靴のマルトミ の歴史

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創業 1950年
創業者 富永光行
創業地 愛知県名古屋市
創業
1950年、富永光行氏が名古屋市で丸富靴店を創業した。革靴が注文で1足3000円と大卒初任給に並ぶ時代である。富永氏は靴が高い原因を品質ではなく生産方式にあるとみて、靴工場を一軒ずつ回って流れ作業による量産を持ちかけ、製造原価600円の既製靴を作らせて1000円で売った。足に合わせて仕立てる耐久財だった靴を、履きつぶす日用品へ置き換える商売である。1957年には名古屋駅の地下街へ出店し、以後は市内の商店街と地下街に店を積み上げた。ただし店の立地は路面電車と徒歩の人の流れに依存しており、その流れが変われば店舗網ごと作り直すほかない。
決断
立地も店の運営形態も、まとめて入れ替える形でしか変えてこなかった。1975年、名古屋市内に100店を構えた時点で都心の60店を5年かけて閉じ、郊外のロードサイドへ80店を振り替えた。1979年には岐阜へ『靴流通センター』1号店を出し、地名を冠した小型・駐車場付きという店舗形式を定めた。1987年3月には直営店を、粗利益の75%をオーナーへ渡す販売委託店へ切り替えた。本部の取り分を売上の約1割に抑える代わりに1店当たりの経常利益を131万円から282万円へ倍増させ、1990年1月の名古屋証券取引所第2部上場につなげている。1994年2月の不採算180店を1年で閉じる一括閉鎖も振り方は同じだった。一括で入れ替える速さは1987年2月期までの1年で253店という出店を可能にし、同じ速さが閉店の側でも働いた。
現況
この会社が最後に残したのは商品ではなく、全国330店という店舗網だった。売上高は1996年2月期の1717億円を頂点に落ち、1998年2月期に5億円、1999年2月期に29億円の最終赤字を計上した。1999年3月には3年で380店を閉じる経営改善計画を出して初年度に311店を閉じたが、閉店による固定費の削減を売上の減少が上回る。2000年2月期は売上高1211億円・最終赤字87億円となり、同年12月に負債761億円で民事再生法の適用を申請した。2005年3月、ファーストリテイリングが全株式を取得する。店舗網は低価格カジュアル衣料へ転用され、靴流通センターはFOOTPARKを経てジーユーの売場になった。
競合
仕入れた靴を安く並べるだけの店は、作る側を持つ店に価格で追い越された。1986年の靴販売金額で国内シェアは4.47%の首位にあり、大店法が大型店の出店を抑えるあいだ、規制の対象にならない小型店を郊外の国道沿いに並べる出店方式を先に押さえていた。同じ時期にエービーシー・マートは1990年に韓国での生産委託とライセンス取得でカジュアルシューズの自社企画へ移り、企画から小売までを自社で握る形へ移っている。マルトミは最後まで仕入れ小売のままだった。1990年代に大店法が緩み、郊外型の大型ショッピングセンターが各地に建つと、駐車場付きの小型店という差別化要因は失われる。大型店を禁じた規制の裏返しとして成り立っていた業態が、規制の緩和と同時に存在理由を失った。
靴のマルトミ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1983年2月期2000年2月期

創業ストーリー 既製靴の価格破壊と郊外型店舗への戦略転換 (1950年〜)

既製靴の価格破壊と郊外型店舗への戦略転換

「下を向いて歩け」から始めた1足1000円の靴

富永光行氏は1927年に岐阜県で生まれ、1942年に浄心国民学校[1]の高等科を出た。尋常小学校を卒業してすぐ丁稚奉公[2]に入ったため学歴を持たず、戦後に復員してサラリーマン生活を送っている。学歴偏重の企業社会に愛想をつかして脱サラし、配給制が解除されて間もなく[3]供給量の不足していた靴に目をつけた。父からは日頃、下を向いて歩けと言われて育っている[4]。人には腰を低くして接しろという意味だが、そうしていると大地と靴しか目に入らない[5]。それなら靴屋をやろうと思い立ち、1950年11月1日に名古屋で丸富靴店[6]を開いた。商売はヤミ市から始めている[7]

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [1]富永光行は1927年に岐阜県で生まれ、1942年に浄心国民学校高等科を卒業した
    • [4]父の教えは「下を向いて歩け」だった
    • [5]下を向くと大地と靴しか見えないことから靴屋を志した
    • [6]1950年11月1日に名古屋で丸富靴店を開業した
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [2]富永光行は尋常小学校を卒業後すぐ丁稚奉公に入り学歴を持たなかった
    • [3]学歴偏重の企業社会に愛想をつかして脱サラし、配給制が解除されて間もなく供給量が不足していた靴に目をつけた
    • [7]商売はヤミ市から始めた

