リコー の歴史

更新: Author:

創業 1936年
創業者 市村清
創業地 東京都千代田区
創業
1936年2月、理化学興業の感光紙部門を分離して理研感光紙株式会社が発足した。資本金35万円・従業員33名、事務所は東京・日比谷である。理化学研究所が発明した理研陽画感光紙の販売で頭角を現し、保険外交員から九州総代理店へ転じた市村清氏に、コンツェルン総帥の大河内正敏博士が経営の一切を委ねた。1938年には理研光学工業へ商号を改めてカメラへ進出し、戦後はコンベア方式による量産で伸びる。1963年に社名を株式会社リコーへ改めたのは、複写機リコピーの名が社名を追い越してしまったからだった。
決断
稼ぐ相手を機械の買い手から事務所の仕事へ寄せてきた。1955年に卓上複写機リコピー101で事務機市場へ本格参入したのは、素材だった感光紙を機器へ載せ替え、隣の複写需要へ回り込む判断だった。1965年3月期に不良資産8億4000万円を処理し無配に転じたのちも複写機を軸に据え直し、機械の代金より保守と消耗品で稼ぐ形を築く。2011年にはHOYAからペンタックスを買収して祖業のカメラへ戻り、法人偏重の構成にも手を入れた。2022年にPFUを買収してスキャナーを取り込み、2024年に東芝テックとの合弁エトリアへ複合機の開発と生産を移した。自前で作る範囲を狭め、売る対象を機器そのものからIT環境ごと預かる契約へ移した。
現況
複合機を売る会社から、職場の業務を請け負う会社へ移す途中にある。2026年3月期の連結売上高は2兆6,083億円、営業利益907億円で、国内が1兆516億円と4割を占める。複合機の販売と保守にITサービスを重ねて売るデジタルサービスが1兆9,885億円と全体の四分の三を占める一方、その営業利益は279億円にとどまり、機器を開発・生産するデジタルプロダクツの315億円を下回る。約2割を握る物言う株主と向き合いながら総還元性向50%を掲げてきたが、2025年度のROEは5.1%と、自ら置いた9%超の目標に達しなかった。
競合
戦った相手はいずれも複写機で名を並べた同業である。2003年の情報機器市場でリコーはキヤノン、富士写真フイルムと並ぶ三強の一角にあり、研究開発費で見劣りするコニカとミノルタは統合で追い上げを図った。その後もキヤノンが自前主義を返上して蘭オセを買収し商用印刷へ広げ富士フイルムは56年続いた合弁を清算して富士ゼロックスを完全子会社化した。三強の側にいたリコー自身は2008年に北米の販売会社IKONを買収して統合につまずき、10年後に減損で精算した。買収で広げる手は北米で失敗し、現在利益が伸びているのは、国内で客先のパソコンの入れ替えやセキュリティまで引き受けるITサービスである。
リコー:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 感光紙・カメラから複写機メーカーへの転換 (1936年〜)

理研コンツェルンからの分離独立という特異な起点

分離独立した感光紙部門が扱っていたのは、理化学研究所が発明し当時は日・独・米・カナダで特許化されていた理研陽画感光紙で、その製造販売権は理研コンツェルンの中核会社・理化学興業(1941年8月解散)が持っていた[1]。市村清氏は佐賀県出身で、富国生命の保険セールスマンとしての実績をもって理研コンツェルンの感光紙部門長に抜擢された異色の経歴の経営者だった。外部から招かれた人材に対する古参社員の反発は激しく、両者の対立は感光紙製造装置を市村氏自らハンマーで破壊するという極端な形にまで発展する。理研コンツェルン総帥の大河内正敏博士は市村氏を処分せず、1936年2月に感光紙部門を分離して資本金35万円・従業員33名の理研感光紙株式会社を設立し[2][3]、大河内博士自ら会長に就いて経営の一切を市村氏に一任した。[4]この分離独立は大河内博士の慧眼を示すエピソードとして語り継がれている。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]分離前の製品は理化学研究所発明の理研陽画感光紙で、製造販売権は理化学興業(1941年8月解散)が保有し、特許は日・独・米・カナダで取得
    • [4]理研コンツェルン総帥は大河内正敏で、設立時の理研感光紙では自ら会長に就いた
  • 有価証券報告書
    • [2]1936年2月 感光紙部門を分離し理研感光紙株式会社を設立
    • [3]設立時 資本金35万円・従業員33名

