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二次電池への傾斜投資と「二世代制覇」への布石

1990年実施

AV機器が景気後退で沈むなか、井植敏社長はなぜ全社設備投資の約2割を「淡路島の電池」に注いだのか

時期 1990
意思決定者 井植敏(社長)
論点 成長分野への集中投資
概要
1990年前後、三洋電機が井植敏社長のもとで、充電して繰り返し使える二次電池(蓄電池)を最有望の成長分野と見定め、全社の設備投資の約2割を電池事業へ集中させる傾斜投資に踏み切った経営判断。主力のニッカド電池に続き次世代のニッケル水素電池でも量産体制を整え、1992年には電池が全社営業利益の大半を支える大黒柱に育った。
背景
三洋は1964年に国内で初めてニッカド電池を量産化し、創業家が郷里・淡路島に築いた電池事業を長年育ててきた。ラップトップパソコンや携帯電話などのコードレス化で二次電池市場が拡大するなか、装置産業的で息の長いこの事業を全社の成長の柱に据えられるかが問われていた。
内容
91〜95年度の中期5カ年計画で電池事業に660億円(年間100億円強=全社設備投資の約2割)を集中投資し、事業本部売上を95年度に1500億円へ引き上げる目標を掲げた。1992年4月には徳島・松茂に約90億円で業界最大規模のニッケル水素電池専用工場を稼働させ、月産300万個体制で業界トップに立った。
含意
乾電池を含む総合メーカー化を避けてニッカドに特化し先行者利益を握った戦略の延長線上に、二次電池への集中投資があった。景気後退で全社が営業赤字に沈むなかでも電池が利益を支えた一方、ニッカドとニッケル水素の両にらみという「戦略の絞り込み」の課題を残した。
筆者の見解

本業が沈む時こそ、次の柱に賭けられるか

この判断の核心は、本業のAV機器が景気後退で不振に沈むなかでも、長く傍流とされてきた電池事業に全社設備投資の約2割を投じ続けた点にある。かつて別会社化さえ検討された事業を、成長市場の到来を見定めて全社の中核へ引き上げた背景には、創業家が淡路島で電池を育ててきた歴史と、1964年のニッカド量産化以来積み上げてきた技術と顧客基盤があった。好況の余力ではなく、本業が苦しい局面で次の柱に資源を集中させた点に、この傾斜投資の特徴がうかがえる。

もっとも、ニッカドとニッケル水素の両にらみが示すように、集中と分散のさじ加減は容易ではない。木本専務が語った「戦略の絞り込み」という課題は、その後さらに重みを増していく。二次電池はやがてリチウムイオンへと主役を移し、三洋の電池事業は同社の稼ぎ頭として成長を続け、2000年代末に三洋がパナソニックの傘下に入った後も、電池はグループの中核事業として受け継がれていく。本業が揺らぐなかで成長分野を見定めて資源を集中させたこの選択は、事業ポートフォリオを組み替える決断をどの局面で下すかという問いを、早い時期に経営の中心へ据えた事例として読み取れる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

淡路島で育てた電池事業

三洋電機は、1947年に井植歳男氏が現在の松下電器産業から独立して興した会社である。2年後には弟の薫氏も松下から加わった。薫氏は松下時代に上海で電池工場長を務めた電池事業の専門家で、電池工場を郷里の淡路島に築いたことにも、その思い入れがうかがえる。三洋が国内で初めてニッカド(ニッケルカドミウム)電池を量産化したのは1964年で、記事の時点で30年近い歴史を重ねていた。創業者の情熱とその後のトップの長期的な取り組みが、この事業を支えてきた[1][2]

傍流だった「装置産業」

二次電池は、極板の製造やニッケル酸化物を塗る工程など装置産業的な性格が強く、投資額がかさむうえ、素材研究にも時間を要する息の長い事業である。石油ショックなどの不況で撤退・縮小する競合が相次ぐなか、三洋は一次・二次の両方を手掛ける総合メーカー化を避け、ニッカド電池にほぼ特化する道を選んだ。規模で勝負が決まる量産型の乾電池を避けたことで、営業の布陣をニッカド中心に敷けるなど専業の利点を得たとされる[3]

もっとも、この事業は社内で長く傍流の扱いを受けていた。「かつては、事業特性をほかの役員になかなか理解してもらえず、別会社化を本気で検討したこともあった」と、洲本工場に長く常駐する木本専務は振り返る。それでも事業化を続けられたのは、電池の将来性を経営トップが認識し、我慢して投資を続けてきたためだった。1970年代から1980年代にかけての電池事業は、まだ全社の稼ぎ頭とは見なされていなかった[4]

