リコピー101による事務機市場への本格参入
感光紙とカメラの会社は、いかにして複写機メーカーへ移ったか
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- 概要
- 1955年10月、理研光学工業(現リコー)が卓上型のジアゾ式複写機「リコピー101」を発売し、事務機市場へ本格参入した経営判断。自社が扱ってきた感光紙の技術を機器へ組み込み、感光紙商・カメラメーカーから事務機メーカーへと主力を移し替えた。
- 背景
- 同社は理化学研究所発明の陽画感光紙の販売から出発し、カメラへ進出した二本柱の会社であった。1950年代に入ると企業の事務量が増え、事務合理化への要求が高まる一方、カメラ業界は多数のメーカーが乱立して過当競争に入っていた。
- 内容
- 1955年10月にリコピー101を発売した。感光紙の陽画技術を応用したジアゾ式の卓上複写機で、大森工場で量産体制を敷いた。発売当初は伸びなかったが、事務合理化の広がりとともに数年後にブームへ乗り、事務機が売上の柱へ入れ替わった。
- 含意
- 素材である感光紙を機器へ載せ替え、既存の販売先であるオフィスの複写需要を取り込んだ。技術の飛躍よりも、隣にある需要へ資源を機動的に移す市村清社長の手法があらわれた判断で、1963年の社名変更「リコー」へとつながった。
素材から機器へ、隣にある需要をつかむ
この判断の核心は、まったく新しい技術で市場を切り開いた点にあるのではなく、自社がすでに握っていた素材と顧客の隣に、機器という次の商いを見つけた点にあるとみることができる。感光紙で複写の現場に触れ、その現場が何を欲しているかを実地で掴んでいたからこそ、複写機という機械へ踏み込む勝算が立った。事務合理化という社会の動きが背中を押したのは確かだが、動きを先に読んで隣の領域へ資源を移したところに、この参入の特徴がうかがえる。
もっとも、リコピーの立ち上がりは順風ではなく、需要が育つまでには数年を要し、追随する同業との競争もあった。それでも複写機は会社の主力を入れ替え、感光紙・カメラ・複写機と続く乗り換えの手法は、その後のリコーに引き継がれていく。素材を握る強みを、隣接する機器の市場でどう活かすか——この問いを早い時期に事業の中心へ据えた点で、リコピー101への参入は同社の性格を決めた一歩といえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
感光紙とカメラの二本柱
理研光学工業は、理化学研究所が発明した陽画感光紙の販売から出発した会社である。市村清は保険外交員から感光紙の九州総代理店となり、1936年に理研感光紙を設立、1938年に理研光学工業へ改めてカメラの製造にも進出した。戦後の1950年に発売した二眼レフのリコーフレックスは、朝鮮戦争の特需にのって月産1万台を輸出し、ソニー・本田技研と並ぶ戦後日本の花形と呼ばれた。感光紙とカメラという二つの柱で、同社は成長していった[1]。
感光紙は、青写真に代わる図面複写の材料として官公庁や大企業の現場で使われていた。市村社長は代理店の時代から、造船所や製鉄所、鉄道といった大口の需要先を自ら回り、複写という事務の現場を日常的に見てきた。感光紙の販売網を通じて、オフィスがどれだけの複写を必要としているかを、机上の推計ではなく実地の手応えとして掴んでいた[2]。
事務合理化ブームとカメラの過当競争
1950年代の日本では、企業の事務量が増え、事務を合理化する動きが広がっていった。書類を手早く複写したいという需要が、官公庁から一般の企業へと厚みを増していた。感光紙で複写の現場を押さえてきた同社にとって、この事務合理化の波は、素材の販売にとどまらず複写そのものを担う機器へ踏み込む機会となった[3]。
もう一方の柱であるカメラは、様相が異なっていた。戦後は陸海軍の光学技術者が流れ込み、一時はカメラメーカーだけで130社から140社近くにのぼった。金融引き締めや過当競争を経て数は絞られたが、市村社長はカメラ業界がなお過当競争の段階を脱していないとみて、この数年は消極的な構えをとっていた。二本柱のうちカメラの比重を下げ、次の成長の柱を探す時期にあった[4]。
決断
リコピー101で複写機の生産・販売へ
1955年10月、理研光学工業は卓上型のジアゾ式複写機リコピー101を発売した。感光紙が持つ陽画の感光技術を、そのまま機器の内側へ組み込んだ製品である。市村社長はのちにこの参入を、1955年に自社がリコピーの名のもとで複写機の生産と販売を始めた、と振り返っている。材料を売る商いから、複写という作業を担う機械そのものを売る商いへ、事業の性格を踏み込んで変えた一手であった[5]。
生産は大森の工場でおこなった。当時の業界誌は、理研光学工業がコンベアシステムによるカメラの量産体制を確立し、近代設備による大量生産で業界の先端をきっていると記している。複写機は、この量産の土台と、感光紙で築いた販売先を土台に立ち上げた。まったく新しい市場を一から拓くのではなく、自社の技術と顧客が隣り合う領域へ踏み出す形で、事務機の生産に着手した[6]。
発売当初の苦戦と主力交代
立ち上がりは平坦ではなかった。市村社長自身が、発売当初は売れず、3年ほどたってからブームにのった、と語っている。事務合理化を求める社会の動きと製品の投入がかみ合うまでには時間を要した。似た複写機を出す同業も現れ、一時は停滞する場面もあったが、需要が育つにつれてリコピーは事務機部門の伸長を牽引していった[7]。
事務機の伸びは、売上の内訳を大きく塗り替えた。1958年3月期にはカメラが52%、感光紙が33.7%、事務機が14.3%であった構成が、1962年9月期にはカメラ10.5%、感光紙37.5%、事務機52%へと入れ替わる。売上の半分を事務機が占めるまでになり、二本柱のうち複写機を軸とする事務機が、会社を代表する事業へと躍り出た[8]。
結果
総合事務機メーカーへの転身と社名変更
複写機は、会社の顔をカメラから入れ替えた。1963年の同時代誌は、活躍の主体が複写機のリコピーであり、複写機で業界の7割の占有率を誇ると記す。そのうえで、リコピーの成功はリコーフレックスをはるかにしのぎ、リコーの名が広く知れわたった結果、理研光学の名はまったく体をあらわさなくなった、と記している。感光紙の会社でもカメラの会社でもなく、複写機の会社としての像が定着していった[9]。
事務機の比重が高まり、光学という社名が業務の中身と合わなくなったことから、同社は1963年4月に商号を株式会社リコーへ改めた。感光紙の専門メーカーから出発し、カメラへ進み、事務機を加えて総合メーカーへ飛躍したと、当時の経済誌はこの歩みをたどっている。素材から機器への転換は、感光紙・カメラ・複写機という連続した事業の乗り換えとして、会社の性格そのものを定めた[10]。
- 市村清「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人5』, 1980)
- 証券アナリストジャーナル 1963年 第1巻第2号「株式会社リコー――工場見学」
- 新日本経済 1955年11月号「理研光学工業・大森工場を見る」
- ダイヤモンド 1963年8月26日号「リコーは再び時流に乗るか」
- 実業の世界 1962年9月号「優良会社・理研光学工業」
- リコー 有価証券報告書【沿革】