当時はゲタから靴へようやく主役が交代[8]したばかりで、靴は靴屋が客の足を一人ずつ測って作る完全な注文品だった。一人前のサラリーマンの月給が3000円ほどで、革靴も1足3000円[9]した。富永氏はもっと安くすれば売れると読み、知人の靴屋で3日間だけ修理の修行[10]をしたあと、靴の工場を回って1足600円で作ってくれるよう頼んだ。どの工場からもバカかと言われたが、その作り方をしているから高くなる[11]のであって流れ作業にすれば下がると押し返した。600円で作らせた靴に1000円の値を付けると飛ぶように売れ、開業から2カ月で1日の売上高は5万円[12]に達した。富永氏は家に帰るのが午前4時、翌朝8時には仕入れに走る日々で、3時間以上眠れたことはなかった[13]とふり返っている。

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [8]当時はゲタから靴へ主役が交代したばかりで、靴は客の足を測って作る完全な注文品だった
    • [11]工場から「お前はバカか」と言われたが、流れ作業にすれば下がると押し返した
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [9]一人前のサラリーマンの月給が3000円ほどで、革靴も同程度の1足3000円だった
    • [10]知人の靴屋で3日間修理の修行をしたあと、靴工場を回って1足600円での製造を依頼した
    • [12]600円で製造させた靴を1000円で売り、開業2カ月で1日の売上高が5万円に達した
    • [13]帰宅は午前4時、翌朝8時には仕入れに向かい3時間以上眠れなかった
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [1]富永光行は1927年に岐阜県で生まれ、1942年に浄心国民学校高等科を卒業した
    • [4]父の教えは「下を向いて歩け」だった
    • [5]下を向くと大地と靴しか見えないことから靴屋を志した
    • [6]1950年11月1日に名古屋で丸富靴店を開業した
    • [8]当時はゲタから靴へ主役が交代したばかりで、靴は客の足を測って作る完全な注文品だった
    • [11]工場から「お前はバカか」と言われたが、流れ作業にすれば下がると押し返した
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [2]富永光行は尋常小学校を卒業後すぐ丁稚奉公に入り学歴を持たなかった
    • [3]学歴偏重の企業社会に愛想をつかして脱サラし、配給制が解除されて間もなく供給量が不足していた靴に目をつけた
    • [7]商売はヤミ市から始めた
    • [9]一人前のサラリーマンの月給が3000円ほどで、革靴も同程度の1足3000円だった
    • [10]知人の靴屋で3日間修理の修行をしたあと、靴工場を回って1足600円での製造を依頼した
    • [12]600円で製造させた靴を1000円で売り、開業2カ月で1日の売上高が5万円に達した
    • [13]帰宅は午前4時、翌朝8時には仕入れに向かい3時間以上眠れなかった

4店舗の全員解雇から、都心を畳んで郊外へ出る

富永氏は名古屋一の靴屋になろうと決めて靴店のチェーン化[14]に乗り出した。1957年、完成したばかりの名古屋駅の地下街に第1号店[15]を開店し、そこを手始めに商店街への出店を続けた。栄をはじめとする大繁華街にも大型店[16]を置き、合わせて4店の大規模店を構えている。4店はいずれも大当たりで、マルトミは売上高でたちまち名古屋一の靴屋になった[17]。ところが商売が順風満帆なはずなのに、資金繰りが苦しくなりだした[18]。おかしいと思って調べてみると、従業員が不正を働いていた[19]。富永氏は怒って1965年に4店舗の従業員全員を解雇[20]している。

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [14]名古屋一の靴屋になると決めて靴店のチェーン化に乗り出した
    • [16]栄など大繁華街にも大型店を出し、合計4店を構えた
    • [17]4店とも当たり、売上高で名古屋一の靴屋になった
    • [18]商売は順風満帆なはずなのに資金繰りが苦しくなった
    • [19]調べてみると従業員が不正を働いていた
    • [20]1965年に4店舗の従業員全員を解雇した
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [15]1957年に名古屋駅地下街へ出店し、それを手始めに商店街への出店を続けた

解雇のあと富永氏は新しく店員を募り、自分と寝起きを共に[21]させて商売のやり方を徹底して教え込んだ。その店員たちを新しく造った店の店長に据え、1975年までの10年間で100店舗[22]を増やしている。店長教育が効いて売上も利益[23]も伸びた。この経験が、のちに従業員を人手ではなく人材と見て、漢字に人財の字を当てる[24]考え方につながった。小売業は製造業のように機械やロボットを入れて合理化できず[25]、客に喜ばれる接客ができる人がそのまま会社の財産になる、というのが富永氏の持論である。同時に、やる気のない社員を辞めさせるのは会社にとって当然[26]だという考えも、ここで固まった。