決断

成長市場と見定めた二次電池

1990年前後、電池をめぐる環境は大きく動いていた。ラップトップ型パソコンや携帯電話といった電子機器のコードレス化に伴い、電池の高性能化・小型化への要求が強まり、電池は半導体・液晶と並ぶ「90年代のキーテクノロジーのひとつ」とさえ言われるようになる。市場でも、使い捨ての一次電池がほぼ横ばいなのに対し、充電して繰り返し使える二次電池が拡大していた。三洋が量産するニッカド電池の国内市場は前年比約2割増の約1500億円へと伸びていた[5]

この成長市場に、三洋は経営資源を集中させる判断を下した。91〜95年度の中期5カ年計画では、電池を担うソフトエナジー事業本部の売上高を95年度に1500億円(年率約15%)へ引き上げる目標を掲げ、この間に660億円、年間100億円強を投じる設備投資計画を立てた。これはここ数年の三洋全体の年間設備投資額の約2割にあたり、成長性の高い分野への明確な集中投資であった。記事は起点の年を特定していないが、こうした計画に象徴される傾斜投資が1990年前後に固まっていったとみられる[6]

「二世代制覇」への布石——ニッケル水素の先行

集中投資は、既存のニッカド電池だけでなく、次世代のニッケル水素電池へも向けられた。ニッケル水素電池は価格こそニッカドの2倍近いものの、一度の充電で使える時間がおよそ2倍と長く、環境問題からカドミウムを敬遠する動きも追い風になっていた。三洋は研究開発本部で水素にかかわる素材研究を1977年に始めており、これは業界で最も早かった。ニッカド電池で培った人材と生産設備を振り向けたことが、次世代への迅速な立ち上げを支えた[7]

1992年4月、三洋は徳島空港わきの松茂工業団地(徳島県松茂町)に約90億円をかけ、業界最大規模のニッケル水素電池専用工場を稼働させた。生産体制は月産300万個に達し、松下電池が月産100万〜200万個、東芝電池が100万個弱と推定されるなかで業界トップに躍り出た。ニッカドに続きニッケル水素でも先頭に立つ「二世代制覇」への布石であった[8]

結果

全社を支える「大黒柱」への成長

傾斜投資の成果は、記事が書かれた1992年の時点で明確に現れていた。ソフトエナジー事業本部の91年11月期の売上高は994億円で、前年同期比21.7%増と急成長した。三洋は電池事業の利益額を公表していないが、ある証券アナリストは営業利益80億〜100億円と推定する。前期の三洋全体の営業利益は112億円で、その7〜8割を電池事業が稼いだ計算になる。AV機器の不振などで三洋が1992年5月の中間決算で営業赤字に転落するなか、電池は経営を支える存在になっていた[9]

ニッカド電池では、国内市場を三洋と松下電池工業がほぼ二分し、両社合計のシェアは国内で約9割、世界でも約6割とされた。二次電池は多様な最終製品に適合する形状・機能を供給するオーダーメードに近い部品で、参入障壁が高く、業界に先駆けて事業化した三洋が先行者利益を享受していた。「2次電池はいわばOEM事業で、アフターケアが重要。永年の積み上げがものをいう」と、盛岡カドニカ技術部長は述べている[10][11]

両にらみの重荷と「戦略の絞り込み」

順調な滑り出しの一方で、課題も残った。ニッカド電池で首位を走ってきたことが、かえってニッケル水素への全面移行を難しくする。ニッケル水素の市場拡大は確実視されたものの、そのテンポは読みにくく、「今世紀中は両者が並走する」と木本専務は見ていた。ニッカドとニッケル水素の両にらみを続けざるをえず、約3対1でニッカドに比重を置く技術者陣の再配置や、需要変化への設備の即応が課題として挙がった[12]

三洋は次の一手として、新分野の電池で技術優位の確立を急いだ。事業本部売上の2%程度ながら日本首位の太陽電池では、1992年4月にアモルトン事業推進部を新設し、8月から太陽電池を使った「ソーラーエアコン」を150万円で受注販売する計画を立てた。ただし、電池の重要性が増すほど技術革新は速まり新規参入も増える。優位を保つには「あれもこれもではなく、戦略の絞り込みが必要になる」と木本専務は語り、それが最も重要で最も難しい選択であるとされた[13]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1992年8月3日号「三洋電機。稼ぎ頭に育った蓄電池分野を絞り技術優位保つ」(日経BP社)
  • 三洋電機 pl_long(会社年鑑ほか・単体)