{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"7976","company_name":"三菱鉛筆","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/7976/","api_url":"/api/7976/history.json","updated":"2026-08-09","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/7976/","title":"三菱鉛筆の歴史概略","sections":[{"start_year":1878,"end_year":1925,"main_title":"パリ万博で見た鉛筆を10年かけて国産化し、逓信省に納めるまで（1878〜1925）","subsections":[{"title":"パリ万国博覧会で鉛筆を見て、水車で作りはじめた","text":"三菱鉛筆の創業者である眞崎仁六氏は、1878年のパリ万国博覧会で鉛筆を目にし、その国産化を志した。佐賀県の出身で、当時の日本には鉛筆を量産する技術がなかった。黒鉛と粘土を練り合わせて焼き固める芯の製法から独力で試すほかなく、実用に足る製品にたどり着くまでに約10年を費やした。1887年、東京・内藤新宿で眞崎鉛筆製造所を創業し、水車を動力として鉛筆の製造を始めた。創業の時点で国内に鉛筆を量産する事業者はほとんどなく、官庁が使っていたのは輸入品だった。三菱鉛筆はこの創業の年から、「最高の品質こそ 最大のサービス」を社是に掲げている。\n\n創業からしばらくは苦しい時期が続いた。眞崎仁六氏は日本にも鉛筆を普及させたいと願い、「はさみ鉛筆」を一本ずつ販売することから事業を始めた。鉛筆は一般には知られておらず、眞崎鉛筆製造所の製品は市場での馴染みが薄いうえ、品質でも輸入品に及ばなかった。納めた先からの返品が相次ぎ、事業は容易に軌道に乗らなかった。転機は1901年に訪れる。この年に逓信省が同社の鉛筆を正式に採用し、官庁需要という安定した販路を得たことで社業の基礎が固まった。国産鉛筆が官の調達品として認められるまでに、創業から14年を要したことになる。","references":[{"title":"企業の歴史 : 明治百年（東洋経済新報社、1968年）「三菱鉛筆」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1962年11月号「新規上場会社紹介（第二部・その他製造業）三菱鉛筆株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2020/3/21「【特集 三菱 150年目の名門財閥】Part3 三菱エリートのカネと出世 「三菱トリビア」10選」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"三つのダイヤは、三菱財閥より10年早く登録された","text":"1903年、眞崎鉛筆製造所は三つのダイヤを組み合わせた図案を商標として登録した。逓信省の指定商品として採用された局用鉛筆1号・2号・3号の3種を表徴する商標であり、三種が採用された喜びを後世に伝える意味と、眞崎家に代々伝わる家紋「三鱗」を象徴する意味を込めていた。この意匠は以後、社章として使われている。三菱財閥が同じ三つの菱形を商標に登録するのは、これより10年後のことだった。社名に三菱を冠しながら三菱グループには属さない企業として知られるのは、この経緯による。1952年に社名を三菱鉛筆へ変えたのも、この商標が商品名として先に定着していたためだった。\n\n1916年、眞崎鉛筆製造所は品川区大井町に工場を新設して移転した。創業の地である内藤新宿から、生産の場を移したことになる。大正に入ると、第一次世界大戦により欧州からの輸入が途絶えて国産品への需要が高まり、社業は飛躍した。1925年4月17日、眞崎鉛筆製造所は色鉛筆の製造を専業として独自の地位を占めていた大和鉛筆と合併し、資本金13万5000円の眞崎大和鉛筆株式会社として発足した。黒芯を得意とする自社と色芯の大和鉛筆が一つになったことで、両方の分野で国内首位の地歩を固めた。現在の三菱鉛筆は、この1925年4月17日を会社の設立日としている。","references":[{"title":"企業の歴史 : 明治百年（東洋経済新報社、1968年）「三菱鉛筆」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1962年11月号「新規上場会社紹介（第二部・その他製造業）三菱鉛筆株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2020/3/21「【特集 三菱 150年目の名門財閥】Part3 三菱エリートのカネと出世 「三菱トリビア」10選」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1926,"end_year":1972,"main_title":"全施設を失った会社が「ユニ」で世界水準に届き、東証二部へ上場した（1926〜1972）","subsections":[{"title":"生産再開から5年で戦前に戻り、経営は数原家が担った","text":"戦時中の1940年5月には子安工場を、1944年12月には小松工場を新設していたが、第二次世界大戦により眞崎大和鉛筆は全施設を失った。