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [21]新たに募った店員と寝起きを共にし、商売のやり方を教え込んだ
    • [22]教育した店員を店長に据え、1975年までの10年間で100店舗を増やした
    • [23]徹底した店長教育で売上も利益も伸びた
    • [24]従業員を人材と捉え、当て字で「人財」と書いた
    • [25]小売業は製造業のような自動化ができず、接客できる人材が会社の財産だと考えた
    • [26]この経験から、やる気のない社員を辞めさせるのは会社にとって当然だと考えるようになった

1973年2月、富永氏は株式会社靴のマルトミを設立[27]した。その1970年代後半に直面したのは、街の中心部からの人口流出に伴う売上の低迷[28]だった。店舗数が100店に達した1975年から[29]、マルトミは5年かけて都心の60店を閉じ、郊外に80店を出している。都心店を残したまま郊外へ足すのではなく、都心を畳んで郊外へ振り替える[30]立地の入れ替えだった。1979年には岐阜に『靴流通センター』の1号店[31]を出し、地名を冠した小型・駐車場付きという店舗の形を定めた。専門店チェーンがクルマ社会の進展とともに郊外の幹線道路際[32]へ駐車場付きで出店し、シェアを伸ばし始めた時期にあたる。郊外は地価が安いぶん低いコストで店を建てられ[33]、客が車で動くため住宅地から離れていても集められた。

  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [27]1973年2月に株式会社靴のマルトミを設立した
    • [28]1970年代後半に街の中心部からの人口流出で売上が低迷した
    • [29]店舗数が100店に達した1975年から5年間で都心60店を閉鎖し郊外に80店を出店した
    • [30]都心店を残さず閉じて郊外へ振り替える立地転換だった
    • [31]1979年に岐阜へ「靴流通センター」1号店を出店した
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
    • [32]専門店チェーンはクルマ社会の進展とともに郊外の幹線道路際へ駐車場付きで出店しシェアを伸ばした
    • [33]郊外は地価が安く低コストで店舗を建てられ、車で動く客は住宅地から離れていても集められた
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [14]名古屋一の靴屋になると決めて靴店のチェーン化に乗り出した
    • [16]栄など大繁華街にも大型店を出し、合計4店を構えた
    • [17]4店とも当たり、売上高で名古屋一の靴屋になった
    • [18]商売は順風満帆なはずなのに資金繰りが苦しくなった
    • [19]調べてみると従業員が不正を働いていた
    • [20]1965年に4店舗の従業員全員を解雇した
    • [21]新たに募った店員と寝起きを共にし、商売のやり方を教え込んだ
    • [22]教育した店員を店長に据え、1975年までの10年間で100店舗を増やした
    • [23]徹底した店長教育で売上も利益も伸びた
    • [24]従業員を人材と捉え、当て字で「人財」と書いた
    • [25]小売業は製造業のような自動化ができず、接客できる人材が会社の財産だと考えた
    • [26]この経験から、やる気のない社員を辞めさせるのは会社にとって当然だと考えるようになった
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [15]1957年に名古屋駅地下街へ出店し、それを手始めに商店街への出店を続けた
    • [27]1973年2月に株式会社靴のマルトミを設立した
    • [28]1970年代後半に街の中心部からの人口流出で売上が低迷した
    • [29]店舗数が100店に達した1975年から5年間で都心60店を閉鎖し郊外に80店を出店した
    • [30]都心店を残さず閉じて郊外へ振り替える立地転換だった
    • [31]1979年に岐阜へ「靴流通センター」1号店を出店した
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
    • [32]専門店チェーンはクルマ社会の進展とともに郊外の幹線道路際へ駐車場付きで出店しシェアを伸ばした
    • [33]郊外は地価が安く低コストで店舗を建てられ、車で動く客は住宅地から離れていても集められた

靴流通センターとBANBANによる全国展開の加速

人口10万人を1店の商圏と読み、飽和に突き当たる

『靴流通センター』は地名を冠した店名で郊外の幹線道路沿いに並び、大量仕入れと大規模なチェーン展開による低価格[34]と品ぞろえの豊富さを売り物にした。出店の速度は1987年2月までの1年間で253店とピーク[35]に達し、総店舗数は798店になっている。1989年4月20日時点では靴流通センター564店を主力に[36]、玩具や新興工業経済群からの輸入商品を扱う郊外型店舗を合わせて883店を数えた。競合はチヨダ靴店で、1989年1月期に949店[37]を展開している。郊外型の靴小売チェーンはこの2社だけで1200店を超えていた[38]。専門店のシェアは小売業200社調査で1978年度の6.1%から1989年度の12.9%[39]へ倍増し、同じ期間にスーパーは51.2%から48%へ、百貨店は38.4%から32.8%へ落ちている。

