プラズマテレビからの撤退——5000億円の内製を畳む

大画面はプラズマで勝てるか——垂直統合の看板を、なぜ自ら手放したか

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時期 2013年10月
意思決定者 津賀一宏・中村邦夫(集中投資を主導した元社長)・大坪文雄(投資を継続した元社長) 社長
論点 選択と集中、垂直統合の限界
概要
2013年、パナソニックの津賀一宏社長は、中村邦夫・大坪文雄の両体制が累計5000億円超を投じてきたプラズマテレビ事業からの撤退を決めた。同年12月にプラズマパネルの生産を終え、2014年3月末で兵庫県尼崎の専用工場を止めた。液晶の大型化と低価格化にプラズマの画質優位を相殺され、自前パネルの内製という垂直統合の看板を、自ら畳んだ経営判断。
背景
中村邦夫社長は次世代テレビの主力をプラズマと定め、「大画面はプラズマ、中小型は液晶」の戦略のもと尼崎に専用工場を建てた。第3工場を前倒し稼働させ、第4工場には1800億円を投じ、累計投資は5000億円を超えた。2006年に継いだ大坪文雄社長も投資を続けたが、2008年のリーマン・ショックで連結売上高が1兆円以上減り、創業以来初の巨額赤字を計上した。
内容
液晶テレビの大画面化と低価格化が想定を超えて進み、プラズマの画質面の優位はコスト競争力の差に相殺された。2013年3月に「撤退は最後の判断」と述べていた津賀社長は、赤字脱却の道が見えないとして、10月31日に撤退を正式表明した。同年12月にパネル生産を終え、2014年3月末で尼崎工場を停止。テレビを「白モノ家電の1つ」と位置づけ直し、パネルの内製をやめて外部調達へ切り替えた。
含意
プラズマは、フィリップス提携以来の「主要部品を自社で作り組立まで完結する」垂直統合の思想の極みであった。自前パネルで画質を極める戦略は、液晶の価格破壊の前に、内製ゆえの重い固定費が仇となった。「パネルを内製するつもりはない」という津賀の言葉は、幸之助以来の内製主義との訣別でもあり、何を自前で持つかという問いを突きつけた撤退であった。
筆者の見解

垂直統合の栄光と、その代償

プラズマは、フィリップス提携以来の「主要な部品を自社で作り、組立まで自前で完結させる」という垂直統合の思想の、ひとつの極みであった。自前パネルで画質を極める戦略は、うまくいけば他社が真似できない差を生む。だが液晶の価格破壊が進むと、内製ゆえの重い固定費が逆に制約となった。かつて松下を強くした垂直統合が、市場の変化のなかで弱みへと反転した点に、この撤退の本質があったとみることができる。

「パネルを内製するつもりはない」という津賀の言葉は、単なる一事業の整理を超えて、幸之助以来の内製主義との訣別を含んでいた。何を自前で持ち、何を外から買うのか。1952年のフィリップス提携で、経営力を対価に技術という自前の足場を「買った」松下は、半世紀を経て、その象徴だったパネルの内製を手放すことで生き延びる道を選んだ。垂直統合の栄光とその代償が、この一つの撤退に凝縮しているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「大画面はプラズマ」への集中投資

プラズマへの傾斜は、中村邦夫社長の確信から始まった。次世代テレビの主力をプラズマディスプレイと定め、「大画面はプラズマ、中小型は液晶」という戦略のもと、兵庫県尼崎市に専用工場を次々と建てた。2004年に発表した第3工場は当初予定を2カ月前倒しで稼働させ、2007年稼働の第4工場には1800億円を投じた。パネルからテレビまでを自前で一貫生産する構えで、プラズマ事業への設備投資は累計5000億円を超えた[1][2]

2006年に社長を継いだ大坪文雄も、プラズマへの投資という路線を引き継いだ。だが潮目は、外からの衝撃で変わった。2008年9月のリーマン・ショックで連結売上高は前年から1兆1000億円以上も減り、2009年3月期に純損失3789億円という創業以来初の巨額赤字を計上した。次世代の柱と信じて注いだ集中投資が、景気の急変とともに、こんどは経営全体を揺るがす重荷へと姿を変えていった[3]

決断

液晶に敗れる——「反転させる策が見えず」

プラズマがつまずいた相手は、液晶であった。当初は「大画面はプラズマ、中小型は液晶」という棲み分けがあったものの、液晶テレビの大画面化と低価格化が一気に進み、その区別は崩れていった。高精細のフルHD化でも液晶に3〜4年遅れをとり、地上デジタル放送への移行に伴う大型テレビ需要の山場で、この遅れが響いた。画質で勝るというプラズマの看板は、価格と量で押す液晶の前に、次第に色あせていった[4][5]

2013年3月、中期経営計画の会見で津賀一宏社長は、プラズマについて「撤退は最後の判断だ」と述べ、その場では撤退を明言しなかった。だが赤字を反転させる見通しは立たなかった。プラズマ事業の赤字は一時1000億円を超え、200億円規模まで絞り込んだものの、そこから黒字へ転じる道は見えない。踏ん張れる限り踏ん張るという構えは、やがて撤退という結論へと収束していった[6]

2013年10月、正式撤退

2013年10月31日、パナソニックはプラズマからの撤退を正式に表明した。同年12月にパネルの生産を終え、2014年3月末で尼崎の第3・第4工場を止める。公式の説明は、事業環境の急変を率直に認めるものであった。液晶の大型化の急速な進展に加え、リーマン・ショックを契機とした厳しい価格競争に直面し、事業継続は困難と判断した——。世界の薄型市場を牽引してきた自前パネルの旗を、会社は自らの手で降ろした[7][8]

津賀社長が描き直したテレビの姿は、内製へのこだわりを捨てたものであった。テレビを「白モノ家電の1つ」と位置づけ、パネルは買ってきて、そこにどう価値を載せるかで勝負する。「液晶でも大型化が進み、プラズマでないと大型化できないという時代ではない。我々はパネルを内製するつもりはない」——そう語った津賀の言葉は、パネルからテレビまでを一貫生産してきた垂直統合の看板を、静かに畳む宣言であった[9]

結果

危機の底からの再建

プラズマ撤退は、2012年に就いた津賀体制が進めた不採算整理の象徴であった。同じ時期に、2013年4月にはドメイン制を廃して事業部制へ回帰し、ニューヨーク証券取引所の上場も廃止した。三洋電機から引き継いだヘルスケア事業を売り、半導体事業を分社化して後に手放した。バブル期以来ふくらみ続けた事業の裾野を刈り込み、有利子負債は2013年3月期の1兆1434億円から翌期には6421億円へと圧縮された[10]

撤退によって、一時は1000億円を超えたプラズマ事業の赤字にも終止符が打たれた。2000年代のパナソニックを苦しめた二つの誤算——プラズマへの集中投資と、統合コストのかさんだ三洋電機買収——の後始末を、津賀は就任からの2年で一気に進めた。看板事業を畳む痛みを引き受けたことで、会社は7500億円超の赤字を2期続けた危機の底から、ようやく反転の足場を得た[11]

出典・参考