事業を組み合わせて経営を支え、しかも国内で未開拓の分野を選ぶという考えだった。合資会社は革ベルト、ゴムベルト、膠・ゼラチンの3製造部門を収益源として事業を進めた。単一の合資会社で3部門を抱える体制は、1945年に部門ごとの株式会社へ分かれるまで続いた。個人の製革業のままでは部門ごとの資金と責任を整理しにくく、複数事業を1つの法人で営む形として合資会社を選んだと思われる。
革ベルトの周辺で、新田長次郎氏はゴムベルトと木綿ベルトの製造も始めた。ベルトの張り合わせには膠が必要で、膠の製造工場を設けた。膠は輸入品では入手が難しく、皮革の副産物を原料に製造を始めた。膠からはさらに、医薬品用、食用、写真用のゼラチンへ製品を広げた。大正の初めには、ゼラチン、ベニヤ板、各種ゴム製品の製造と牧場経営に進出し、最初の多角化の時期を迎えた。第2章で扱うゴムベルトと膠・ゼラチンの事業は、革ベルトの材料と副産物を起点に1917年までに芽を出していたと読める。
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事実根拠:出所(ニッタ)