  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [34]地名を冠した「靴流通センター」を郊外幹線道路沿いに出店し、大量仕入れと大規模チェーン展開による低価格と品ぞろえを売り物にした
    • [35]1987年2月までの1年間の出店数が253店とピークに達し、総店舗数は798店になった
    • [36]1989年4月20日時点で靴流通センター564店を主力に合計883店を展開していた
    • [37]競合のチヨダ靴店は1989年1月期に949店を展開していた
    • [38]郊外型の靴小売チェーンはマルトミとチヨダの2社だけで1200店を超えた
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
    • [39]専門店のシェアは1978年度6.1%から1989年度12.9%へ倍増し、スーパーは51.2%から48%、百貨店は38.4%から32.8%へ低下した

マルトミは人口10万人を靴流通センター1店の商圏[40]と読んでおり、日本の人口から逆算すれば店舗数はほぼ飽和状態にあった。1店舗当たりの売上高は1987年2月期まで7900万円程度で沈滞[41]したままである。富永光行社長は人件費の増加と過当競争で思うように儲からなく[42]なったと感じ、将来の株式上場もにらんで増収増益を図る方策を探した。発想の出発点にあったのは、家内と二人でやっていた頃は儲かって仕方がなかった[43]という創業期の記憶だった。売り上げも利益も思うように上がらなくなってきた[44]という実感が、打開策を求めさせている。

  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [40]人口10万人を靴流通センター1店の商圏と読み、日本の人口から算出すると店舗数はほぼ飽和状態だった
    • [41]1店舗当たりの売上高は1987年2月期まで7900万円程度で沈滞していた
    • [42]人件費増と過当競争で儲からなくなり、将来の株式上場もにらんで増収増益を図る方策を考えた
    • [43]創業期に家内と二人でやっていた頃は儲かって仕方がなかったという記憶が発想の出発点にあった
    • [44]売り上げ・利益ともに思うように上がらなくなってきたという実感が打開策を求めさせた
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [34]地名を冠した「靴流通センター」を郊外幹線道路沿いに出店し、大量仕入れと大規模チェーン展開による低価格と品ぞろえを売り物にした
    • [35]1987年2月までの1年間の出店数が253店とピークに達し、総店舗数は798店になった
    • [36]1989年4月20日時点で靴流通センター564店を主力に合計883店を展開していた
    • [37]競合のチヨダ靴店は1989年1月期に949店を展開していた
    • [38]郊外型の靴小売チェーンはマルトミとチヨダの2社だけで1200店を超えた
    • [40]人口10万人を靴流通センター1店の商圏と読み、日本の人口から算出すると店舗数はほぼ飽和状態だった
    • [41]1店舗当たりの売上高は1987年2月期まで7900万円程度で沈滞していた
    • [42]人件費増と過当競争で儲からなくなり、将来の株式上場もにらんで増収増益を図る方策を考えた
    • [43]創業期に家内と二人でやっていた頃は儲かって仕方がなかったという記憶が発想の出発点にあった
    • [44]売り上げ・利益ともに思うように上がらなくなってきたという実感が打開策を求めさせた
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
    • [39]専門店のシェアは1978年度6.1%から1989年度12.9%へ倍増し、スーパーは51.2%から48%、百貨店は38.4%から32.8%へ低下した

粗利の75%を店長に渡し、玩具にも手を広げる

1987年3月、マルトミは直営店を独立採算制[45]のオーナーシステムへ切り替え始めた。富永光行社長が末端を全部切り離そうと考えたのは、店ぐるみ貸して店長に自分でやらせれば[46]、店員がマルトミの従業員ではなくなり、週休二日制や労働時間の問題からも解放されるという計算があった。店舗も什器も商品もマルトミが所有したまま、店の経営者となるオーナーが販売を請け負う[47]販売委託店で、直営店でもフランチャイズ店でもない。土地や建物をオーナーが用意しなくてよい[48]点が通常のフランチャイズと違った。各店舗の粗利益の75%が販売手数料として毎月オーナー[49]に支払われ、そこから家賃・光熱費・人件費を引いた残りがオーナーの収入になる。価格の決定権は本部が持ち、値札を付けた商品[50]を各店舗へ配送した。本部が受け取るのは粗利の25%にノウハウ料を加えた売上の約1割で、本部の管理費を売上の5%と見込めば[51]差の5%が確実に利益になる勘定だった。