子安工場は現在の横浜事業所、小松工場は現在の山形工場にあたり、いずれも戦後に再建され、操業は今日まで続いている。それでも1946年には早くも生産を再開し、1951年には戦前のピークにあたる生産水準へ戻した。終戦時に70万円だった資本金は、1948年10月に300万円、1949年6月に800万円、1950年8月に1600万円と短い間隔で積み増された。1953年11月には真和工業を吸収合併して資本金を2500万円とし、翌12月にはこれを5000万円へ倍増させた。終戦から8年で資本金は70倍を超えた。\n\n1952年、眞崎大和鉛筆は商号を三菱鉛筆へ変更した。商品名と社名を統一するための変更で、その月は資料により4月・5月・6月と分かれる。資本金の増強はその後も続き、1957年4月に7500万円、1959年4月に1億円、1961年10月には公募40万株を含む増資で1億5000万円となった。この時期の本社は横浜市神奈川区入江町にあり、東京営業所を品川区大井立会町に置いていた。取引銀行は日本興業銀行や住友銀行など7行に及ぶ。1962年6月末の財務は支払手形3億9084万円と短期借入金3億1335万円が積み上がり、流動負債は総資産の55.5%を占めた。自己資本は5億9732万円で、総資産の33%にとどまる。\n\n戦後の経営は創業者の眞崎家ではなく数原家が担った。1962年時点の会長は数原三郎氏、社長は数原洋二氏で、常務に大川義幸氏、取締役に数原祥三氏が名を連ねた。大株主も数原洋二氏の10万4360株を筆頭に、数原三郎氏10万2200株、数原祥三氏7万7220株と続いた。販売網の中核である三菱鉛筆東京販売が7万9600株、横浜銀行と日本興業銀行がそれぞれ8万株を持つ。株主数は393名、平均持株数は7634株で、株式数の49.3%を東京の株主が、24.4%を神奈川の株主が保有していた。上場前の三菱鉛筆は、創業家の名を社名から外したうえで別の一族が経営と持株を握る会社だった。","references":[{"title":"企業の歴史 : 明治百年（東洋経済新報社、1968年）「三菱鉛筆」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1962年11月号「新規上場会社紹介（第二部・その他製造業）三菱鉛筆株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"「ユニ」を出し、年商25億円の規模で上場した","text":"1958年、三菱鉛筆は海外製品にも負けない鉛筆をつくりたいという考えから、最高品質をうたう高級鉛筆「ユニ」を発売した。世界の水準を抜く品質を掲げた製品だった。「ユニ」は以後の同社を代表する商品名となった。1962年9月28日には東京証券取引所市場第二部に上場した。上場時の資本金は2億5000万円で、授権株式数1200万株のうち発行済みは500万株だった。決算期は6月30日と12月31日の年2回で、直前の1962年6月期の半期売上高は13億1937万円、当期純利益は1億3051万円だった。前の半期の12億585万円と合わせると、1年間では25億2522万円になる。1年前の同じ半期は11億5616万円で、1年で14%伸びたことになる。\n\n上場時点の販売構成は鉛筆が85.5%を占め、シャープナーが9.7%、各種ボールペンは3.0%にとどまっていた。主力の鉛筆は墨芯と色芯に大別され、品目は100に及んだ。販路は全国7ブロックに置いた販売会社を頂点として、その下に販売所50店、代理店30店、小売店およそ4万軒が連なっていた。トンボ鉛筆やコーリン鉛筆を含む同業約70社のなかで、三菱鉛筆は販売量の30%、販売金額の45%を占めた。金額のシェアは量のシェアを15ポイント上回った。年間の販売量は274万2000グロス、金額では22億5681万円だった。1グロスは144本なので、本数にすればおよそ3億9500万本になる。\n\n1962年の時点で、三菱鉛筆は鉛筆以外への拡張をすでに公言していた。上場に際して同社は、非鉛筆部門を拡充して5年後には鉛筆部門60%、非鉛筆部門40%とする総合文具メーカーをめざすと表明した。当時の消費傾向として鉛筆が高級品へ移りつつあり、ボールペンの需要も旺盛だった。ボールペンの増産に対処するため、横浜工場を1963年末までに約3億円かけて拡充する計画を立てていた。年商25億円に対して1割強にあたる投資である。同じ半期の広告宣伝費は8789万円で、一般管理販売費2億7739万円の32%、売上高の6.7%を占めた。","references":[{"title":"企業の歴史 : 明治百年（東洋経済新報社、1968年）「三菱鉛筆」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1962年11月号「新規上場会社紹介（第二部・その他製造業）三菱鉛筆株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"5年で鉛筆の比率は85%から70%へ下がった","text":"1966年、三菱鉛筆はさらに上位の「ハイユニ」を発売した。