無配転落と不良資産の一括処理
「泰平ムード」が招いた経営危機の顕在化
1960年代前半、リコーはソニー、本田技研と並ぶ戦後の「花形三羽烏」と称され、1961年には社名を理研光学工業からリコーに変更するなど勢いに乗っていた。事務機と感光紙の高い市場占有率を背景に、市村清は「経営の神様」としてメディアに頻繁に取り上げられ、全国各地で講演会を飛び回っていた。リコーの株価は市場の注目を集め、個人投資家の間でも人気銘柄の一つに数えられるほどだった。
しかし、その裏で組織には「泰平ムード」が蔓延していた。幹部や社員は市場占有率の高さにあぐらをかき、技術開発や販売促進の努力を怠った。市村自身もリコー時計や日本リースなど関連事業の立ち上げに注力し、本業であるリコーの経営をおろそかにしていた面がある。市村が嬉野温泉で旧制佐賀高校の同級生に「おまえの会社はひどい。会社に乗り込んでやろうか」と指摘されたという逸話は、外部からすでに経営の弛緩が見えていたことを物語る。
1964年の東京五輪後に襲った不況は、この構造的な弱さを一気に露呈させた。カメラ部門は二眼レフの需要減退で不採算に陥り、事務機部門の売り上げも需要の一巡で下降線をたどった。まさにダブルパンチだった。会社首脳が異変に気づいた時には、資本金35億円に匹敵する赤字を抱え、長短合わせた銀行借入金は111億円余にふくれ上がっていた。不渡り手形を出す寸前の状態であり、企業存続そのものが危ぶまれる事態となった。
不良資産8億4千万円の一括処理と無配の決断
1965年3月期、市村清は不良資産(棚卸資産と売掛債権)を一掃し、総額8億4千万円の赤字を計上する決断を下した。配当も一割二分から一挙に無配に転落した。株価は30円台にまで暴落し、取引先や株主からの信用は地に落ちた。市村は後に「寝れない日が幾晩も続いた。一時は自殺することも考えた」と述懐しており、創業者として29年間築いてきた信用が一夜にして崩れる恐怖と向き合っていた。
この決断の本質は、過去のウミを一括して吐き出すことにあった。経常利益ベースでは2億2千万円余の赤字だったが、不良資産を温存して複数期に分散させるのではなく、一気に処理することで再建の出発点を明確にした。同時に、社内の風評が高かった経営陣を刷新し、4,000人の社員のうち800人を関連会社に出向・転出させるなど、人員面でも徹底した合理化に踏み切った。市村自身の報酬もこの時期に大幅に削減された。
市村はこの無配転落を機に、それまでの「販売第1主義」から「不況に強い企業体質づくり」へと経営の根幹を据え直した。不良営業所の整理、遊休不動産の処分、カメラ部門の段階的縮小を断行する一方で、電子複写機リコピーを中心とした新製品の開発に経営資源を集中させた。カメラ・感光紙・事務機の三本柱から、事務機一本へと事業構造を絞り込む方針が、この危機を通じて定まった。
電子リコピーBS2による2年半での復配
わずか1年後の1966年3月期には、売り上げこそカメラ部門の後退で減少したものの、合理化の効果が現れて利益は8,100万円を計上するまで回復した。前期からの繰越欠損9億4,600万円も、利益準備金と資本準備金の一部を取り崩して一掃を図った。800人の関連会社への出向・転出と不良営業所の整理統合が、固定費の大幅な圧縮として決算数字に反映された格好だった。
再建の起死回生の一打となったのは、1965年に発売した静電複写機「電子リコピーBS2」だった。1959年にすでに海外から導入していた静電複写技術を製品化したもので、ジアゾ方式に比べて普通紙への複写が可能という利点があった。高度成長期の産業界が事務合理化を本格的に推進する時期と製品の投入タイミングが合致し、電子リコピーに加え軽加算機やタイプライターなど事務機の売り上げが一本調子に伸びた。
1967年9月期には3億4,800万円の利益を計上し、夢にまでみた一割の復配を実現した。無配転落からわずか2年半での復配は「奇跡のカムバック」と呼ばれ、リコーの企業DNAに「危機を転機に変える力」を刻み込んだ。しかし同時に、電子リコピーBS2というヒット商品が危機を救ったという成功体験は、「次のヒット商品さえ生まれれば回復できる」という楽観を組織に根づかせ、次の「泰平ムード」の種をも蒔いていた。