  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [45]1987年3月から直営店を独算制オーナーシステムへ切り替えた
    • [46]末端を切り離して店ぐるみ貸せば、店員が自社の従業員でなくなり週休2日制や労働時間の問題からも解放されると考えた
    • [47]店舗・什器・商品はマルトミの所有のまま、オーナーが販売を請け負う販売委託店で、直営店でもフランチャイズ店でもない
    • [49]粗利益の75%が販売手数料として毎月オーナーに支払われ、家賃・光熱費・人件費を差し引いた残りがオーナーの収入になる
    • [50]価格決定権は本部が持ち、値札を付けた商品を各店舗に配送した
    • [51]本部が得るのは粗利25%とノウハウ料を合わせた売上の約10%で、管理費を売上の5%と見込めば5%が本部の利益になる
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [48]土地や建物をオーナーが供給しなくてよい点が通常のフランチャイズと異なる

1987年初頭に構想を社員へ示すと300人近くが手を挙げ[52]、全部は無理なので少し待てと止めたほどだった。1989年4月20日時点で全883店のうち546店、全体の62%[53]がこの制度で動き、オーナーの約5分の4を当時の社員が占めている。1店舗当たりの売上高は1989年2月期に8830万円へ増え[54]、1店舗当たりの経常利益は131万円から282万円へ115%増えた。同業のチヨダ靴店は人材の柔軟な活用を理由に9割以上を直営[55]に保ち、オーナーシステムには売上や利益を伸ばす即効性はあると思う、という言い方でマルトミを評した。

  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [52]1987年初頭に構想を社員へ示すと300人近くが手を挙げた
    • [53]1989年4月20日時点で全883店のうち546店(62%)がオーナーシステムで運営され、オーナーの約5分の4を当時の社員が占めた
    • [54]1店舗当たり売上高は1989年2月期に8830万円、1店舗当たり経常利益は131万円から282万円へ115%増えた
    • [55]チヨダ靴店は人材の柔軟な活用を理由に9割以上を直営とし、オーナーシステムには即効性はあると評した

1985年、マルトミは靴に次ぐ軸として郊外型のがん具店チェーン[56]『BANBAN』を始めた。ロードサイドへの出店と多店舗管理のやり方を持ち込んだ業態で、玩具のほかに新興工業経済群からの輸入商品も扱っている[57]。1990年1月には名古屋証券取引所第2部[58]へ株式を上場した。ところが1991年11月、世界最大のがん具専門店チェーンである米トイザラスが日本に第1号店を開き[59]、1993年12月までの2年間で16店を出す。売り場面積3000〜4000平方メートル[60]と低価格の破壊力は大きく、中小のがん具店から転廃業する店が続出した。チヨダ靴店とマルトミという大手安売りがん具チェーンも値引き幅の拡大で対抗[61]し、1993年の年末には定価を守っていた百貨店まで玩具の値引き販売に追い込まれている。

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [56]1985年にがん具店チェーンを開店した
    • [58]1990年に名古屋証券取引所第2部へ上場した
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [57]玩具や新興工業経済群からの輸入商品を販売する郊外型店舗を展開した
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
    • [59]米トイザラスが1991年11月に日本第1号店を開き、1993年12月までの2年間で16店を出店した
    • [60]売り場面積3000〜4000平方メートルと低価格で中小がん具店から転廃業が続出した
    • [61]チヨダとマルトミが値引き幅を拡大して対抗し、1993年末には百貨店まで玩具の値引き販売に追い込まれた
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [45]1987年3月から直営店を独算制オーナーシステムへ切り替えた
    • [46]末端を切り離して店ぐるみ貸せば、店員が自社の従業員でなくなり週休2日制や労働時間の問題からも解放されると考えた
    • [47]店舗・什器・商品はマルトミの所有のまま、オーナーが販売を請け負う販売委託店で、直営店でもフランチャイズ店でもない
    • [49]粗利益の75%が販売手数料として毎月オーナーに支払われ、家賃・光熱費・人件費を差し引いた残りがオーナーの収入になる
    • [50]価格決定権は本部が持ち、値札を付けた商品を各店舗に配送した
    • [51]本部が得るのは粗利25%とノウハウ料を合わせた売上の約10%で、管理費を売上の5%と見込めば5%が本部の利益になる
    • [52]1987年初頭に構想を社員へ示すと300人近くが手を挙げた
    • [53]1989年4月20日時点で全883店のうち546店(62%)がオーナーシステムで運営され、オーナーの約5分の4を当時の社員が占めた
    • [54]1店舗当たり売上高は1989年2月期に8830万円、1店舗当たり経常利益は131万円から282万円へ115%増えた
    • [55]チヨダ靴店は人材の柔軟な活用を理由に9割以上を直営とし、オーナーシステムには即効性はあると評した
    • [57]玩具や新興工業経済群からの輸入商品を販売する郊外型店舗を展開した
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [48]土地や建物をオーナーが供給しなくてよい点が通常のフランチャイズと異なる
    • [56]1985年にがん具店チェーンを開店した
    • [58]1990年に名古屋証券取引所第2部へ上場した
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
    • [59]米トイザラスが1991年11月に日本第1号店を開き、1993年12月までの2年間で16店を出店した
    • [60]売り場面積3000〜4000平方メートルと低価格で中小がん具店から転廃業が続出した
    • [61]チヨダとマルトミが値引き幅を拡大して対抗し、1993年末には百貨店まで玩具の値引き販売に追い込まれた