1967年の売上高は51億円に達し、そのうち鉛筆が約70%、ボールペンが約15%、シャープナーが約8%を占めた。1962年に85.5%だった鉛筆の比率は、5年で15ポイント下がったことになる。主力の鉛筆は月産26万グロスの生産能力を備え、金額で約50%のシェアを持っていた。1968年時点の資本金は4億円、従業員は1233名で、本社は東京都品川区東大井へ移った。鉛筆はすでに普及して伸び率が低くなったと自認しており、他の分野の伸び余地は大きいとして、将来は筆記具以外へも進出する計画を立てていた。\n\n1965年1月には、現在の群馬工場にあたる藤岡工場を新設した。1967年9月には大阪支店を設け、西日本の販売網を厚くした。1972年5月、三菱鉛筆は東京証券取引所市場第一部への指定替えを果たした。二部上場から10年足らずでの昇格だった。鉛筆の年間販売量は1962年の時点ですでに世界最大とされており、1968年には品質と生産量の両面で世界のトップメーカーと評されていた。1969年6月期の売上原価率は61.7%で、マックスの67.3%や伊藤喜工作所の73.2%を下回る。単価の高さと原価の低さが同居していた。","references":[{"title":"企業の歴史 : 明治百年（東洋経済新報社、1968年）「三菱鉛筆」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1962年11月号「新規上場会社紹介（第二部・その他製造業）三菱鉛筆株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1972,"end_year":2005,"main_title":"鉛筆の外へ広げ、海外に出て、それでも売上が減り続けた（1972〜2005）","subsections":[{"title":"手芸品と粘着テープ、鉛筆でないものを作りはじめた","text":"上場時に掲げた総合文具メーカーの構想は、1970年代に別の形で動き出した。1974年には木材資源の枯渇を背景に、大日本インキ化学工業がトンボ鉛筆と三菱鉛筆の2社と組んで合成木材鉛筆を開発した。鉛筆の軸を木から樹脂へ置き換える試みで、大日本インキ化学工業のプラスチック成型事業部が担った。翌1975年3月には手芸用品を扱うホビーラホビーレを設立した。手作りの楽しさをパックで売るこの試みは、同年9月には多角化戦略の第一弾として経済誌に取り上げられた。ホビーラホビーレは現在も連結子会社として手工芸品事業を担っている。\n\n1979年2月には粘着テープを手がけるユニ工業を設立した。手芸品と粘着テープは、いずれも筆記具の売上規模には遠く及ばないまま今日まで続き、有価証券報告書ではその他の事業として一括りにされている。2024年12月期のその他の事業の売上高は23億2900万円で、連結売上高888億2000万円の3%に満たない。1983年11月には本社社屋が竣工した。本体の工場としては1965年の藤岡工場が最後で、この時期の投資は本社機能と販売網に向かった。1986年4月には創業から100年を迎えた。","references":[{"title":"三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】【業績等の概要】【主要な経営指標等の推移】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1974年11月号「大日本インキ化学工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1975年9月号「三菱鉛筆の「趣味の店」戦略前線 “手作りの楽しさ”パック 潜在需要の開拓めざす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015/4/25「【第1特集 買っていい株 ダメな株】PART2 投資の基本を知る お宝銘柄はこう探せ！」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"米国と英国に出て、買った英国メーカーを12年後に手放した","text":"海外への進出は販売会社から始まり、1977年6月に米国のMITSUBISHI PENCIL CORP., OF AMERICA、1984年10月に英国のMITSUBISHI PENCIL CO.U.K.を設立した。1990年5月には英国のROYAL SOVEREIGNを買収し、製造拠点を海外に持った。同年6月には山形三菱鉛筆精工を設立し、国内の生産体制も補強した。だが買収した英国メーカーは12年後の2002年5月に売却した。ただし海外での自社製造そのものをやめたわけではない。2000年11月に設けたベトナムの現地法人は当初から製造会社で、2007年6月に設立した深圳新華菱文具制造とともに現在の主要な海外製造拠点になっている。\n\n製造拠点と並行して、販売網も1990年代後半に広がった。1996年12月にシンガポール、1997年11月にスペイン、1998年3月に台湾、同年12月に豪州へ相次いで販売の現地法人を置いた。2004年3月には香港に販売会社を、2005年1月には上海に製造会社を設立し、中国での生産と販売の足がかりを作った。