独立後の市村氏は感光紙事業を軌道に乗せ、1938年には理研光学工業へ商号を改称してカメラ製造へ進出した。[5]戦時下にはカメラの製造をほとんど中止し、光学部門は軍用双眼鏡の生産に切り替えた。戦後は外地事業場を失ったが国内の主要設備はほとんど戦災を免れ、感光紙は統制撤廃を機に順調に成長した。[6]1950年発売のリコーフレックスは朝鮮戦争特需で月産1万台を輸出し、ソニー・本田技研と並ぶ戦後日本の『花形三羽烏』と呼ばれるまでになる。1955年発売の卓上型複写機『リコピー101』は感光紙技術を応用した製品で、事務機市場への本格参入を象徴する一台だった。当時の業界観察誌は『カメラ重点から総合事務機メーカーへの転身で発展。リコピーを中心に新製品への期待は無限大』[引用元]と評し、一つの製品カテゴリに固執せず次の成長領域へ経営資源を機動的に付け替える市村氏の経営スタイルが会社の性格を形成した。

  • 有価証券報告書
    • [5]1938年 理研光学工業へ商号変更しカメラ製造へ進出
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]戦時下はカメラ製造をほぼ中止し光学部門を軍用双眼鏡の生産へ転換、戦後は外地事業場を失うも国内主要設備は戦災を免れ、感光紙は統制撤廃を機に成長した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]分離前の製品は理化学研究所発明の理研陽画感光紙で、製造販売権は理化学興業(1941年8月解散)が保有し、特許は日・独・米・カナダで取得
    • [4]理研コンツェルン総帥は大河内正敏で、設立時の理研感光紙では自ら会長に就いた
    • [6]戦時下はカメラ製造をほぼ中止し光学部門を軍用双眼鏡の生産へ転換、戦後は外地事業場を失うも国内主要設備は戦災を免れ、感光紙は統制撤廃を機に成長した
  • 有価証券報告書
    • [2]1936年2月 感光紙部門を分離し理研感光紙株式会社を設立
    • [3]設立時 資本金35万円・従業員33名
    • [5]1938年 理研光学工業へ商号変更しカメラ製造へ進出

経営の神様の泰平ムードと無配転落からの再建

1960年代前半、『経営の神様』と称された市村清氏のもとでリコーは成長したが、社内には成功企業に生じがちな泰平ムードが蔓延した。1962年の『実業の世界』は『理研光学の経営ぶりにはいろいろな特色があるが、そのうちの一つは多角化だ。しかも時流に先鞭をつけたものであり、異例の大成功を収めているモデルケース』[引用元]と書いた。[7]しかし1964年の東京五輪後の不況で経営は悪化し、1965年3月期には不良資産8億4000万円を一括処理して無配転落となり[8]、戦後初の本格的な経営危機に直面した。『経済展望』は翌年の時計事業再建をめぐり『かつて『経営の神様』とまでうたわれた市村清氏は、とうとう金利の全面タナ上げの要請という『泣き』を銀行にいれた』[引用元](経済展望 1967/10)と伝えた。4000人中800人を関連会社へ出向させる合理化で再建の道筋を描き、以後繰り返される過去の負担の一括処理パターンを作った。

  • 実業の世界(1962年9月)
    • [7]1962年『実業の世界』が理研光学の多角化を成功モデルケースと評した
  • 有価証券報告書
    • [8]1964年の東京五輪後の不況、1965年3月期に不良資産8億4000万円を一括処理し無配転落

