三菱鉛筆手芸用品・粘着テープ・化粧品・印章への多角化と、英ROYAL SOVEREIGNの買収・売却

鉛筆の外に新しい事業を育てるか、筆記具に絞るか——30年かけた広げ方と畳み方

時期 1975年3月
意思決定者(推定) 数原英一郎 社長(1987年3月就任。買収した英国子会社の売却と筆記具への集中を決めた)
論点 事業構成と多角化
概要
1973年の粘着テープ参入から2001年の印章事業の買収まで、三菱鉛筆が鉛筆の外へ事業を広げ、1990年に買った英ROYAL SOVEREIGNを2002年に売却して筆記具への集中へ戻した一連の判断。
背景
1968年の時点で鉛筆の伸び率はすでに落ちており、筆記具以外の分野への進出が計画されていた。1970年代には余暇の増加を受け、材料も道具も作り方も揃わない手作りの市場に空白を見た。
内容
手芸用品(1975年)、粘着テープ(1979年)、化粧品(1985年)、印章(1989年・2001年)と事業ごとに別会社を作り、海外では販売会社の設立に加えて1990年5月に英ROYAL SOVEREIGNを買収した。
含意
広げた事業はいずれも筆記具を代われず、2002年5月に英国子会社を売却。連結売上高は2001年12月期の627億3300万円から2005年12月期の539億8100万円へ減ったが、自己資本利益率は1.0%から6.1%へ戻した。
筆者の見解

広げる判断と、畳む判断

1975年の手芸用品店を、三菱鉛筆は開店の時点から試験店と呼んでいた。鉛筆の伸びが止まった会社が、需要そのものが無い市場へ小さく入ってみる——当時の判断として無謀ではなく、むしろ慎重な入り方だった。誤算は、その慎重な入り方を30年続けた点にあったとみられる。手芸用品・粘着テープ・化粧品・印章と会社を一つずつ増やしながら、どれも鉛筆とボールペンを代われる規模には届かなかった。

畳み方は事業ごとに違った。2002年にROYAL SOVEREIGNを手放したのち、化粧品はインクの流出機構設計や超微粒子顔料分散技術を用いる筆記具周辺商品へ、印章はスライド式印鑑付ボールペンへと、いずれも筆記具の側へ移されている。粘着テープと手芸用品は別会社のまま小さく残り、2005年12月期で連結の5%あまり、2024年12月期では3%に届かない。売上を87億円減らしながら自己資本利益率を1.0%から6.1%へ戻した4年は、この選り分けに費やされている。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

鉛筆の外に伸びしろを探した1970年代

1968年の時点で三菱鉛筆は、鉛筆はかなり普及して伸び率が低くなっており、その他の分野にはまだ伸び余地が大きいため、将来は筆記具以外の分野へも進出を計画していると外部に説明していた。この計画が形をとったのは1970年代に入ってからである。1973年に粘着テープの uni セロハンテープを発売し、1975年には手芸用品の小売へ入る。日経ビジネスは同年9月、その一号店を、文具でトップメーカーの三菱鉛筆が打ち出した多角化戦略の第一弾として紹介した[1][2]

同誌が伝えた市場の見立ては、需要がすでにあるという話ではなかった。余暇が増えるなかで何かを作りたいという欲求はあっても、材料も道具も作り方も揃わない。三菱鉛筆はその空白に着眼して店を開いた。同業の伊東屋で営業部長を務めていた稲垣匠哉氏も、日本にはあまりなかった分野なので、すぐ爆発的に売れ出すことは期待できないと同誌に述べている。作れば売れる市場ではなく、需要そのものを起こしにいく事業として始まった[3][4]

決断

鉛筆から遠い順に、事業ごとの会社を作った

広げ方は、既存の販売網に商品を足すのではなく、事業ごとに別会社を興す方法をとった。1975年3月に手芸用品のダイヤクラフト(現ホビーラホビーレ)を設立し、1979年2月には粘着テープの主力工場としてユニ工業を設立する。1985年には化粧品関連のユニコスモ、1989年には印章関連のユニサービスシステムズを興し、2001年12月には印章の永江印祥堂を買収した。手芸用品・粘着テープ・化粧品・印章と、鉛筆から遠い領域が順に並ぶ[5][6]

多角化の第一弾となった手芸用品店は、1975年4月に女性向けの店が集まる銀座のギンザコアで開いた。売り物は手作り商品の材料と、それを仕上げる道具類、そして作り方のノウハウの三本立てで、1セット8万5000円の掛け時計から20円の木彫りのボールまで1000種類を並べている。店の責任者は、ホビーに大きな需要があるのは確かだが、新しいだけに商売になるかどうかをテストするパイロット店だと同誌に説明した。試験店であることを、開店の時点で自ら明かしていた[7][8]

販売会社の設立から、現地企業の買収へ

海外は当初、自前の会社を置く方法で広げている。1977年6月に米国、1984年10月に英国へ販売会社を設立した。方法が変わったのは1990年5月で、三菱鉛筆はイギリスのROYAL SOVEREIGNを買収する。前年には米国のサーコンプを買っており、外国企業の買収はこの2件が最初にあたる。海外に販売網を敷くだけでなく、現地の会社そのものを抱える段階へ進んだ[9][10]

買収がその後の常套手段になったわけではない。三菱鉛筆はROYAL SOVEREIGNを買った翌月に山形三菱鉛筆精工を設立し、1996年12月にシンガポール、1997年11月にスペイン、1998年に台湾とオーストラリア、2000年11月にはベトナムへと、いずれも自前で会社を作って拠点を増やした。海外での増やし方の本筋は自社設立のままで、英国の一件はその例外にとどまる[11]

結果

12年で手放し、売上は4年で14%減った

買った会社は残らなかった。三菱鉛筆は2002年5月にROYAL SOVEREIGNを売却する。買収から12年だった。同じ年の7月には大阪支店も閉じている。連結売上高は2001年12月期の627億3300万円から2005年12月期の539億8100万円へ、4年で87億円あまり減った。文具業界では、安価な海外製品の流入等による価格低下の圧力が強まっていた[12][13]

もっとも、この4年は縮小の一色ではなかった。2001年12月期の当期純利益は3億1300万円にとどまり、自己資本利益率は1.0%、株価収益率は79.5倍まで落ちていた。そこから2005年12月期には経常利益42億700万円・当期純利益24億1000万円、自己資本利益率6.1%へ戻している。三菱鉛筆自身も、売上規模の拡大に頼らずに収益を向上できる体制を目指してきたと有価証券報告書に書いた。売上を削りながら利益を作り直した4年であった[14][15]

非筆記具は消えず、筆記具の技術の応用に置き換わった

2005年12月期に残っていた非筆記具は、粘着テープと手芸用品だけだった。その他の事業部門の売上は28億3500万円で、連結539億8100万円の5%あまりに過ぎない。化粧品は独立した事業ではなくなり、筆記具周辺商品として、インクの流出機構設計を応用した容器や、超微粒子顔料分散技術を用いた化粧液の開発と説明されている。印章もスライド式印鑑付ボールペンという筆記具の商品に姿を変えた[16][17]

広げた事業は畳まれるか、筆記具の技術の応用へ組み替えられるかのどちらかであった。数原滋彦社長は後年、2000年頃まで筆記具以外の文具や雑貨を扱っていたが筆記具に特化する戦略へ切り替えたことが奏功したと述べ、企業体質が筋肉質になったと総括している。粘着テープと手芸用品はその後も手元に残るが、2024年12月期の売上は23億2900万円で、連結の3%に届かない[18][19]

出典・参考

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