三菱鉛筆商務（香港）の資本金は3000万香港ドルで製品の卸売を担い、上海新華菱文具制造は三菱鉛筆の仕様による製品の製造を担った。2005年12月期のアジアの売上高は47億2000万円で、前年同期比138.5%と伸びた。国内が同93.8%に落ち込むなか、アジアは伸びていた。\n\n国内の販売体制もこの時期に組み替えられ、2002年7月に大阪支店を閉鎖し、2003年5月に三菱鉛筆関西販売を設立、同年6月には三菱鉛筆東京販売が西関東販売を合併した。2004年5月には三菱鉛筆中国販売を設けた。支店を通じた直販から、地域ごとの販売会社を並べる形へ移した再編だった。三菱鉛筆東京販売と三菱鉛筆関西販売は、2024年12月期の有価証券報告書でも国内の主要な販売会社として名を連ねている。2001年12月には印章やスタンプを扱う永江印祥堂を買収し、筆記具の周辺へ品目を広げてもいる。","references":[{"title":"三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】【業績等の概要】【主要な経営指標等の推移】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1974年11月号「大日本インキ化学工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1975年9月号「三菱鉛筆の「趣味の店」戦略前線 “手作りの楽しさ”パック 潜在需要の開拓めざす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015/4/25「【第1特集 買っていい株 ダメな株】PART2 投資の基本を知る お宝銘柄はこう探せ！」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"4年で売上は87億円減り、自己資本利益率は1%まで落ちた","text":"2000年代前半の三菱鉛筆は、数字のうえでは後退していた。2001年12月期の連結売上高は627億3300万円だったが、2005年12月期には539億8100万円まで減った。4年で87億円、率にして14%の落ち込みだった。2001年12月期の当期純利益はわずか3億1300万円で、自己資本利益率は1.0%だった。純利益が小さいため、株価収益率は79.5倍まで上がった。純資産は308億4000万円あり、自己資本比率は49.7%だった。2001年12月期の総資産は620億500万円で、売上が減った4年の間に693億2900万円まで増えた。\n\n売上の減少は自社だけの事情によるものではなかった。文具業界では安価な海外製品の流入による価格低下の圧力が強まり、市場占有率の維持と拡大を目指す競争が続いていた。中国製品の台頭で日本の筆記具メーカーが苦戦を強いられたのは、この時期である。三菱鉛筆は付加価値の高い新製品で応じ、世界最小となる0.18mmのボールを備えたゲルインクボールペン「シグノ ビット」や、やわらかいゲルグリップの「アルファゲル」を投入した。それでも2005年12月期の売上は前年の96.6%にとどまった。経常利益は42億700万円で前年から12.4%増えており、減収のなかで採算だけは改善していた。","references":[{"title":"三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】【業績等の概要】【主要な経営指標等の推移】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1974年11月号「大日本インキ化学工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1975年9月号「三菱鉛筆の「趣味の店」戦略前線 “手作りの楽しさ”パック 潜在需要の開拓めざす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015/4/25「【第1特集 買っていい株 ダメな株】PART2 投資の基本を知る お宝銘柄はこう探せ！」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":2006,"end_year":2025,"main_title":"摩擦を半分にしたボールペンが売上を反転させ、ドイツの老舗を買った（2006〜2025）","subsections":[{"title":"摩擦を半分にした油性ボールペンを2006年に出した","text":"2006年、三菱鉛筆は油性ボールペン「ジェットストリーム」を発売した。書いたときの紙とペンの引っ掛かり具合、すなわち摩擦係数が通常のボールペンに比べて最大50%小さくなるよう、インクの粘度とボール、ホルダーを設計した製品である。まず単色ペンを市場に出すと、軽い筆圧で書けるので疲れにくいと評判になった。2008年に3色ボールペンやシャープペンシルを加えた多機能ペンを出したことで、販売はさらに広がった。滑らかな書き味という一点に絞った設計が、成熟した国内市場で新しい需要をつくった。\n\n2008年3月には、書くたびに芯が回る機構のシャープペンシル「クルトガ」を出した。