競争環境の激変と大量閉店による業績悪化

1850店の1割を閉じ、後手に回った整理を認める

1993年2月期まで、マルトミは16期続けて増収増益[62]を記録していた。ところが1994年2月期は長引く不況で個人消費が低迷し、そこに消費者の低価格志向が重なって既存店の売上高[63]が著しく減った。売上高こそ前期比10%増の1703億円を確保したが、営業利益は前期比5割減の30億円弱[64]、経常利益は6割減の24億円程度まで落ちている。1993年8月の中間期には年間で前期並みの収益を見込み、売上高も1804億円を予想していたから、半年で100億円ほど下振れした[65]計算になる。当期純利益は前期の28億円から9億円へ減った[66]

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [62]1993年2月期までの16期、連続して増収増益を記録した
    • [63]長引く不況による個人消費の低迷と消費者の低価格志向が重なり既存店売上高が著しく減少した
    • [64]1994年2月期は売上高が前期比10%増の1700億円、営業利益は前期比5割減の30億円弱、経常利益は6割減の24億円程度だった
    • [65]中間期時点の年間売上高予想1804億円に対し半年で約100億円下振れした
  • 会社四季報(靴のマルトミ 1994年2月期実績)
    • [66]当期純利益は1993年2月期の28億円から1994年2月期の9億円へ減った

富永光行社長は数字を見て腹を決め、不採算店舗を全部閉鎖することにした[67]。洗い出すと180店ほどあり、1995年2月期までの約1年間で順次閉じる[68]方針を1994年2月に発表している。営業中の店舗は1994年1月20日時点で1850あり[69]、閉鎖するのはその10%にあたる。ぐずぐずしているのが大嫌いなので一度に全部やる[70]、という判断だった。富永光行社長は1994年2月21日から始まる新しい事業年度の1年間、役員報酬と賞与を一切受け取らない[71]ことも決めた。業績を元どおりに回復させた時点で、応援してくれた株主に迷惑をかけた責任として出処進退を含めてけじめをつける[72]とも述べている。

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [67]数字を見て不採算店舗を全部閉鎖すると決めた
    • [68]不採算店を洗い出すと180店あり、1995年2月期までの約1年間で順次閉鎖する方針を1994年2月に発表した
    • [69]1994年1月20日時点の営業店舗は1850店で、閉鎖するのはその10%にあたる
    • [70]ぐずぐずしているのが大嫌いなので一度に全部やると判断した
    • [71]1994年2月21日からの新事業年度の1年間、役員報酬と賞与を一切受け取らないと決めた
    • [72]業績回復の時点で株主に迷惑をかけた責任として出処進退を含めけじめをつけると述べた

整理が遅れた理由を、富永光行社長は業績の伸びが著しく新しい店を次々に造ってきた[73]ためだと説明した。直前の3年だけで874店を新規に出店[74]しており、少しくらい不採算店があっても構わずやってこられたという。新規出店の傍らでスクラップ・アンド・ビルドを並行して進めていれば[75]、これほど急な業績低下に悩むことはなかったとして、行け行けドンドンになって嫌なことを後回し[76]にしていたと責任を認めている。年300店近く出していた新規出店は50店ほど[77]へ絞った。閉鎖する店舗のほとんどは直営店で、今後は直営を50店程度に抑え、残りをすべてオーナーシステム[78]の店舗にする考えを示した。余剰となる約180人にはオーナーになってもらう[79]方針で、それが嫌なら辞めてもらうことになるとも語っている。