再建の起死回生となったのは1965年発売の静電複写機『電子リコピーBS2』だった。事務合理化を求める社会の需要と製品投入のタイミングが合致し、わずか2年半で復配を果たす。複写機が会社の顔へと入れ替わる過程を『ダイヤモンド』は『リコピーの成功は、リコーフレックスのそれをはるかにしのぐものであった。かくてリコーのなはあまねく知れわたった』[引用元]と記録している。市村氏は1968年に68歳で急逝するが、感光紙からカメラへ、カメラから複写機へという連続的な事業転換を主導した手法は、既存技術を新しい応用領域で商品化し販売力でシェアを取るやり方として社内に刻み込まれた。保険セールスマン時代に培われた市場感覚と営業規律が経営の底流に一貫して流れ、以後の『販売のリコー』の基礎になった。

  • 実業の世界(1962年9月)
    • [7]1962年『実業の世界』が理研光学の多角化を成功モデルケースと評した
  • 有価証券報告書
    • [8]1964年の東京五輪後の不況、1965年3月期に不良資産8億4000万円を一括処理し無配転落

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

リコーの沿革1936〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1936〜1976年感光紙・カメラから複写機メーカーへの転換理研感光紙の分離独立と市村清への経営一任

1936年2月、理研コンツェルンが感光紙部門を分離し、資本金35万円の理研感光紙株式会社を設立、経営を市村清に一任した経営判断。のちのリコーはこの独立から始まった。

詳細を読む
★★★
商号を理研光学工業に変更、カメラ製造開始
東京証券取引所に株式上場
リコーフレックス(二眼レフカメラ)発売
リコピー101による事務機市場への本格参入

1955年10月、理研光学工業(現リコー)が卓上型のジアゾ式複写機『リコピー101』を発売し、事務機市場へ本格参入した経営判断。自社が扱ってきた感光紙の技術を機器へ組み込み、感光紙商・カメラメーカーから事務機メーカーへと主力を移し替えた。

詳細を読む
★★★
国産初の電子複写機「リコーファックス」開発
東京・大阪証券取引所市場第一部に上場
RICOH OF AMERICAを設立
商号をリコーに変更
無配転落と不良資産の一括処理★★
創業者・市村清逝去(68歳)
デミング賞実施賞を受賞
RICOH NEDERLANDを設立
RICOH ELECTRONICSを設立
1977〜2016年OAの旗手から三度目の危機までの長い航路ハノーバーメッセでOAを提唱
35歳能力主義を導入
自社ブランド輸出を開始★★
浜田広が49歳で社長に就任
初のデジタル複写機「イマジオ320」発売
CRP(リストラプログラム)の発表★★
「ザ・マン」制度を創設
SAVIN・GESTENER買収
GESTETNER HOLDINGSを買収★★
桜井正光桜井正光氏が社長に就任
桜井正光LANIER WORLDWIDEを買収★★
桜井正光日立プリンティングソリューションズ買収
近藤史朗IKON Office Solutions買収★★
近藤史朗リコージャパン設立(国内販売会社7社統合)
近藤史朗リコーテクノロジーセンター新棟が完成
近藤史朗HOYAからのペンタックス買収と、祖業カメラ事業の立て直し

2011年7月1日、リコーはHOYAが『ペンタックス』ブランドで展開するデジタルカメラ事業を買収すると発表した。HOYAが同事業を切り出して設立する新会社を10月1日付で完全子会社化する内容で、近藤史朗社長が主導した。ペンタックスブランドは維持する方針であった。

詳細を読む
★★★
2017〜2023年三度目の過去の負担処理とデジタルサービス企業への再定義山下良則IKON等の減損1,759億円の一括計上★★
山下良則非注力事業からの撤退
山下良則エフィッシモの保有目的転換を受けた大型自社株買いと資本効率重視への旋回

リコーは2021年3月、発行済株式の約2割にあたる1,000億円を上限とする自社株買いを決め、その後も自社株の取得と消却を重ねた。物言う株主の接近と、会社の資本政策の転換が並走した経営判断である。

詳細を読む
★★★
山下良則PFUを買収(840億円)★★
大山晃東芝テックとの合弁会社エトリア設立
大山晃PFU株式の20%を追加取得し完全子会社化
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 実業の世界(1962年9月)

免責事項およびポリシー