発売半年で100万本を超えるヒットとなり、シャープペンシルとしては異例の売れ方をした。ただし業績がすぐに反転したわけではなく、連結売上高は2006年12月期の576億700万円から2007年12月期565億円、2008年12月期539億円、2009年12月期482億7800万円へと3年続けて減った。世界的な金融危機が重なった2009年12月期は、2001年12月期に比べて売上が145億円小さい。\n\nジェットストリームの中身は、各社が共通して使っていた溶剤を替えたところにある。開発を担当した横浜研究開発センターの市川秀寿氏は、業界で共通して使われていたベンジルアルコールや2-フェノキシエタノールという溶剤の使用をやめ、サインペン溶剤の延長にある物質を新たな溶剤に据えた。通常は油性に使わない顔料と新開発の染料を配合し、ボール径1mmで従来の約半分の力で書けるようにした。紙へのインクの転写率は従来の4割から約9割へ上がっている。発売は2006年7月末で、価格は1本150円だった。","references":[{"title":"三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】【業績等の概要】【主要な経営指標等の推移】【事業の内容】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015/3/28「【特集 絶好調企業の秘密】顧客をがっちりつかむ 三菱鉛筆 シリーズ年間販売本数1億本超 成熟の文具で稼ぐ 商品展開の“極意”」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008/11/1「Column Hot&Cool 発売半年で100万本超えを記録 書くたびに芯が回るシャープペン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2022/11/26「【産業リポート コクヨは王座を守れるか】ぺんてる争奪戦に白旗 コクヨは王座を守れるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"年間1億本のシリーズを120種類に広げ、5000円の帯まで伸ばした","text":"ジェットストリームの拡大は、芯の仕様を固定したまま軸を変える方法で進んだ。インクやボールの調整には時間がかかるが、書き味という柱の仕様が最初から決まっていたため、握る部分のデザイン変更で商品を増やしやすかった。2008年秋には軸を細くした女性向けの「Fシリーズ」など4品目を出し、翌2009年にはインクの色数を広げた「カラーインク」、2010年にはウイスキー樽を軸に使った「ピュアモルト」を投入した。三菱鉛筆の切田和久取締役は、どんな形であれ毎年いくつかの新商品を出していく方針だと述べた。\n\n2013年に出した「プライム」シリーズは、定価3000円と5000円という、同社にとって販売経験のない価格帯だった。営業や契約の際に気後れせずに使えるとしてビジネスパーソンに受け入れられ、一時は製造が間に合わないほど売れて単価の上昇を牽引した。ジェットストリームは年間販売本数が1億本を超え、国内では120種類以上と同社最大の商品群に育った。2014年12月期の連結売上高は603億4900万円、当期純利益は71億5700万円だった。純利益は当時の過去最高で、3期連続の最高益更新が見込まれる状態にあった。ただし売上高は2001年12月期の627億3300万円にまだ届いていない。","references":[{"title":"三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】【業績等の概要】【主要な経営指標等の推移】【事業の内容】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015/3/28「【特集 絶好調企業の秘密】顧客をがっちりつかむ 三菱鉛筆 シリーズ年間販売本数1億本超 成熟の文具で稼ぐ 商品展開の“極意”」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008/11/1「Column Hot&Cool 発売半年で100万本超えを記録 書くたびに芯が回るシャープペン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2022/11/26「【産業リポート コクヨは王座を守れるか】ぺんてる争奪戦に白旗 コクヨは王座を守れるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"ドイツの老舗を買い、海外が売上の6割になった","text":"2018年8月には新本社社屋が竣工し、横浜事業所にあった研究開発と生産管理の一部組織を移して集約した。2021年3月には横浜ロジスティクスセンターが竣工した。2020年3月には数原滋彦氏が社長に就任した。2020年12月期は新型コロナウイルスの影響で連結売上高が551億8000万円まで落ち、営業利益は54億9300万円と前期の7割台に沈んだ。2022年4月には東京証券取引所の市場区分見直しにより、第一部からプライム市場へ移った。