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [73]不採算店に手をつけなかったのは業績の伸びが著しく新店を次々に造ってきたためだと説明した
    • [74]直前の3年だけで874店を新規出店し、不採算店があっても構わず進めてきた
    • [75]新規出店と並行してスクラップ・アンド・ビルドを進めていれば急な業績低下に悩むことはなかったと述べた
    • [76]行け行けドンドンになって嫌なことを後回しにしていたと責任を認めた
    • [77]年300店近く出していた新規出店を50店ほどへ縮小した
    • [78]閉鎖対象のほとんどは直営店で、直営を50店程度に抑え残りをオーナーシステム店にする方針を示した
    • [79]余剰となる約180人にはオーナーになってもらい、それが嫌なら辞めてもらうとした
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [62]1993年2月期までの16期、連続して増収増益を記録した
    • [63]長引く不況による個人消費の低迷と消費者の低価格志向が重なり既存店売上高が著しく減少した
    • [64]1994年2月期は売上高が前期比10%増の1700億円、営業利益は前期比5割減の30億円弱、経常利益は6割減の24億円程度だった
    • [65]中間期時点の年間売上高予想1804億円に対し半年で約100億円下振れした
    • [67]数字を見て不採算店舗を全部閉鎖すると決めた
    • [68]不採算店を洗い出すと180店あり、1995年2月期までの約1年間で順次閉鎖する方針を1994年2月に発表した
    • [69]1994年1月20日時点の営業店舗は1850店で、閉鎖するのはその10%にあたる
    • [70]ぐずぐずしているのが大嫌いなので一度に全部やると判断した
    • [71]1994年2月21日からの新事業年度の1年間、役員報酬と賞与を一切受け取らないと決めた
    • [72]業績回復の時点で株主に迷惑をかけた責任として出処進退を含めけじめをつけると述べた
    • [73]不採算店に手をつけなかったのは業績の伸びが著しく新店を次々に造ってきたためだと説明した
    • [74]直前の3年だけで874店を新規出店し、不採算店があっても構わず進めてきた
    • [75]新規出店と並行してスクラップ・アンド・ビルドを進めていれば急な業績低下に悩むことはなかったと述べた
    • [76]行け行けドンドンになって嫌なことを後回しにしていたと責任を認めた
    • [77]年300店近く出していた新規出店を50店ほどへ縮小した
    • [78]閉鎖対象のほとんどは直営店で、直営を50店程度に抑え残りをオーナーシステム店にする方針を示した
    • [79]余剰となる約180人にはオーナーになってもらい、それが嫌なら辞めてもらうとした
  • 会社四季報(靴のマルトミ 1994年2月期実績)
    • [66]当期純利益は1993年2月期の28億円から1994年2月期の9億円へ減った

忍耐を掲げたが、閉めても売上は止まらなかった

郊外型のロードサイド店が限界に近づいているのではないかという見方[80]に、富永光行社長は同意しなかった。閉鎖する店にロードサイド店が多いのは事実だが、10年前にはなかった国道のバイパスができて車の流れが変わった[81]ことが大きな原因だと見ていた。限界に差し掛かっているのではなく、ロードサイド店同士が品質・価格・サービスで厳しく競争する時代[82]に入ったのだという診断である。当時の革靴はまだ統制品目で、メーカーごとに年間何千足と割り当てられ[83]、輸入が自由化されていなかった。完全に自由化すれば靴の値段は半値になる[84]という見通しを持ち、その時代の到来に備えて今は辛抱の時だとした。業績悪化と店舗閉鎖の発表後、富永光行社長は色紙に墨で『忍』と『耐』の2文字[85]を大きく書いて社長室に飾り、成長を目指さず企業体質の強化に取り組む方針を掲げている。

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [80]ロードサイド店が限界に近づいているという見方に同意しなかった
    • [81]閉鎖対象にロードサイド店が多いのは国道のバイパスができて車の流れが変わったためだと見ていた
    • [82]限界ではなくロードサイド店同士が品質・価格・サービスで競争する時代に入ったと診断した
    • [83]当時の革靴は統制品目で、メーカーごとに年間何千足と割り当てられ輸入が自由化されていなかった
    • [84]完全に自由化すれば靴の値段は半値になると見て、その到来に備えて辛抱の時だとした
    • [85]色紙に「忍」「耐」の2文字を書いて社長室に飾り、成長を目指さず企業体質の強化に取り組むとした

閉店による固定費の削減を、売上の減少が上回った[86]。売上高は1996年2月期の1717億円をピーク[87]に1997年2月期1702億円、1998年2月期1561億円と落ち、当期純利益は1995年2月期3億円、1996年2月期4億円、1997年2月期1億円と細ったのち、1998年2月期に5億円の最終赤字へ転落した。1999年3月、マルトミは今後3年で不採算店舗380店を閉鎖する経営改善計画[88]を発表する。初年度の実績は311店の閉鎖[89]だったが、当期純損失は1999年2月期の29億円から2000年2月期の87億円[90]へ拡大した。売上高も2000年2月期には1211億円まで落ちている[91]。2000年12月、マルトミは負債総額約761億円で民事再生法の適用を申請[92]した。

