理研感光紙部門の分離独立
理研コンツェルン内での孤立と反発
1930年代、理化学研究所の研究成果を事業化するために設立された理研コンツェルンは、大河内正敏博士のもとで63社・121工場を擁する一大企業集団に成長していた。その中で感光紙部門は、設計図面の複製に使われるジアゾ感光紙を製造・販売する事業であり、三菱造船や八幡製鐵所、満洲鉄道といった重工業の大口顧客を抱えていた。当時の日本は軍需産業の拡大期にあり、設計図面の需要は年々増加しており、感光紙部門はコンツェルン内でも収益性の高い事業として位置づけられていた。
この部門の販売を一手に担っていたのが、佐賀県出身の市村清である。富国生命の保険セールスマンから転じた市村は、九州を拠点に感光紙の販売網を独力で構築し、営業成績において群を抜く実績を上げた。造船所や製鉄所を一社ずつ回り、現場の技術者に直接製品を売り込むという泥臭い手法で、九州一円の感光紙需要をほぼ独占するまでに至った。この販売実績が大河内博士の目に留まり、35歳で理研本社の感光紙部長に抜擢された。
しかし、外部から高給で迎えられた若い人材に対する社内の反発は激しかった。理研本社の古参社員にとって、保険セールスマン上がりの市村は異質な存在であり、市村は赴任早々に業務を与えられないまま孤立した。痺れを切らした市村は、理研の経費を使って銀座のクラブに3カ月間通い詰めるという挑発的な行動に出た。さらには感光紙製造装置をハンマーで破壊するに至り、大河内博士が仲裁に入らざるを得ないほど事態は収拾不能となった。
感光紙部門の会社分離と市村への経営一任
大河内博士は市村を処分する代わりに、感光紙部門を独立した会社として分離し、経営を市村に一任するという決断を下した。1936年2月6日、資本金35万円(うち払い込み15万円)、従業員33名の理研感光紙株式会社が発足した。事務所は東京・日比谷の美松ビルに置かれ、理研コンツェルンの一翼を担う独立企業としての第一歩を踏み出した。大河内博士にとっては、組織の秩序を維持しながら市村の販売力を活かす折衷案だった。
この分離独立は、市村が自ら勝ち取ったものでもなく、大河内博士が最初から計画していたものでもない。理研本社での軋轢が限界に達した結果として、半ば偶発的に生まれた創業であった。コンツェルン内の他の事業会社が研究所の技術移転を起点に設立されたのとは異なり、リコーの出発点は人事問題の帰結としての分離である。市村自身は後年「さんざんいじめぬかれたあとだけに、敵愾心を伴って、仕事に対する闘志が火のようにわきあがった」と回想している。
残りの資本金20万円は大河内博士が「知能資本」と称するもので、技術やノウハウへの対価として計上されたが、市村にとっては実質的な負担が重かった。しかし、理研の看板と顧客基盤を引き継いだことで、三菱造船や八幡製鐵所といった大口取引先との関係を維持したまま、市村は販売力を存分に発揮できる基盤を得た。感光紙という地味な事業から出発したこの小さな会社が、後に売上高2兆5,000億円を超える企業集団の出発点となる。
感光紙から事務機・カメラへの多角化の起点
独立後の市村は感光紙事業を軌道に乗せると同時に、1938年には社名を理研光学工業に変更し、光学技術を活かしたカメラの製造に進出した。戦後の1950年にはリコーフレックス(二眼レフカメラ)が発売され、朝鮮戦争特需の追い風もあって月産1万台を輸出する爆発的なヒットとなった。ソニー、本田技研と並ぶ戦後の「花形三羽烏」と称されるまでに急成長を遂げた。
さらに1955年にはジアゾ式複写機「リコピー101」を開発し、事務機市場への本格参入を果たす。感光紙→カメラ→複写機という事業の軸足の移動は、いずれも市村が直感的に「売れる」と判断した市場に、既存の技術を応用して飛び込むパターンだった。自社で基礎技術を開発するのではなく、市場に存在する技術を商品化し、販売力で一気にシェアを獲る手法は、市村の保険セールスマン時代に培われた市場感覚に根ざしていた。
理研からの独立という出発点は、リコーの企業DNAに二つの特質を刻み込んだ。一つは、組織内の軋轢を恐れない創業者の強烈な個性がもたらす「突破力」であり、市村は後年もリコー時計や三愛など次々と新事業を立ち上げる推進力を発揮し続けた。もう一つは、技術を自ら生み出すよりも、既存の技術を販売力で事業化する「アセンブリー型」の事業開発手法である。この二つの特質は、後のリコーの成長と挫折の双方に深く関わることになる。