この間、営業利益は2015年12月期の118億5200万円から2019年12月期には72億200万円へ4割近く減っており、コロナ禍はその末に重なった。\n\n海外での稼ぎ方は、この時期に競合と大きく分かれた。2022年の報道時点で比べると、海外売上比率は、筆記具で国内首位のパイロットコーポレーションが69%、三菱鉛筆が47%だったのに対し、筆記具を主力にしない総合文具メーカーは10%以下の会社が多かった。特色のある技術かブランド力がなければ海外では売れない。三菱鉛筆はジェットストリームの書き味という技術で海外に売った。国内の文具・事務用品市場は2021年度に4118億円と4年前より11.2%縮んでおり、伸びていたのは筆記具だけで、三菱鉛筆はその筆記具で国内2位である。海外の拠点もこの間に増やした。2016年4月にフランスのMITSUBISHI PENCIL Franceを買収し、2019年1月には北米にuni Mitsubishi Pencil North Americaとuni-ball Corporationを設立している。\n\n2024年3月15日、三菱鉛筆はドイツ・ハイデルベルクの筆記具メーカーC. Josef Lamyの全持分を取得した。1930年創業のLAMYブランドを持つ会社で、資本金は310万ユーロである。買収の効果は数字にすぐ表れ、2024年12月期の連結売上高は888億2000万円と前期比18.7%増え、当期純利益は112億7200万円で過去最高を更新した。中期経営計画2022-2024の最終年にあたるこの期に、海外売上高の構成比は約60%へ達した。子会社は50社となり、2025年1月にはインドにUNI LINC INDIAを設立した。ただし2025年12月期は売上高898億1400万円と前期から1.1%増えたにとどまり、営業利益は96億9200万円で20.5%減、当期純利益は62億3500万円で44.7%減となった。欧州でPOSCAを中心とした流通在庫の調整が長引いたことによる。","references":[{"title":"三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】【業績等の概要】【主要な経営指標等の推移】【事業の内容】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015/3/28「【特集 絶好調企業の秘密】顧客をがっちりつかむ 三菱鉛筆 シリーズ年間販売本数1億本超 成熟の文具で稼ぐ 商品展開の“極意”」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008/11/1「Column Hot&Cool 発売半年で100万本超えを記録 書くたびに芯が回るシャープペン」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2022/11/26「【産業リポート コクヨは王座を守れるか】ぺんてる争奪戦に白旗 コクヨは王座を守れるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1887年に、眞崎仁六氏は10年をかけてまで鉛筆の国産化にこだわったのか","a":"日本にも鉛筆を普及させたいという願いからである。1878年のパリ万国博覧会で鉛筆を見て国産化を志したが、当時の日本には量産の技術がなく、黒鉛と粘土を練り合わせて焼き固める芯の製法から独力で試すほかなかった。実用に足る製品にたどり着くまでに約10年を費やし、1887年に東京・内藤新宿で眞崎鉛筆製造所を創業した。創業のころ鉛筆は一般には知られておらず、輸入品を使っていたのは一部の官庁だけだった。返品に悩まされる時期を経て、1901年に逓信省の正式採用が決まったことで社業の基礎が固まった。"},{"q":"なぜ1975年に、鉛筆で世界最大の会社が手芸用品の店を開いたのか","a":"鉛筆の市場が成熟し、1968年時点で伸び率が低くなったと自認していたためである。1962年の上場に際しても非鉛筆部門を拡充し、5年後には鉛筆部門60%、非鉛筆部門40%とする総合文具メーカーをめざすと表明していた。将来は筆記具以外へも進出する計画を立てていた。1975年3月に手芸用品のホビーラホビーレを設立し、1979年2月には粘着テープのユニ工業を設立している。ただし手芸品と粘着テープの売上は筆記具に遠く及ばず、2024年12月期のその他の事業は23億2900万円で連結の3%に満たない。"},{"q":"なぜ2006年に、成熟した国内市場で書き味だけに絞った油性ボールペンを出したのか","a":"2001年12月期に627億3300万円あった連結売上高が2005年12月期には539億8100万円まで減り、安価な海外製品の流入で価格低下の圧力が強まっていたためである。前年に投入したのは世界最小0.18mmのボールを持つシグノ ビットで、当時の競争軸は細さにあった。三菱鉛筆は業界で共通して使われていた溶剤の使用をやめ、摩擦係数が通常のボールペンに比べて最大50%小さくなるようインクの粘度とボール、ホルダーを設計した。芯の仕様を固定したまま軸を変える方法で商品を増やし、年間販売本数1億本を超えるシリーズに育った。"}]},"auditVersion":2}