  • 会社四季報(靴のマルトミ 1995年2月期〜2000年2月期実績)
    • [86]閉店による固定費の削減を売上の減少が上回った
    • [87]売上高は1996年2月期1717億円をピークに1998年2月期1561億円へ落ち、当期純利益は1998年2月期に5億円の最終赤字へ転落した
    • [90]当期純損失は1999年2月期29億円から2000年2月期87億円へ拡大した
    • [91]売上高は2000年2月期に1211億円まで減少した
  • 株式会社帝国データバンク 倒産速報(2000年12月20日)
    • [88]1999年3月に今後3年で不採算店舗380店を閉鎖する経営改善計画を発表した
    • [89]経営改善計画の初年度実績は311店の閉鎖だった
    • [92]2000年12月に負債総額約761億円で民事再生法の適用を申請した
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [80]ロードサイド店が限界に近づいているという見方に同意しなかった
    • [81]閉鎖対象にロードサイド店が多いのは国道のバイパスができて車の流れが変わったためだと見ていた
    • [82]限界ではなくロードサイド店同士が品質・価格・サービスで競争する時代に入ったと診断した
    • [83]当時の革靴は統制品目で、メーカーごとに年間何千足と割り当てられ輸入が自由化されていなかった
    • [84]完全に自由化すれば靴の値段は半値になると見て、その到来に備えて辛抱の時だとした
    • [85]色紙に「忍」「耐」の2文字を書いて社長室に飾り、成長を目指さず企業体質の強化に取り組むとした
  • 会社四季報(靴のマルトミ 1995年2月期〜2000年2月期実績)
    • [86]閉店による固定費の削減を売上の減少が上回った
    • [87]売上高は1996年2月期1717億円をピークに1998年2月期1561億円へ落ち、当期純利益は1998年2月期に5億円の最終赤字へ転落した
    • [90]当期純損失は1999年2月期29億円から2000年2月期87億円へ拡大した
    • [91]売上高は2000年2月期に1211億円まで減少した
  • 株式会社帝国データバンク 倒産速報(2000年12月20日)
    • [88]1999年3月に今後3年で不採算店舗380店を閉鎖する経営改善計画を発表した
    • [89]経営改善計画の初年度実績は311店の閉鎖だった
    • [92]2000年12月に負債総額約761億円で民事再生法の適用を申請した

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靴のマルトミの沿革1950〜2000年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1950〜1975年既製靴の価格破壊と郊外型店舗への戦略転換丸富靴店を開業★★
靴のマルトミを設立
名駅地下街サンロード店を開店
掛け売りを禁止
従業員の不正が発覚★★
名駅西エスカ店を開店
富永光行靴のマルトミを設立
富永光行都心100店のうち60店の閉鎖と、駐車場付き郊外ロードサイド店への転換

1975年、名古屋市内の商店街と地下街に100店を構えていた靴のマルトミが、都心の60店を5年かけて閉じ、駐車場を備えた郊外ロードサイドへ80店を出す立地転換に踏み切った経営判断。

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★★★
1976〜1993年靴流通センターとBANBANによる全国展開の加速富永光行靴流通センターを全国展開★★
富永光行全店舗にオンラインシステムを導入
富永光行郊外おもちゃ専門店「BANBAN」の展開開始★★
富永光行国内シェアNo.1
富永光行直営店を独立採算の販売委託店へ切り替えた「オーナーシステム」の導入

1987年3月、靴のマルトミが直営店を順次『独立採算制オーナーシステム』の販売委託店へ切り替え、店舗の粗利益の75%を毎月オーナーへ支払う仕組みを敷いた経営判断。1990年の名古屋証券取引所第2部上場まで、この仕組みが出店の速度を支えた。

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★★★
富永光行名古屋証券取引所に株式上場
1994〜1999年競争環境の激変と大量閉店による業績悪化富永光行不採算180店の一括閉鎖と、3年で380店を閉じる経営改善計画

1994年2月、総店舗数1850店の約10%にあたる不採算180店を1年で閉じると発表し、社長自身の役員報酬と賞与も1年間全額を返上した経営判断。1999年3月には3年で380店を閉じる経営改善計画へ広がった。

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★★★
富永光行17期ぶりの減益
富永光行BANBANを268店展開
富永光行最終赤字転落
富永光行民事再生法の適用申請★★
出典・参考
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
  • 会社四季報(靴のマルトミ 1994年2月期実績)
  • 会社四季報(靴のマルトミ 1995年2月期〜2000年2月期実績)
  • 株式会社帝国データバンク 倒産速報(2000年12月20日)

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